2023年03月12日

2023年3月12日主日礼拝説教「イエスの祈り」須賀舞副牧師

聖書:ヨハネによる福音書17章20節〜26節、エレミヤ書32章39節
説教:「イエスの祈り」須賀舞副牧師

 石山教会で、わたしが担当する最後の説教となりました。2013年、石山教会に夫の工牧師が赴任し、この礼拝堂で最初に礼拝を献げた日を今でも鮮明に覚えております。まだ、わたしは副牧師ではなく信徒でした。子どもたちもまだ誕生していませんでした。それから10年、いろんなことがありました。天に召されていった兄弟姉妹方のお顔も思い浮かんでまいります。3年前からのコロナ禍も共に乗り越えてきました。何より、この石山教会の礼拝が10年間、途切れることなく日曜日ごとに捧げられてきたことを、心から主に感謝をしたいと思います。
 さて、わたしたちは今、主イエスが十字架へと向かわれていったことを覚える受難節、レントの期間を過ごしています。主イエス・キリストは、2000年前、神様の元からこの世に遣わされ、この地上で神様のお言葉を教え、人々と出会い、人なりたもう神のお姿を示されました。そして最後、同胞であったはずのユダヤ人たちから告発され、ローマの裁判にかけられ十字架刑によって死なれたのです。今年の暦では、4月7日(金)が受難日、即ち、主イエスが十字架におかかりになった日で、そこから三日目の4月9日(日)に主が復活されたイースターを祝うことになっています。そこまでの期間を受難節と呼んで、わたし達は、悔い改めの心をもって過ごしている訳です。
 わたしがちが読み進めてきたこのヨハネによる福音書において、主イエスは、その初めから、弟子たちや、信じてついてきた群衆、また、敵対するユダヤ人たちに向かって、わたしはこれから十字架にかけられて死ぬだろう。そして、三日後に復活して天に挙げられるだろうと、幾度も語ってこられました。
 けれども、この世的に見れば、主イエスの十字架の死とは、それが人間の救いであるとか喜びであるとは、到底言えない出来事でありましょう。誰が、裁判にかけられて死刑になった犯罪者をメシア、救い主と呼ぶだろうか。そのように多くの人は考えるだろうと思います。この世の価値観から言えば、惨めで悲惨で立派に見えるところが何もない、それが十字架の死なのです。
 そのような思いは、イエスさまを取り囲んでいた人々にとっても同じでした。弟子たちや群衆、ユダヤ人たちも、どれだけ、イエスさまご自身の言葉を聞いても、十字架の予告の言葉が全く理解できませんでした。イエスさまは一体何を言っているんだろう?そう不思議に思ったり、まるで話が噛み合わない受け答えをするばかりでした。
 けれども、いよいよイエスさまは十字架へと向かっていかれます。ヨハネによる福音書12:12からは、エルサレムに入られた主が、そこで再びご自身がこれから受ける十字架の意味を語り、弟子たちの足を洗い、食事を共にされていったことが伝えられています。そして、最後の晩餐において、主は、長い説教をされました。その最後にされた祈りこそが、本日与えられた御言葉ヨハネによる福音書17章です。
 この主イエスの祈りには、大きく三つのことが祈られています。一つ目は、1-5節です。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」」という祈りです。それは、これから起ころうとする、十字架の死を念頭に置いた祈りでした。十字架に引き渡され、死んで、そして復活してゆかれることを通して、主イエスご自身は、神の子としての栄光を受けさせてくださいと祈ったのです。けれども、これは決して、主イエスが、十字架で死ぬことですごい存在になりたい、偉大な存在にならせてくださいと祈り願ったのではありません。十字架の死は、主イエスを偉大な存在に祭りあげる出来事ではありません。私たちが、十字架の死と復活を通して、主イエス・キリストを信じるようになり、そして、信じる者たちの救いが実現する、これが十字架の意味でありました。つまり主イエスはここで、十字架の死を通してご自分に栄光が受けることによって、わたしたちの救いが実現することを祈り願われたのです。
 二つ目は、6-19節です。これは、弟子たちのための祈りです。主イエスが、ご自分の昇天後にこの世に残された弟子たちのために、祈った祈りでした。ここで主イエスは、弟子たちが、主イエスがこの世を去った後も、決して滅びないように、悪い者、つまり罪から守られるようにと、父なる神様に祈られました。
 そして、本日の箇所20節以下が三つ目の祈りです。20節には「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあります。「彼ら」とはこの時まさに主イエスの目の前にいる弟子たちのことです。では「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは誰でしょう。それは、今ここに集うわたしたちのことです。弟子たちの言葉、つまり、この新約聖書にまとめられた主イエス・キリストを証しする言葉を読み、イエスをわたしの主、わたしのキリストであると信じた代々の聖徒たち、キリスト教会の2000年の歴史につならる一人一人、そして、今ここにいるわたしたちのために主イエスは、ここで祈り始められるのです。
 2000年前、まさにこれから十字架にかかって死んでゆかれようとしている主イエスは、今ここにいるわたしたちのためにも祈ってくださっていた。これは、とっても感動的なことです。主イエスは、一体わたしたちのために何を祈ってくださったのでしょうか。
 21節には、こうあります。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」「全ての者」というのは、弟子たちの言葉によって主イエスを信じた全ての者、つまり全ての信仰者のことです。主イエスが祈り願っておられるのは、全ての信仰者が一つとなることだったのです。
 罪あるわたしたち人間は、どれだけ一つになりたいと願っても、一つになれません。それは歴史を辿っても明らかですし、わたしたちの人生を振り返っても残念ながらそうだと言わざるを得ません。戦争、差別などの明らかな分裂だけでなく、身近な人間関係や家族関係においてもわたしたちは分断を抱えて生きています。また、一つとなれない現実は、キリスト教の歴史においてもたくさんあるのです。現に、このヨハネによる福音書が記され読まれていた紀元1世紀ごろ、つまり初代教会においても、分断が起きていました。今、牧師の担当する礼拝において、使徒言行録を読んでいますが、その内容からも使徒たちの時代から意見の相違がたくさんあったということがよく分かります。キリスト教、2000年の歴史は、分裂の歴史と言っても過言ではありません。東西の分裂、宗教改革、教派の誕生などもその一つと言えましょう。そして、厳しいですが、わたしたちのこの石山教会もそのような経験を抱えていますし、日本基督教団においても無関係の問題ではありません。
 本当に、辛く悲しいことです。わたしたちは、隣人を愛したい、尊重したい、平和に安心に平等に暮らしたい、といくら願っていたとしても、ともすると、ムカっとしたり、イラッとしたり、実際に裁いてしまったり、相手より上に立つような振る舞いをしてしまう。あるいは人間関係に無関心になってしまったり、拒絶し、自ら孤独になって生きてしまうこともあるかもしれません。それが時には大きな分断を招いてしまうのです。
 聖書はその根本の原因とは、わたしたちの「罪」であると言います。罪とは、神様を信じないことです。イエス様をわたしの主、わたしのキリストだ、と信じないことです。神様を信じ、神様を中心に生きる生き方が聖書の示す正しい生き方です。しかし、わたしたちは、神様中心ではなく自分中心に生きてしまう。この罪の現実は、どこまでも深く、わたしたちにまとわりつき、わたしたちの力ではどうしようもないしがらみとなっているのです。そして、わたしたちが一つとなることがそれによって妨げられてしまうのです。
 主イエス・キリストは、そのようなわたしたちのために、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と祈られました。父なる神様と御子イエス様は等しい存在です。絶対に切り離されることのない同一の存在です。主イエスご自身がこのことを、繰り返し語ってこられたことを、このヨハネによる福音書は伝えています。
 繰り返し強調しますが、父なる神様と御子イエス様は「一つ」だと言うことです。そして、この父と子が一つであるのと同じように、全ての人を「一つ」にしてください、と主イエスは祈られたのです。父と子が一体であるのと同じように、主イエスを信じる群れの一人一人が、全世界の教会が、分断された全ての者たちが、ピッタリと一体になること、これが主イエスの願いでした。これは、わたしたち信仰者の思いが一つになりますように、ということではありません。話し合って、理解しようと努めて一致する部分を見つけていこうということでもありません。罪人であるわたしたちは最終的にはどう頑張っても、自分達の力では一つになることは難しいのです。不可能といっても良いと思います。だから、たとえ主イエスを信じる者同士でも、分断し、裁きあい、バラバラになってしまうのです。主イエスはわたしたちのこのような罪の現実も、全て知っておられました。だからこそ、父なる神様に祈ってくださったのです。全ての人を、教会を一つにしてくださいと。
 主イエスは、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください(17:21)」と祈りを続けます。「わたしたち」とは主イエスと父なる神様です。主イエスと父なる神の間には、お互いがお互いの内にいると言えるほどの交わりがあるのです。ですから、主イエスがなされる行い、癒し、奇跡、伝道活動の全ては神様の業であるし、主イエスが語られる御言葉は、神様の言葉なのです。そのような密接と言う以上の、神様と主イエスの深く強く豊かな交わりの内に、わたしたち一人一人もいるようにして下さい、と主イエスは祈られました。
 父なる神様と主イエスとの一つである交わりの中に私たちも入れていただくということは、父なる神様と主イエスが一つとなって抱いておられる思い、御心をわたしたちも知るようになるということでもあります。わたしたちが、主イエスがこの世において人となりたる神として語られたその御言葉、わたしたちが手にしているこの聖書が伝える、主の言葉その一つ一つの意味がわかるようになるということです。意味がわかるだけではありません。主イエスの言葉がわたしの言葉、わたしの生き方になるということです。
 ヨハネによる福音書が繰り返し伝えてきた、主イエスの御言葉、神様の御心とは、神様はわたしたちを愛している、愛して愛して、この上なく愛し抜かれたということです。24節には「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」とあります。主イエスは天地創造の前から、父なる神様に愛されている子でありました。その父が子に与えた愛、そしてその愛によって注がれた栄光を、信じる者全てにも見せてくださいと、イエス様は祈っておられるのです。
 26節には「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」とあります。主イエスはわたしたちに父なる神の御名を知らせて下さいました。神様は、わたしたちを愛し、共にいてくださるお方だということを教えてくださったのです。主イエスの導きによってのみ、わたしたちは本当の意味で父なる神様を知り、信じるに至ることができます。そして、主イエスを通して神様を信じることで、父なる神様の愛がわたしたちの内にやどり、また主イエスご自身もわたしたちの内に宿ってくださるようになるのです。
 父なる神様と主イエスの間の一つであり、また、互いに愛し合う関係の中に私たちも入れていただくということは、父と子なる神の愛を受け、わたしたちも父と子なる神を愛するということです。そして、その父と子から受けた愛によって、互いに愛し合うということです。それが怒り・憎しみ・自己中心・無関心・分断・分裂、そのようなあらゆる罪のしがらみからわたしたちを解放する唯一の道です。わたしたちを一つに結び合わせる真の信仰なのです。 
 主イエスは最後の晩餐における長い説教の最後に、わたしたちのためにこのことを天の父に祈って下さいました。そして、主イエスはこの後、わたしたちのために十字架の死と復活による救いを成し遂げて下さったのです。この祈りの初めに、主イエスは天の父に「栄光」を与えてくださいと祈りました。本来、栄光を受けるべきお方とは神様ただ一人であるはずです。その栄光を、主イエスがこの地上において受ける時、それは主の十字架の死と復活の時です。主イエスは、ご自身の命を十字架の上で捧げ尽くし、自らが生贄となり、わたしたちが受けるはずの死の裁きを一身に受け、罪の贖いの捧げ物となってくださいました。この十字架の出来事によって、父なる神様の御心は、わたしたちを裁いて滅ぼすのではなく、愛し赦してくださることなのだと証しされたのです。この救いを成し遂げるお方は神様の御心を知っておられるお方、つまり神様ご自身であられる主イエス・キリストだけなのです。
 この石山教会での説教を終える時がいよいよ近づいてまいりました。最後にもう一度だけ、神様が、御子イエス・キリストを通してわたしたちに示された愛をご一緒に確かめ合ってこの説教を終わりにしたいと思います。わたしたちが持っているこの聖書、神様の御言葉が記されたこの聖書には、神様の愛がたくさん詰まっています。わたしたちは愛されているのです。どうか聖書をこれからも読み続けてください。祈り続けてください。主を賛美し続けてください。どうか父なる神様と主イエスとの愛の交わりに生き続けてください。どうか、主を愛し、兄弟姉妹を愛し、この愛を多くのまだ見ぬ兄弟姉妹たちに伝えていってください。わたしたちにはできないことであっても、神様には可能です。この石山教会に連なるお一人お一人が、神様に期待し、希望を抱いて信仰の旅路を歩まれていくようにと、祈り続けます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 01:57| 日記