2023年04月09日

2023年4月9日主日礼拝説教「復活の現実」大坪信章牧師

ルカ24章1〜12節、エゼキエル書37章9〜14節 
説教「復活の現実」 大坪信章牧師

 イースター(復活祭)おめでとうございます。この日をもって2月22日から始まった、主の日の日曜日を除く長い40日の受難節が過ぎ去りました。そして、濃密な受難週も過ぎ去りました。受難週の夜は、水曜日の受難週祈祷会、木曜日の洗足日礼拝、そして、金曜日の受難日礼拝を守りました。中でも洗足日は、イエスさまが、ある家の2階の部屋で、弟子たちと過ぎ越しの食事を共にされた日でした。また、その席上で弟子たち一人一人の足を洗われ、更に、御自分の体としてのパンを裂き、ご自分の血としての杯を回して弟子たちに与えられました。いわゆる最後の晩餐です。石山教会では、この洗足日礼拝を、子どもを含めて12名、それは、丁度イエスさまの弟子たちと同じ人数で守りました。今回は、礼拝堂の前で聖餐卓を囲んで礼拝を守ったので、本当にイエスさまを囲んでいるような気持ちになり、とても感慨深い礼拝でした。しかし実際は、そのような私たちを、イエスさまが諸手を挙げて喜び、取り囲んでくださっていました。今日も、そうです。キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。

 そのような洗足日の夜、最後の晩餐の席上から一人の弟子が立ち上がって出て行きました。イスカリオテのユダです。裏切り者と呼ばれるユダは、その後イエスさまがゲッセマネの園で祈られた後に再びイエスさまの前に現れました。そして、裏切りの合図である接吻の挨拶をイエスさまと交わしました。こうしてイエスさまは、ユダヤ当局者たちに捕らえられ、裁判にかけられました。そして、総督ポンテオ・ピラトの官邸から十字架を背負われ、ヴィア・ドロローサ、それは、悲しみの道・苦難の道とも呼ばれる道を歩かれたのです。そして、辿り着いたゴルゴタ、そこは、骸骨の丘と呼ばれる丘の上で、十字架に架けられ息を引き取られました。その後、密かに弟子であったアリマタヤのヨセフという議員がピラトの了解を得て、イエスさまを十字架から降ろしました。そこに没薬と沈香の香料をもって遣って来たニコデモは、ヨセフと共にご遺体を清め、亜麻布で包み、ヨセフが所有する墓に葬りました。ヨセフは、ユダヤ人の安息日(土曜日)が始まる夕方までに、それらすべてのことを為し終えました。また、婦人たちもその出来事を見届け、自分たちもニコデモのようにと思ったのでしょう。家に帰って香料と香油を準備し、その日の夕方から、安息日の掟に従って休んだのです。

 そして、その日から3日目の日曜日の朝を迎えました。1節で「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」のは婦人たちでした。婦人たちは、イエスさまの傷ついたご遺体に、香料や香油を塗って差し上げるため、イエスさまが眠る墓に遣って来たのです。しかし、2節には、婦人たちが墓を「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」のです。いわゆる影も形も無かったのです。ただ、ヨハネによる福音書では、ペトロとヨハネが、墓の中にご遺体を包んでいた亜麻布と、頭を包んでいた覆いが置かれていたことを確認しています。しかし、やはりイエスさまのご遺体は跡形も無かったのです。在ると思っていたものが、そこに無かった。その衝撃は、例えば、歩いている時に段差があると思ったのに無かった時の衝撃と似ています。がくんと来るような、そういう衝撃が婦人たちの心理面で起こったと推測できます。そのために、婦人たちが、4節「途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」のです。またしても、婦人たちは、先程と同じような衝撃が走りました。今度は、無いはずのものがあるという衝撃です。つまり、墓の中にいるはずのない者がいたという衝撃のため、婦人たちは、5節で「恐れて地に顔を伏せると」輝く衣を着た二人の人が言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と。婦人たちは、これまでに2つの衝撃を受けました。けれども、それは、本来ならば受ける必要がなかった衝撃であり結末だったのです。なぜなら、イエスさまは生きておられるからです。おそらく、この時点で婦人たちは、自分たちが場違いな所にいるということに気づき始めています。ここは、死者が眠る場所だということに気づき始めています。婦人たちは、本来、誰もいないはずの、誰も語り合う者がいない墓を訪ね、その墓の扉をノックしようとしていたことに気づき始めています。

 だから、何事も始めが肝心なのです。ボタンの掛け違いは、その後もずっと、ずれが生じた続けてしまうからです。婦人たちは、3日前、イエスさまが墓に葬られたのを見届けていたので、その印象が強烈に目に焼き付いたのでしょう。このようにして、目に見えるもの、目に見える出来事は、人間から容易く信仰を奪うのです。見ているのですから、もはや信じる必要はなくなり、信仰は、潮が引くように引いていくのです。また、見るという動きは、そこにしか目が向かないのです。ということは、他に目が向いていないのです。だから見ることで、人は、その見ているものや出来事に完全に囚われるのです。というより、見ているものが、その人を虜にするのです。例えば、映像を見る時、その人は、映像を見ているのではなく、映像が、その人を見ているのです。映像が、その人を虜にしたのです。更に、見ることによって想像力が破壊されます。なぜなら、その見たものがすべてとなり、それ以外をイメージさせなくするからです。幼稚園では、子どもたちに絵本や紙芝居や道具を用いて話すこともしますが、それが、しょっちゅう続けば、子どもたちの想像力が掻き立てられることもなくなります。だから、身振り手振りと声だけにとどめてお話を伝える素話が基本になるのです。そうすると、それ聞いている子どもたちの頭の中が、イメージで一杯になっていくのが分かります。ですから、大体、見たら終わりなのです。何が終わりなのかと言えば、それは、信じることが終わりなのです。物事の現実を見てしまえば、もはや、それを見なかったことには出来ないからです。婦人たちは、イエスさまが十字架に架かって死なれた姿を、何度も見ようとする必要は無かったのです。イエスさまは、ただ一度、わたしの罪のために身代わりとなって、十字架に架かって死んでくださったからです。そのことによって、救いが私たちに与えられたからです。だから、死なれたイエスさまを思い続けて、絶望するほどまでに悲しみに暮れることは求められていないのです。イエスさま御自身も言われました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」(ルカによる福音書23章28節)と。だから、復活の現実は、そこに何も無かったという現実だったのです。けれども、婦人たちには、それもまた、戸惑いと悲しみに繋がってしまったのです。あのマグダラのマリアは、そこに現れたイエスさまを、園の手入れをする園丁だと思って言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(ヨハネによる福音書20章15節b)と。つまり、婦人たちは、死というものに完全に囚われてしまっていたのです。遺体となられたイエスさまという喪失感に加えて、復活の現実は、遺体さえもが無いという事実を突きつけたのです。この二重の喪失感によって婦人たちは絶望したのです。というより、死が婦人たちを完全に捕らえたのです。だから、そもそもの話し、日曜日の朝、婦人たちは墓に向かったのです。

 しかし、そのボタンの掛け違いを、神さまは、婦人たちに気付かせようと既に働き掛けてくださっていました。まず、墓の扉が開いていたことが、そうです。婦人たちは、死者が眠る扉をノックしに来たのです。けれども、その扉は開いていた。また、その墓は空っぽだった。そして、そこに主の天使がいた。その一つ一つの出来事が、段階を踏んで婦人たちの信仰を、死と闇と絶望が支配する世界から、呼び覚まそうとしているのです。復活の現実は、何も無かったのです。確かに、何も無いということは、マグダラのマリアのような考え、それは「誰かが取り去った」という考えにも行き着きます。しかし、何も無いということは、イエスさまが、死者のままではおられない、という望みを抱かせないわけでもないのです。ただ、婦人たちが、今していることは、命と光と希望が支配する世界を信じることではありませんでした。婦人たちは、命と光と希望である主イエスを、死と闇と絶望が支配する世界の中に探しているからです。だから、婦人たちは、今すぐにでも向きを変えなければならない。向きを変えなければ、その悲しみと絶望の涙に、身も心も魂も浸水してしまう。そのような命の危険が伴う場所に、あなたは、いるべきではないし、そこに留まり続けるべきではないのです。どんなことがあっても、私たちは生ける神の子キリストである、イエスさまに留まり続けるべきなのです。その時、婦人たちが見た行き止まりの墓は、復活の栄光によって打ち破られ、神の国への道が開かれるのです。

 そのボタンの掛け違いを、はっきりと婦人たちに気づかせたもの、それが、輝く2人の人、すなわち主の天使たちが伝えた御言葉なのです。主の天使たちは言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と。 そこで、8節「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」のです。その言葉は、ペトロがヘルモン山の麓で、イエスさまに「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイによる福音書16章16節)と信仰を告白した直後に放たれました。イエスさまは、弟子たちを集めて死と復活について予告されたのです。その時、婦人たちがいたかいなかったかは定かではありません。しかし、イエスさまは、棕櫚の主日にエルサレムに入城される直前までに、3度、死と復活の予告をされました。それは、復活の朝に、主の天使たちが取り次いだ御言葉の内容の、死と復活で間違いありません。その内容を聞いた婦人たちは、イエスさまの言葉を「思い出した」のですから、婦人たちもイエスさまの死と復活の言葉を聞いていたということです。だから、御言葉に聴く生活を続けるのと、聴かない生活を続けるのは、全く違う生活なのです。聴いていなければ、あとあと、御言葉が心に引っかかることも無いからです。ただ弟子たちも婦人たちも聴いてはいましたが、自分たちの都合の良いように聴いていたというのが実際です。それは、メシアとは、こういう者である。それは、ローマの支配からユダヤを解放する救い主、という思い込みによって聴いていたのです。そのような人間的な思い込みを打ち砕くためには、祈りが必要なのです。要するに、弟子たちも婦人たちも、まだ、イエスさまが地上におられたので、祈る姿勢が、ままならないままに、御言葉を聞いていたということなのです。御言葉は祈りを持って聞かなければ、必ず成る神の御心に従うことが出来ないのです。

 ところで、婦人たちが、イエスさまの言葉を「思い出した」というのは、婦人たちの心の中で、一体、何が起こったのでしょうか。それは、キリスト教用語で言い替える必要もありません。一般的に「心のよみがえり」という意味があります。それは、自分から心を甦らせようとしても出来ないことです。それは、何かがきっかけにならなければ出来ないことです。そのきっかけになったのが、主の天使の取り次いだ御言葉なのです。だから、私たちは、自分自身も含めて心の甦りが必要な人々を、自分の力で甦らせることなど出来ませんが、そのきっかけにはなれます。それは、御言葉のプレゼント。愛と慈しみと赦しに溢れた御言葉。それは、復活の御言葉が、心の甦りのきっかけになることは間違いありません。今まさに婦人たちは、そのことを体験しようとしています。そして何よりも、神さまは、今日イエスさまを復活させてくださったのです。イエスさまの復活は、私たちが信仰告白でも告白しているように、身体の甦りを信じさせてくださいました。その恵みと喜びの時は、まだ先の再臨の朝であったとしても、今、私たちに確実に求められているのは、心の甦りです。心の甦りなしに、身体の甦りが実現することもありません。要するに、信じることなしに復活は有り得ないのです。復活ほど、信じることが求められる出来事は他にありません。それでは、皆さんに問いかけます。復活を信じないで、何を信じるのでしょう。

 こうして、婦人たちは、9節「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせ」ました。十一人の弟子たちを立てて、9節では先に書いていますが、実際は、まず「ほかの人皆」である、10節の「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」に、復活の知らせが告げられました。その後で、名前が挙げられた婦人たちも加わった婦人たちは「これらのことを使徒たちに話した」のです。 ただ、11節を見ると「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」のです。 婦人たちが信じたこと、それは、復活の現実ではない復活の真実を、弟子たちは「たわ言」だと思ったのです。それは、ばかばかしい話、ふざけた話、冗談だと思ったのです。しかし、12節を見ると、弟子たちの中でも「ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」とあります。ペトロは、他の弟子たちとは違って、復活の現実を確認しに行くことはしました。ただ、そこでペトロが得たのは、そこに何もなかったということと、その現実に驚くことだけでした。ここに、復活の現実を前にした3パターンの人間がいます。パターン1は、ペトロのように、復活の現実を見て驚く人。2は、他の弟子たちのように、復活の現実を見もせず冗談と思う人。そして3は、婦人たちのように、御言葉によって(御言葉を思い出して)、復活を信じる人です。復活の現実は、そこに何もなかったのです。しかし、主の天使が語った御言葉の中には、復活の真実があったのです。私たちが信ずべきは、復活の現実ではなく、復活の真実を世に示した御言葉なのです。それでは、再び皆さんに問いかけます。皆さんは今日、復活の現実を超えた復活の真実を前に、ペトロのように驚いて帰られますか。他の弟子たちのように冗談だと思われますか。それとも、婦人たちのように御言葉によって(御言葉を思い出して)信じますか。最後にルカによる福音書20章38節の御言葉を皆さんにプレゼントします。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:01| 日記

2023年04月08日

2023年4月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章1節〜7節
説教:「天にましますわれらの父よ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ルカによる福音書24章13節〜27節、ルツ記1章19節〜22節
説教:「現実から真実への道」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:23| 日記

2023年4月2日主日礼拝説教「主がお入り用なのです」大坪信章牧師

ルカによる福音書19章28〜40節、申命記7章6〜8節
説教「主がお入り用なのです」大坪信章牧師

 本日は棕櫚の主日の日曜日、また、受難週が始まる日曜日です。そして、2月22日から始まった日曜日を除く長い40日という受難節が満ちようとしています。40日というのは、聖書の中で試練を表わす数字です。ノアの大洪水の40日40夜、イスラエルの民の荒れ野の40年、そして、イエスさまの40日間の荒れ野における誘惑などが、そうです。勿論、受難節の試練は、イエスさまの十字架の苦難です。けれども、私たちのベクトルが向かっていたのは、むしろ、自分自身の苦難であったことを思うのです。現実は、自分の身に起こる、また降りかかる苦しみや悲しみと闘っていたのです。それは、私たちが生身の人間であり、血も通っていれば涙も浮かんでくる人間だからです。実際、この受難節の期間に苦悶し、苦悩し、苦闘する人たちの怒りや涙を見た時、正直、言葉を失いかけました。自然に、あの旧約聖書をして最大の苦悩に喘ぎ、神に物申したヨブを思い出しました。「なぜ」と。最大にして最高の疑問。しかし、一体、神さまが何をしたと言うのでしょう。神さまは、すべてをご存知です。

 苦闘する人たちは、火のような試練を、ただ耐え忍びながら春を待ちました。そして、春は、決して彼らを忘れることも裏切ることもありませんでした。たとえ、私たちが春を信じられないようなことがあっても、春が私たちを忘れることはありません。この度、石山教会に赴任するに当たり、初めて北から南へと、長距離を車で走りました。お祈りを有り難うございました。途中、長野県でたまたま休憩した場所は、千曲川が流れ、5つの山に囲まれ、志賀高原も見渡せる善光寺平・北信五岳という所でした。そこは長野市街地を中心とする内陸盆地でした。案内板には「善光寺平の春は遅いけれども、4月になると数多くの花が一斉に開くさまは豪華そのものである」と書いてありました。春は、立ち込める霧のように、溢れ出る生命力とともに、必ず私たちを迎えてくれるのです。イエスさまも、送れることはありません。必ず、最善の日に再臨されます。きっと、そこで車を止めたのは、たまたまではなく、命の音や命の歌に誘われたからだと、あとで思い直しました。

 苦難と言っても、私たちは、単に苦難という言葉や文字を知っている人間ではないのです。苦難という言葉を、全身全霊で生き、その苦難を、身をもって知る人間です。決して抗うことのできない神の深い御計画、その救いの御計画の中を、ただ信仰によって生かされている人間です。今起こっていることのすべては、夢でも幻でもなく現実です。この現実を生き抜くために信仰が与えられています。しかし、その信仰は、現実ではなく、現実の中にあって、目には見えない事実、それは、真実を信じるために与えられています。春は、必ず立ち込める霧のように、溢れ出る生命力とともに私たちを迎えてくれるからです。同じように真実も、今は、おぼろげに見えていても、必ず沸き立ち、むしろ、現実を飲み込む程の超現実となるのです。その超現実である真実こそ、十字架の主イエス・キリストによって示された、神の愛と平和です。その愛と平和の力は真に強いのです。傷ついて疲れ果てた人々を癒し、包み込むには充分な慰めです。イエスさまは言われました。「あなたがたには世で苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節b)と。この十字架と復活の勝利は、ただ信じる人々と共にあります。

 前置きが長くなりましたが、今日は受難週の始まりである棕櫚の主日の出来事に聴いていきます。それは、群衆が子ロバに乗ったイエスさまを「ホサナ、ホサナ」と叫びながらエルサレムの都に迎え入れる出来事です。「ホサナ」それは、神を讃える歌で「どうか、救ってください」という祈りです。ただ、それは人間が思うような仕方での救いではありません。28節に「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とあります。この時に上って行かれたエルサレム、それがイエスさまにとって、人の子として向かわれた最後のエルサレムです。その時から「先に立って」進まれました。当時のラビと呼ばれる教師(宗教指導者や学者など)は、人々に囲まれた、輪の中で教えながら歩いていたイメージがあります。しかし、この時、真っ先に弟子たちの先頭に立たれたイエスさまに、十字架の死への只ならぬ決意が見えます。イエスさまは単なる教師ではありません。イエスさまは、神の子であり王であり救い主です。また、この「先に立って」進まれるイエスさまには、弟子たちの身に決定的なダメージとしての苦難が襲わないよう矢面に立ち、弟子たちを庇う姿にも見えるのです。

 すると、イエスさまは、29節「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして」言われました。30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と。こうして、32節「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」ので、 33節「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが」案の定「なぜ、子ろばをほどくのか」と言ったのです。 本来なら、ここで一悶着、起こりそうなものですが、使いに出された者たちは、34節で透かさず「主がお入り用なのです」と、イエスさまに言われた通りに言いました。すると、不思議なことに持ち主たちは納得し、彼らが所有していた子ロバを二つ返事で明け渡したのです。 ここで何が起こったのかと言えば、それは、主の御言葉の権威に人が従った、ということが起こったのです。勿論、持ち主たちも最初は「なぜ」と言いましたが、それは無理もありません。使いに出された者たちは、言ってみれば何の断りもなく、勝手に人の物を持って行こうとしたからです。

 しかし、ここで大事なのは、それは、本当にあなたのものなのかということです。そもそもは、神のものなのではないか、と考えれば、天にあるものも地にあるものも、この歴史も、また、私たちの人生も、すべては神のものです。今週の聖書に親しむ会は、民数記の続きを読んでいきます。それは、奇しくも丁度ロバにまつわる物語です。ロバが自分の上に跨る預言者バラムに神の言葉を取り次ぐのです。まず、ロバが喋ることに人は驚きます。けれども、それは単に、神が御自分のものをご自分の思いのままに用いられただけなのです。創世記の始めでは、兄のカインに命を奪われた弟アベルの血が土の中から叫びました。その血もまた神のものです。神を呼んでいるのです。今日の物語の締め括りの40節もそうです。イエスさまは言われました。 40「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。石に意志があることに驚きますが、石もまた神のものです。それは、全く黙しているようでも、実際は、神こそが主だと認めているのです。私たちは「裸で母の胎を出た」のです。私たちが持っている能力から技術から、所有する、あらゆるすべての物事において言えること、それは、与えられたものだということです。だから「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」のです。

 そうして、使いの者たちは、35節「子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せ」しました。同様に、36節にも「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」とあります。これは、弟子たちと人々の、イエスさまへの敬意と献身の気持ちの表れです。はっきり言えば、彼らは、この時イエスさまを王としてエルサレムの都にお迎えしたのです。だから、この後37節で、イエスさまが「オリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美」したのです。38節「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と。つまり「神に選ばれた私たちの王に、神より祝福があるように」と歌ったのです。これは、詩編118篇26節の引用です。こうして御言葉は、また1つ実現したのです。ここで言う天とは、天と地の天であり、大空のことで、これは地上と同等の意味です。そして、いと高きところは、最も高い所、それが実際の天のことで、そこにこそ栄光を求めるのです。これは、クリスマスに天使の大群が賛美した歌「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と同じです。クリスマスは、天におられる神の子が、地上にお生まれになったことへの賛美でした。そして、この棕櫚の主日は、天におられる王が、地上の王になられたことへの賛美です。

 すると、この大歓声と讃美に対して水を差すように、39節「ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った」のです。そこで 、イエスさまは答えて言われました。40節「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。冒頭で、善光寺平・北信五岳という内陸盆地の話しをしました。そこの春は遅いけれども、4月になると数多くの花が一斉に開くさまが豪華そのものである、と。要するに、神に造られたすべてのものは、イエスさまが主であることを知っているのです。神が誰であり、何をしてくださり、どのように私たちを救ってくださるのかを知っているのです。それを知らないのは、自分が神のようになり、自分が主のようになっている人々です。しかし、そのような人々を横目に、命は私たちの想像を遥かに超えて沸き立っています。それは、荷を負うことが運命のロバの子も例外ではありません。家畜小屋で重荷を背負うだけの生涯を待っているのではないのです。イエスさまは、そのようなロバの子をも、主の御名を賛美するために誘ってくださるのです。イエスさまが真の神であり、真の王であり、真の救い主であることの証人として、主が、あなたを必要としておられるのです。私たちは、この子ろばのように、ただ、重荷を背負い苦悩や悲哀を耐え忍ぶだけが運命ではありません。十字架の主イエスさまによって示された、神の愛と平和を担ぐ祭司的な運命にあるのです。この十字架の主の愛と平和だけが、私たちを救い得る確かな神の言葉であり神の業なのです。子ろばが負うべき重荷、そして、私たちが負うべき重荷は、イエスさまが十字架の上で担ってくださっています。だから、私たちは、主の愛と平和によって満たされた、この命を、私たちを待ってくれていた、この春の中で、存分に輝かせたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:57| 日記