2023年05月28日

2023年5月28日 主日礼拝説教「聖霊と火の洗礼」大坪信章牧師

ルカによる福音書3章15節〜20節、ヨエル書3章1節〜5節
説教「聖霊と火の洗礼」大坪信章牧師

 イエスさまの復活・イースターをお祝いしたのは遡ること4月9日でした。その復活の日から数えて、今日は丁度50日目となりました。だから、今日はギリシア語で第50番目を意味するペンテコステの日としてお祝いをしています。その間40日目の5月18日は、イエスさまが昇天された日として覚えました。イエスさまは、その昇天を前に「父の約束されたもの」である聖霊を待つようにと、弟子たちに言っておられました。その聖霊が、昇天後10日目の日曜日、それは、復活後50日目の今日、弟子たちの上に降ったのです。だから今日は、50番目の日に聖霊が降った、ということでペンテコステ・聖霊降臨日なのです。この日をもって復活節は終わり、この日から聖霊降臨節に入ります。そして、今日がその第1主日となります。更に、弟子たちの上に聖霊が降ったことで、その集団を世界で初めて教会と言いました。そのように、この日は、信じる人々の群れである教会が誕生した日でもあるので、教会の誕生日としてもお祝いします。この聖霊降臨の教会誕生物語は、使徒言行録の第2章に記されています。ただ、今日、私たちが礼拝で聞くのは、ルカによる福音書、第3章の物語です。けれども、この第3章の後半の物語は、聖霊降臨の日に相応しく、聖霊についての言及が為されています。それが洗礼者ヨハネの口を通して語られた、16節の「聖霊と火の洗礼」という御言葉です。

 正直、この「聖霊と火の洗礼」という御言葉を聞いただけで心が熱くなってくるのです。皆さんは、いかがでしょうか?「燃える火という表現があるから熱いのだろう」と思われるかもしれませんが、熱いのは、むしろ「聖霊」の「洗礼」という言葉のほうです。それは、その言葉の意味を知っているからです。実に「聖霊」は「火」よりも、もっと熱いのです。もし、その言葉の意味を知らなかったら、全く感知せず、心が熱くなることも無かったのです。特に若い頃というのは、よくありがちな間違いをしてしまいやすいものです。というのは、ただ何となく心が熱くなるという体験のことです。けれども、それは、体験としては、決して十分ではありません。それは、単に自分の感情や感覚の動きに帰するという場合が大概だからです。そして、そういう場合は、必ず、熱が冷めて我に返る時がやって来るのです。そして「どうして自分は、こんなにも熱くなっていたのだろう」と、それが自分でも分からなかったりするのです。だから、そういう記憶を、日々、人生に積み重ねても、それは、自分の今後や将来のためにはならないのです。また、それは、わたしたちの信仰を固く守り続ける生活の“助け”にもなりません。と言うより、それは、返って信仰生活を混乱させ、掻き回すものになります。なぜなら、感情や感覚が人を生かし支えているのではないからです。私たちを生かし支えているのは言葉です。それは、紛れもない事実です。そして、聖霊は、神の言葉(御言葉)です。この御言葉が私たちの心を熱くするのです。そして、その御言葉を、しっかりと保ち続けることで、私たちの今後や将来、また、私たちの信仰は、確かに守り導かれていくのです。だから、聖霊は「助け主」とも呼ばれるのです。ただ、新共同訳聖書では「弁護者」と訳されるので、あまりピンと来ないかもしれません。これは、ヨハネによる福音書、第14章16節や26節に書いてあります。しかし、この「弁護者」口語訳で「助け主」の聖霊こそが、私たちの信仰を固く守り続ける生活の、それこそ“助け”となるのです。因みに、この聖霊は、神が「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」助け主です。それでは、どのように助けてくださるのかと言えば、それは、御言葉を語りかけることによって、御言葉を思い出させることによって、御言葉に固く立たせることによって、私たちを助けるのです。

 さて、今日は、洗礼者ヨハネ出現の後半の物語に聞いていきます。先週は、洗礼者ヨハネが出現した後「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えた、その前半の物語に耳を傾けました。しかし、私たちは、その「悔い改めの洗礼」が、私たちに確かな救いを提供するものではなかったと知りました。つまり「悔い改めの洗礼」とは、人を神に立ち帰らせ、自分の罪を自覚させ、自分の罪を認めさせ、その生き方を改善させる、ということまでだったからです。そのことを、洗礼者ヨハネは、自分の出現を既に予告していた預言者イザヤの書の第40章の御言葉を引用して言いました。4節5節「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり」と。そして、このことは、イザヤ以外の預言者、それは、洗礼者ヨハネの前の預言者マラキも言っています。預言者イザヤ同様、洗礼者ヨハネの出現を既に予告する形で、マラキ書3章24節「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」と。このように、父が子を思い、子が父を思うというのは普通のことです。それを預言者イザヤが言った言葉で言い替えるなら「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」或いは「曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」ということです。それは、人々が間違った誤った生活から、普通の生活へと改善されるという比喩なのです。だから、ヨハネが群衆に改善を呼びかけ、群衆が、その声に応えて生活を改善しても、それが、群衆に救いに与えることにはならなかったのです。普通の状態に戻っただけだからです。つまり、先週も言いましたが、これが律法の限界なのです。人は、律法によっては、決して救われることはない、ということなのです。

 だから預言者イザヤは、イザヤ書40章の中で「曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり」と言った後、つまり、普通の状態に戻った、その上で「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言ったのです。救いというのは、自分が何かをしたことで与えられるものではなく、自分に向かってやってくるものなのです。その私たちに向かってやって来る神の救いこそ、私たちの主イエス・キリストなのです。そして、その方を仰ぎ見ること、それが信仰(信じて仰ぐ)なのです。要するに、洗礼者ヨハネが人々に罪を認めさせ、その間違いを改善させたのは、救いを与えたということではないのです。そうではなく、自分に向かってやって来る神の救いに対して準備をさせたのです。だから、洗礼者ヨハネは、救いを待ち望むようにと呼びかける「荒れ野で叫ぶ者の声」(4節)だったのです。しかし、15節を見ると「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」とあるのです。自分たちに悔い改めを、それは、改善を要求した洗礼者ヨハネを、人々はメシア(救い主・キリスト)だと思い始めていたというのです。そこでヨハネは、彼らの考えや思いを全く否定して、皆に向かって言ったのです。16節「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。ここで、洗礼者ヨハネは、自分が人々に授けた水の洗礼は「悔い改めの洗礼」であり、悔い改めの気持ちを形にしたに過ぎないと言っているのです。しかし、この形だけの洗礼を授けるヨハネの後から「わたしよりも優れた方」それは、権威ある方が来られる、と、ヨハネは言うのです。更にヨハネは、その権威ある方の「履物のひもを解く値打ちもない」とまで言っています。それは、その方の僕、召し使いとなる価値さえ、自分には無いと言っているのです。なぜなら、その方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」からです。つまり「その方は神の子・キリストであり、わたしは、ただの人間に過ぎない」と、ヨハネは言ったのです。

 このように言われると「水の洗礼」と「聖霊と火の洗礼」と、まるで「洗礼」が2つあるかのように聞こえます。しかし、洗礼は1つです。それは、パウロがエフェソの信徒への手紙、第4章5節6節で言っている通りです。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と。これは、来週の三位一体主日を覚える礼拝にも繋がっています。それは1つなのです。しかし、そういうことを知らないで洗礼を受けた人というのも一定数いるのではないかと思われます。それは、洗礼者ヨハネが授けた水の洗礼である「悔い改めの洗礼」を受けることで「私は救われた」と思っている人です。ただ、今、述べてきたように、それは、間違いを正した、或いは、間違いに気づいたというだけで、それ以上、つまり、救いが与えられたということではないのです。ここで1つ、実話に基づいた話しをします。最初の赴任地の教会で、教会員のご婦人が、御自分が洗礼を受けた時の証をしてくださったのです。それは、公の場でというより立ち話しのようにして聞きました。その婦人は言われました。「私は洗礼を受けたいので、牧師に『洗礼を受けたいです』と言ったつもりだったのです。でも、洗礼と聖霊の意味もよく分かっていなかったので、実際は『先生、聖霊を受けたいです』と言ってしまった」と。その短い証を聞いた時、証は長いとか短いではないなと思ったのもありますが、次のようにも思いました。「この思い違いは返って真理を語っているし、全く的を射た洗礼志願者としての願いだ」と。なぜなら、水の洗礼というのは「悔い改めの洗礼」つまり、イエス・キリストによって与えられる救いの準備だからです。そして、その準備をした上で「聖霊と火の洗礼」を受けることが、全き洗礼なのです。

 ただ、この2つの洗礼は、実際は1回の洗礼式の出来事の中で行われます。水の洗礼は目に見える出来事ですが、聖霊の洗礼は目には見えない出来事として行われます。他の言い方で言えば、外面的な洗礼と内面的な洗礼が行われています。そのどちらが大切であり、そのどちらに重きを置いて生きる必要があるかは火を見るより明らかです。そもそも、外面というのは、内面を守るものです。だから、内面、それは、目に見えないけれども、その「聖霊と火の洗礼」こそが大事なのです。そして、これら2つの洗礼は2つで1つです。それは、神が三位一体であるように、決して、その何れかが欠けるようなことがあってはならないのです。しかし、実際はどうでしょうか。外面を大事にしている人の何と多いことでしょう。それは、水の洗礼のほうに関心や重きが置かれているのです。確かに、外面には、内面を守るという良さもありますが、外面を大事にし過ぎるあまり、内面そのものの存在を決し去れば元も子もありません。奇しくも17節では、こう言われています。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と。洗礼者ヨハネは、イエスさまが、このことを為さるものとして言っています。「手にも箕を持って、脱穀場を隅々まできれいに」するというのは、もみ殻と麦を分けるということです。それは、もみ殻から麦を取り出して、麦ともみ殻をふるい分けるということです。これは、イエスさまがそうするというより、イエスさまを前にすれば、人は必ず、そのどちらかに分かれることになります。そうすれば、後は自然の成り行きです。麦という内面を集めて「倉に入れ」、殻という外面を「消えることのない火で焼き払われる」のです。こうして、18節「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」のです。

 私たちは、このヨハネが具体的に挙げた17節の勧めによって、人は、どのようにして聖められるのかが、よく分かるのです。それは、外面から内面を取り出して、内面を守り続けていくことによって、人は聖められていくということが分かるのです。それに対して、外面というのは、それほど重要ではなく、それは、脱皮の皮のように1つの働きを終えていくものです。そして、最後は、外面で、よく見えていたのに、逆に見えないものとなり、消えていくようなものなのです。しかし、そのことによって、結果、逆に今まで見えなかった内面を、一層、際立たせるものにするのです。ただ、ここで言われている麦ともみ殻は、本来1人の人間の内面や外面という話しではなく、もっと大きな括りである、神を信じる人間と、神を信じない人間の話しのことです。つまり、信じる者は1つ所に集められ、信じない者は、永遠に消えることのない火で焼き払われるのです。この「火」は、聖書の旧約で言うところのヒノムの谷のことです。そこは、エルサレムの城門の外にある、深くて狭い谷底のゴミ焼却場です。そこでは、ごみの処分のために、火が常に燃やされ続けて悪臭を放っている場所なのです。また、その谷は、処刑された罪人の遺体が埋められる場所でもあったのです。その場所は、ゲヘナとも呼ばれ、聖書では、あまり使用されない言葉で言うところの地獄を見るということなのです。その一例が19節に挙げられています。「ところで、領主(これはガリラヤの領主)ヘロデ(これはヘロデ大王の息子のアンティパス)は、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので」20節「ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」と。このヘロデは、神に立ち帰って悔い改めることをせず、過ちを上塗りしてしまったのです。悔い改めないということは、結局そういうことになってしまうのです。なぜなら、そういう道しか備えられていないからです。だから、預言者イザヤの40章の御言葉の通り、悔い改めて「主の道を整え」る必要があるのです。そして、その上で「神の救いを仰ぎ見る」こと、すなわち、洗礼者ヨハネの後から来られるイエスさまによって「聖霊と火の洗礼」を受ける必要があるのです。

 ところで、今日は、弟子たちの上に聖霊が降り、その弟子たちの群れをして教会と呼ばれるようになった教会の誕生日でもあります。教会というのは、ギリシア語でエクレシアと言いますが、それは、呼び集められた者の群れを意味します。それは、イエスさまを信じて歩み、イエスさまの御名によって集まり、聖書を中心に、礼拝、讃美、祈り、交わりをする人々の集合体のことです。そして、この事実と、イエスさまから「聖霊と火の洗礼」を受けるということは、完全に一致するのです。なぜなら、聖霊は、神の言葉(御言葉)のことだからです。要するに、イエスさまは「御言葉と火の洗礼」を授けてくださるのです。だから、聖霊降臨の日、弟子の上には神の言葉が降り、弟子たちは、聖霊に満たされて、霊が語らせるままに御言葉を語り始めたのです。そして、この場合の「火」というのは、悔い改めることをせず、神の訪れを信じない者に対して燃える「消えることのない火」を指しているのではありません。この聖霊と火の「火」が私たちに示しているのは、私たちを、ではなく、私たちの罪を焼き尽くす火のことなのです。そして、それは、私たちの罪を赦すということを意味しているのです。そして、この「火」よりも更に熱いのが「聖霊」すなわち、神の言葉(御言葉)なのです。なぜなら、この御言葉は、父であり子であり聖霊であるところの神の命と、その永遠の愛を世に証しするからです。ペトロの手紙1の4章8節には、次のような御言葉があります。「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」と。この愛の炎は、多くの罪のために燃える裁きの火、消えることのない火を覆うのです。そのことをイエスさまは、身を以て示されたのです。その愛は、私たちの罪を消し去るために、イエスさまが私たちの罪を背負い、十字架に架かって死んでくださることによって実現しました。この神の御言葉と、御言葉によって示されたキリストの愛によって、初めて私たちは罪赦され、救われたと言えるのです。この福音である良い知らせは、これからも御言葉によって明らかにされ、御言葉によって宣べ伝えられていきます。だから今、私たちが大切にしなければならないのは、悔い改めて「聖霊と火の洗礼」を受けることなのです。そして、御言葉の恵みに浸り続けることなのです。水の洗礼は、1回限りの出来事ですが、聖霊と火の洗礼は、これからもずっと、私たち信じる人々の上に注がれるのです。それは、私たちが日毎、聖書を中心にして礼拝を守り、御言葉によって、導かれ、養われていくということなのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:11| 日記

2023年6月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネによる福音書16章25節〜33節
説教:「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書3章21節〜38節、イザヤ書42章1節〜4節
説 教: 「神の心に適う者」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:05| 日記

2023年05月21日

2023年5月21日 主日礼拝説教「悔い改めの洗礼」大坪信章牧師

ルカによる福音書3章1節〜14節、ヨナ書3章1節〜10節
説教「悔い改めの洗礼」大坪信章牧師
 
 復活節第7主日を迎えました。今、季節は春から雨季に、そして、新緑の季節へ移り変わろうとしています。また、今、教会の暦のほうでも、復活の季節が残すところ1週間となり、来週から始まる聖霊降臨節へ移り変わろうとしています。丁度これから梅雨入りし、雨が降る季節になりますが、降雨と聖霊降臨が重なることの喜びがあります。恵みの雨が降り注ぐように、聖霊もまた降り注ぎます。これまでの復活の季節は、新しい命の誕生という途轍もない力と同時に、その命の愛らしさを感じました。けれども、これから迎える新緑の季節は、青々とした緑に見られる命の力強さを感じます。また、それは、聖霊降臨の日(ペンテコステ)に、聖霊を受けた弟子たちが、宣教へと遣わされていてく、その命の力強さと重なります。先日、景色が、すごくクリアに見える日がありました。それは、朝、幼稚園に登園して来る子どもたちを迎えるために、門の前に立っていた時でした。その朝は、大量の雨が降って間もない日でもありました。空中には、塵やガスや埃などの浮遊物が無い感じでした。その時に思わされたのです。こんなにも世界は奇麗だったのかと。昨年の秋に、秋田県と山形県の県境にある鳥海山に登りましたが、その山の中腹で見た光景を思い出しました。空気も奇麗で太陽が近いからか、植物も昆虫も、花も石も、みんな光り輝いていて「美しい」の一言でした。そして同時に、普段、生活している世界は、どれほど淀んでいるのかと思いました。そして、そこに罪があるのを感じるのです。自分の罪深さを知らない、そのことに気付かない、そういう淀みを感じるのです。でも、実際、世界は、もっとクリアで美しいのです。何をしなくても、何が無くても、ただ、それだけで喜びが込み上げてくるように美しい。その世界を、私たちは、イエスさまの十字架と復活の救いを信じることによって、見ることが許されています。

 さて、今朝の礼拝で朗読されたのは、ルカによる福音書3章です。この3章には、イエスさまの公生涯(福音宣教)が始まる、その経緯が記されています。それは3つの物語で構成されています。1つ目が、1節〜20節にある、洗礼者ヨハネが出現する物語です。2つ目が、21節〜38節にある、イエスさまの洗礼物語です。そして、3つ目が、4章1節〜13節にある、荒れ野でイエスさまが誘惑される物語です。後半の2つの物語は、イエスさまが直接、体験された出来事です。けれども、今日のメッセージでもある1つ目は、イエスさまと直接関係があるというわけでもありません。ヨハネが3章16節で「わたしよりも優れた方が来られる」と言っているように、イエスさまについての約束の言葉です。ただ、今日は、その洗礼者ヨハネが出現する前半の物語なので、それは、直接イエスさまに関係していない物語です。それは、今日の説教題である「悔い改めの洗礼」という言葉からも分かります。要するに、それは、悔い改めの洗礼までであって、そこ止まり、それ以上ではないということです。それは、やはり、イエスさまとの出会い、イエスさまとの直接的な関わりなしに、救いも平安も有り得ないということです。イエスさまと出会うことなしに、イエスさまを知ることなしに救いは無いのです。

 それは、聖霊降臨日のペンテコステの日に、聖霊を受けたペトロが、後に証言したことでもあります。というのは、聖霊を受けたペトロは、直後に神殿で説教を語ったために、議会で取り調べを受けることになりました。その時、ペトロは議会で聖霊に満たされて言いました。使徒言行録4章12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と。そうして、人は誰でも、イエスさまと出会い、イエスさまを知ることによって救われます。それは、律法学者でありファリサイ派の一員でもあったパウロも、そうでした。パウロは言っています。フィリピの信徒への手紙3章8節「そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と。実に、今日の洗礼者ヨハネ出現物語は、イエスさまが公に現れる直前のタイミングで、そのことを私たちに教えるのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか」つまり、イエスさまの御名の他には有り得ないのです。これは、洗礼者ヨハネが、最後の預言者と呼ばれるに相応しいことでもありました。なぜなら、預言者は、神の言葉を人々に伝えることが務めだからです。具体的には、聖書の旧約に書かれている救い主の到来と、その驚くべき救いの御業についての証言です。

 それでは、この洗礼者ヨハネが出現した時のことについて見ていきます。1節以下に「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とあります。この3章の始まりと2章の終わりには、かなりの時間、それは、年月で言うところの18年が経過しています。2章42節で「12歳」だったイエスさまは、3章23節では「30歳」になっておられます。そして、この間、イエスさまがお生まれになった時代の皇帝アウグストスの時代は、紀元14年の半ばで終わりを告げました。そして、その後を継いだ第2代皇帝のティベリウスの時代になって15年目ということは、大体イエスさまの30歳の年齢とも合致します。また、この当時の総督は、大体この4年前に、第5代目の総督としてユダヤ地方を支配していたポンティオ・ピラトです。この皇帝と総督ピラトの時代に、イエスさまは裁判にかけられ、十字架に架けられ、死んで復活し、昇天されました。また、当時のユダヤの地域以外は、あのヘロデ王の息のかかったヘロデ(これは、息子のアンティパス)が北部のガリラヤの領主。また、その兄のフィリポが、更に、その北端のイトラヤとトラコン地方の領主、そして、ヘロデ王家とは無関係のリサニアが、同地域アビレネの領主でした。更に、宗教面では、大祭司アンナスとその娘婿のカイアファが最高指導者でした。大祭司は普通1人ですが、ローマ皇帝が、大祭司の権限を、ユダヤ人が支持するアンナスからカイアファに移したのです。しかし、その後も権限はアンナスが持ち続けたので、2人の名が挙げられています。このように、聖書は、当時の時代のことを事細かに記すのです。それは、洗礼者ヨハネの出現と、その後のイエスさまの登場が、歴史上の事実であることを示しています。また、この歴史上の事実は、常に上から示されるという、それは天からの啓示という共通点もあります。皇帝アウグストゥスの時代には、神の言葉がマリアに降り、受肉してイエスさまが誕生しています。また、皇帝ティベリウスの時代は、神の言葉がヨハネに降り、イエス・キリストの救いへの道が備えられています。また、この福音書を書いたルカと、当時のローマの高官だったテオフィロとの関わりの中でも、そのことは言えます。なぜなら、ルカは、福音書と使徒言行録をテオフィロへ献呈するために書いたからです。その使徒言行録の中に、神の言葉、聖霊が弟子たちの上に降る聖霊降臨日(ペンテコステ)の事実が記録されています。ですから、この世の歴史というのは、神の言葉が降ることによって、実際は、神の歴史であることに、改めて気づかされるのです。

 この神の言葉が、洗礼者ヨハネに降ったので、3節を見ると「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。要するに、これまでの生き方や生活を悔い改めて、神に立ち帰ったそのことの表明としての洗礼(バプテスマ)を受けるようにと宣べ伝えたのです。この「悔い改めの洗礼」は、イエス・キリストの救いの準備のために、必ず実現すると、既に聖書の旧約の中で語られていたことでした。4節に「これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」とあります。実際イザヤは、イザヤ書40章3節〜6節で次のように言っています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」と。この中の「荒れ野で叫ぶ者の声」が、洗礼者ヨハネのことだったのです。声というのは、音として聞こえるものです。もし、そこに言葉が無かったら、それは発声でしかありません。ヨハネは、その言葉を叫ぶための声なので、その御言葉はイエスさまなのです。イエスさまとは、ヨハネが荒れ野で叫んだ言葉、正に「主の道」です。それは、主を知るための、主を生きるための道です。それは、高ぶる生き方でも、卑屈になる生き方でもありません。また、それは間違っても、捻くれて曲がった生き方でもありません。それは、真っ直ぐで、真っ平の道です。つまり、ヨハネは、各々が、自分は今どこに立っているのか、どのように生きているのかを見直して、自分自身を整えるようにと勧めたのです。それは、悔い改めへの招きです。

 すると、ヨハネの下に大勢の人が集まりました。ただ、そこでヨハネは、7 節以下「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った」のです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と。折角、大勢の人々が、悔い改めの洗礼を受けるために集まって来たのに、ヨハネは厳しい口調で「差し迫った神の怒り」や「斧は既に木の根本に置かれている」ことを語りました。それは、人々が、これまでのことは、すべて水に流せば良いという意味で洗礼を受けに来たからです。そのような洗礼には、大事なものが欠けているのです。なぜなら、すべてを水に流す場合、その人が関係しているのは水であり、水との関わりの中で自分を一新するだけだからです。そこには、罪の自覚も無ければ、罪を認める気持ちもありません。それが、ヨハネの言うところの「蝮の子ら」それは、蛇の子孫ということになるのでしょう。要するに「罪の自覚や認罪、罪を認めることなしに、神の怒りを免れると、一体誰が教えたのか」ということなのです。それは、大事なものが欠けているからで、その欠けている大事なものこそ、神さまとの関係なのです。この神に立ち帰ることなしに、救いの道は、ずっと閉ざされたままなのです。しかし、人々は「我々の父はアブラハムだ」と考えていました。つまり、自分たちは約束の子であり、神の民であり、根本的に神に立ち返る必要など無いと思っていたのです。だから、その誇りや肩書を汚している事実に関しては、それらを消しさえすれば、それで良かったのです。しかし、ヨハネは「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と、彼らの思い上がりに対して神の力を強調するのです。だからヨハネは、ひとまず「悔い改めに相応しい実を結べ」と言ったのです。ただ水に流すのではなく、神の前に立って、それは、回心して、物事や出来事に対する改心と改善の必要を求めたのです。

 ただ、ここで驚かされるのは、群衆が言った10節の言葉です。群衆は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。ヨハネが「悔い改めに相応しい実を結べ」と言ったことに対して、群衆は、どうすれば良いのかが分からなかったのです。そこでヨハネは、群衆に答えました。11節「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と。すると、今度は徴税人も、洗礼を受けるためにヨハネの下に来て言いました。12節「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と。どうすれば良いのか分からなかったこと自体が問題ですが、ヨハネは言いました。13節「正直になりなさい」そして「規定以上のものは取り立てるな」と。 なぜなら徴税人は、ローマ皇帝に納める税金を人々から徴収する際、規定以上を取り立てるという不正を行なっていたからです。すると、今度は兵士たちもヨハネの下に来て言ったのです。14節「このわたしたちはどうすればよいのですか」と。そこでヨハネは言ったのです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と。 こうして人々は、みんな一様に「自分たちはどうすれば良いのか」と言いました。これが福音の時代ではない、律法の時代が行き着く先です。人は何かをすることによって救われるという考え方です。洗礼者ヨハネは、人々の問いに対して明確に答えました。だから、人々は、少し先の15節で「ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」ほどだったのです。

 しかし、ヨハネが人々に勧めることができたのは、ここまででした。それは、ある意味、今までの間違いを正すということで、それは、本来あるべき形に戻すということでしかありません。「谷はすべて埋められ」「山と丘はみな低くされる」ということに過ぎないのです。そして、それは、良いことではあっても、どちらかと言えば、それは当然、自分のほうに重きが置かれている対処の仕方であり結果です。決して神さまのほうに、神からの働きかけのほうに重きが置かれている対処の仕方や結果、つまり、神の救いではないのです。だから、ヨハネの働きというのは、神に立ち帰り、罪の自覚と認罪、罪を認めるということにあったのです。それが悔い改めの洗礼が意味するところなのです。中には、やはりいるのです。自分には罪などないと言う人が。そして、罪があるのなら自分で、それを償うと言う人が。けれども、それは、自分を信じていることなのです。だから、神を信じているのではないのです。罪というのは負い切れないものです。たとえ、負い切れたとしても、それは、間違いを正したと言うのであって、本来あるべき形に戻っただけです。だから、それでは、全く救われていると言うまでには至らないのであって、本当に平安や喜びを勝ち得たということには、ならないのです。依然、罪の中にあることに変わりはないのです。それがヨハネの働きである「悔い改めの洗礼」の限界であり、律法の限界でもあります。だから、ヨハネは、この後16節で「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」と言うのです。そして、その方であるイエスさまは、罪の中にあることに変わりはない私たちの、その罪そのものを拭い去るために、十字架と復活の主として来られるのです。だから、私たちが救われるために為すべき備えは、神に立ち帰って、罪の自覚と認罪、罪を認めるということなのです。それは、要するに、神のみ前において、神との関係の中で、悔い改めの心を抱くことです。そして、神を待ち望むのです。洗礼というのは、ただ、過去を水に流すために水に浸るというのではないのです。ヨハネの下に集まってきた人々のように、私たちも「自分がどうすれば良いのかも分からなかった」それ程までに罪深い人間です。神をも認めず、罪さえも認めなかった人間だったのです。だから、そのまま、悔い改めの気持ちに浸ること、それが「悔い改めの洗礼」なのです。その上で、ヨハネの後から来られる方は、御言葉の恵みに浸る喜びを与えてくださるのです。そして、実際にイエスさまは言われました。ルカによる福音書5章20節「人よ、あなたの罪は赦された」と。私たちは、日々、その御言葉の恵みに浸るために、神に立ち帰り、悔い改めて福音を信じる道を歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:03| 日記