2023年05月07日

2023年5月7日主日礼拝説教「心の目で見る復活」大坪信章牧師

ルカによる福音書24章44節〜49節、創世記12章1節〜3節
説教「心の目で見る復活」大坪信章牧師

 先週の主の日の礼拝の翌日5月1日、私たちと共に礼拝を献げていた石山教会6代目の牧師が召天されました。思い返せば、約1か月半前の3月19日には、石山教会初代牧師が召天されました。石山教会は、長寿を全うされたとは言え、歴代牧師お二方を、ほぼ同時に失いました。すべては、神さまの御計らいの内にあることとは言え、人間として受ける感触としては、大変、大きな損失です。今、この教会の歴史が動いているように感じます。この教会の歴史を長く共に生かされてきた信徒の方々であるなら、この度の出来事に心が動かされないはずがありません。お二方の牧師は、クリスチャンとして召され、献身者として召され、そして、今や神の国に召されました。それは、この地上での、それぞれの物語が終わったということを意味するものでもあります。改めて、共に語り合うことができるのは、生きているうちだと思わされます。もっと信仰の話を、もっと伝道の話を、もっと聖書の話しをしたかったのです。だから、今、残された私たちは、信仰の話を、伝道の話を、聖書の話を、もっと一緒にしていきたいのです。私たちの、それぞれの物語は、いつかは終わります。しかし、神の物語が終わることはありません。だから、この神の壮大な救いの物語を、私たちは次の世代に語り継ぎ、伝えていかなければならないのです。だから、礼拝においても、聖書に親しむ会においても、ダニエル会や、野の花会においても物語りたいのです。また、それ以外であっても、互いに一つ所に集まって、互いに愛し合って、神の御言葉の物語を語り合いたいのです。だから、聖書の御言葉に立ち帰りましょう。神の歴史を物語るためには、御言葉を知らなければ物語れないのです。確かなことは、その時、私たちは、決して終わることのない、神の物語の中に、みんなが一緒に生かされているということです。

 さて、今日は、復活節第5主日の日曜日です。イエスさまは、復活された夜、11人の弟子たちと仲間たちに御自身を現されました。そこには、エマオからエルサレムに戻って来た2人の弟子もいました。イエスさまは、恐れと疑いの中にあった彼ら弟子たちの前で、まず、御自分の復活された手足を見せられました。そして、その手足に触れることまでをも促されました。しかし、弟子たちはイエスさまについて、亡霊を見ているのだと思っていたのです。そこでイエスさまは、弟子たちに食べる物を求められ、弟子たちが焼いた魚を差し出すと、それを弟子たちの目の前で食べられたのです。この出来事は、復活が単なる精神論や霊的な話というのではなく、身体のよみがえりを伴うものであったということの明らかな証拠でした。それは、弟子たちにとって、目に見える復活でした。すると、その時イエスさまは言われました。44節「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」と。要するに、聖書の旧約に書いてある御言葉は、必ずすべて実現すると言われたのです。それでは、どのように実現するのか、それが45節46節で述べられているのです。イエスさまは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われ」ました。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する…』」と。つまり、イエスさまは、ご自分の十字架の死と復活によって、聖書の旧約に書かれている御言葉は、尽く実現すると言われたのです。イエスさまは、そのように、御自分について聖書を解き明かされたのです。何よりイエスさまは、このことを解き明かす前に、弟子たちの「心の目を開いて」おられた、ということが大事です。その開かれた心の目で、弟子たちが見たもの、それが、イエスさまの十字架の死と復活の命の御言葉でした。これまでは、イエスさまを見ていたけれども、これからは御言葉を見る、それは、御言葉に聞くことによって、御言葉を理解するということなのです。聖書には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10章17節)とある通りです。弟子たちは今、まさにイエスさまの言葉を聞くことによって信仰が始まったのです。

 これは、エマオの途上の2人の弟子が、エマオへの道でイエスさまから聖書を説明していただいた時も同じでした。イエスさまは、エマオの途上で2人の弟子に言われました。25節「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と。そして、 27節「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。このように、イエスさまは、前もって御自分の十字架と復活について、2人の弟子に、道々、聖書を説明しておられたのです。しかし、その時、彼らの目は遮られていました。その目が開かれたのは、エマオ途上の夕食の席でした。それまで一緒に歩いて来た人物がパンを割いた時、初めて弟子たちの目は開かれ、その人物がイエスさまだと分かったのです。この時2人の弟子は、目に見える復活を体験しました。しかし、すぐにイエスさまは見えなくなったのです。それは、なぜかと言いますと、弟子たちに、エマオ途上でイエスさまが説明した聖書、それは、御言葉を思い出させるためだったのです。つまり、イエスさまは、心の目で復活を見ることへと2人の弟子を導かれたのです。2人の弟子は、イエスさまが見えなくなったのと同時に、すぐに心の目が開かれて語り合いました。32節「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。

 2人の弟子は、エマオの途上で、目に見える復活から、心の目で見る復活へと導かれました。それは、聖書の旧約に約束されていた御言葉、イエス・キリストの十字架と復活によって実現する御言葉に聴くということでした。そして、それから数時間後の、この時もまた同じでした。2人の弟子も含めた11人の弟子とその仲間は、身体のよみがえりを伴う復活によって、目に見える復活の、もうこれ以上ない喜びに達したのです。しかし、イエスさまは、彼らの目を開き、その目に見える復活から、心の目で見る復活へと導かれるのです。要するに、聖書の旧約に約束されていた御言葉、イエス・キリストの十字架と復活によって実現する御言葉に聴くということです。エマオ途上の2人の弟子は、イエスさまが、御自分について聖書に書かれていることを説明してくださった時「心は燃えていたではないか」と証言し合っています。だから、同じように、イエスさまが、11人の弟子とその仲間に対して聖書を説明されたその時も、弟子たちの心が燃えていたのは明らかです。このことからも分かるように、私たちがイエスさまから求められているのは、復活を目に見えるものとして見続けるのではないということです。そうではなく、心の目で見るということ、それは、御言葉のうちに約束されているイエス・キリストの十字架と復活の御言葉に、聴き続けていくということなのです。その時、聖書は、私たちにとって、心が燃えてくる、それは命の御言葉の書物となるのです。

 クリスチャンになって、心を燃やしたいと思って、信仰書を読んだかどうかは別として、どれだけ買い漁ったかしれません。特に古本やB本(破損や汚れが認められる本で安いB級品)をたくさん買い漁りました。おかげで、引っ越しの時の荷物の大半を占めるようになりました。中でも、心が燃える本と言えば、大体が伝記物の書物です。ただ、伝記物の書物を読んだところで、自分が、その人物と同じようになれるかと言えば、決してそうではありません。若い頃は、よく悩みました。だから、その悩みが無くなるような、そういうヒントをくれるような書物を好んで読むようにもなりました。そして、聖書も、そのような読み方をしていた時期があります。けれども、今思えば、それと悩みが深かったというのは、比例していたような気がします。というのは、聖書は、イエスさまが仰ったように「御自分について書かれていることの説明」を聴く書物だからです。中には聖書を、自分の人生が成功するためや、或いは、自分の事業が上手くいくための、そういう助けのように読む人たちがいます。例えば、自己啓発のように、或いは、自己実現のために。ただ、そういう読み方は、すべて自分についてであり、自分への関心であり、自分をより高い次元へと高めようとする読み方です。そうすることで、心が燃えてくる人もいるのかもしれませんが、行き着く先は燃え尽きるということです。なぜなら、聖書は、自分について、また、自分のために読むものではないからです。むしろ、イエスさまについて書かれている書物として、御言葉に聞く姿勢を持つ時に、心が燃えるような体験をするのです。

 個人的に、それは、ある時期と重なっています。それは、丁寧に旧約聖書39巻を、ほぼ読み終えた時期と重なります。最初の赴任地では聖書研究祈祷会で、旧約聖書の創世記からエステル記までを読み進めました。次の赴任地では、水曜日の聖書研究祈祷会で、その続きのヨブ記からマラキ書までを読み進めました。途中、箴言と詩編を飛ばしたので、戻って詩編を読み進めて居た時に、今回の転任の決断に至りました。それなので、まだ、詩編の残り約40篇と箴言を公的な場で読み終えることはできていません。けれども、ちょうど預言書や詩編の学びの中で、とりわけバビロン捕囚の歴史や御言葉に触れた時に、以前よりも、また少しずつ何か目が開かれていくような体験をしました。それは、自分だけではなく、聖書研究祈祷会の出席者も同じでした。ですから、それは、個人的な体験ではなく教会的な体験として受け止めています。だから、そのような方々とは、いつも福音であるイエス・キリストの御言葉談議に花を咲かせました。具体的に言えば、旧約聖書を読みながらイエスさまと出会う、それは御言葉と出会うという体験を一緒に喜び合いました。ですから、先程も述べた、自己啓発という言葉や、自己実現という言葉が、どれほど空しいものであるかと思わされるのです。そのような言葉に関心を抱くことによっては、誰にも救いや平安や希望は与えられないからです。聖書は、自己啓発のための書物ではなく、むしろ、キリスト啓示として書かれた書物です。また、自己実現のための書物ではなく、キリスト実現のために書かれた書物です。だから、イエス・キリストについて、イエス・キリストのために御言葉に聴く書物なのです。その時、私たちは、っ頃が燃えているのでもあり、同時に、救いと平安と希望も与えられているのです。

 なぜなら、47節48節で、こう言われているからです。「『…また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる」と。「その名によって」とは、イエス・キリストの御名によってであり、その名によって、悔い改めて神を信じる人は、誰でも罪が赦されるからです。聖書の旧約には、イエス・キリストが救い主として、この世に来られることが書いてあります。また、世に来て、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださることが書いてあります。そして、その死によって、私たちの罪は赦され、罪は全く癒されるということが書いてあるのです。だから、聖書はイエス・キリストについて、また、イエス・キリストのために御言葉に聴く書物なのです。その時、救いと平安と希望は、私たちの中にあるのです。そして、それは、誰にでも与えられているものでもあるのです。どこかの一民族だけが、ということではないのです。特定の誰か力を持っている人や、名前が広く知れ亘っている人だけが、というのでもないのです。それは、誰もがみんなであって、すべての人がそうなのです。だから、この「罪の赦しを得させる悔い改め」は、福音であり、救いの良い知らせです。そして、この福音は、イエス・キリストの御名によって「あらゆる国の人々に」それは世界中に「宣べ伝えられる」のです。

 そして、弟子たちや、弟子たちと共に信仰によって生きる人々は「これらのことの証人となる」と言われています。証人というのは、漢字で言葉が正しい人と書きます。満更でもありません。つまり、神の言葉は、正しいと信じる人、聖書に書かれている神の言葉は、正しいと信じる人と読めるのです。それが証人だと。そして、この証人という言葉は、殉教を意味する言葉でもあるのです。それは、イエス・キリストについて書かれた、イエス・キリストのために書かれた聖書の御言葉を、命を懸けて信じ抜く人々です。このように信仰によって生きる人々、それは、神の御心を行おうとする人々のために、イエスさまは、次のことを約束してくださったのです。49節「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と。「父が約束されたもの」それは、聖霊、Holy Spiritです。それは、神の御心であり、神の言葉、御言葉です。イエスさまは、復活後40日目に昇天されます。しかし、その後イエスさまの約束を信じ、都エルサレムに留まって祈り続けた弟子たちの上には「父が約束されたもの」である聖霊が一人一人の上に降りました。そして、御言葉の力を受けた弟子たちは、イエス・キリストについて、また、イエス・キリストのために、全世界へと遣わされて行ったのです。その時、弟子たちは、目に見える復活を生きていたのではなく、心の目で見る復活を生きていました。それは、イエスさまが私たちに望まれたことです。こうして、弟子たちは、聖霊に満たされて、それは、力強い神の御言葉に満たされて生きる者となりました。聖書の御言葉によって生き、語り、語り合うのは、私たちがイエスさまから託された務めです。更に、十字架と復活の信仰によって互いに赦し合い、愛し合い、多くの人々の拠り所となる主の教会を共に建てていくこともまた、イエスさまから託された務めです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:10| 日記

2023年5月14日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書6章25節〜33節
説教:「われらの日用の糧をきょうも与えたまえ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書24章50節〜53節、創世記5章21節〜24節
説 教: 「主イエスの昇天」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:53| 日記