2023年05月21日

2023年5月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:使徒言行録2章1節〜13節
説教:「ペンテコステ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書3章15節〜20節、ヨエル書3章1節〜5節
説 教: 「聖霊と火の洗礼」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:32| 日記

2023年05月14日

2023年5月14日 主日礼拝説教「主イエスの昇天」大坪信章牧師

ルカによる福音書24章50節〜53節、創世記5章21節〜24節
説教「主イエスの昇天」大坪信章牧師
 
 復活節第6主日を迎えました。この復活節は、来週の復活節第7主日の1週間をもって終わります。というのは、イエスさまの復活をお祝いした4月9日のイースターから、間もなく40日を迎えようとしているからです。その40日目が、今週の18日(木)に当たります。使徒言行録1章には、イエスさまが復活後「40日」目に昇天されたと記されています。今日は、このイエスさまの昇天について、ルカによる福音書の昇天物語を中心に御言葉に聴いていきます。その前に、イエスさまは、復活後40日目の昇天の日までに、度々、使徒たちの前に、その栄光に輝く復活の御姿を現されました。それは、使徒たちに、御自分が十字架の苦難を経て死に、今も生きていることを、数多くの証拠をもって示すためでした。そして、神の国についても話しをされました。神の国の話しは、復活後が初めてではありません。それは、イエスさまが、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、公生涯を始められた、それは、宣教を開始された時から、そうだったのです。その時イエスさまは言われました。マルコによる福音書1章15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。また、その後も、多くの譬えによって神の国(天の国)のことを説明されました。しかし、使徒たちの多くが考えていた救いは、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることだったのです。使徒たちにとってイエスさまは、そのための指導者でしたが、十字架の死を遂げられました。だから、弟子たちは皆、失望したのです。

 その誤った救いの理解は、イエスさまが復活後に神の国を語ってくださっても、そう簡単に拭えるものでもなかったようです。使徒言行録1章6節には、使徒たちが集まって「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と、復活のイエスさまに言っているからです。しかし、これまでは、イエスさま御自身が、神の国について教えて来られましたが、これからは、使徒たちが、神の国について世界中の人々を教えるのです。それなのに、神の国に対する無理解のままでは、十字架と復活の救いを世に打ち立てることはできません。それは、教会を、教会として確立することができないということでもあるのです。そのために、イエスさまは、弟子たちに「父の約束されたもの」である聖霊を待つようにと言われたのです。なぜなら、使徒たちが神の国について話しをするためには、神の言葉が無ければ語ることなど出来ないからです。どんなにこの世的な知恵や知識、また、学問や雑学を身に着けていたとしても、神の国について語ることは出来ないのです。神の国は、神の言葉によらなければ語ることができないからです。だから、その神の言葉が、それは、聖霊が降るのを待つようにとイエスさまは言われたのです。そして、その聖霊は、イエスさまの復活後50日目、昇天の日から10日目に、聖霊を待って祈っていた弟子たちの上に降るのです。その聖霊降臨日、ペンテコステを、今年は、昇天日18日から数えて10日目の28日(日)に覚えます。

 さて、話しは聖霊降臨日、ペンテコステの出来事にまで進んでしまいましたが、それも、イエスさまの昇天なしには起こらなかったことなのです。その、イエスさまの昇天の日の出来事について見ていきたいと思います。50節「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された 」とあります。イエスさまは「そこ」つまり、エルサレムから、弟子たちをベタニアの辺りにまで連れて行ったのです。このように書かれると、49節までに書かれた出来事は、イエスさまが復活された日の夜にエルサレムで起こったので、その物語との連続性があるかのように見えます。けれども、使徒言行録1章3節に記されている通り、イエスさまが昇天前の40日間に、復活の姿で御自身を弟子たちに現されていたことは明らかです。だから、はっきりしていることは、イエスさまの昇天は、十字架と復活が実現したエルサレムではなく「ベタニアの辺り」だったということです。その辺りには、オリーブ山、或いは、使徒言行録1章12節によれば「オリーブ畑と呼ばれる山」がありました。イエスさまは、そのオリーブ山から昇天されたのです。なぜ、オリーブ山なのかについては、その同じ使徒言行録1章9節〜11節に記されている言葉から分かります。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」と。この中で「雲に覆われる」というのは、単なる現象としての雲ではなく、聖書においては、神の栄光に包まれるという意味があります。また「有様」というのは、ギリシア語の原語で「方法」とか「仕方」という意味があるのです。普通に考えても、有様というのは、外から見ることのできる物事の状態を表わしています。それは、様子であり、景色であり、光景であり、また、人の容姿や態度など、そのものが置かれている状態、また、その人の身分、そのなりゆきなどが挙げられます。

 そうすると、イエスさまは、彼の日に、昇天された時と同じ方法、その状態で再臨されるということになります。つまり、オリーブ山において、神の栄光に包まれ、栄光に輝く復活の御姿で、手を上げて弟子たちを祝福しながら戻って来られるということになります。実際、旧約聖書ゼカリヤ書14章3節4節以下に、イエスさまの再臨の日のことが記されているのです。「戦いの日が来て、戦わねばならぬとき、主は進み出て、これらの国々と戦われる。4 その日、主は御足をもって、エルサレムの東にある、オリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く」と。その時、イエスさまは、どのような身分で、また、どのような立ち位置で戻って来られるのかと言えば、それは、王としての身分という立ち位置で戻って来られるのです。そのことは、同じゼカリヤ書14章の9節に記されています。「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」と。今、現在、この世では、諸々の王が権力を振りかざし、多くの国民が嘆き悲しみ、痛みと苦しみの中に追いやられています。また、自分自身が神や王であるかのように振る舞う人間の罪は、人間の関係性や物質的なものまでも含めて多くのもの破壊してやみません。しかし、再臨の日には、イエスさまが栄光に輝く復活の御姿で、唯一の主、唯一の王として現われるのです。そして、御言葉の権威によって、最高の主権者として、この世を統べ治められるのです。それは、新天新地である神の国が始まる時を意味します。その神の国の始まることに備えて、私たちは、自分の罪を神の前に告白し、罪赦される必要のある人間であることの自覚に目覚めなければならないのです。なぜなら、イエスさまは、私たちの罪を赦してくださる方だからです。それが十字架の死、罪を贖う出来事によって示されたからです。再臨の日、イエスさまは、主として、王として来られます。その時、この地上において、誰も王のようであってはならないし、神のようであってもならないのです。イエスさまは唯一の主であり、王であるからです。そして、この唯一の御名を信じる時、私たちは罪の赦しと永遠の命が約束されたのです。このことは、マルコによる福音書16章の昇天物語によっても明らかです。その19節で、こう言われています。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」と。また、このルカによる福音書22章には、十字架前夜、イエスさまが最高法院で裁判を受けられた時のことが記されています。その69節で、イエスさま御自身が、次のように証言しておられるのです。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」と。また、使徒言行録7章55節56節には、キリスト教における最初の殉教者と呼ばれるステファノについて、また、その証言が記されています。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、56『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」と。

 そして、このイエスさまの昇天における事実「神の右の座に着かれた」というのは、次のことをも約束するのです。パウロは、ローマの信徒への手紙8章34節で次のように言っています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と。このように「神の右の座」というのは、イエスさまが主であり王であることを決定づけるだけではなく、執り成しを祈る主であり、王であることをも決定づけるのです。それは、イエスさまが昇天される時に、弟子たちの前で「手をあげて祝福された」ことにも繋がります。それは、まるで、祭司が民を祝福した姿を彷彿とさせるものでした。それは今も、礼拝の最後の祝祷で受け継がれている祈りでもあります。なぜなら、聖書は、51節で昇天の事実について、こう告げているからです。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と。イエスさまは、弟子たちの前で、祝福のために上げた手を、昇天の最中も下ろされなかったのです。そして、この地上、或いは、空中での、その御姿は、そっくりそのまま、神の右の座に着いて、弟子たちのために祝福し、執り成しをされる天上でのキリストの御姿と同じだったのです。そのことは、イエスさまの昇天後の弟子たちの姿勢からも感じ取ることができます。なぜなら、52節53節を見ると「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と、あるからです。

 まず、弟子たちは、イエスさまを「伏し拝んだ」と記されています。これは、ギリシア語の原語で、元々接吻するという言葉から派生した言葉です。人が、地面、或いは、相手の衣の裾や手などに口づけして挨拶するという形式を取り、礼拝するという意味になります。弟子たちがイエスさまを礼拝した、或いは、この箇所は讃美したと訳されることもあって、弟子たちはイエスさまを、真の主であり真の王であると信じたことが分かるのです。そして、その主であり王である方の祝福、執り成しを受け続けている者であることをも、弟子たちは信じたのです。そのことなしに、弟子たちが約束の聖霊を受けて始まる教会の時代、それは、使徒言行録の時代は、あれほど広く深く、福音が宣べ伝えられることもなかったのです。更に、弟子たちは、昇天が、イエスさまとの離れ離れになるという別離の出来事であったにも拘らず「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず(それは、来る日も来る日も)神をほめたたえていた」というのです。愛する者との別れは辛いものです。それなのに、なぜ弟子たちは喜んでいられたのでしょうか。イエスさまが復活されたイースターの朝、空の墓の前でマグダラのマリアは泣いていました。その悲しみは、目の前に復活されたイエスさまが現われて話しかけても、それがイエスさまだと認識できないほどに深い悲しみでした。しかし「マリア」とイエスさまに名前を呼ばれて、その方がイエスさまであると分かった時、マリアはイエスさまに縋りついたのです。マリアにして見れば「もう2度と愛する者との別れは経験したくはない。だから、イエスさまを離したくはない」と、そういう切実な思いであったのではないでしょうか。しかし、イエスさまは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と、マリアの抱擁を制止されたのです。イエスさまは、縋りつくマリアに「まだ父のもとへ上っていない」と言われたということは、これから起ころうとしている昇天という別離について、暗に示されたと言えるのではないでしょうか。イエスさまにして見れば「今、ここで、あなたがわたしに縋りついても、遅かれ早かれ、再び別れの時が来る」という思いであられたのではないでしょうか。だから、マグダラのマリアには、正にイエスさまが昇天されるという事実を、弟子たちの所に行って伝えるようにと言われたのです。なぜなら、そこにこそ、真の希望が約束されているからです

 愛する者との別れは辛いのです。しかし、イエスさまの昇天という出来事は、それを乗り越えるには、充分な出来事だったのです。だから、マリアは、そこから遣わされ、また、11人の弟子たちも「大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と言えるのです。それでは、彼らがイエスさまとの別れ、別離を乗り越え、大喜びで神をほめたたえ礼拝し続けることができたという、昇天の出来事に示された事実とは何であったのでしょうか。それは、もう既に語ってきたことですが、それをおさらいして、今日のメッセージとさせていただきます。1つは、イエスさまが真の主、真の王として、もう一度、再臨されるという約束です。分かれは辛いものです。でも、たった1つでも約束を交わし合うことができるなら、私たちは納得することができるのではないでしょうか。イエスさまの約束は1つではありません。何よりも、イエスさま御自身が、神の約束された救いの御計画を成し遂げられる救い主なのです。その決して反故にされることのない約束、必ず実現する約束が、弟子たちの喜びに繋がっているのです。2つ目は、イエスさまが、神の右の座において、手を上げて私たちを祝福し、執り成しの祈りを祈り続けてくださっているという約束です。誰も一人で戦っている人などいないのです。誰かが応援してくれているし、誰かが祈ってくれているのです。そういう人は、この地上には皆無だという人がいても、イエスさまは祈ってくださっています。手を下ろすことなく祈り、祝福し続けてくださっている、その約束が、弟子たちの喜びに繋がっているのです。そして3つ目は、今日の話しの中では少しだけ触れ、その大半をこれからの説教の中で語ることですが、イエスさまが「父の約束されたもの」である聖霊を待つようにと言われたことです。聖霊は求めるならば、必ず与えられるものであると、ルカによる福音書11章13節に記されています。私たちは今日、聖霊を求めたからここにいます。そして、ここにいて、祈り、神の御言葉に耳を傾けて聴いたからこそ聖霊は与えられたのです。イエスさまは、昇天前に言われました。使徒言行録1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と。だから、私たちも、喜びを失うことなく、主への感謝と希望を抱きながら礼拝を守り、御言葉によって力を受け、主の再臨を待ち望みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:07| 日記

2023年5月21日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書23章34節
説教:「われらが…赦すごとく、われらの罪も赦したまえ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書3章1節〜14節、ヨナ書3章1節〜10節
説 教: 「悔い改めの洗礼」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:58| 日記