2023年04月08日

2023年4月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ガラテヤの信徒への手紙4章1節〜7節
説教:「天にましますわれらの父よ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖書:ルカによる福音書24章13節〜27節、ルツ記1章19節〜22節
説教:「現実から真実への道」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を捧げています。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:23| 日記

2023年4月2日主日礼拝説教「主がお入り用なのです」大坪信章牧師

ルカによる福音書19章28〜40節、申命記7章6〜8節
説教「主がお入り用なのです」大坪信章牧師

 本日は棕櫚の主日の日曜日、また、受難週が始まる日曜日です。そして、2月22日から始まった日曜日を除く長い40日という受難節が満ちようとしています。40日というのは、聖書の中で試練を表わす数字です。ノアの大洪水の40日40夜、イスラエルの民の荒れ野の40年、そして、イエスさまの40日間の荒れ野における誘惑などが、そうです。勿論、受難節の試練は、イエスさまの十字架の苦難です。けれども、私たちのベクトルが向かっていたのは、むしろ、自分自身の苦難であったことを思うのです。現実は、自分の身に起こる、また降りかかる苦しみや悲しみと闘っていたのです。それは、私たちが生身の人間であり、血も通っていれば涙も浮かんでくる人間だからです。実際、この受難節の期間に苦悶し、苦悩し、苦闘する人たちの怒りや涙を見た時、正直、言葉を失いかけました。自然に、あの旧約聖書をして最大の苦悩に喘ぎ、神に物申したヨブを思い出しました。「なぜ」と。最大にして最高の疑問。しかし、一体、神さまが何をしたと言うのでしょう。神さまは、すべてをご存知です。

 苦闘する人たちは、火のような試練を、ただ耐え忍びながら春を待ちました。そして、春は、決して彼らを忘れることも裏切ることもありませんでした。たとえ、私たちが春を信じられないようなことがあっても、春が私たちを忘れることはありません。この度、石山教会に赴任するに当たり、初めて北から南へと、長距離を車で走りました。お祈りを有り難うございました。途中、長野県でたまたま休憩した場所は、千曲川が流れ、5つの山に囲まれ、志賀高原も見渡せる善光寺平・北信五岳という所でした。そこは長野市街地を中心とする内陸盆地でした。案内板には「善光寺平の春は遅いけれども、4月になると数多くの花が一斉に開くさまは豪華そのものである」と書いてありました。春は、立ち込める霧のように、溢れ出る生命力とともに、必ず私たちを迎えてくれるのです。イエスさまも、送れることはありません。必ず、最善の日に再臨されます。きっと、そこで車を止めたのは、たまたまではなく、命の音や命の歌に誘われたからだと、あとで思い直しました。

 苦難と言っても、私たちは、単に苦難という言葉や文字を知っている人間ではないのです。苦難という言葉を、全身全霊で生き、その苦難を、身をもって知る人間です。決して抗うことのできない神の深い御計画、その救いの御計画の中を、ただ信仰によって生かされている人間です。今起こっていることのすべては、夢でも幻でもなく現実です。この現実を生き抜くために信仰が与えられています。しかし、その信仰は、現実ではなく、現実の中にあって、目には見えない事実、それは、真実を信じるために与えられています。春は、必ず立ち込める霧のように、溢れ出る生命力とともに私たちを迎えてくれるからです。同じように真実も、今は、おぼろげに見えていても、必ず沸き立ち、むしろ、現実を飲み込む程の超現実となるのです。その超現実である真実こそ、十字架の主イエス・キリストによって示された、神の愛と平和です。その愛と平和の力は真に強いのです。傷ついて疲れ果てた人々を癒し、包み込むには充分な慰めです。イエスさまは言われました。「あなたがたには世で苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節b)と。この十字架と復活の勝利は、ただ信じる人々と共にあります。

 前置きが長くなりましたが、今日は受難週の始まりである棕櫚の主日の出来事に聴いていきます。それは、群衆が子ロバに乗ったイエスさまを「ホサナ、ホサナ」と叫びながらエルサレムの都に迎え入れる出来事です。「ホサナ」それは、神を讃える歌で「どうか、救ってください」という祈りです。ただ、それは人間が思うような仕方での救いではありません。28節に「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とあります。この時に上って行かれたエルサレム、それがイエスさまにとって、人の子として向かわれた最後のエルサレムです。その時から「先に立って」進まれました。当時のラビと呼ばれる教師(宗教指導者や学者など)は、人々に囲まれた、輪の中で教えながら歩いていたイメージがあります。しかし、この時、真っ先に弟子たちの先頭に立たれたイエスさまに、十字架の死への只ならぬ決意が見えます。イエスさまは単なる教師ではありません。イエスさまは、神の子であり王であり救い主です。また、この「先に立って」進まれるイエスさまには、弟子たちの身に決定的なダメージとしての苦難が襲わないよう矢面に立ち、弟子たちを庇う姿にも見えるのです。

 すると、イエスさまは、29節「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして」言われました。30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。 31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と。こうして、32節「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」ので、 33節「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが」案の定「なぜ、子ろばをほどくのか」と言ったのです。 本来なら、ここで一悶着、起こりそうなものですが、使いに出された者たちは、34節で透かさず「主がお入り用なのです」と、イエスさまに言われた通りに言いました。すると、不思議なことに持ち主たちは納得し、彼らが所有していた子ロバを二つ返事で明け渡したのです。 ここで何が起こったのかと言えば、それは、主の御言葉の権威に人が従った、ということが起こったのです。勿論、持ち主たちも最初は「なぜ」と言いましたが、それは無理もありません。使いに出された者たちは、言ってみれば何の断りもなく、勝手に人の物を持って行こうとしたからです。

 しかし、ここで大事なのは、それは、本当にあなたのものなのかということです。そもそもは、神のものなのではないか、と考えれば、天にあるものも地にあるものも、この歴史も、また、私たちの人生も、すべては神のものです。今週の聖書に親しむ会は、民数記の続きを読んでいきます。それは、奇しくも丁度ロバにまつわる物語です。ロバが自分の上に跨る預言者バラムに神の言葉を取り次ぐのです。まず、ロバが喋ることに人は驚きます。けれども、それは単に、神が御自分のものをご自分の思いのままに用いられただけなのです。創世記の始めでは、兄のカインに命を奪われた弟アベルの血が土の中から叫びました。その血もまた神のものです。神を呼んでいるのです。今日の物語の締め括りの40節もそうです。イエスさまは言われました。 40「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。石に意志があることに驚きますが、石もまた神のものです。それは、全く黙しているようでも、実際は、神こそが主だと認めているのです。私たちは「裸で母の胎を出た」のです。私たちが持っている能力から技術から、所有する、あらゆるすべての物事において言えること、それは、与えられたものだということです。だから「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返す」のです。

 そうして、使いの者たちは、35節「子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せ」しました。同様に、36節にも「イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」とあります。これは、弟子たちと人々の、イエスさまへの敬意と献身の気持ちの表れです。はっきり言えば、彼らは、この時イエスさまを王としてエルサレムの都にお迎えしたのです。だから、この後37節で、イエスさまが「オリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美」したのです。38節「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と。つまり「神に選ばれた私たちの王に、神より祝福があるように」と歌ったのです。これは、詩編118篇26節の引用です。こうして御言葉は、また1つ実現したのです。ここで言う天とは、天と地の天であり、大空のことで、これは地上と同等の意味です。そして、いと高きところは、最も高い所、それが実際の天のことで、そこにこそ栄光を求めるのです。これは、クリスマスに天使の大群が賛美した歌「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と同じです。クリスマスは、天におられる神の子が、地上にお生まれになったことへの賛美でした。そして、この棕櫚の主日は、天におられる王が、地上の王になられたことへの賛美です。

 すると、この大歓声と讃美に対して水を差すように、39節「ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った」のです。そこで 、イエスさまは答えて言われました。40節「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。冒頭で、善光寺平・北信五岳という内陸盆地の話しをしました。そこの春は遅いけれども、4月になると数多くの花が一斉に開くさまが豪華そのものである、と。要するに、神に造られたすべてのものは、イエスさまが主であることを知っているのです。神が誰であり、何をしてくださり、どのように私たちを救ってくださるのかを知っているのです。それを知らないのは、自分が神のようになり、自分が主のようになっている人々です。しかし、そのような人々を横目に、命は私たちの想像を遥かに超えて沸き立っています。それは、荷を負うことが運命のロバの子も例外ではありません。家畜小屋で重荷を背負うだけの生涯を待っているのではないのです。イエスさまは、そのようなロバの子をも、主の御名を賛美するために誘ってくださるのです。イエスさまが真の神であり、真の王であり、真の救い主であることの証人として、主が、あなたを必要としておられるのです。私たちは、この子ろばのように、ただ、重荷を背負い苦悩や悲哀を耐え忍ぶだけが運命ではありません。十字架の主イエスさまによって示された、神の愛と平和を担ぐ祭司的な運命にあるのです。この十字架の主の愛と平和だけが、私たちを救い得る確かな神の言葉であり神の業なのです。子ろばが負うべき重荷、そして、私たちが負うべき重荷は、イエスさまが十字架の上で担ってくださっています。だから、私たちは、主の愛と平和によって満たされた、この命を、私たちを待ってくれていた、この春の中で、存分に輝かせたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:57| 日記