〇教会学校 9時15分〜
聖書:ローマの信徒への手紙8章26節〜30節
説教:「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書24章44節〜49節、創世記12章1節〜3節
説 教: 「心の目で見る復活」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
2023年04月30日
2023年5月7日 礼拝予告
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:50| 日記
2023年4月30日主日礼拝説教「目に見える復活」大坪信章牧師
ルカによる福音書24章36節〜43節、イザヤ書26章12節〜19節
説教「目に見える復活」大坪信章牧師
復活節第4主日を迎えました。イエスさまの復活の季節は、本当に生きる力をいただきます。それは、私たちが、教会暦(教会の暦)の中で生きているということでもあります。この世の人々は、この世の暦に従って生きています。日本では、春夏秋冬の季節に分かれて豊かな気持ちになって暮らすことができます。勿論、厳しい暑さや厳しい寒さの季節もありますが、それでも、自然の美しさには、何度となく感動させられています。けれども、それ以上の感動があるわけではありません。なぜなら、この世の人々の大半は、教会暦(教会の暦)を知らないからです。昨日も、週報作成準備の関係で、教会暦(それは、受難節、復活節、聖霊降臨節、待降節、降誕節の掲載の仕方)について話したことです。今が、どのような季節であるのか、教会にとって、クリスチャンにとって、今がどのような季節であるのかを知ることは大切なことです。教会暦の中でも、復活節、イエスさまの復活の出来事ほど嬉しい物語はありません。更に復活後40日目には、イエスさまの昇天の出来事があり、イエスさまは神の右の座において、すべての人たちのために執り成しを祈り続けてくださっています。その10日後には聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事があります。喜びの上に、更に喜びが約束されています。ここまでは、聖書の新約の物語として記録されています。私たちも、その聖霊降臨までの恵みを、今も、こうして聖霊の充満、それは御言葉の充満の中で、この世の空しさをものともせず、希望と喜びに溢れています。ただ、未だ私たちが体験していない出来事があります。それは、イエスさまの再臨です。復活や昇天や聖霊降臨の出来事が、こんなにも嬉しいのであれば、イエスさまの再臨は、どれほど素晴らしい出来事なのかと思わされます。今は、復活節ですが、彼の日には、再臨節を私たちは生きるのです。イエスさまは、罪深い人間でありながらも、主の憐みによって生かされている私たちを、必ず迎えに来てくださいます。それは、今日の聖書の物語においても言えるのです。イエスさまは、必ず迎えに来てくださいます。
聖書は言っています。36節「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と。この時「こういうことを話して」いたのは、数時間前に、エマオの途上を歩いていたクレオパと、もう1人の弟子でした。彼らは、エマオの途上で出会った人物が、イエスさまだったということを、夕食の席で、その人物がパンを裂いた時に認識しました。その後2人の弟子は、時を移さずして、日が暮れた夜の闇の中を、エマオからエルサレムへと、来た道を引き返したのです。そうしてエルサレムに着くと、そこには11人の弟子とその仲間が集まっていて、そこでは、主が復活されたという話しで持ちきりでした。そこで、弟子たちと合流したクレオパと、もう一人の弟子も、35節「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに、イエスだと分かった次第を話した」のです。いわゆる、弟子たちは、イエスさまの復活について話していたのです。そんなことを話していると、その弟子たちの真ん中に、イエスさま御自身が立って言われたのです。「あなたがたに平和があるように」と。このイエスさまの言葉から分かるように、弟子たちには、平和が必要でした。なぜなら、37節によると「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」からです。ヨハネ福音書にも、この出来事は記されています。そこでも、イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と平和を口にしておられます。それは、弟子たちが恐れと疑いの中で家の中に閉じこもっていたからです。ルカ福音書では、その閉じこもっていた11人の弟子とその仲間のところに、エマオから戻って来た2人の弟子がやって来て、復活の話しをしていたわけです。しかし、復活は復活でも、それは、復活に対する恐れや疑いの話しをしていたのであって、それは、心を騒がせていたということ以外の何ものでもないのです。復活が、いかに信じられないような出来事であったのか、ということがよく分かります。しかし、信じられないような出来事だからこそ信じるのです。信じられるような出来事を信じたところで、それは、何にもならないのです。
ヨハネの福音書のほうでは、その復活の出来事から、更に一週間後の出来事である、疑い深いトマスの物語も記されています。そこでもイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われました。そのいずれにおいても、イエスさまは、弟子たちの真ん中に立って言っておられるのです。おそらくイエスさまは、弟子たちが復活を信じるまで、何度でも御自身を現わすおつもりだったのでしょう。なぜなら、恐れや疑いというのは、仲間内に不信感を生じさせるからです。平和の対義語は戦争だとか、戦争ではないなど色々と言われていますが、平和の対義語は、不和なのではないでしょうか。イエスさまは「平和」の言葉を口にすることによって、そのような恐れや疑いの芽を事前に摘もうとしておられるように見えるのです。この後、イエスさまは、40日間に亘り、多くの弟子たちに復活の姿で現れますが、その復活の顕現は、そういうことだったのではないでしょうか。なぜなら、復活後40日目にイエスさまは昇天され、その後、弟子たちは心を1つに、約束の聖霊を待って祈り続けなければならなかったからです。恐れや疑いを抱いていては、心を一つになどできません。恐れや疑いは、ただ不信感を生み出すだけなのです。
少し話しが飛びますが、テモテへの手紙2、2章16節17節に次のような御言葉があります。「俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります」と。この御言葉から思い出すのは、民数記13章にある物語です。モーセは、パランの荒れ野から約束の地カナンを偵察させるために、12人を遣わしたのです。その40日後、12人は、偵察を終えて帰って来ました。そのうちの10人は、カナンが良い土地であるにも拘らず、その土地の住民を恐れ、モーセと民の共同体全体に悪い情報を流したのです。そのため、民の共同体全体は、夜通し泣き言を言い、不平を言い始めました。そこで、偵察隊の中のヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブの2人が、信仰に立って「主が共におられるから、彼らを恐れるな」と言ったのです。しかし、民の共同体全体は、2人を石で打ち殺そうとまでしたのです。そこで主は、不平を言った彼らを悪い共同体全体と言い、成人に達した者たちを皆、荒れ野で滅ぼされました。そして、恐れに取りつかれて悪い情報を流した10人もまた、疫病に罹って死んだのです。恐れというのは、これ程までの悪影響を仲間に及ぼすのです。現代の教会にも、平和ではなく、不和が悪いはれ物のように広がっています。そのような中で、何か良いものが生まれた試しなど無かったのです。本当に教会が世の人々の救いを祈り願っているのであれば、まず、共に生きる者同士が一致し、調和し、不和を取り除かなければなりません。イエスさまが今、どこに立っておられるのかをよく考えなければなりません。イエスさまは、弟子たちの真ん中に立っておられるのです。不和を取り除くというのは、誰かを取り除くと言うのではなく、誰かを否定すると言うのでもないのです。そうではなく、誰もが皆、一様に悔い改めて、私たちの中心におられる主に立ち帰るということなのです。そうして、私たちの中に巣食っている主への恐れや疑いを取り除いていただくのです。また、現代の教会の人々には癒しが必要です。それは、みんな傷ついているからです。その傷を舐め合うのならまだしも、傷ついては、また、他の誰かを傷つけるという悪循環に陥っています。傷を舐め合っても、他の誰かを傷つけても、自分自身の傷が癒やされることはありません。傷は、イエスさまの十字架の傷跡によってしか癒やされないのです。イザヤ書53章5節に次の御言葉があります。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と。
こうして「あなたがたに平和があるように」と言われたイエスさまは、御自分を見て「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」弟子たちに言われました。38節39節「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と。イエスさまは、恐れや疑いに取りつかれ、不信感を抱いていた弟子たちの心の傷を、まさに御自分の十字架の釘跡(傷跡)を見せるという仕方で癒やされたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたイエスさまですが、その上「触ってよく見なさい」とまで言われ、40節「手と足をお見せになった」のです。それは、まるで、ヨハネ福音書に記録されているところの、あの疑い深いトマスへの言葉として言っておられるかのようです。イエスさまはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書20章27節)と。疑い深いトマスを始めとする、そこにいた弟子たちが皆、復活されたイエスさまの手と足を触ってよく見たのかどうかは分かりません。しかし、それを見たことは明らかです。ただ、見るとか触るとか、そういうことは本質からは外れています。本質は、イエスさまの復活を、信じない者ではなく、信じる者になるということだからです。
この後の弟子たちの様子について、聖書は言っています。41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた」と。このようにして、復活されたイエスさまの言葉を、順を追って辿っていくと、イエスさまは、何か弟子たちの恐れや疑いを、一つ一つ丁寧に取り除こうと、段階を踏んでおられるように見えるのです。それは、復活を信じるための階段のように、一段、また、一段と確実に上って行くかのように見えるのです。イエスさまは弟子たちに、最初は御自分の手や足を見るようにと言われました。それは、御自分が、他の誰でもないイエスさま御自身であるということを、弟子たちに示すには十分過ぎることでした。そして、次に、触ってよく見るようにと言われました。それは、弟子たちの中に、それは間に、イエスさまが亡霊(幽霊)かもしれないという恐れや疑いが生じたからです。確かに亡霊や幽霊には肉も骨もありませんが、イエスさまにはそれがありました。それに対して、聖書は、41節で「彼らが喜びのあまり」と言っているので、この言葉から受ける印象では、弟子たちが、イエスさまの「触ってよく見なさい」という言葉に応じてイエスさまに触れ、肉と骨があることを確かめたのではないかと思わされます。そして、それが本当にそうだったからこそ、弟子たちは喜んだと言えるからです。しかし、喜んだのですが、弟子たちは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」と、事は展開していくのです。恐らく弟子たちは、イエスさまに対して実感が湧かなかったのではないでしょうか。それは夢のようで、幻のようで、今、起こっていることのすべては、夢、幻の中で起こっている出来事なのではないか、と。弟子たちは、果たして今、自分が、ここにいる現在と、復活のイエスさまが、ここにおられる現在に、繋がりや接点はあるのか、という、そういう恐れや疑いが生じていたのではないでしょうか。だから、イエスさまは、弟子たちに「ここに食べ物があるか」と言われたのです。そこで、弟子たちは、42節、イエスさまが現れる前から、そこにあった「焼いた魚を一切れ」差し出したのです。その焼き魚は、弟子たちが、ここにいる現在を、別の形として表すものです。ですから、それがパンであっても菜っ葉であっても良かったのです。弟子たちの現在を、別の形で表すものであれば何でも良かったのです。ただ、焼き魚の場合は、生の魚から、調理された魚という変遷を辿っているので、弟子たちにとって、より現実感が増すものだったと言えるのではないでしょうか。そして、イエスさまは、差し出された、その焼き魚を、43節「取って、彼らの前で食べられた」のです。こうして、弟子たちの現在と、復活のイエスさまの現在との繋がりを確かめることができました。こうして、イエスさまは、段階を踏んで、弟子たちの恐れや疑いを、一つ一つ取り除いていかれたのです。ただ、復活のイエスさまは永遠の命そのものであり、また、その御体は、永遠の命を有する身体であるということ。しかし、それに対して、弟子たちや私たちの体は、約束としての永遠の命は得ていても、この身体が永遠の命を有する身体ではないということ。だから、永遠の命を有する身体のよみがえりは、信仰によって将来に約束されている事実である、ということの違いはあります。つまり、この出来事は、イエスさまの復活を信じる弟子たちや私たちに、信仰告白、使徒信条で唱和しているように、身体のよみがえりという事実をも、確かに信じさせる出来事になったのです。
先程、テモテへの手紙2、2章16節17節の御言葉を引用しました。「俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります」と。その続きは18節にかけて次のようになっています。「その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」と。俗悪な無駄話として、悪いはれ物のように広がる言葉の中には「復活はもう起こった」という言葉もあったのです。でも、まだ、イエスさまの復活以外の復活は起こっていません。この誤った復活の理解というのは、復活を、ただの霊的な出来事や精神的な出来事であるとしたということなのです。だから、もう既に復活は、それぞれの精神論の中で起こったことにしてしまったのです。つまり、それは、身体のよみがえりを否定することであり、身体のよみがえりを信じることは愚かだという話しだったのです。確かに、冒頭でも、復活が、いかに信じられないような出来事であったのか、ということがよく分かると言いました。しかし、信じられないような出来事だからこそ信じるのです。信じられるような出来事を信じたところで、それは、何にもならないのです、とも言いました。人間は、理解できないことを理解できるように、話しや事柄を持っていきます。そして、理解出来ることだけを信じ、理解できないことは信じない傾向にあります。でも、それは、結局、何も信じていないということと同じなのです。この滋賀県に赴任して、出会った人々の中には、キリスト教に興味を抱かれる方もいます。けれども、復活、そして、身体の甦りの話しになると、どうしても躊躇されるのです。「死んだ体が生き返ることなど有り得ないし、肉体が朽ち果てて、骨になったものが、また生身の体になって躍動することなんてあり得るのでしょうか」と。しかし、聖書は、コリントの信徒への手紙1、15章35節〜38節で、パウロを通して言っています。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」と。
今朝は、目に見える復活という話しをさせていただきました。復活というのは、単なる精神論ではなく、はっきりと弟子たちの目に刻まれた出来事であり、弟子たちが目で見て手で触った、それは確かなものだということも言えます。また、それは、身体のよみがえりをも信じさせる出来事であったということなのです。大事なことは、弟子たちも私たちも、復活されたイエスさまを信じない者ではなく、信じる者になるということです。そして、恐れや疑いをかなぐり捨てて、愛する兄弟姉妹が共に一つになって、約束された聖霊を待って共に祈り合うということです。それは、イエスさまの復活、昇天後に弟子たちが実行したことです。そして、そのような調和や一致なしには、イエスさまの十字架と復活の福音である良い知らせが、弟子たちを通して、全世界に宣べ伝えられることもなかったのです。もし、復活が、もう起こってしまった出来事であったのなら、私たちの希望はどこにあると言うのでしょうか。死を免れる者、肉体の死を免れる者など、この世の中には誰一人としていません。復活は身体のよみがえりであり、それは、復活を信じる私たちの永遠の命の希望です。先週の昼食後に、主にある一人の兄弟と、イエスさまが弟子たちの前で焼き魚を食べられた、今日の体のよみがえりの話しをしました。だから、神の国の食卓に招かれるのが楽しみですねと。復活の信仰に生きる私たちには、本当に沢山の喜びと希望が約束されています。このイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、改めて私たちは、主の御前で悔い改めて、十字架の主の罪の赦しによって恐れと疑いを取り除いていただきましょう。そして、イエスさまの言われたように「平和があるように」平和を保ちながら希望に向かって前進していきましょう。
説教「目に見える復活」大坪信章牧師
復活節第4主日を迎えました。イエスさまの復活の季節は、本当に生きる力をいただきます。それは、私たちが、教会暦(教会の暦)の中で生きているということでもあります。この世の人々は、この世の暦に従って生きています。日本では、春夏秋冬の季節に分かれて豊かな気持ちになって暮らすことができます。勿論、厳しい暑さや厳しい寒さの季節もありますが、それでも、自然の美しさには、何度となく感動させられています。けれども、それ以上の感動があるわけではありません。なぜなら、この世の人々の大半は、教会暦(教会の暦)を知らないからです。昨日も、週報作成準備の関係で、教会暦(それは、受難節、復活節、聖霊降臨節、待降節、降誕節の掲載の仕方)について話したことです。今が、どのような季節であるのか、教会にとって、クリスチャンにとって、今がどのような季節であるのかを知ることは大切なことです。教会暦の中でも、復活節、イエスさまの復活の出来事ほど嬉しい物語はありません。更に復活後40日目には、イエスさまの昇天の出来事があり、イエスさまは神の右の座において、すべての人たちのために執り成しを祈り続けてくださっています。その10日後には聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事があります。喜びの上に、更に喜びが約束されています。ここまでは、聖書の新約の物語として記録されています。私たちも、その聖霊降臨までの恵みを、今も、こうして聖霊の充満、それは御言葉の充満の中で、この世の空しさをものともせず、希望と喜びに溢れています。ただ、未だ私たちが体験していない出来事があります。それは、イエスさまの再臨です。復活や昇天や聖霊降臨の出来事が、こんなにも嬉しいのであれば、イエスさまの再臨は、どれほど素晴らしい出来事なのかと思わされます。今は、復活節ですが、彼の日には、再臨節を私たちは生きるのです。イエスさまは、罪深い人間でありながらも、主の憐みによって生かされている私たちを、必ず迎えに来てくださいます。それは、今日の聖書の物語においても言えるのです。イエスさまは、必ず迎えに来てくださいます。
聖書は言っています。36節「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と。この時「こういうことを話して」いたのは、数時間前に、エマオの途上を歩いていたクレオパと、もう1人の弟子でした。彼らは、エマオの途上で出会った人物が、イエスさまだったということを、夕食の席で、その人物がパンを裂いた時に認識しました。その後2人の弟子は、時を移さずして、日が暮れた夜の闇の中を、エマオからエルサレムへと、来た道を引き返したのです。そうしてエルサレムに着くと、そこには11人の弟子とその仲間が集まっていて、そこでは、主が復活されたという話しで持ちきりでした。そこで、弟子たちと合流したクレオパと、もう一人の弟子も、35節「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときに、イエスだと分かった次第を話した」のです。いわゆる、弟子たちは、イエスさまの復活について話していたのです。そんなことを話していると、その弟子たちの真ん中に、イエスさま御自身が立って言われたのです。「あなたがたに平和があるように」と。このイエスさまの言葉から分かるように、弟子たちには、平和が必要でした。なぜなら、37節によると「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」からです。ヨハネ福音書にも、この出来事は記されています。そこでも、イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と平和を口にしておられます。それは、弟子たちが恐れと疑いの中で家の中に閉じこもっていたからです。ルカ福音書では、その閉じこもっていた11人の弟子とその仲間のところに、エマオから戻って来た2人の弟子がやって来て、復活の話しをしていたわけです。しかし、復活は復活でも、それは、復活に対する恐れや疑いの話しをしていたのであって、それは、心を騒がせていたということ以外の何ものでもないのです。復活が、いかに信じられないような出来事であったのか、ということがよく分かります。しかし、信じられないような出来事だからこそ信じるのです。信じられるような出来事を信じたところで、それは、何にもならないのです。
ヨハネの福音書のほうでは、その復活の出来事から、更に一週間後の出来事である、疑い深いトマスの物語も記されています。そこでもイエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われました。そのいずれにおいても、イエスさまは、弟子たちの真ん中に立って言っておられるのです。おそらくイエスさまは、弟子たちが復活を信じるまで、何度でも御自身を現わすおつもりだったのでしょう。なぜなら、恐れや疑いというのは、仲間内に不信感を生じさせるからです。平和の対義語は戦争だとか、戦争ではないなど色々と言われていますが、平和の対義語は、不和なのではないでしょうか。イエスさまは「平和」の言葉を口にすることによって、そのような恐れや疑いの芽を事前に摘もうとしておられるように見えるのです。この後、イエスさまは、40日間に亘り、多くの弟子たちに復活の姿で現れますが、その復活の顕現は、そういうことだったのではないでしょうか。なぜなら、復活後40日目にイエスさまは昇天され、その後、弟子たちは心を1つに、約束の聖霊を待って祈り続けなければならなかったからです。恐れや疑いを抱いていては、心を一つになどできません。恐れや疑いは、ただ不信感を生み出すだけなのです。
少し話しが飛びますが、テモテへの手紙2、2章16節17節に次のような御言葉があります。「俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります」と。この御言葉から思い出すのは、民数記13章にある物語です。モーセは、パランの荒れ野から約束の地カナンを偵察させるために、12人を遣わしたのです。その40日後、12人は、偵察を終えて帰って来ました。そのうちの10人は、カナンが良い土地であるにも拘らず、その土地の住民を恐れ、モーセと民の共同体全体に悪い情報を流したのです。そのため、民の共同体全体は、夜通し泣き言を言い、不平を言い始めました。そこで、偵察隊の中のヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブの2人が、信仰に立って「主が共におられるから、彼らを恐れるな」と言ったのです。しかし、民の共同体全体は、2人を石で打ち殺そうとまでしたのです。そこで主は、不平を言った彼らを悪い共同体全体と言い、成人に達した者たちを皆、荒れ野で滅ぼされました。そして、恐れに取りつかれて悪い情報を流した10人もまた、疫病に罹って死んだのです。恐れというのは、これ程までの悪影響を仲間に及ぼすのです。現代の教会にも、平和ではなく、不和が悪いはれ物のように広がっています。そのような中で、何か良いものが生まれた試しなど無かったのです。本当に教会が世の人々の救いを祈り願っているのであれば、まず、共に生きる者同士が一致し、調和し、不和を取り除かなければなりません。イエスさまが今、どこに立っておられるのかをよく考えなければなりません。イエスさまは、弟子たちの真ん中に立っておられるのです。不和を取り除くというのは、誰かを取り除くと言うのではなく、誰かを否定すると言うのでもないのです。そうではなく、誰もが皆、一様に悔い改めて、私たちの中心におられる主に立ち帰るということなのです。そうして、私たちの中に巣食っている主への恐れや疑いを取り除いていただくのです。また、現代の教会の人々には癒しが必要です。それは、みんな傷ついているからです。その傷を舐め合うのならまだしも、傷ついては、また、他の誰かを傷つけるという悪循環に陥っています。傷を舐め合っても、他の誰かを傷つけても、自分自身の傷が癒やされることはありません。傷は、イエスさまの十字架の傷跡によってしか癒やされないのです。イザヤ書53章5節に次の御言葉があります。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と。
こうして「あなたがたに平和があるように」と言われたイエスさまは、御自分を見て「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」弟子たちに言われました。38節39節「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と。イエスさまは、恐れや疑いに取りつかれ、不信感を抱いていた弟子たちの心の傷を、まさに御自分の十字架の釘跡(傷跡)を見せるという仕方で癒やされたのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたイエスさまですが、その上「触ってよく見なさい」とまで言われ、40節「手と足をお見せになった」のです。それは、まるで、ヨハネ福音書に記録されているところの、あの疑い深いトマスへの言葉として言っておられるかのようです。イエスさまはトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書20章27節)と。疑い深いトマスを始めとする、そこにいた弟子たちが皆、復活されたイエスさまの手と足を触ってよく見たのかどうかは分かりません。しかし、それを見たことは明らかです。ただ、見るとか触るとか、そういうことは本質からは外れています。本質は、イエスさまの復活を、信じない者ではなく、信じる者になるということだからです。
この後の弟子たちの様子について、聖書は言っています。41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた」と。このようにして、復活されたイエスさまの言葉を、順を追って辿っていくと、イエスさまは、何か弟子たちの恐れや疑いを、一つ一つ丁寧に取り除こうと、段階を踏んでおられるように見えるのです。それは、復活を信じるための階段のように、一段、また、一段と確実に上って行くかのように見えるのです。イエスさまは弟子たちに、最初は御自分の手や足を見るようにと言われました。それは、御自分が、他の誰でもないイエスさま御自身であるということを、弟子たちに示すには十分過ぎることでした。そして、次に、触ってよく見るようにと言われました。それは、弟子たちの中に、それは間に、イエスさまが亡霊(幽霊)かもしれないという恐れや疑いが生じたからです。確かに亡霊や幽霊には肉も骨もありませんが、イエスさまにはそれがありました。それに対して、聖書は、41節で「彼らが喜びのあまり」と言っているので、この言葉から受ける印象では、弟子たちが、イエスさまの「触ってよく見なさい」という言葉に応じてイエスさまに触れ、肉と骨があることを確かめたのではないかと思わされます。そして、それが本当にそうだったからこそ、弟子たちは喜んだと言えるからです。しかし、喜んだのですが、弟子たちは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」と、事は展開していくのです。恐らく弟子たちは、イエスさまに対して実感が湧かなかったのではないでしょうか。それは夢のようで、幻のようで、今、起こっていることのすべては、夢、幻の中で起こっている出来事なのではないか、と。弟子たちは、果たして今、自分が、ここにいる現在と、復活のイエスさまが、ここにおられる現在に、繋がりや接点はあるのか、という、そういう恐れや疑いが生じていたのではないでしょうか。だから、イエスさまは、弟子たちに「ここに食べ物があるか」と言われたのです。そこで、弟子たちは、42節、イエスさまが現れる前から、そこにあった「焼いた魚を一切れ」差し出したのです。その焼き魚は、弟子たちが、ここにいる現在を、別の形として表すものです。ですから、それがパンであっても菜っ葉であっても良かったのです。弟子たちの現在を、別の形で表すものであれば何でも良かったのです。ただ、焼き魚の場合は、生の魚から、調理された魚という変遷を辿っているので、弟子たちにとって、より現実感が増すものだったと言えるのではないでしょうか。そして、イエスさまは、差し出された、その焼き魚を、43節「取って、彼らの前で食べられた」のです。こうして、弟子たちの現在と、復活のイエスさまの現在との繋がりを確かめることができました。こうして、イエスさまは、段階を踏んで、弟子たちの恐れや疑いを、一つ一つ取り除いていかれたのです。ただ、復活のイエスさまは永遠の命そのものであり、また、その御体は、永遠の命を有する身体であるということ。しかし、それに対して、弟子たちや私たちの体は、約束としての永遠の命は得ていても、この身体が永遠の命を有する身体ではないということ。だから、永遠の命を有する身体のよみがえりは、信仰によって将来に約束されている事実である、ということの違いはあります。つまり、この出来事は、イエスさまの復活を信じる弟子たちや私たちに、信仰告白、使徒信条で唱和しているように、身体のよみがえりという事実をも、確かに信じさせる出来事になったのです。
先程、テモテへの手紙2、2章16節17節の御言葉を引用しました。「俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、その言葉は悪いはれ物のように広がります」と。その続きは18節にかけて次のようになっています。「その中には、ヒメナイとフィレトがいます。彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」と。俗悪な無駄話として、悪いはれ物のように広がる言葉の中には「復活はもう起こった」という言葉もあったのです。でも、まだ、イエスさまの復活以外の復活は起こっていません。この誤った復活の理解というのは、復活を、ただの霊的な出来事や精神的な出来事であるとしたということなのです。だから、もう既に復活は、それぞれの精神論の中で起こったことにしてしまったのです。つまり、それは、身体のよみがえりを否定することであり、身体のよみがえりを信じることは愚かだという話しだったのです。確かに、冒頭でも、復活が、いかに信じられないような出来事であったのか、ということがよく分かると言いました。しかし、信じられないような出来事だからこそ信じるのです。信じられるような出来事を信じたところで、それは、何にもならないのです、とも言いました。人間は、理解できないことを理解できるように、話しや事柄を持っていきます。そして、理解出来ることだけを信じ、理解できないことは信じない傾向にあります。でも、それは、結局、何も信じていないということと同じなのです。この滋賀県に赴任して、出会った人々の中には、キリスト教に興味を抱かれる方もいます。けれども、復活、そして、身体の甦りの話しになると、どうしても躊躇されるのです。「死んだ体が生き返ることなど有り得ないし、肉体が朽ち果てて、骨になったものが、また生身の体になって躍動することなんてあり得るのでしょうか」と。しかし、聖書は、コリントの信徒への手紙1、15章35節〜38節で、パウロを通して言っています。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」と。
今朝は、目に見える復活という話しをさせていただきました。復活というのは、単なる精神論ではなく、はっきりと弟子たちの目に刻まれた出来事であり、弟子たちが目で見て手で触った、それは確かなものだということも言えます。また、それは、身体のよみがえりをも信じさせる出来事であったということなのです。大事なことは、弟子たちも私たちも、復活されたイエスさまを信じない者ではなく、信じる者になるということです。そして、恐れや疑いをかなぐり捨てて、愛する兄弟姉妹が共に一つになって、約束された聖霊を待って共に祈り合うということです。それは、イエスさまの復活、昇天後に弟子たちが実行したことです。そして、そのような調和や一致なしには、イエスさまの十字架と復活の福音である良い知らせが、弟子たちを通して、全世界に宣べ伝えられることもなかったのです。もし、復活が、もう起こってしまった出来事であったのなら、私たちの希望はどこにあると言うのでしょうか。死を免れる者、肉体の死を免れる者など、この世の中には誰一人としていません。復活は身体のよみがえりであり、それは、復活を信じる私たちの永遠の命の希望です。先週の昼食後に、主にある一人の兄弟と、イエスさまが弟子たちの前で焼き魚を食べられた、今日の体のよみがえりの話しをしました。だから、神の国の食卓に招かれるのが楽しみですねと。復活の信仰に生きる私たちには、本当に沢山の喜びと希望が約束されています。このイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために、改めて私たちは、主の御前で悔い改めて、十字架の主の罪の赦しによって恐れと疑いを取り除いていただきましょう。そして、イエスさまの言われたように「平和があるように」平和を保ちながら希望に向かって前進していきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:49| 日記
2023年04月24日
2023年4月30日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書6章33節〜34節
説教:「御国をきたらせたまえ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ルカによる福音書24章36節〜43節、イザヤ書26章12節〜19節
説教:「目に見える復活」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:マタイによる福音書6章33節〜34節
説教:「御国をきたらせたまえ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ルカによる福音書24章36節〜43節、イザヤ書26章12節〜19節
説教:「目に見える復活」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:06| 日記