2023年04月23日

2023年4月23日主日礼拝説教「生きる力の源」大坪信章牧師

ルカによる福音書24章28〜35節、イザヤ書40章6節〜11節
説教「生きる力の源」大坪信章牧師

 イエスさまが復活された日の夕べ、2人の弟子が、暗い顔をしながらエルサレムからエマオの村へ歩いていました。この、通称エマオの途上の物語の前半を、私たちは先週の礼拝で読みました。今日は、その後半の物語です。2人の弟子は、表面的に見れば、エルサレムの都から故郷のエマオへ帰っていくのです。ただ、そこには全く喜びの感情がありませんでした。2人の弟子の心は、救い主と信じたイエスさまを失った、その悲しみと絶望に支配されていたからです。2人の弟子は、道すがら、イエスさまの十字架の死と空の墓について話し合い論じ合っていました。すると、そこへ復活の主、イエスさまが近づいて来られたのです。けれども、2人の弟子の目は遮られており、それがイエスさまだということが分かりませんでした。イエスさまは、絶望に浸っていた2人の弟子に言われました。25〜27節「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。

 当時の聖書は、旧約の書簡のことを指しているので、イエスさまは、旧約を全体に亘って説明されたということになります。それは「御自分について書かれていること」でした。ただ、旧約は、イエスさまがお生まれになる前の時代、紀元前の書物です。だから、普通に考えて、旧約には、新約の、中でも福音書のように、イエスさまのことが書かれているというのではないことぐらいは分かります。けれども、復活のイエスさまは、旧約の書簡に書かれているところの「御自分について」説明されたのです。旧約は、大きく分けると律法と預言者の書で構成されています。更に細かく分ければ、歴史書や詩歌書なども含まれる全39巻で纏められています。そして、新約27巻を併せた66巻のすべての書簡の中には、イエスさまのことが書かれているのです。旧約39巻では、預言という言葉、すなわち、後の日に実現する神の約束の言葉として書かれています。それは、本当にそうなのです。これまで、石山教会に赴任する前に2つの教会で牧師として仕えさせていただきました。礼拝では、おもに新約を読みました。そして、週の半ばの聖書研究祈祷会では、おもに旧約を読みました。旧約を読むと、必ず新約との深い結び付きに気付かされるのです。最初の赴任地では、旧約の学びの後に、必ず新約の御言葉を引用して話しを終えたものです。また、前任地では、旧約の御言葉を読んでいるのに、何故か、その御言葉の内に生きておられるイエスさまと出会い、その福音である良い知らせの喜びを伝えずにはいられなくなったのです。笑いが込み上げてくるのです。それは、テレビを見て笑うような笑いではありません。心の深い所から、じわじわと湧いてくるような笑いです。テレビの笑いは、その場で消えてしまう霧のような笑いです。でも、御言葉が与えてくれる笑いは、心の奥底からの笑いなので、内に秘めた芯のある笑いと言ったら良いのでしょうか。それは、自分の命に直結し、また、健全な魂を養う笑いで、不敵な笑みとでも言えば良いのでしょうか。それは、サタンという敵にも打ち勝つ笑いです。そういう笑いをずっと笑っていたい。そのために、エンドレスで御言葉を語り続けていたいと思ったことは何度もあります。この驚きと喜びに興奮している状態は、聖書研究祈祷会の参加者が証人です。

 また、それは、詩編も言っている通りなのです。「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」(119篇103節)と。それは福音の良い知らせの味なのです。要するに、旧約の御言葉によってイエスさまとの出会いを果たしている、そのことが嬉しくなってくるのです。そういう感覚で聖書を読む喜びに至ったのには、ある書物との出会いもありました。それは、淀橋教会の初代牧師が訳した書物「66巻のキリスト」です。いわゆるすべての書簡は、キリストが主題となっているという内容の書物です。訳者は言っています。「創世記の始めから黙示録の終わりまで、聖書を一貫するものはキリストである」と。この視点は、宗教改革者たちの視点でもありました。宗教改革者の1人は言っています。「われわれは、聖書を読む時、その中にキリストを見出そうという意図を持って読まなければならない」と。そして、実にイエスさま御自身もヨハネ福音書の中で、そのことについて言っておられるのです。5章39節以下「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と。だから、聖書を、この世の歴史の書物の1つとして読んだとしても、身に着くのは知識ぐらいなのです。そこには喜びがあるわけでもなく、心に何か熱いものを感じるわけでもないのです。ましてや人生を変革させるほどのものを得ることもありません。しかし、イエスさまについて書かれていることを説明するようにして読む時、嬉しくなってくるというか、自然に笑いが込み上げてくるというのか、生きる力が湧いてくるのです。ですから、聖書は是非、分からなくても創世記から通読する(通して読む)、或いは、創世記とマタイ福音書から、それぞれ順に通読する(通して読む)ことをお勧めします。

 こうして、28節、2人の弟子であるクレオパともう1人の弟子、そして、イエスさま「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」のです。そこで、2人の弟子は、イエスさまに言いました。29節「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と。そうして、2人の弟子が「無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」のです。ここで不思議に思うのは、どうしてイエスさまは「なおも先へ行こうと」されたのだろうかということです。正確には、普通に先へ行こうとされたのではなく、そういう様子、そぶりを2人の弟子に見せられたのです。それは、まるで2人の弟子に「わたしを、このまま先に行かせるのか」と言っておられるようにも聞こえます。この場面から、黙示録の御言葉を思い出しました。3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」私たち、ここにいる人々は、求める者です。だから、ここに居るのですが、求める人々は、日曜日になると教会の門(扉)を叩いて入ってくるようなイメージで来ます。実際、鍵は開いていますし、扉も開いているので、ガンガン叩く必要はありません。そういう意味で、教会に入るのは簡単です。そして、礼拝堂では聖書の御言葉を聞き、讃美歌を歌い、祈りや献金を捧げます。でも、それで満足しているクリスチャンや人々の、何と多いことでしょうか。そういう状態を続けていては、つまり、開いている教会の扉を叩いても、暖簾に腕押しという感じは否めないのです。現に、教会に来ていても、信仰がマンネリ化してしまう人々もいるわけです。また、教会には来たけれども、それ以上、信仰に踏み込めずに立ち止まる人々もいるわけです。それは何故なのか、と考えれば、それは、その人自身の心の扉が開いていないからです。教会の扉を開けて入って来ても、自分の心の扉が固く閉ざされていれば、その人の心が満ち足りることはないのです。心から救いを喜べないのです。私たちは、教会に扉を叩いて入るイメージで来ますが、本当は、そうではなく、イエスさまが私たちの心の扉を叩いておられるのです。そのイエスさまの声を聞いて、御言葉を聞いて、私たちが心の扉を開けるなら、イエスさまは私たちと共に食事をされ、私たちもまた、イエスさまと共に食事をすることになるのです。

 イエスさまは、道すがら、2人の弟子に向かって「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」ました。それは、イエスさまが2人の弟子に、聖書の御言葉を、よく分かるように解き明かされたのです。それを他の言い方で言うのであれば、イエスさまが、2人の弟子の心の扉をトントントンと叩かれたのです。ただ、この世は有限です。時間は限られています。あっという間に時間は過ぎて夕方になり、陽が沈みかけたので、2人の弟子は目的地のエマオの村の手前で立ち止まりました。しかし、イエスさまは「なおも先へ行こうと」される様子でした。その様子から窺えるのは、先程言ったように、イエスさまは「わたしを、このまま先に行かせるのか」というお気持ちだったのではないでしょうか。つまり「わたしは、あなたの心の扉を叩いているのに、あなたは、その心の扉を開けもせず、このまま、わたしを去らせるのか」と。或いは「まだ、本当の意味で、わたしとあなたは出会っていない。それなのに、あなたは何のリアクションも返さず、この出会いを終わらせるのですか」と。まるで、そう言っておられるかのように聞こえるのです。しかし、2人の弟子は、それは、後で分かることですが、既にこの時、心に何かを感じ始めていたのでしょう。この人の話しをもっと聞きたいと思ったのでしょう。2人の弟子は、イエスさまを無理に引き止めました。そこで、イエスさまは、2人の弟子と「共に泊まるため家に入られた」のです。イエスさまと2人の弟子の、このやり取りを歌った讃美歌があります。それは、讃美歌21で言えば218番です。作者は、今際の際で、この歌詞を書いたと言われています。「日暮れて、闇は迫り、我が行く手、なお遠し、助けなき身の頼る、主よ、共に宿りませ。」私たちは、イエスさまという存在なしには、心にぽっかりと大きな穴が空いている者なのです。ましてや、日が暮れていくような人生の晩年を、そのような有り様で、どうやって生きていくと言うのでしょうか。石山教会の2022年度の標語は『希望に心を向ける教会生活を送ろう』です。その希望とは、まさに絶望のエマオの途上に現れたイエスさま、その人なのです。私たちの心の中に空いた、その大きな穴は、この世のいかなる励ましや慰めの言葉によっても塞ぐことはできません。この心の中の穴を塞ぐことができるのは、十字架の死を死に、復活の命を生きておられるイエスさまだけなのです。私たちに罪の赦しを与え、永遠の命を与えてくださる、いえ、永遠の命そのものであるイエスさまだけなのです。2人の弟子は、エマオへの道すがら、その罪の赦しと永遠の命の言葉を聞いていたのです。今日の礼拝後は教会総会です。教会標語は「命の御言葉に聴き従う教会生活」です。聖句は詩編119篇105節「御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」です。私たちの主イエス・キリストを証しする御言葉は、私たちの希望の光です。

 こうして、イエスさまは、2人の弟子と共に泊まるために家に入られました。そして、3人が、30節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。それは、突然の出来事でした。その家の主人でもないイエスさまが、まるで、主人であるかのようにパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて2人の弟子にお渡しになったのです。それは、突然の出来事でありながらも、2人の弟子にとっては特別な出来事になりました。なぜなら、それは、最後の晩餐の席上で、イエスさまが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えた」(ルカによる福音書22章19節)あの出来事と同じだったからです。けれども、最後の晩餐の出来事は、あの限られた12人の弟子たちにとっての特別な出来事で、その席上には、クレオパと、もう1人の弟子はいませんでした。ですから、クレオパと、もう1人の弟子にとって、この出来事は、これから特別な出来事になることを意味しています。ただ、この出来事は、彼らにとって懐かしい思い出の出来事でもあったと言えるのは、5000人の給食(ルカによる福音書9章)の物語があるからです。その中でイエスさまは「5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。そこにクレオパと、もう1人の弟子がいたのかどうかは分かりません。いずれにしても、食事の席で、その人がパンを裂いた時、31節「二人の目が開け」その人がイエスさまだと分かったことは確かです。しかし、分かったと同時に、イエスさまの「その姿は見えなくなった」こともまた、確かです。普通は、見えたら見えたで、そのままのほうが分かり易いのです。目が遮られて見えなかった対象が見えたのですから、それで十分だと思います。それなのに、聖書は、今度は全く見えなくなったと言うのです。対象として認識すらできなくなったと言うのです。まるで、細い路地、細い路地に入っていくようで、理解し難い、理解し難い方へ話しが進んでいくようにも思えます。けれども、だから本当だと実感できるのです。この場面では、イエスさまの山上の説教の言葉を思い出します。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音書7章13、14節)とイエスさまは言われました。「命に通じる門」「その道」「それを見いだす者は少ない」とは、信じる道、信仰によって歩む道を見いだす者は少ないのです。

 しかし、目が開かれた2人の弟子は、32節「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。2人の弟子は、もう議論したりはしません。体験に優るものはないからです。イエスさまは、弟子たちの前でパンを裂き、また、2人の弟子の心に語りかけてくださいました。それは今、教会の重要な聖餐の恵みと御言葉の恵みとして息づいています。いずれもイエス・キリストの恵みを証ししています。ここに、私たちの生きる力の源があります。今、私たちもエマオの途上の2人の弟子のように、聖書全体に亘ってイエスさまのことを聞いています。つまり、十字架と復活について、それは、罪の赦しと永遠の命についての解き明かしを聞いています。2人の弟子は、その御言葉を聞いていた時「心は燃えていた」ことを思い出しました。2人の弟子の心に、魂に、火が点いたのです。私たちが心開くために、御言葉は今日も私たちの心に迫っています。心の扉を開ける力は、結局、自分にはないのかもしれません。しかし、御言葉は、私たちの心に注がれる聖霊の油なのです。その喜びと感謝に溢れる私たちは、心の扉を開けずにはいられなくなるのです。そうして、心開かれた2人の弟子は、33節「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」いきました。すると「十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」のです。そこで、35節「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」のです。この2人の弟子の人生は180度変わりました。イエスさまが、弟子たちに残してくださったもの、それがパン裂きの出来事と御言葉です。そして、この御言葉に聴いて心が熱くなる体験なのです。イエスさまは、今日も生きておられます。だから、私たちもイエスさまの復活の証人として生きるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:11| 日記

2023年04月16日

2023年4月16日主日礼拝説教「現実から真実への道」大坪信章牧師

ルカによる福音書24章13節〜27節、ルツ記1章19節〜22節 
説教「現実から真実への道」 大坪信章牧師

復活節第2主日を迎えました。この復活節は第7主日まで続きます。その間、私たちはイエスさまの復活の真実に触れ、その真実を知ることの喜びを存分に味わいたいと思います。ただ、イエスさまが復活されたイースターの日曜日は、多くの人々が空しい現実を生きていました。何事も無かったかのように元の生活に戻っていた群衆は、罪のない方を十字架に架けて殺した現実を生きていました。弟子たちは、イエスさまが十字架に架かって死なれた、イエスさま不在の現実を生きていました。また、イエスさまのご遺体を新しい墓に納めたアリマタヤのヨセフとニコデモは、墓の中と同じ暗く陰鬱な現実を生きていました。そして、婦人たちは、日曜日の朝、イエスさまの墓の前で、墓が空っぽという現実の中で、自らの心も空っぽになって途方に暮れました。なぜなら、墓の入り口を塞いでいた大きな円い円型の石が、既に墓の脇に転がしてあったからです。その墓は岩を掘って繰り抜いた横穴でした。

実は、空しいという漢字、空(くう)の成り立ちは、横穴を貫いている空間のことを言うのです。その空間が大きくなったものが、見上げれば、そこにある空(くう)、空(そら)です。確かに、空(そら)は何も無い空間です。だから、イエスさまの墓(横穴)の中が空っぽだったというのは、全くもって空しかったと言えます。正確には、墓の中にイエスさまを包んでいた亜麻布が置いてありましたが、イエスさまを直接示す痕跡は何一つ無かった。それほど空しいことは無かったのです。また、空しいというのは空虚の虚で言い表すこともできます。そうすると、それは虚(うつ)ろという読み方になるのです。それは今日、朗読された旧約のルツ記に出て来るモアブ人ルツの義母、ナオミの状態と同じでした。ナオミは、ベツレヘムから移り住んだ先のモアブの地で、夫と二人の息子を失いました。そして、未亡人となった息子の嫁、ルツと共にベツレヘムに帰って来たのです。その時、自分の境遇を知って同情する人々に、ナオミは言いました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしを酷い目に遭わせたのです。出ていくときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです」(ルツ記1章20節、21節)と。おそらく、イエスさまの墓の前の婦人たちも、ナオミのように、虚ろな状態であったことは想像に難くありません。

しかし、そこに一筋の光が差し込みました。それは「輝く衣を着た二人の人」である主の天使たちが現われたからです。けれども、その一筋の光というのは、主の天使たちの輝きのことではなく、主の天使たちが告げた主の御言葉のことです。主の御言葉は、何度聞いても嬉しくなります。主の天使たちは言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカによる福音書24章5節〜7節)と。こうして、主の御言葉を思い出した婦人たちは、この時、空しい現実から解放されたのです。けれども弟子たちは、その婦人たちの証言を聞いても、未だ空しい現実の中を生きていました。

「ちょうどこの日」13節を見ると「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合って」いたのです。それは、復活の出来事が起こった朝から、10時間近くが経とうとしていた日曜日の夕方でした。その時間帯は、ユダヤでは、次の日へ移り変わる日付の変わり目で、あと少しで日曜日が終わろうとしていました。その復活の日の夕べ、2人の弟子がエルサレムから、およそ11キロ離れたエマオという村へ歩いていたのです。この物語は『エマオへの途上』と呼ばれるルカ福音書特有の物語です。この物語はマルコ福音書にもありますが、マルコ福音書のほうは、物語る程の記録ではありません。このエマオへの途上を歩いていた2人の弟子は、イエスさま不在のエルサレムに見切りを付け、自分の故郷に帰るという現実を生きていました。それは、ある意味、絶望の道を行く現実でした。また、その道は、夕方、日が沈む時間帯とも重なって、より絶望感が増していったと思われます。何よりも、2人の弟子が話し合い論じ合っていた、その内容が絶望的なものでした。なぜなら、2人の弟子は「この一切の出来事」であるイエスさまの十字架の死と空の墓について論じ合っていたからです。幾ら頭をひねって考えても埒(らち)が明かないのです。どうにも説明が付かない。その現実を、2人の弟子が重い足取りで「話し合い論じ合っていると」15節「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」のです。しかし、16節「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。

物語としては、ここでイエスさまに気付いた2人の弟子が、大喜びでエルサレムに戻っても良かったのです。そして「イエスさまは生きておられる」と仲間の弟子たちに証言しても良かったのですが、そのようにはなりませんでした。それは、2人の弟子の認識不足とか理解不足とか、そういう個人的な問題ではありません。2人の弟子の目は「遮られて」いたからです。それは、神さまが、敢えて、2人の弟子に近づいてきた人物が、イエスさまだと気付かないように計らわれたのです。なぜ、そうされたのでしょうか。それは、引き続き、この物語を読み進めていけば分かることです。この物語の後半は、来週の日曜日の礼拝で読んでいきます。とは言え、今日のエマオへの途上の物語の前半は、前半だけでも完結しますし、むしろ、完結させる必要があります。なぜなら、昔、聞いたことがあるのです。聖書を物語る時、決して、結論を来週、再来週に取っておくような話し方をしてはならない、と。つまり、福音は今日、今、語るべきであり、確実に語ることができるものだということです。もし、福音を勿体ぶって先延ばしにした、まさに、その週に、自分も含め、会衆の中の誰かが命を落とすようなことがあったなら、一体どうするのか、と。命を落としたその人は、福音に触れることができなかった、ということになるのです。本当にそうだと思わされました。「大事なことは来週お話しします」「救いの本質については、また来週」という礼拝説教など、あってはならないのです。今日のエマオへの途上の物語の前半も、ちゃんと福音が証言されていますので、ご安心ください。

すると、2人の弟子と一緒に歩き始められたイエスさまは、2人の弟子に、17節「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われたのです。イエスさまは「一体何が、そんなに問題なのですか」と言っておられるかのようです。というのは、2人の弟子は、顔を曇らせながら悲しい表情でイエスさまの死と空の墓について話し合っていた、或いは、論じ合っていたからです。物事や出来事を問題として論じ合う時、人が働かせるのは頭です。だから、2人の弟子が腕を組み、眉をひそめ、考えあぐね、ああだ、こうだと言って歩く姿が目に浮かびます。2人の弟子は、頭をひねりながら、十字架の死と空の墓という問題に果敢に挑戦したのです。しかし、問題化することで、人は、その問題よりも、その問題の分析のほうを重要視するようになります。つまり、その問題そのものは、どうでもよくなってしまうのです。だから、そもそもイエスさまの十字架の死と空の墓は、問題にすべきことではないのです。あのイエスさまの母マリアも受胎告知の時「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカによる福音書1章34節)と言いました。それは、処女降誕を問題化して問うたのです。その時、天使ガブリエルは、ただ一言「神に出来ないことは何一つない」(同37節)と言って、処女降誕について問題化させませんでした。神の働かれる出来事は、幾ら頭をひねって考え、分析した上で答えを出そうとしても出ないのです。それは、人知では到底はかり知ることのできないことだからです。

そうしてイエスさまが、2人の弟子に話しかけた時「二人は暗い顔をして立ち止まった」のです。そして、18節「その一人のクレオパという人」が呆れたように答えたのです。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と。イエスさまが、19節「どんなことですか」と言われると、2人は言いました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」と。2人の弟子は、まず、3日前に起こったイエスさまの十字架の死の出来事について話しました。そして、続けて22節以下では、空の墓の出来事についても話し始めたのです。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」と。2人の弟子が論じ合っていたのは、イエスさまの死という喪失と、イエスさまの遺体の喪失という二重の死の空しさについてでした。それが、エマオへの途上を歩いていた2人の弟子の絶望の根本的な問題となっていました。

しかし、2人の弟子は、主の天使たちが告げた「イエスは生きておられる」という不思議と驚きの言葉が引っ掛かり、問題解決のために論じ合っていたのです。その時、イエスさまが近づいて、一緒に、その絶望の道を歩かれました。ただ、2人の弟子の目は遮られていたので、それがイエスさまだとは気づきませんでした。それは、神さまが、そう為さったのですが、2人の弟子は論じ合っていたので、無理もないと言えば無いのです。真実というのは、頭で幾ら考えても見えないからです。例えば、愛について幾ら頭で考え議論しても、通り一辺の答えしか導き出せません。要するに、愛について頭で幾ら考えても、その目は遮られているので、真実の愛を見通すことはできないのです。それでは、どうすれば真実を見通すことが出来るのでしょうか。イエスさまは言われました。25節「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と。イエスさまが仰ったのは、十字架の死と空の墓について、問題化したり、論じ合ったりすることではありませんでした。そうではなく、心を動かすこと、心を働かせることだったのです。2人の弟子が「物分かりが悪く」なっていたのは、個人的な要因や年齢のせいなどではありません。「心が鈍く」なっていたのです。皆さんは、心の目という言葉を聞いたことがあると思います。でも、頭の目という言葉は聞いたことがないと思うのです。頭の目という言葉を調べると、そのことについて書いてある著書に行き着きます。でも、その解説を見ると「ちょっと知的な心の目」と書いてあり、結局は心の目か、と思いました。

実際、心の目で生きている人はいます。心の目で聖書の御言葉やお話しを聴いている人がいます。その人の目は、どこかしら、鋭いです。目を瞑っていても何となく分かります。話す側の人間からすれば、良い意味で、自分の心をごっそりと持って行かれてしまう程の力を感じるからです。要するに、そういう人は、自分の主観で話しを聴こうとしたり、物事を見ようとしたりしていないからです。その人は、相手の側に立ち、相手の気持ちになって話しを聴き、また、物事を見ようとしているのです。ですから、心の目を動かし、働かせる人は、人が語る言葉を表面的に捉えたりはしません。そうではなく、その言葉の内にある真実(本物)を見抜くのです。また、話す側の人間からすれば、そのような心の目で見ようとする人に対しては、もちろん嘘など言えません。ましてや、適当なことさえも言えません。それは見透かされるからです。だから、本当のこと、それは、真実しか言えないのです。2人の弟子は「心が鈍く」なっていました。だから「物分かりが悪く」「預言者たちの言ったことすべてを信じられ」なかったのです。つまり、2人の弟子は、預言者の気持ちになって、それは、預言者に言葉を預けた神さまの気持ちになって、御言葉に聴くこと、御言葉を信じることができなかったのです。

結局2人の弟子は、頭からも心からも信じていなかったのです。既に自分が描いていた救いの形(像)、救いのイメージ(想像)があったのです。しかし、そのイメージ(想像)は、ややもすると偶像に成り代わるのです。そうして、自分のイメージ(想像)によって、自分を縛ってしまうのです。だから、心が鈍くなって、自由に心を動かしたり、働かせたりすることができなくなるのです。その時、その人は、いわゆる囚われ人になっています。想像力というのは、頭に思い浮かべることができるという点では良いものですが、ただ、それだけのものでもあります。そして、目に見える者に囚われているわけではなくても、そのイメージという像(偶像)に囚われることもあるのです。しかし、というか、だから私たちには、もっと確かなもの、もっと確実なものが与えられているのです。それが御言葉なのです。御言葉は、イメージや想像のように、私たちが思い浮かべるようなことではありません。御言葉は神の思いであり、神の心であり、必ず実現するために抱かれた神の決心です。神の御心です。その御言葉は、ヨハネによる福音書1章1節にあるように、初めにあったものであり、実に神ご自身、神なのです。だから、私たちも、その御言葉を、頭ではなく心で聞かなければならないのです。それこそ、自分の気持ちを静め、神の気持ちになって聞く必要があるのです。私たちは、罪を始めとする、本当に多くのことに囚われているので、解放されなければならないのです。救いというのは解放のことです。だから、御言葉に聴く時、私たちは自分を縛る自分のイメージ(かたち・像)からも解放され、神の御心という、現実よりも、より確かで確実な真実の道を歩み始めるのです。神は、私たちのイメージによって作り出した形や像ではありません。昔も今もこれからも生きておられる方です。その方の御言葉を、その方の気持ちになって聞く時、私たちの心の目は開かれたのです。そこでイエスさまは、2人の弟子に、27節「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。

この物語の中で、2人の弟子の目は「遮られていて」近づき、語り合っている人物が「イエスだとは分からなかった」とありました。冒頭で、それは神さまが敢えて、そうなさったと言いました。なぜ、そうされたのか、それは、引き続き、この物語を読み進めていけば分かること、だとも言いました。それは、このあとの時点でも、そうですが、この時点でも2人の弟子の目が遮られていた理由は分かります。それは、イエスさまが仰っている通りです。イエスさまは、聖書全体を、これは当時の旧約聖書全体に亘り、それは、律法と、特に預言者の言葉を引用して説明されたのです。それでは、何を説明されたのか。それは「御自分について書かれていることを説明された」のです。つまり、イエスさまは「わたしは御言葉です」と仰っておられるのも同然なのです。だから「イエスさまは、どこにおられますか」と言うのであれば、それは「御言葉の内におられます」と言えるのです。だから、神さまは、2人の弟子の目にイエスさまを認識させなかったのです。イエスさまは御言葉だからです。イエスさまは、必ず実現する、仰ったことは必ず成し遂げる、力ある神の御言葉だからです。ここに、私たちの真実があります。私たちを愛する神の愛の真実、私たちの罪を赦す神の赦しの真実、私たちを救う神の救いの真実があります。この後半の物語の中で、2人の弟子は、そのことがはっきりと分かります。その時、この物語に突如現れた人物が、イエスさまだったということが目に見えましたが、一瞬で見えなくなりました。見えることは、自分の内に自分のイメージを見ることも含め、その人にとっての偶像になり兼ねません。それは、再び囚われの身になるということでもあります。だから、見えない、そこに神の自由があり、また、見ないで信じる信仰に、私たちの自由があるのです。イエスさまは御言葉の内におられます。イエスさまは、御言葉の内にある真実であり、約束であり、今も生きて私たちに近づかれ、私たちと共におられます。どんな現実を生きていても、十字架の愛と復活の命の御言葉が私たちを救い、この上ない喜びに溢れさせてくださるのです。真実への道は、今日も、御言葉を信じる私たちの前に開かれています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:56| 日記

2023年04月15日

2023年4月23日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヘブライ人への手紙13章12節〜16節
説教:「御名をあがめさせたまえ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ルカによる福音書24章28節〜35節、イザヤ書40章6節〜11節
説教:「生きる力の源」大坪信章牧師
 
感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 15:40| 日記