2023年05月21日

2023年5月21日 主日礼拝説教「悔い改めの洗礼」大坪信章牧師

ルカによる福音書3章1節〜14節、ヨナ書3章1節〜10節
説教「悔い改めの洗礼」大坪信章牧師
 
 復活節第7主日を迎えました。今、季節は春から雨季に、そして、新緑の季節へ移り変わろうとしています。また、今、教会の暦のほうでも、復活の季節が残すところ1週間となり、来週から始まる聖霊降臨節へ移り変わろうとしています。丁度これから梅雨入りし、雨が降る季節になりますが、降雨と聖霊降臨が重なることの喜びがあります。恵みの雨が降り注ぐように、聖霊もまた降り注ぎます。これまでの復活の季節は、新しい命の誕生という途轍もない力と同時に、その命の愛らしさを感じました。けれども、これから迎える新緑の季節は、青々とした緑に見られる命の力強さを感じます。また、それは、聖霊降臨の日(ペンテコステ)に、聖霊を受けた弟子たちが、宣教へと遣わされていてく、その命の力強さと重なります。先日、景色が、すごくクリアに見える日がありました。それは、朝、幼稚園に登園して来る子どもたちを迎えるために、門の前に立っていた時でした。その朝は、大量の雨が降って間もない日でもありました。空中には、塵やガスや埃などの浮遊物が無い感じでした。その時に思わされたのです。こんなにも世界は奇麗だったのかと。昨年の秋に、秋田県と山形県の県境にある鳥海山に登りましたが、その山の中腹で見た光景を思い出しました。空気も奇麗で太陽が近いからか、植物も昆虫も、花も石も、みんな光り輝いていて「美しい」の一言でした。そして同時に、普段、生活している世界は、どれほど淀んでいるのかと思いました。そして、そこに罪があるのを感じるのです。自分の罪深さを知らない、そのことに気付かない、そういう淀みを感じるのです。でも、実際、世界は、もっとクリアで美しいのです。何をしなくても、何が無くても、ただ、それだけで喜びが込み上げてくるように美しい。その世界を、私たちは、イエスさまの十字架と復活の救いを信じることによって、見ることが許されています。

 さて、今朝の礼拝で朗読されたのは、ルカによる福音書3章です。この3章には、イエスさまの公生涯(福音宣教)が始まる、その経緯が記されています。それは3つの物語で構成されています。1つ目が、1節〜20節にある、洗礼者ヨハネが出現する物語です。2つ目が、21節〜38節にある、イエスさまの洗礼物語です。そして、3つ目が、4章1節〜13節にある、荒れ野でイエスさまが誘惑される物語です。後半の2つの物語は、イエスさまが直接、体験された出来事です。けれども、今日のメッセージでもある1つ目は、イエスさまと直接関係があるというわけでもありません。ヨハネが3章16節で「わたしよりも優れた方が来られる」と言っているように、イエスさまについての約束の言葉です。ただ、今日は、その洗礼者ヨハネが出現する前半の物語なので、それは、直接イエスさまに関係していない物語です。それは、今日の説教題である「悔い改めの洗礼」という言葉からも分かります。要するに、それは、悔い改めの洗礼までであって、そこ止まり、それ以上ではないということです。それは、やはり、イエスさまとの出会い、イエスさまとの直接的な関わりなしに、救いも平安も有り得ないということです。イエスさまと出会うことなしに、イエスさまを知ることなしに救いは無いのです。

 それは、聖霊降臨日のペンテコステの日に、聖霊を受けたペトロが、後に証言したことでもあります。というのは、聖霊を受けたペトロは、直後に神殿で説教を語ったために、議会で取り調べを受けることになりました。その時、ペトロは議会で聖霊に満たされて言いました。使徒言行録4章12節「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と。そうして、人は誰でも、イエスさまと出会い、イエスさまを知ることによって救われます。それは、律法学者でありファリサイ派の一員でもあったパウロも、そうでした。パウロは言っています。フィリピの信徒への手紙3章8節「そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」と。実に、今日の洗礼者ヨハネ出現物語は、イエスさまが公に現れる直前のタイミングで、そのことを私たちに教えるのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか」つまり、イエスさまの御名の他には有り得ないのです。これは、洗礼者ヨハネが、最後の預言者と呼ばれるに相応しいことでもありました。なぜなら、預言者は、神の言葉を人々に伝えることが務めだからです。具体的には、聖書の旧約に書かれている救い主の到来と、その驚くべき救いの御業についての証言です。

 それでは、この洗礼者ヨハネが出現した時のことについて見ていきます。1節以下に「皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とあります。この3章の始まりと2章の終わりには、かなりの時間、それは、年月で言うところの18年が経過しています。2章42節で「12歳」だったイエスさまは、3章23節では「30歳」になっておられます。そして、この間、イエスさまがお生まれになった時代の皇帝アウグストスの時代は、紀元14年の半ばで終わりを告げました。そして、その後を継いだ第2代皇帝のティベリウスの時代になって15年目ということは、大体イエスさまの30歳の年齢とも合致します。また、この当時の総督は、大体この4年前に、第5代目の総督としてユダヤ地方を支配していたポンティオ・ピラトです。この皇帝と総督ピラトの時代に、イエスさまは裁判にかけられ、十字架に架けられ、死んで復活し、昇天されました。また、当時のユダヤの地域以外は、あのヘロデ王の息のかかったヘロデ(これは、息子のアンティパス)が北部のガリラヤの領主。また、その兄のフィリポが、更に、その北端のイトラヤとトラコン地方の領主、そして、ヘロデ王家とは無関係のリサニアが、同地域アビレネの領主でした。更に、宗教面では、大祭司アンナスとその娘婿のカイアファが最高指導者でした。大祭司は普通1人ですが、ローマ皇帝が、大祭司の権限を、ユダヤ人が支持するアンナスからカイアファに移したのです。しかし、その後も権限はアンナスが持ち続けたので、2人の名が挙げられています。このように、聖書は、当時の時代のことを事細かに記すのです。それは、洗礼者ヨハネの出現と、その後のイエスさまの登場が、歴史上の事実であることを示しています。また、この歴史上の事実は、常に上から示されるという、それは天からの啓示という共通点もあります。皇帝アウグストゥスの時代には、神の言葉がマリアに降り、受肉してイエスさまが誕生しています。また、皇帝ティベリウスの時代は、神の言葉がヨハネに降り、イエス・キリストの救いへの道が備えられています。また、この福音書を書いたルカと、当時のローマの高官だったテオフィロとの関わりの中でも、そのことは言えます。なぜなら、ルカは、福音書と使徒言行録をテオフィロへ献呈するために書いたからです。その使徒言行録の中に、神の言葉、聖霊が弟子たちの上に降る聖霊降臨日(ペンテコステ)の事実が記録されています。ですから、この世の歴史というのは、神の言葉が降ることによって、実際は、神の歴史であることに、改めて気づかされるのです。

 この神の言葉が、洗礼者ヨハネに降ったので、3節を見ると「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。要するに、これまでの生き方や生活を悔い改めて、神に立ち帰ったそのことの表明としての洗礼(バプテスマ)を受けるようにと宣べ伝えたのです。この「悔い改めの洗礼」は、イエス・キリストの救いの準備のために、必ず実現すると、既に聖書の旧約の中で語られていたことでした。4節に「これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである」とあります。実際イザヤは、イザヤ書40章3節〜6節で次のように言っています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」と。この中の「荒れ野で叫ぶ者の声」が、洗礼者ヨハネのことだったのです。声というのは、音として聞こえるものです。もし、そこに言葉が無かったら、それは発声でしかありません。ヨハネは、その言葉を叫ぶための声なので、その御言葉はイエスさまなのです。イエスさまとは、ヨハネが荒れ野で叫んだ言葉、正に「主の道」です。それは、主を知るための、主を生きるための道です。それは、高ぶる生き方でも、卑屈になる生き方でもありません。また、それは間違っても、捻くれて曲がった生き方でもありません。それは、真っ直ぐで、真っ平の道です。つまり、ヨハネは、各々が、自分は今どこに立っているのか、どのように生きているのかを見直して、自分自身を整えるようにと勧めたのです。それは、悔い改めへの招きです。

 すると、ヨハネの下に大勢の人が集まりました。ただ、そこでヨハネは、7 節以下「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った」のです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と。折角、大勢の人々が、悔い改めの洗礼を受けるために集まって来たのに、ヨハネは厳しい口調で「差し迫った神の怒り」や「斧は既に木の根本に置かれている」ことを語りました。それは、人々が、これまでのことは、すべて水に流せば良いという意味で洗礼を受けに来たからです。そのような洗礼には、大事なものが欠けているのです。なぜなら、すべてを水に流す場合、その人が関係しているのは水であり、水との関わりの中で自分を一新するだけだからです。そこには、罪の自覚も無ければ、罪を認める気持ちもありません。それが、ヨハネの言うところの「蝮の子ら」それは、蛇の子孫ということになるのでしょう。要するに「罪の自覚や認罪、罪を認めることなしに、神の怒りを免れると、一体誰が教えたのか」ということなのです。それは、大事なものが欠けているからで、その欠けている大事なものこそ、神さまとの関係なのです。この神に立ち帰ることなしに、救いの道は、ずっと閉ざされたままなのです。しかし、人々は「我々の父はアブラハムだ」と考えていました。つまり、自分たちは約束の子であり、神の民であり、根本的に神に立ち返る必要など無いと思っていたのです。だから、その誇りや肩書を汚している事実に関しては、それらを消しさえすれば、それで良かったのです。しかし、ヨハネは「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と、彼らの思い上がりに対して神の力を強調するのです。だからヨハネは、ひとまず「悔い改めに相応しい実を結べ」と言ったのです。ただ水に流すのではなく、神の前に立って、それは、回心して、物事や出来事に対する改心と改善の必要を求めたのです。

 ただ、ここで驚かされるのは、群衆が言った10節の言葉です。群衆は「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたのです。ヨハネが「悔い改めに相応しい実を結べ」と言ったことに対して、群衆は、どうすれば良いのかが分からなかったのです。そこでヨハネは、群衆に答えました。11節「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と。すると、今度は徴税人も、洗礼を受けるためにヨハネの下に来て言いました。12節「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と。どうすれば良いのか分からなかったこと自体が問題ですが、ヨハネは言いました。13節「正直になりなさい」そして「規定以上のものは取り立てるな」と。 なぜなら徴税人は、ローマ皇帝に納める税金を人々から徴収する際、規定以上を取り立てるという不正を行なっていたからです。すると、今度は兵士たちもヨハネの下に来て言ったのです。14節「このわたしたちはどうすればよいのですか」と。そこでヨハネは言ったのです。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と。 こうして人々は、みんな一様に「自分たちはどうすれば良いのか」と言いました。これが福音の時代ではない、律法の時代が行き着く先です。人は何かをすることによって救われるという考え方です。洗礼者ヨハネは、人々の問いに対して明確に答えました。だから、人々は、少し先の15節で「ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」ほどだったのです。

 しかし、ヨハネが人々に勧めることができたのは、ここまででした。それは、ある意味、今までの間違いを正すということで、それは、本来あるべき形に戻すということでしかありません。「谷はすべて埋められ」「山と丘はみな低くされる」ということに過ぎないのです。そして、それは、良いことではあっても、どちらかと言えば、それは当然、自分のほうに重きが置かれている対処の仕方であり結果です。決して神さまのほうに、神からの働きかけのほうに重きが置かれている対処の仕方や結果、つまり、神の救いではないのです。だから、ヨハネの働きというのは、神に立ち帰り、罪の自覚と認罪、罪を認めるということにあったのです。それが悔い改めの洗礼が意味するところなのです。中には、やはりいるのです。自分には罪などないと言う人が。そして、罪があるのなら自分で、それを償うと言う人が。けれども、それは、自分を信じていることなのです。だから、神を信じているのではないのです。罪というのは負い切れないものです。たとえ、負い切れたとしても、それは、間違いを正したと言うのであって、本来あるべき形に戻っただけです。だから、それでは、全く救われていると言うまでには至らないのであって、本当に平安や喜びを勝ち得たということには、ならないのです。依然、罪の中にあることに変わりはないのです。それがヨハネの働きである「悔い改めの洗礼」の限界であり、律法の限界でもあります。だから、ヨハネは、この後16節で「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」と言うのです。そして、その方であるイエスさまは、罪の中にあることに変わりはない私たちの、その罪そのものを拭い去るために、十字架と復活の主として来られるのです。だから、私たちが救われるために為すべき備えは、神に立ち帰って、罪の自覚と認罪、罪を認めるということなのです。それは、要するに、神のみ前において、神との関係の中で、悔い改めの心を抱くことです。そして、神を待ち望むのです。洗礼というのは、ただ、過去を水に流すために水に浸るというのではないのです。ヨハネの下に集まってきた人々のように、私たちも「自分がどうすれば良いのかも分からなかった」それ程までに罪深い人間です。神をも認めず、罪さえも認めなかった人間だったのです。だから、そのまま、悔い改めの気持ちに浸ること、それが「悔い改めの洗礼」なのです。その上で、ヨハネの後から来られる方は、御言葉の恵みに浸る喜びを与えてくださるのです。そして、実際にイエスさまは言われました。ルカによる福音書5章20節「人よ、あなたの罪は赦された」と。私たちは、日々、その御言葉の恵みに浸るために、神に立ち帰り、悔い改めて福音を信じる道を歩みたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:03| 日記

2023年5月28日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:使徒言行録2章1節〜13節
説教:「ペンテコステ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書3章15節〜20節、ヨエル書3章1節〜5節
説 教: 「聖霊と火の洗礼」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:32| 日記