2023年03月25日

2023年3月26日主日礼拝説教「希望を持って生きる」須賀工牧師

聖書:使徒言行録24章1節〜27節、詩編86篇1節〜17節
説教:「希望を持って生きる」須賀工牧師

 今朝、私達に与えられた御言葉は、使徒言行録24章1節から27節の御言葉です。今朝の御言葉は、使徒パウロが、ユダヤ人によって、総督フェリクスの前で、裁判を受ける。そのような場面です。
 今朝の御言葉もまた、非常に、長い文脈となりました。ですので、二つのことに、焦点を当てながら、神様からのメッセージに、耳を傾けて参りたいと思います。
 今朝、私達が、注目したい言葉は、まず「良心」という言葉です。そして、もう一つは、「希望」であります。今朝は、この二つの事柄に、思いを馳せながら、恵みの御言葉に聴いて参りたいと思います。
 使徒パウロは、総督フェリクスの前で、次のように、弁明をしています。15節から16節の御言葉です。「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」。
更にもう一カ所、この箇所よりも前の使徒言行録23章1節には、次のような、言葉が残されています。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」。
 使徒パウロは、ここで「良心」という言葉を用いています。「良心」とは、どういう意味でしょうか。恐らく、日本人の多くは、この「良心」という言葉を、とても、ポジティブな意味で捉えることが多いかもしれません。例えば、文字通り、「良い心」と理解する方が多いと思います。あるいは、「良心に恥じることをするよりは死を選ぶ」といった価値観。これも、日本特有のメンタリティー。そのように言えます。また、多くの無神論、無宗教者を抱える日本における倫理の基準は、この一人一人の「良心」であるとも言えるでしょう。その意味で、人間の「良心」は、日本においては、「神」と同等の価値を持っている。そのようにも言えるかもしれません。このように、日本において、「良心」という言葉は、とても、積極的な意味を持っていると言えるのです。
 しかし、実際に、辞書を読むと、「良心」とは、必ずしも、信仰的に「良い意味」だけではありません。例えば、「良心」とは、「自分の本性の中にある欺瞞」という意味もあります。あるいは、「自分が正しいと信じて行動する気持ち」という意味もあるわけです。
 つまり、「良心」とは、善悪を判断する「自分の思い」、「自分の気持ち」という意味合いを持つことになるわけです。ですから、例えば「良心の声に従う」という言葉は、「自分の思い・自分の気持ち・自分の心の声に従う」という意味になるのです。
 それでは、聖書における「良心」とは、どういう意味を持つのでしょうか。ギリシア語によると、「良心」という言葉は、「共に」という言葉と「知る」という言葉が、重なって生まれた言葉であります。この言葉は、そのまま英語にも、適応されています。英語で、「良心」は、「コンサイエンス」という用語を使います。「コン」とは「共に」という意味です。「サイエンス」とは、「知識」「知る事」を意味しています。ですから、やはり「共に知る」あるいは「共に知る存在」という意味を持っているわけです。
 要するに、この「良心」とは、私達の思いや行動を見つめ、共に知ろうとする、もう一人の自分を指していることになるのです。その意味で、「良心の声」を「もう一人の自分の声」と理解するならば、西洋の価値観も日本の価値観と似ていると言えるかもしれません。
 しかし、ここで、パウロが語る「良心」とは、「自分の中のもう一人の自分」ではありません。先ほどの使徒パウロの言葉によれば、彼は、「神の前で」「神に対して」という言葉を加えているのです。
 つまり、パウロにとって、「良心」に従って生きるとは、もう一人の自分の声に従うことではなく、「神様の前で」「神様に対して」生きること、言い方を換えるならば、神様の方を向いて、神様と共に、神様のものとして生きることなのです。要するに、パウロにおける「共に知る者」とは、自分の中にいるもう一人の自分ではなく、自分の外にいる「神様」を指していることになるのです。
 神様こそが、自分の思いや行動の全てを、この私と共に見てられる。そして、知っておられる。この神様の眼差しの前で、責められることのないように生きていく。これが、パウロの示す「良心的な生き方」なのであります。要するに、神様の眼差しの中を生きる生き方。これが、パウロの良心的な生き方なのです。
 それ故に、彼は、裁判の中で、たとえ不利な証言を受けたとしても、間違ったことには、間違えていると主張し、逆に、信仰の内容に関しては、決して、妥協せず、曲げることはなかったわけです。それは、彼が、神様の眼差しの中で、神様を意識しながら生きているからなのであります。
 さて、今朝の御言葉の中には、明らかに「良心を痛めた」人物が、二人います。それが、フェリクスと彼の妻であります。聖書によると、二人は、パウロから、キリスト教の教えを聞いていたようです。
 フェリクスの目的は、お金でした。要するに、賄賂が目的でありました。しかし、フェリクスの妻は、違いました。このフェリクスの妻ドルシラは、ユダヤ人です。因みに、ドルシアは、ヘロデの娘です。クリスマスに出てくる、あのヘロデのひ孫にあたります。
 元々、彼女は、ユダヤ人の妻でありました。しかし、フェリクスに見初められ、ユダヤ人と離婚をし、異邦人のフェリクスと再婚をしたのです。
 つまり、彼女は、ユダヤ教徒を裏切った人でもあるわけです。恐らく、彼女にも、ユダヤ人のコミュニティーで生きていく上で、「良心の痛み」があったと考えられます。そして、同じように、裏切り者と呼ばれた、あのパウロを通して、何かを知りたいと思ったのかもしれません。
 しかし、そこで、パウロは、何を語ったのでしょうか。聖書によると「正義や節制や来るべき裁き」を語ったのです。そこには、人間の声に従う良心はありません。正に、神様の前にある良心をもって、この厳しい言葉を語ったわけです。恐らく、パウロの言葉は、彼らの良心を揺さぶり、罪の意識をもたらしたと言えるでありましょう。
 結果的に、彼らの良心は、何も変わりませんでした。悔い改めに至ることはなかったのです。自分の心の中で、自分の罪を知りながらも、自分の正しい基準、自分の思いや気持ちから逃れられなかったのであります。本当の意味で、神様の御前に立つことがなければ、あるいは、神様の前で、神様と向き合って生きる、という信仰がなければ、人は変えられていかないのかもしれません。
 自分の正しさや基準から逃れられなかった二人は、どこに落ちたでしょうか。それは、神様の御言葉に対する「恐怖」であります。自分の救いに対する「不安」が、彼らを支配したのです。そして、神に立ち帰るのではなく、人間に喜ばれる道を、彼らは、選んだのであります。
 それに対して、使徒パウロは、どうでしょうか。彼は、自分の外にあって、自分の思い、自分の行動の全てを見つめ、知っておられる神様の眼差しの中に生きています。要するに、神様に対して、良心的に生きたのです。
 しかし、そのパウロは、それでもフェリクスたちのように、「恐怖」や「不安」を感じることなく生きられたのです。なぜでしょうか。それは、パウロ自身が、神様の眼差しの中で、受けていたのが、「恐怖の言葉」ではなく、まさしく「希望」だったからであります。しかも、その希望とは、「肉体の死を越えるほどの希望」であり「復活の希望」なのであります。パウロの言葉から言うならば、「正しい者も正しくない者もやがて復活する」という希望であります。
 そもそも、何のために復活するのでしょうか。神様の御前で裁きを受けるために、復活するのです。その裁きにおいて、永遠の救いと滅びが、決まるのです。フェリクスたちに語った「来るべき裁き」とは、このことを指しています。彼らは、それを「恐怖」に捉えました。しかし、パウロは、それを「希望」と呼ぶのです。来るべき裁き、最後の審判を見つめることは、彼にとって「希望」なのです。それが、彼の喜びと力の源になるのです。
 それは、彼が、自分の正しさに、自信があったからではありません。そうではなくて、彼が、神様の眼差しの中で、生きながらも、それでも、不安や絶望に支配されず、希望や喜びを抱けたのは、何故でしょうか。
それは、彼が、復活の主イエス・キリストと共に、生きていたからなのです。パウロは、キリストと共に、神様の眼差しの中に生きたのです。
 キリストは、私達に、何をしてくださったのでしょうか。神の御子イエス・キリストは、罪人である私達を滅びから救うために、私達の身代わりとなって、十字架で死んで下さった。それが、私達の救い主です。神様の前で、正しい者と言えない、このような私達のために命を捨ててくださった。「来るべき裁き」において、本来ならば、滅ぼされるしかない、こんな自分のため、救い主は、身代わりとなってくださったのです。そして、その自分が、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪を赦され、新しい命、永遠の命を約束されているのです。
 使徒パウロは、このキリストと共に歩むことで、神様の眼差しの中に、自分を責める厳しい裁きを見るのではなく、赦しや恵みや愛を見つめることが出来たのであります。
 私達もまた、この眼差しの中に入れられています。あるいは、この眼差しの中に招かれています。そこには、確かに、私達を裁き得る厳しい言葉があるかもしれない。自分が救われているのか、という疑問や不安を感じることもあるかもしれません。しかし、その眼差しの中にこそ、キリストがいて下さる。そのことによって、この眼差しの中にも、本当の喜びや希望を見いだすことができるのです。クリスチャンとして生きるのは、こんなにも幸いなことなのです。
 そして、キリストの父なる神が、私達の傍らにいて、この恵みの眼差しによって、私達の全ての思いと行いを見つめ、共に知っていてくださいます。だから、私達は、失望しないで良いのです。絶望をしないで良いのです。たとえ死を身近に感じる状況に置かれても、神様の愛の眼差しから、私達を奪い去るものはなく、永遠に至るまで、希望をもって生きることが出来るのです。この深い幸いを、心に留めて、神様の眼差しの中に、キリストと共に生かされていることを、喜び、主を賛美するものでありたいのです。
 さて、この石山教会で、主任牧師として、礼拝を司る役割は、今日で終わります。正に、別れは、「具体的なもの」であります。それは、言い換えるならば、目に見える出来事です。そうです。「別れ」は、あくまでも具体的なものであり、目に見える出来事でしかない。そして、私達は、目に見えるものに、真の希望を持ちません。
 なぜなら、私達は、目に見えない真実に、真の希望を見いだすからです。目に見えない真実とは、何でしょうか。それは、私達が、キリストを中心とし、神様の愛の眼差しの中を、「共に」歩んでいるということであります。それは、目に見える空しいものを超えた、揺るがない真実であります。私達は、この神様の愛と恵みの眼差しの中で、一つの群れであり続けることができるのであります。そして、その関係性は、死を越えて、永遠なるものなのです。
 これから、石山教会においても、様々な困難があるかもしれません。しかし、失望しなくて良いのです。絶望に陥ることもありません。皆さんは、もうすでに、神様の愛の眼差しの中に、キリストと共に、生かされているのです。大事なことは、この神からくる眼差しの中に、キリストを中心に据え、常に、その身を、そこに置き続け、主を賛美し、主の御前に生き続けることなのです。そして、自分の声ではなく、主の声に耳を傾けて生きる。これが、希望を持って生きられる、ただ一つの道なのであります。
 使徒言行録は、パウロの死を描きませんでした。パウロが、自由に伝道をした所で、この書物は終わります。つまり、終わりがないのです。要するに、今、私達もまた、神様の眼差しの中で、神様の時を生きながら、使徒言行録の続きを生きているのです。どうか、これからも、この主の眼差しから離れることなく、希望を持って、自由に、のびのびと、楽しんで、この石山の地で、神様に対しても、人に対しても、真の良心をもって、伝道に励んでいただければと思います。
 そして、未信者の皆様、クリスチャンであることは、こんなにも自由であり、希望であることを、ぜひ、知ってください。皆さんの前にいる神様は、皆さんを滅ぼす神ではありません。確かに、少し、厳しい言葉も語られることがあるでしょう。しかし、キリストにあって、生かそうと願っているのが、私達の信じている神であることは変りません。どうか、ほんの少し、一歩でも、半歩でも、この主の愛の眼差しの中に、勇気をもって、飛び込んでいただければと思います。もし、それが一人で出来ないならば、ここには、皆さんの背中を押してくれるキリストが生きておられます。そして、皆さんと一緒に、飛び込んでくださる、そういう温かい人々がいます。どうか、安心して、その身を委ねて頂ければと思います。
 石山教会に連なる、皆様の上に、神様の祝福が、これからも豊かにありますように、心からお祈りしています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 17:01| 日記