2023年04月16日

2023年4月16日主日礼拝説教「現実から真実への道」大坪信章牧師

ルカによる福音書24章13節〜27節、ルツ記1章19節〜22節 
説教「現実から真実への道」 大坪信章牧師

復活節第2主日を迎えました。この復活節は第7主日まで続きます。その間、私たちはイエスさまの復活の真実に触れ、その真実を知ることの喜びを存分に味わいたいと思います。ただ、イエスさまが復活されたイースターの日曜日は、多くの人々が空しい現実を生きていました。何事も無かったかのように元の生活に戻っていた群衆は、罪のない方を十字架に架けて殺した現実を生きていました。弟子たちは、イエスさまが十字架に架かって死なれた、イエスさま不在の現実を生きていました。また、イエスさまのご遺体を新しい墓に納めたアリマタヤのヨセフとニコデモは、墓の中と同じ暗く陰鬱な現実を生きていました。そして、婦人たちは、日曜日の朝、イエスさまの墓の前で、墓が空っぽという現実の中で、自らの心も空っぽになって途方に暮れました。なぜなら、墓の入り口を塞いでいた大きな円い円型の石が、既に墓の脇に転がしてあったからです。その墓は岩を掘って繰り抜いた横穴でした。

実は、空しいという漢字、空(くう)の成り立ちは、横穴を貫いている空間のことを言うのです。その空間が大きくなったものが、見上げれば、そこにある空(くう)、空(そら)です。確かに、空(そら)は何も無い空間です。だから、イエスさまの墓(横穴)の中が空っぽだったというのは、全くもって空しかったと言えます。正確には、墓の中にイエスさまを包んでいた亜麻布が置いてありましたが、イエスさまを直接示す痕跡は何一つ無かった。それほど空しいことは無かったのです。また、空しいというのは空虚の虚で言い表すこともできます。そうすると、それは虚(うつ)ろという読み方になるのです。それは今日、朗読された旧約のルツ記に出て来るモアブ人ルツの義母、ナオミの状態と同じでした。ナオミは、ベツレヘムから移り住んだ先のモアブの地で、夫と二人の息子を失いました。そして、未亡人となった息子の嫁、ルツと共にベツレヘムに帰って来たのです。その時、自分の境遇を知って同情する人々に、ナオミは言いました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしを酷い目に遭わせたのです。出ていくときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです」(ルツ記1章20節、21節)と。おそらく、イエスさまの墓の前の婦人たちも、ナオミのように、虚ろな状態であったことは想像に難くありません。

しかし、そこに一筋の光が差し込みました。それは「輝く衣を着た二人の人」である主の天使たちが現われたからです。けれども、その一筋の光というのは、主の天使たちの輝きのことではなく、主の天使たちが告げた主の御言葉のことです。主の御言葉は、何度聞いても嬉しくなります。主の天使たちは言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカによる福音書24章5節〜7節)と。こうして、主の御言葉を思い出した婦人たちは、この時、空しい現実から解放されたのです。けれども弟子たちは、その婦人たちの証言を聞いても、未だ空しい現実の中を生きていました。

「ちょうどこの日」13節を見ると「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合って」いたのです。それは、復活の出来事が起こった朝から、10時間近くが経とうとしていた日曜日の夕方でした。その時間帯は、ユダヤでは、次の日へ移り変わる日付の変わり目で、あと少しで日曜日が終わろうとしていました。その復活の日の夕べ、2人の弟子がエルサレムから、およそ11キロ離れたエマオという村へ歩いていたのです。この物語は『エマオへの途上』と呼ばれるルカ福音書特有の物語です。この物語はマルコ福音書にもありますが、マルコ福音書のほうは、物語る程の記録ではありません。このエマオへの途上を歩いていた2人の弟子は、イエスさま不在のエルサレムに見切りを付け、自分の故郷に帰るという現実を生きていました。それは、ある意味、絶望の道を行く現実でした。また、その道は、夕方、日が沈む時間帯とも重なって、より絶望感が増していったと思われます。何よりも、2人の弟子が話し合い論じ合っていた、その内容が絶望的なものでした。なぜなら、2人の弟子は「この一切の出来事」であるイエスさまの十字架の死と空の墓について論じ合っていたからです。幾ら頭をひねって考えても埒(らち)が明かないのです。どうにも説明が付かない。その現実を、2人の弟子が重い足取りで「話し合い論じ合っていると」15節「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」のです。しかし、16節「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」のです。

物語としては、ここでイエスさまに気付いた2人の弟子が、大喜びでエルサレムに戻っても良かったのです。そして「イエスさまは生きておられる」と仲間の弟子たちに証言しても良かったのですが、そのようにはなりませんでした。それは、2人の弟子の認識不足とか理解不足とか、そういう個人的な問題ではありません。2人の弟子の目は「遮られて」いたからです。それは、神さまが、敢えて、2人の弟子に近づいてきた人物が、イエスさまだと気付かないように計らわれたのです。なぜ、そうされたのでしょうか。それは、引き続き、この物語を読み進めていけば分かることです。この物語の後半は、来週の日曜日の礼拝で読んでいきます。とは言え、今日のエマオへの途上の物語の前半は、前半だけでも完結しますし、むしろ、完結させる必要があります。なぜなら、昔、聞いたことがあるのです。聖書を物語る時、決して、結論を来週、再来週に取っておくような話し方をしてはならない、と。つまり、福音は今日、今、語るべきであり、確実に語ることができるものだということです。もし、福音を勿体ぶって先延ばしにした、まさに、その週に、自分も含め、会衆の中の誰かが命を落とすようなことがあったなら、一体どうするのか、と。命を落としたその人は、福音に触れることができなかった、ということになるのです。本当にそうだと思わされました。「大事なことは来週お話しします」「救いの本質については、また来週」という礼拝説教など、あってはならないのです。今日のエマオへの途上の物語の前半も、ちゃんと福音が証言されていますので、ご安心ください。

すると、2人の弟子と一緒に歩き始められたイエスさまは、2人の弟子に、17節「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われたのです。イエスさまは「一体何が、そんなに問題なのですか」と言っておられるかのようです。というのは、2人の弟子は、顔を曇らせながら悲しい表情でイエスさまの死と空の墓について話し合っていた、或いは、論じ合っていたからです。物事や出来事を問題として論じ合う時、人が働かせるのは頭です。だから、2人の弟子が腕を組み、眉をひそめ、考えあぐね、ああだ、こうだと言って歩く姿が目に浮かびます。2人の弟子は、頭をひねりながら、十字架の死と空の墓という問題に果敢に挑戦したのです。しかし、問題化することで、人は、その問題よりも、その問題の分析のほうを重要視するようになります。つまり、その問題そのものは、どうでもよくなってしまうのです。だから、そもそもイエスさまの十字架の死と空の墓は、問題にすべきことではないのです。あのイエスさまの母マリアも受胎告知の時「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカによる福音書1章34節)と言いました。それは、処女降誕を問題化して問うたのです。その時、天使ガブリエルは、ただ一言「神に出来ないことは何一つない」(同37節)と言って、処女降誕について問題化させませんでした。神の働かれる出来事は、幾ら頭をひねって考え、分析した上で答えを出そうとしても出ないのです。それは、人知では到底はかり知ることのできないことだからです。

そうしてイエスさまが、2人の弟子に話しかけた時「二人は暗い顔をして立ち止まった」のです。そして、18節「その一人のクレオパという人」が呆れたように答えたのです。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と。イエスさまが、19節「どんなことですか」と言われると、2人は言いました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」と。2人の弟子は、まず、3日前に起こったイエスさまの十字架の死の出来事について話しました。そして、続けて22節以下では、空の墓の出来事についても話し始めたのです。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」と。2人の弟子が論じ合っていたのは、イエスさまの死という喪失と、イエスさまの遺体の喪失という二重の死の空しさについてでした。それが、エマオへの途上を歩いていた2人の弟子の絶望の根本的な問題となっていました。

しかし、2人の弟子は、主の天使たちが告げた「イエスは生きておられる」という不思議と驚きの言葉が引っ掛かり、問題解決のために論じ合っていたのです。その時、イエスさまが近づいて、一緒に、その絶望の道を歩かれました。ただ、2人の弟子の目は遮られていたので、それがイエスさまだとは気づきませんでした。それは、神さまが、そう為さったのですが、2人の弟子は論じ合っていたので、無理もないと言えば無いのです。真実というのは、頭で幾ら考えても見えないからです。例えば、愛について幾ら頭で考え議論しても、通り一辺の答えしか導き出せません。要するに、愛について頭で幾ら考えても、その目は遮られているので、真実の愛を見通すことはできないのです。それでは、どうすれば真実を見通すことが出来るのでしょうか。イエスさまは言われました。25節「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と。イエスさまが仰ったのは、十字架の死と空の墓について、問題化したり、論じ合ったりすることではありませんでした。そうではなく、心を動かすこと、心を働かせることだったのです。2人の弟子が「物分かりが悪く」なっていたのは、個人的な要因や年齢のせいなどではありません。「心が鈍く」なっていたのです。皆さんは、心の目という言葉を聞いたことがあると思います。でも、頭の目という言葉は聞いたことがないと思うのです。頭の目という言葉を調べると、そのことについて書いてある著書に行き着きます。でも、その解説を見ると「ちょっと知的な心の目」と書いてあり、結局は心の目か、と思いました。

実際、心の目で生きている人はいます。心の目で聖書の御言葉やお話しを聴いている人がいます。その人の目は、どこかしら、鋭いです。目を瞑っていても何となく分かります。話す側の人間からすれば、良い意味で、自分の心をごっそりと持って行かれてしまう程の力を感じるからです。要するに、そういう人は、自分の主観で話しを聴こうとしたり、物事を見ようとしたりしていないからです。その人は、相手の側に立ち、相手の気持ちになって話しを聴き、また、物事を見ようとしているのです。ですから、心の目を動かし、働かせる人は、人が語る言葉を表面的に捉えたりはしません。そうではなく、その言葉の内にある真実(本物)を見抜くのです。また、話す側の人間からすれば、そのような心の目で見ようとする人に対しては、もちろん嘘など言えません。ましてや、適当なことさえも言えません。それは見透かされるからです。だから、本当のこと、それは、真実しか言えないのです。2人の弟子は「心が鈍く」なっていました。だから「物分かりが悪く」「預言者たちの言ったことすべてを信じられ」なかったのです。つまり、2人の弟子は、預言者の気持ちになって、それは、預言者に言葉を預けた神さまの気持ちになって、御言葉に聴くこと、御言葉を信じることができなかったのです。

結局2人の弟子は、頭からも心からも信じていなかったのです。既に自分が描いていた救いの形(像)、救いのイメージ(想像)があったのです。しかし、そのイメージ(想像)は、ややもすると偶像に成り代わるのです。そうして、自分のイメージ(想像)によって、自分を縛ってしまうのです。だから、心が鈍くなって、自由に心を動かしたり、働かせたりすることができなくなるのです。その時、その人は、いわゆる囚われ人になっています。想像力というのは、頭に思い浮かべることができるという点では良いものですが、ただ、それだけのものでもあります。そして、目に見える者に囚われているわけではなくても、そのイメージという像(偶像)に囚われることもあるのです。しかし、というか、だから私たちには、もっと確かなもの、もっと確実なものが与えられているのです。それが御言葉なのです。御言葉は、イメージや想像のように、私たちが思い浮かべるようなことではありません。御言葉は神の思いであり、神の心であり、必ず実現するために抱かれた神の決心です。神の御心です。その御言葉は、ヨハネによる福音書1章1節にあるように、初めにあったものであり、実に神ご自身、神なのです。だから、私たちも、その御言葉を、頭ではなく心で聞かなければならないのです。それこそ、自分の気持ちを静め、神の気持ちになって聞く必要があるのです。私たちは、罪を始めとする、本当に多くのことに囚われているので、解放されなければならないのです。救いというのは解放のことです。だから、御言葉に聴く時、私たちは自分を縛る自分のイメージ(かたち・像)からも解放され、神の御心という、現実よりも、より確かで確実な真実の道を歩み始めるのです。神は、私たちのイメージによって作り出した形や像ではありません。昔も今もこれからも生きておられる方です。その方の御言葉を、その方の気持ちになって聞く時、私たちの心の目は開かれたのです。そこでイエスさまは、2人の弟子に、27節「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。

この物語の中で、2人の弟子の目は「遮られていて」近づき、語り合っている人物が「イエスだとは分からなかった」とありました。冒頭で、それは神さまが敢えて、そうなさったと言いました。なぜ、そうされたのか、それは、引き続き、この物語を読み進めていけば分かること、だとも言いました。それは、このあとの時点でも、そうですが、この時点でも2人の弟子の目が遮られていた理由は分かります。それは、イエスさまが仰っている通りです。イエスさまは、聖書全体を、これは当時の旧約聖書全体に亘り、それは、律法と、特に預言者の言葉を引用して説明されたのです。それでは、何を説明されたのか。それは「御自分について書かれていることを説明された」のです。つまり、イエスさまは「わたしは御言葉です」と仰っておられるのも同然なのです。だから「イエスさまは、どこにおられますか」と言うのであれば、それは「御言葉の内におられます」と言えるのです。だから、神さまは、2人の弟子の目にイエスさまを認識させなかったのです。イエスさまは御言葉だからです。イエスさまは、必ず実現する、仰ったことは必ず成し遂げる、力ある神の御言葉だからです。ここに、私たちの真実があります。私たちを愛する神の愛の真実、私たちの罪を赦す神の赦しの真実、私たちを救う神の救いの真実があります。この後半の物語の中で、2人の弟子は、そのことがはっきりと分かります。その時、この物語に突如現れた人物が、イエスさまだったということが目に見えましたが、一瞬で見えなくなりました。見えることは、自分の内に自分のイメージを見ることも含め、その人にとっての偶像になり兼ねません。それは、再び囚われの身になるということでもあります。だから、見えない、そこに神の自由があり、また、見ないで信じる信仰に、私たちの自由があるのです。イエスさまは御言葉の内におられます。イエスさまは、御言葉の内にある真実であり、約束であり、今も生きて私たちに近づかれ、私たちと共におられます。どんな現実を生きていても、十字架の愛と復活の命の御言葉が私たちを救い、この上ない喜びに溢れさせてくださるのです。真実への道は、今日も、御言葉を信じる私たちの前に開かれています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:56| 日記