2023年04月23日

2023年4月23日主日礼拝説教「生きる力の源」大坪信章牧師

ルカによる福音書24章28〜35節、イザヤ書40章6節〜11節
説教「生きる力の源」大坪信章牧師

 イエスさまが復活された日の夕べ、2人の弟子が、暗い顔をしながらエルサレムからエマオの村へ歩いていました。この、通称エマオの途上の物語の前半を、私たちは先週の礼拝で読みました。今日は、その後半の物語です。2人の弟子は、表面的に見れば、エルサレムの都から故郷のエマオへ帰っていくのです。ただ、そこには全く喜びの感情がありませんでした。2人の弟子の心は、救い主と信じたイエスさまを失った、その悲しみと絶望に支配されていたからです。2人の弟子は、道すがら、イエスさまの十字架の死と空の墓について話し合い論じ合っていました。すると、そこへ復活の主、イエスさまが近づいて来られたのです。けれども、2人の弟子の目は遮られており、それがイエスさまだということが分かりませんでした。イエスさまは、絶望に浸っていた2人の弟子に言われました。25〜27節「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。

 当時の聖書は、旧約の書簡のことを指しているので、イエスさまは、旧約を全体に亘って説明されたということになります。それは「御自分について書かれていること」でした。ただ、旧約は、イエスさまがお生まれになる前の時代、紀元前の書物です。だから、普通に考えて、旧約には、新約の、中でも福音書のように、イエスさまのことが書かれているというのではないことぐらいは分かります。けれども、復活のイエスさまは、旧約の書簡に書かれているところの「御自分について」説明されたのです。旧約は、大きく分けると律法と預言者の書で構成されています。更に細かく分ければ、歴史書や詩歌書なども含まれる全39巻で纏められています。そして、新約27巻を併せた66巻のすべての書簡の中には、イエスさまのことが書かれているのです。旧約39巻では、預言という言葉、すなわち、後の日に実現する神の約束の言葉として書かれています。それは、本当にそうなのです。これまで、石山教会に赴任する前に2つの教会で牧師として仕えさせていただきました。礼拝では、おもに新約を読みました。そして、週の半ばの聖書研究祈祷会では、おもに旧約を読みました。旧約を読むと、必ず新約との深い結び付きに気付かされるのです。最初の赴任地では、旧約の学びの後に、必ず新約の御言葉を引用して話しを終えたものです。また、前任地では、旧約の御言葉を読んでいるのに、何故か、その御言葉の内に生きておられるイエスさまと出会い、その福音である良い知らせの喜びを伝えずにはいられなくなったのです。笑いが込み上げてくるのです。それは、テレビを見て笑うような笑いではありません。心の深い所から、じわじわと湧いてくるような笑いです。テレビの笑いは、その場で消えてしまう霧のような笑いです。でも、御言葉が与えてくれる笑いは、心の奥底からの笑いなので、内に秘めた芯のある笑いと言ったら良いのでしょうか。それは、自分の命に直結し、また、健全な魂を養う笑いで、不敵な笑みとでも言えば良いのでしょうか。それは、サタンという敵にも打ち勝つ笑いです。そういう笑いをずっと笑っていたい。そのために、エンドレスで御言葉を語り続けていたいと思ったことは何度もあります。この驚きと喜びに興奮している状態は、聖書研究祈祷会の参加者が証人です。

 また、それは、詩編も言っている通りなのです。「あなたの仰せを味わえば、わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう」(119篇103節)と。それは福音の良い知らせの味なのです。要するに、旧約の御言葉によってイエスさまとの出会いを果たしている、そのことが嬉しくなってくるのです。そういう感覚で聖書を読む喜びに至ったのには、ある書物との出会いもありました。それは、淀橋教会の初代牧師が訳した書物「66巻のキリスト」です。いわゆるすべての書簡は、キリストが主題となっているという内容の書物です。訳者は言っています。「創世記の始めから黙示録の終わりまで、聖書を一貫するものはキリストである」と。この視点は、宗教改革者たちの視点でもありました。宗教改革者の1人は言っています。「われわれは、聖書を読む時、その中にキリストを見出そうという意図を持って読まなければならない」と。そして、実にイエスさま御自身もヨハネ福音書の中で、そのことについて言っておられるのです。5章39節以下「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と。だから、聖書を、この世の歴史の書物の1つとして読んだとしても、身に着くのは知識ぐらいなのです。そこには喜びがあるわけでもなく、心に何か熱いものを感じるわけでもないのです。ましてや人生を変革させるほどのものを得ることもありません。しかし、イエスさまについて書かれていることを説明するようにして読む時、嬉しくなってくるというか、自然に笑いが込み上げてくるというのか、生きる力が湧いてくるのです。ですから、聖書は是非、分からなくても創世記から通読する(通して読む)、或いは、創世記とマタイ福音書から、それぞれ順に通読する(通して読む)ことをお勧めします。

 こうして、28節、2人の弟子であるクレオパともう1人の弟子、そして、イエスさま「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」のです。そこで、2人の弟子は、イエスさまに言いました。29節「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と。そうして、2人の弟子が「無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」のです。ここで不思議に思うのは、どうしてイエスさまは「なおも先へ行こうと」されたのだろうかということです。正確には、普通に先へ行こうとされたのではなく、そういう様子、そぶりを2人の弟子に見せられたのです。それは、まるで2人の弟子に「わたしを、このまま先に行かせるのか」と言っておられるようにも聞こえます。この場面から、黙示録の御言葉を思い出しました。3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」私たち、ここにいる人々は、求める者です。だから、ここに居るのですが、求める人々は、日曜日になると教会の門(扉)を叩いて入ってくるようなイメージで来ます。実際、鍵は開いていますし、扉も開いているので、ガンガン叩く必要はありません。そういう意味で、教会に入るのは簡単です。そして、礼拝堂では聖書の御言葉を聞き、讃美歌を歌い、祈りや献金を捧げます。でも、それで満足しているクリスチャンや人々の、何と多いことでしょうか。そういう状態を続けていては、つまり、開いている教会の扉を叩いても、暖簾に腕押しという感じは否めないのです。現に、教会に来ていても、信仰がマンネリ化してしまう人々もいるわけです。また、教会には来たけれども、それ以上、信仰に踏み込めずに立ち止まる人々もいるわけです。それは何故なのか、と考えれば、それは、その人自身の心の扉が開いていないからです。教会の扉を開けて入って来ても、自分の心の扉が固く閉ざされていれば、その人の心が満ち足りることはないのです。心から救いを喜べないのです。私たちは、教会に扉を叩いて入るイメージで来ますが、本当は、そうではなく、イエスさまが私たちの心の扉を叩いておられるのです。そのイエスさまの声を聞いて、御言葉を聞いて、私たちが心の扉を開けるなら、イエスさまは私たちと共に食事をされ、私たちもまた、イエスさまと共に食事をすることになるのです。

 イエスさまは、道すがら、2人の弟子に向かって「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」ました。それは、イエスさまが2人の弟子に、聖書の御言葉を、よく分かるように解き明かされたのです。それを他の言い方で言うのであれば、イエスさまが、2人の弟子の心の扉をトントントンと叩かれたのです。ただ、この世は有限です。時間は限られています。あっという間に時間は過ぎて夕方になり、陽が沈みかけたので、2人の弟子は目的地のエマオの村の手前で立ち止まりました。しかし、イエスさまは「なおも先へ行こうと」される様子でした。その様子から窺えるのは、先程言ったように、イエスさまは「わたしを、このまま先に行かせるのか」というお気持ちだったのではないでしょうか。つまり「わたしは、あなたの心の扉を叩いているのに、あなたは、その心の扉を開けもせず、このまま、わたしを去らせるのか」と。或いは「まだ、本当の意味で、わたしとあなたは出会っていない。それなのに、あなたは何のリアクションも返さず、この出会いを終わらせるのですか」と。まるで、そう言っておられるかのように聞こえるのです。しかし、2人の弟子は、それは、後で分かることですが、既にこの時、心に何かを感じ始めていたのでしょう。この人の話しをもっと聞きたいと思ったのでしょう。2人の弟子は、イエスさまを無理に引き止めました。そこで、イエスさまは、2人の弟子と「共に泊まるため家に入られた」のです。イエスさまと2人の弟子の、このやり取りを歌った讃美歌があります。それは、讃美歌21で言えば218番です。作者は、今際の際で、この歌詞を書いたと言われています。「日暮れて、闇は迫り、我が行く手、なお遠し、助けなき身の頼る、主よ、共に宿りませ。」私たちは、イエスさまという存在なしには、心にぽっかりと大きな穴が空いている者なのです。ましてや、日が暮れていくような人生の晩年を、そのような有り様で、どうやって生きていくと言うのでしょうか。石山教会の2022年度の標語は『希望に心を向ける教会生活を送ろう』です。その希望とは、まさに絶望のエマオの途上に現れたイエスさま、その人なのです。私たちの心の中に空いた、その大きな穴は、この世のいかなる励ましや慰めの言葉によっても塞ぐことはできません。この心の中の穴を塞ぐことができるのは、十字架の死を死に、復活の命を生きておられるイエスさまだけなのです。私たちに罪の赦しを与え、永遠の命を与えてくださる、いえ、永遠の命そのものであるイエスさまだけなのです。2人の弟子は、エマオへの道すがら、その罪の赦しと永遠の命の言葉を聞いていたのです。今日の礼拝後は教会総会です。教会標語は「命の御言葉に聴き従う教会生活」です。聖句は詩編119篇105節「御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」です。私たちの主イエス・キリストを証しする御言葉は、私たちの希望の光です。

 こうして、イエスさまは、2人の弟子と共に泊まるために家に入られました。そして、3人が、30節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」のです。それは、突然の出来事でした。その家の主人でもないイエスさまが、まるで、主人であるかのようにパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて2人の弟子にお渡しになったのです。それは、突然の出来事でありながらも、2人の弟子にとっては特別な出来事になりました。なぜなら、それは、最後の晩餐の席上で、イエスさまが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えた」(ルカによる福音書22章19節)あの出来事と同じだったからです。けれども、最後の晩餐の出来事は、あの限られた12人の弟子たちにとっての特別な出来事で、その席上には、クレオパと、もう1人の弟子はいませんでした。ですから、クレオパと、もう1人の弟子にとって、この出来事は、これから特別な出来事になることを意味しています。ただ、この出来事は、彼らにとって懐かしい思い出の出来事でもあったと言えるのは、5000人の給食(ルカによる福音書9章)の物語があるからです。その中でイエスさまは「5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。そこにクレオパと、もう1人の弟子がいたのかどうかは分かりません。いずれにしても、食事の席で、その人がパンを裂いた時、31節「二人の目が開け」その人がイエスさまだと分かったことは確かです。しかし、分かったと同時に、イエスさまの「その姿は見えなくなった」こともまた、確かです。普通は、見えたら見えたで、そのままのほうが分かり易いのです。目が遮られて見えなかった対象が見えたのですから、それで十分だと思います。それなのに、聖書は、今度は全く見えなくなったと言うのです。対象として認識すらできなくなったと言うのです。まるで、細い路地、細い路地に入っていくようで、理解し難い、理解し難い方へ話しが進んでいくようにも思えます。けれども、だから本当だと実感できるのです。この場面では、イエスさまの山上の説教の言葉を思い出します。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音書7章13、14節)とイエスさまは言われました。「命に通じる門」「その道」「それを見いだす者は少ない」とは、信じる道、信仰によって歩む道を見いだす者は少ないのです。

 しかし、目が開かれた2人の弟子は、32節「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。2人の弟子は、もう議論したりはしません。体験に優るものはないからです。イエスさまは、弟子たちの前でパンを裂き、また、2人の弟子の心に語りかけてくださいました。それは今、教会の重要な聖餐の恵みと御言葉の恵みとして息づいています。いずれもイエス・キリストの恵みを証ししています。ここに、私たちの生きる力の源があります。今、私たちもエマオの途上の2人の弟子のように、聖書全体に亘ってイエスさまのことを聞いています。つまり、十字架と復活について、それは、罪の赦しと永遠の命についての解き明かしを聞いています。2人の弟子は、その御言葉を聞いていた時「心は燃えていた」ことを思い出しました。2人の弟子の心に、魂に、火が点いたのです。私たちが心開くために、御言葉は今日も私たちの心に迫っています。心の扉を開ける力は、結局、自分にはないのかもしれません。しかし、御言葉は、私たちの心に注がれる聖霊の油なのです。その喜びと感謝に溢れる私たちは、心の扉を開けずにはいられなくなるのです。そうして、心開かれた2人の弟子は、33節「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」いきました。すると「十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」のです。そこで、35節「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」のです。この2人の弟子の人生は180度変わりました。イエスさまが、弟子たちに残してくださったもの、それがパン裂きの出来事と御言葉です。そして、この御言葉に聴いて心が熱くなる体験なのです。イエスさまは、今日も生きておられます。だから、私たちもイエスさまの復活の証人として生きるのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:11| 日記