ルカによる福音書4章15節〜30節、イザヤ書61章1節〜3節
説 教「主の恵みの年を生きる」大坪信章牧師
今日の物語に至る過程で、イエスさまは40日間、荒れ野で試練を受けられました。イエスさまは、悪魔の3つの誘惑を退け勝利されたのです。その試練は、聖霊(御言葉)の導きに始まり、聖霊(御言葉)の勝利で終わりました。その後イエスさまは、ガリラヤに帰り、15節を見ると「諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とあるのです。とは言っても、既に14節を見れば、イエスさまには、その評判も同時に付いて回っていました。「その評判」とは、御言葉による勝利の生活です。なぜなら、イエスさまが40日間、荒れ野で試練に遭う直前、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられた時に聖霊を受けられたからです。その聖霊は、鳩のように目に見える姿で現れました。そして、その時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。それは、洗礼者ヨハネも、受洗のためにヨルダン川に押し迫った民衆も皆、非現実的な出来事として見聞きしたのです。つまり、聖霊(御言葉)に満たされ、その御言葉によって荒れ野の試練に勝利され、御言葉による勝利の生活(宣教)が、今、始まったのです。だから、イエスさまは「諸会堂」で、それは、ガリラヤ地方の諸々の会堂で教える度に「尊敬」を受け、その教えは絶賛され、イエスさまは賞賛の的でした。要するに、御言葉による勝利の生活が人々を驚かせ、その心を捉えて離さなかったのです。この御言葉による勝利の生活の実践例が、来週の『権威ある言葉』と題する物語です。
こうして、ガリラヤの諸会堂で民衆から尊敬を受けられたイエスさまは、その後ガリラヤの故郷に向かわれました。16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。これは今に始まったことではなく、ガリラヤに帰られた後ずっとして来られたことです。なぜなら、イエスさまは「いつもの通り安息日に会堂に」入られたとあるからです。イエスさまと言えば、弟子たちを引き連れ、各地を転々と伝道された印象があります。特に、このガリラヤでは、奇跡を交えた御言葉の宣教を数多く行なわれます。しかし、安息日には必ず会堂に行き、礼拝を守られたのです。そうすると、礼拝は、イエスさまにとって宣教の原動力だったことが分かります。また、それは同時に、宣教の労苦や日常の労働が癒される時でもあったのです。なぜなら「いつもの通り」ということは、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、イエスさまが安息日の礼拝を欠かさなかったということだからです。というよりも、忙しいからこそ、疲れ果てているからこそ礼拝を欠かさなかったのです。そうして与えられる癒しは、安息日の恩恵以外の何ものでもありません。安息の掟は、出エジプト記20章の十戒の第4戒「安息日を聖とせよ」です。しかし、それ以前の創世記2章3節が最も古い根拠です。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」と。「祝福と聖別」この言葉に二言はありません。だから、イエスさまも6日の間、働いて、7日目には休まれたのです。
また「会堂」及び「諸会堂」についてですが、その歴史は、紀元前587年のバビロン捕囚にまで遡ります。会堂は、捕囚期の捕囚民によって建てられ、それ以降、増えていきました。というのは、バビロン捕囚によって、捕囚地に連行されたユダヤ人たちは、神殿を失ったも同然だったからです。というより、バビロンは神殿を破壊し、実質的にも失いました。こういった状況の中で、捕囚民や、ディアスポラ(離散の民)となったユダヤ人たちは、その辿り着いた異国の地で会堂を建設し、そこで神を礼拝し、信仰を守り続けたのです。その後バビロンは、ペルシャによって滅ぼされます。こうして捕囚民は、捕囚から70年後、ペルシャの王キュロスの勅令により、エルサレムへの帰還が許され、神殿の再建に取り掛かったのです。しかし、神殿再建後も、会堂で神を礼拝する良き習慣は引き継がれ、会堂は、ユダヤにも建てられていきました。それは、捕囚民がバビロン捕囚という苦い経験で、御言葉によって生きることの大切さを思い知ったからです。このような経緯で建てられた会堂には、会堂長と呼ばれる人(会堂の管理者)がいました。彼らは、日常的に律法の教育を民や子どもたちに施しました。また、安息日には、礼拝の司式を担当し、祈りや聖書朗読、また、勧めを為す人を会衆の中から指名しました。そして、指名された人は「聖書」、当時は、巻物状の旧約の書簡を朗読したのです。
イエスさまもまた、この会堂で、聖書朗読の役回りを果たされます。17節を見ると、イエスさまには「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」とあるからです。それが18節19節です。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」これは、旧約の書簡の1つであるイザヤ書61章1節2節の御言葉です。この御言葉を朗読されたイエスさまは、20節を見ると「巻物を巻き、係の者に返して席に座られ」ました。すると「会堂にいるすべての人の目が」イエスさまに「注がれていた」のです。すべての人々の視線がイエスさまに集中したのは、その評判を聞いて、この後、どんな勧めをするのかに注目したのです。ところで、イエスさまが開かれた「預言者イザヤの巻物」は、イエスさまが選んだのではなく、会堂長から「渡され」たものとして開かれました。61章まで目を通されたのでしょうか。それとも、意図して、この個所を開かれたのかは分かりません。けれども「次のように書いてある箇所が目に留まった」のであれば、意図してはいないようです。普通は、何気なく、この「個所が目に留まった」と言うからです。ともかく、その御言葉は、イエスさま御自身について書かれた御言葉でした。それが先程の18節19節の御言葉です。また、その御言葉は、イエスさまにおいて実現されることが約束された御言葉でもありました。そうすると、もし、この御言葉が目に留まらなかったなら、イエスさまは、御言葉を実現できなかったのかと言う人がいるかもしれません。しかし、これまで何度も言ったように、聖書の旧約は、イエスさまのことが書かれているのです。それは、救い主イエス・キリストの到来や、イエス・キリストの救いの御業(十字架と復活)について書かれています。だから、言ってみれば、どこを開いてもイエスさまに結びつく内容が書かれています。だから、イエスさまは、聖書のどこからでも御自分について、御自分が神の子、救い主であると証言できたのです。そのことに気付いた人は、幸いです。
そこでイエスさまは、21節、人々の視線に応えるように「話し始められ」ました。つまり、聖書朗読後の「勧め」、今でいう説教を為さったのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。要するに、イザヤ書61章の御言葉は、イエスさまが朗読した今日、そして、あなたがたが御言葉を耳にした今日、実現した、と話し始められたのです。ただ、イエスさまは、そのように「話し始められた」とあるので、一言のみならず、その後も、話し続けられたのです。それは、その御言葉が御自分において実現すると話されたのです。つまり、神の子、救い主である御自分の働きについて話されたのです。その御言葉は、イエスさまについて、2つのことを約束しています。まずイエスさまは「『主の霊』である聖霊(御言葉)がおられる」方であると。次にイエスさまは、それゆえに「『貧しい人』それは、御言葉に飢え渇く人々に『福音を告げ知らせる』方であると。そして、その福音は、どのような働きなのかが3つ書かれています。1つ目は「捕らわれている人」の「解放」。2つ目は「目の見えない人」の「視力」の「回復」。そして、3つ目は「圧迫されている人」の「自由」です。すなわち、イエスさまが解放と回復と自由の3つの恵み、それは「主の恵みの年を告げる」のです。これは、いわゆるイエスさまの就任説教と呼ばれます。今日、石山教会では、就任式が行なわれるので、何か巡り合わせを感じます。つまり、この石山教会に就任する者は、人々に「解放と回復と自由は、イエスさまが与えてくださる恵みだ、と、宣べ伝えよ」ということなのです。
すると、22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」のです。「この人はヨセフの子ではないか」と。 人々は、イエスさまを誉め、その恵み深い言葉に驚きました。しかし、その後に「この人はヨセフの子ではないか」という更なる驚きが続きました。最初の驚きは、単純に「すごい」という感動的な驚きですが、あとの驚きは「なぜだ」という、いぶかしがるような驚きです。だから人々は、最初にイエスさまを誉めながら、その直後に、その事実を自ら否定したのです。言葉を変えて言えば、最初は神の子だと言って喜んだのに、あとでヨセフの子(それは、マリアとヨセフの子)だと言って落胆したのです。この人々の一瞬の変化をイエスさまは見逃さないで言われました。23節「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」と。「医者よ、自分自身を治せ」というのは「医者の不養生」とも言われます。いわゆる「患者を治療するなら、まず、自分自身の健康に気を付けよ」ということです。医者を教師に変えて言えば「生徒に教えるなら、まず、自らを教育せよ」です。ただ「医者よ、自分自身を治せ」というのは、実際に人々が口にした言葉ではありません。人々が口にする前に、イエスさまが人々の考えを見抜かれたのです。ナザレの人々は、カファルナウムでイエスさまが為さった様々な奇跡について聞いていました。それは、汚れた霊を人から追い出す話しや病人の癒しの話しです。だから、ここナザレでも同じことをしてほしいと思っていたのです。つまり、ナザレの人々は、イエスさまに対して「他の町で奇跡を行なうなら、まず、自分の町ナザレで奇跡を行なえ」と思っていたのです。しかし、イエスさまは、彼らの思いを見抜いて言われました。24節「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と。そうしてイエスさまは、旧約時代の預言者エリヤとエリシャの働きについて話されました。まず、25節26節は、簡潔に言えば、預言者エリヤの時代、3年6カ月の間、雨が降らず、大飢饉に見舞われた時があったのです。その時イスラエルでは「多くのやもめ」が苦しみましたが、エリヤは、その中の誰の所にも遣わされず、異邦人が住む「シドン地方のサレプタのやもめ」のもとにだけ遣わされたのです。また、27節は、簡潔に言えば、預言者エリシャの時代、イスラエルには「重い皮膚病」の患者が大勢いたのです。しかし、エリシャは、その中の誰のところにも遣わされず、ただ「シリア人ナアマン」のもとにだけ遣わされ、彼の病は清められました。 要するにイエスさまは、預言者エリヤもエリシャも、イスラエルの人々を癒さず、ただ、異邦人だけを癒したのです。なぜなら、その2人の人物は、御言葉を信じたからです。しかし、イスラエルの人々は、誰も御言葉を信じなかったのです。そこで、28節以下には「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」とあるのです。しかし、イエスさまは「人々の間を通り抜けて立ち去られ」ました。
当時のイスラエルの人々は、イエスさまがイザヤ書61章の御言葉によって話された解放、回復、自由について、奇跡(それは、しるし)を求めたのです。つまり、今だけが良ければいいと考えたのです。その場しのぎの救いを求めたのです。ひとまず見栄えが良くなれば良かったのです。そのどれ一つを取っても、そこに、その奇跡を行なわれるイエスさまとの、直接的な出会いを求める信仰は微塵もありませんでした。だから、彼らにとってイエスさまが話された言葉は、御言葉ではなかったのです。なぜなら、その御言葉に信頼し、従っていく気など更々なかったからです。自分の思いの方が強く、自分の言葉に従っていたのです。つまり、イスラエルの人々は、御利益的な信仰を求めたのであり、神御自身との出会いを喜ぶ気持ちも、神の救いの御計画を知ろうとする気持ちも無かったのです。御言葉を、自分の欲望を満足させるための言葉にすり替えたのです。しかし、御言葉は、信じるなら、欲望とは比較にならない祝福の大いなることを知るのです。それでは「主の恵みの年」とは一体、何のことを言っているのでしょうか。それは、旧約の時代に実際にあった「ヨベルの年」のことを思い出させる言葉なのです。7年目の年を安息の年と呼びます。そして、その年が7回巡ってきた翌年、つまり50年目を「ヨベルの年」と呼んだのです。ヨベルとは、雄羊の角笛のことで、安息の年の始まりと終わりを告げる時に吹き鳴らされました。その50年目は、耕作地を休ませるだけではなく、奴隷は解放され、売った土地は持ち主の元に戻り、負債のある人は、その負債が帳消しになりました。イエスさまは、そのヨベルの年を、御自分の名において「主の恵みの年」と言われたのです。それは、ただ、物や人が持ち主のもとに戻るという意味よりも更に深い、罪赦されたすべての人が、神のもとに帰るという意味なのです。だから、イエスさまが、ここで言われた解放と回復と自由というのは、罪からの解放であり、回復であり、自由なのです。そのイエスさまを、人々は、崖から突き落とそうとしました。それは、御言葉を殺そうとしたということなのです。そして、イエスさまは、十字架の時に、すべての人々の罪の贖いとして十字架に架かり、罪からの解放と回復と自由、すなわち、復活と永遠の命の希望を私たちに与えてくださったのです。この恵み深い言葉に満たされて生きましょう。これ以上の言葉はありません。この御言葉を知る日々の積み重ねを「主の恵みの年」と言うのです。御言葉から逸れていかないでください。今日は教会の創立記念日です。今日から「主の恵みの年」を始めましょう。気持ち新たに生まれましょう。御言葉の有り難味を知ってください。この御言葉が私たちを救います。
2023年06月25日
2023年6月25日 主日礼拝説教「主の恵みの年を生きる」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記
2023年7月2日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネによる福音書1章14節〜18節
説教:「その独り子、われらの主イエス・キリスト」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書4章31節〜37節、列王記上18章30節〜40節
説 教: 「権威ある言葉」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:ヨハネによる福音書1章14節〜18節
説教:「その独り子、われらの主イエス・キリスト」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書4章31節〜37節、列王記上18章30節〜40節
説 教: 「権威ある言葉」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:13| 日記
2023年06月18日
2023年6月18日 主日礼拝説教「聖霊の力に満ちて」大坪信章牧師
ルカによる福音書4章1節〜14節、申命記8章1〜10節
説 教 「聖霊の力に満ちて」大坪信章牧師
1節に、こうあります。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と。イエスさまは、聖霊に満ちておられます。というのは、この直前にイエスさまは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、悔い改めの洗礼を受けられたからです。その時、3章22節によれば「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って」来たのです。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。いわゆる、これが洗礼なのです。洗礼への入り口は悔い改めです。その時、水は、その人にとって水の中に沈む、つまり、それは自分に死ぬことを意味します。その後、水の中から上がることになりますが、上がれば、それで新しい命を生きることにはなりません。なぜなら、イエスさまは「洗礼を受けて祈っておられると」と続くからです。祈りとは礼拝のことでもあります。要するに、イエスさまは、洗礼を受けて礼拝されたのです。その時「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で」降って来たのです。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。つまり、神の言葉(御言葉)が聞こえたのです。
この聖霊、それは、御言葉こそが、洗礼を受けて自分に死んだ者に与えられる新しい命なのです。だから、洗礼は受けたら、それで終わりではありません。悔い改めから始まった洗礼は、祈り(それは、礼拝)へと繋がり、その礼拝から聖霊(それは御言葉)へと繋がっているのです。特に祈りと聖霊、それは、礼拝と御言葉は、密接な関係にあります。この礼拝と御言葉こそ、洗礼を受けて自分に死んだ人にとって、新しい命を生きる力です。だから、洗礼は、受けたらそれで終わりではありません。受けたら、そこからが始まりなのです。新しい命を生きることが始まるのです。これから洗礼を受ける人は、これから新しい命を生きることが、聖霊、すなわち、御言葉によって始まるのです。もし、洗礼を受けたのに、まだ始まっていない人がいれば、今すぐに始めてください。礼拝で、聖霊を、それは御言葉を受けて、新しい命を始めてください。それは、とても嬉しいことなのです。聖書には、洗礼について説明している御言葉があります。それを見ればよく分かります。ペトロの手紙1、3章21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」とあります。この「正しい良心」こそ聖霊であり御言葉です。因みに、この聖霊は、求めるものの中で、一番、良いものと言われています。また、求めるなら必ず与えられるものでもあります。それは、この福音書の11章13節でイエスさまが言っておられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。ですから、聖霊の力に満ちるというのは、神の言葉、御言葉に満ちるということなのです。それは「正しい良心」に満ちること、神の御心を我が心とすることなのです。
こうして、イエスさまは、聖霊の力に満ちてヨルダン川からお帰りになりました。帰られたと言っても、これは、ヨルダン川を後にしたということです。なぜなら、その後、このように話しは続くからです。1節、2節「そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」と。イエスさまは、4章15節でガリラヤに帰られます。しかし、その途中、荒れ野を通られたのです。この荒れ野は、ヨルダン川からガリラヤに向かう道の途上にあります。丁度、ヨルダン川に近いエリコの町から、約10キロ西にある山と言われています。現在は「誘惑の山」と呼ばれています。イエスさまは自ら、そこを目指したのではありません。洗礼を受け、ガリラヤに帰ろうとしておられたイエスさまを、“霊”が、荒れ野(誘惑の山)へ導いたのです。それは、悪霊ではなく聖霊です。聖霊がイエスさまを「引き回した」のです。そして、イエスさまは、その荒れ野で「四十日間、悪魔から誘惑を受けられ」たのです。40日と言えば、旧約のノアの箱舟の物語で、40日40夜、雨が降り続いた試練の出来事や、イスラエルの民が余儀なくされた、40年の荒れ野の試練に思いが至ります。この試練については、後程また、取り扱います。
そして何より、モーセがシナイ山で、神さまから、十戒を記した2枚の石の板を再授与された時のことが思い起こされるのです。モーセは、初めに授与された、神の指で記された十戒の2枚の石の板を持って、山を下りました。すると、山の麓では、モーセの兄アロンが民に唆されて、金の子牛の偶像を作っていたのです。そこでモーセは、持っていた石板を山の麓で投げつけ、石板は粉々に砕け散りました。そのため、神さまは、その出来事の後で、再び十戒を記した2枚の石の板を、モーセに再授与されたのです。その時モーセは、シナイ山に40日40夜とどまったのです。これら旧約の時代の40という数字は、すべて試練を意味する期間でした。しかもモーセは、その40日間「パンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」と、出エジプト記34章28節にあるのです。そう考えると、モーセのシナイ山の40日と、イエスさまの荒れ野(誘惑の山)の40日には、多くの共通点があります。中でも、御言葉の共通点を、私たちは心に留める必要があります。モーセは、シナイ山にとどまった40日後に、自ら用意した2枚の石の板に「契約の言葉」である十戒の御言葉を刻みました。そして、イエスさまは、その40日後に、14節「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」のです。つまり、聖霊の力、御言葉の力に満たされ、御言葉を、その心に刻まれたのです。
それにしても、です。40日間も聖霊がイエスさまを引き回すという言葉の表現が信じられないような気もするのです。イエスさまが洗礼を受けられた時、聖霊は、柔和な鳩のようでした。また、その直後に続いた神の言葉(御言葉)は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、愛と信頼に満ちた言葉でした。そのような聖霊の、そのような御言葉の余韻冷めやらぬままに、聖霊は、イエスさまを引き回したのです。引き回すというのは、見せしめのために、罪人が市中を引き回されるようなイメージがあって、どう考えても、聖霊に似つかわしくありません。けれども、マタイ福音書に記されている、この同じ物語には、イエスさまが「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(4章1節)とあるのです。だから、聖霊がイエスさまを「引き回された」のは、誘導であり、指導であり、ガイド(道案内)のことなのです。それも、今、帰る途上にあるガリラヤまでの道案内では、勿論ありません。それは、イエスさまが、これから果たそうとしておられる、十字架と復活の救いの使命を導く道案内です。
このような試練については、新約のヘブライ人への手紙12章5節から7節で、それは「鍛錬」という性質があると説明されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」と。しかし、この試練の中で、イエスさまを誘導でも、指導でもなく、誘惑し、道を踏み外させようとした存在こそ悪魔(サタン)なのです。すべての誘惑は、このサタンの仕業です。この誘惑については、新約のヤコブ書1章12節から15節に、試練との兼ね合いで説明されています。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と。
このように考えると、誘惑は、確かに人を惑わしますが、それは、突発的であり、また、部分的です。そして、思い付きのような、確固たる土台のない、ふわふわと浮いたような出来事に過ぎません。しかし、試練は、今、引用した御言葉からも分かるように、神の御計画であり、神の国の全体像を視野に入れてあるものです。また、それは、粛々と進められ、確固たる土台がある、どっしりとした出来事なのです。その土台こそが、祈り(礼拝)であり、また、聖霊(御言葉)なのです。これらは、先程の引用した御言葉によれば「上から、光の源である御父から来る」「良い贈り物、完全な賜物」です。だから、祈り(礼拝)、聖霊(御言葉)を軽んじるということは「良い贈り物、完全な賜物」を拒絶したのと同じなのです。私たちは、記念すべき日には何かしらのプレゼントをもらったのです。それは、本当に嬉しいものです。でも、灯台もと暗しと言うのでしょうか。神さまは、祈りと聖霊、それは、礼拝と御言葉という良い贈り物、完全な賜物を、一年に一度や特別の日だけではなく、毎週、いえ、毎日、日毎の糧として与えてくださっているのです。そのことに気付いた人は幸いです。イエスさまは、それを、この荒れ野の誘惑という出来事の中で、身をもって教えてくださったのです。
そうして、40日の期間が終わった時、悪魔はイエスさまに言いました。3節「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」 と。悪魔は、40日間、何も食べず、空腹を覚えられたイエスさまが、神の子だと分かった上で誘惑したのです。「荒れ野に、ごろごろと転がっている石をパンに変える奇跡なんて容易いだろう」と。しかし、イエスさまは、4節「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった」のです。これは、旧約の申命記8章3節の御言葉を引用でした。この「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉の続きは「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」です。つまり、人は御言葉によっても生きるものなのです。そして、この御言葉は、神がイスラエルの民に、40年の荒れ野を思い起こさせて言われた言葉だったのです。すなわち、荒れ野の40年の試練は、正に、人は御言葉によって生きることを知らせるためだったのです。その続きには、次のようにも語られています。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)と。
更に、5節から7節を見ると「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」のです。そして、言いました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。先週の礼拝では、主の祈りの最後を子どもたちと共に学びました。「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」と。悪魔は、自分を拝めば、その国と力(権力)と栄(繁栄)を与えようと言うのです。しかし、それは、本当にすごい、本当に素晴らしい御業を為さる神さまだけに相応しいのです。だから、イエスさまも当然、8節「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、お答えになりました。これは、旧約の申命記6章13節の御言葉を引用でした。
そこで、悪魔は、最後にイエスさまを誘惑の山から差ほど遠くない、9節「エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』と。そして、この最後の誘惑で、悪魔は、聖書の御言葉、これは、詩編91篇11節、12節の御言葉まで引用して言ったのです。10節「というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、11節『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と。これに対して、イエスさまは、12節「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。これは、旧約の申命記6章16節の御言葉の引用でした。今、イエスさまは、神さまから試されているのです。私たちも、いつだって試されているのです。それは、信仰があるのかないのかを試されているのです。それなのに、私たちは「神さまが、こうしてくれたら信じる」とか「自分の思い通りにしてくれたら信じる」と言い出すのです。自分の思い通りにしてきた結果、それが滅びに至る道だと知ったからこそ、私たちはイエスさまを信じ、従うと決めたのです。それを今更、神さまを信じ従う者から、自分の思いのままに神さまを従える者になっているのであれば、その立場の逆転に気付かないのであれば、その人は幸いとは言えません。
こうして、13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」のです。一方、悪魔の誘惑に勝利され、試練を乗り越えられたイエスさまは、14節「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られ」ました。それは、聖霊の力、御言葉の力に満ちておられたのです。そして「その評判が周りの地方一帯に広まった」とあります。その評判とは、御言葉による勝利の生活でした。悪魔は十字架の時に、再びイエスさまを誘惑しましたが、イエスさまは御言葉によって勝利し、私たちの罪の報酬である死にも打ち勝たれたのです。こうしてイエスさまは、その生涯を通じて、身をもって教えてくださったのです。神の子どもとされた人々は、どのような時も、御言葉によって生きるということを。私たちは、この方を信じることによって、また、この方に従うことによって開かれる道を、聖霊の力に満ちて真っ直ぐに歩んでいきましょう。
説 教 「聖霊の力に満ちて」大坪信章牧師
1節に、こうあります。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と。イエスさまは、聖霊に満ちておられます。というのは、この直前にイエスさまは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、悔い改めの洗礼を受けられたからです。その時、3章22節によれば「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って」来たのです。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。いわゆる、これが洗礼なのです。洗礼への入り口は悔い改めです。その時、水は、その人にとって水の中に沈む、つまり、それは自分に死ぬことを意味します。その後、水の中から上がることになりますが、上がれば、それで新しい命を生きることにはなりません。なぜなら、イエスさまは「洗礼を受けて祈っておられると」と続くからです。祈りとは礼拝のことでもあります。要するに、イエスさまは、洗礼を受けて礼拝されたのです。その時「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で」降って来たのです。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。つまり、神の言葉(御言葉)が聞こえたのです。
この聖霊、それは、御言葉こそが、洗礼を受けて自分に死んだ者に与えられる新しい命なのです。だから、洗礼は受けたら、それで終わりではありません。悔い改めから始まった洗礼は、祈り(それは、礼拝)へと繋がり、その礼拝から聖霊(それは御言葉)へと繋がっているのです。特に祈りと聖霊、それは、礼拝と御言葉は、密接な関係にあります。この礼拝と御言葉こそ、洗礼を受けて自分に死んだ人にとって、新しい命を生きる力です。だから、洗礼は、受けたらそれで終わりではありません。受けたら、そこからが始まりなのです。新しい命を生きることが始まるのです。これから洗礼を受ける人は、これから新しい命を生きることが、聖霊、すなわち、御言葉によって始まるのです。もし、洗礼を受けたのに、まだ始まっていない人がいれば、今すぐに始めてください。礼拝で、聖霊を、それは御言葉を受けて、新しい命を始めてください。それは、とても嬉しいことなのです。聖書には、洗礼について説明している御言葉があります。それを見ればよく分かります。ペトロの手紙1、3章21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」とあります。この「正しい良心」こそ聖霊であり御言葉です。因みに、この聖霊は、求めるものの中で、一番、良いものと言われています。また、求めるなら必ず与えられるものでもあります。それは、この福音書の11章13節でイエスさまが言っておられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。ですから、聖霊の力に満ちるというのは、神の言葉、御言葉に満ちるということなのです。それは「正しい良心」に満ちること、神の御心を我が心とすることなのです。
こうして、イエスさまは、聖霊の力に満ちてヨルダン川からお帰りになりました。帰られたと言っても、これは、ヨルダン川を後にしたということです。なぜなら、その後、このように話しは続くからです。1節、2節「そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」と。イエスさまは、4章15節でガリラヤに帰られます。しかし、その途中、荒れ野を通られたのです。この荒れ野は、ヨルダン川からガリラヤに向かう道の途上にあります。丁度、ヨルダン川に近いエリコの町から、約10キロ西にある山と言われています。現在は「誘惑の山」と呼ばれています。イエスさまは自ら、そこを目指したのではありません。洗礼を受け、ガリラヤに帰ろうとしておられたイエスさまを、“霊”が、荒れ野(誘惑の山)へ導いたのです。それは、悪霊ではなく聖霊です。聖霊がイエスさまを「引き回した」のです。そして、イエスさまは、その荒れ野で「四十日間、悪魔から誘惑を受けられ」たのです。40日と言えば、旧約のノアの箱舟の物語で、40日40夜、雨が降り続いた試練の出来事や、イスラエルの民が余儀なくされた、40年の荒れ野の試練に思いが至ります。この試練については、後程また、取り扱います。
そして何より、モーセがシナイ山で、神さまから、十戒を記した2枚の石の板を再授与された時のことが思い起こされるのです。モーセは、初めに授与された、神の指で記された十戒の2枚の石の板を持って、山を下りました。すると、山の麓では、モーセの兄アロンが民に唆されて、金の子牛の偶像を作っていたのです。そこでモーセは、持っていた石板を山の麓で投げつけ、石板は粉々に砕け散りました。そのため、神さまは、その出来事の後で、再び十戒を記した2枚の石の板を、モーセに再授与されたのです。その時モーセは、シナイ山に40日40夜とどまったのです。これら旧約の時代の40という数字は、すべて試練を意味する期間でした。しかもモーセは、その40日間「パンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」と、出エジプト記34章28節にあるのです。そう考えると、モーセのシナイ山の40日と、イエスさまの荒れ野(誘惑の山)の40日には、多くの共通点があります。中でも、御言葉の共通点を、私たちは心に留める必要があります。モーセは、シナイ山にとどまった40日後に、自ら用意した2枚の石の板に「契約の言葉」である十戒の御言葉を刻みました。そして、イエスさまは、その40日後に、14節「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」のです。つまり、聖霊の力、御言葉の力に満たされ、御言葉を、その心に刻まれたのです。
それにしても、です。40日間も聖霊がイエスさまを引き回すという言葉の表現が信じられないような気もするのです。イエスさまが洗礼を受けられた時、聖霊は、柔和な鳩のようでした。また、その直後に続いた神の言葉(御言葉)は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、愛と信頼に満ちた言葉でした。そのような聖霊の、そのような御言葉の余韻冷めやらぬままに、聖霊は、イエスさまを引き回したのです。引き回すというのは、見せしめのために、罪人が市中を引き回されるようなイメージがあって、どう考えても、聖霊に似つかわしくありません。けれども、マタイ福音書に記されている、この同じ物語には、イエスさまが「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(4章1節)とあるのです。だから、聖霊がイエスさまを「引き回された」のは、誘導であり、指導であり、ガイド(道案内)のことなのです。それも、今、帰る途上にあるガリラヤまでの道案内では、勿論ありません。それは、イエスさまが、これから果たそうとしておられる、十字架と復活の救いの使命を導く道案内です。
このような試練については、新約のヘブライ人への手紙12章5節から7節で、それは「鍛錬」という性質があると説明されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」と。しかし、この試練の中で、イエスさまを誘導でも、指導でもなく、誘惑し、道を踏み外させようとした存在こそ悪魔(サタン)なのです。すべての誘惑は、このサタンの仕業です。この誘惑については、新約のヤコブ書1章12節から15節に、試練との兼ね合いで説明されています。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と。
このように考えると、誘惑は、確かに人を惑わしますが、それは、突発的であり、また、部分的です。そして、思い付きのような、確固たる土台のない、ふわふわと浮いたような出来事に過ぎません。しかし、試練は、今、引用した御言葉からも分かるように、神の御計画であり、神の国の全体像を視野に入れてあるものです。また、それは、粛々と進められ、確固たる土台がある、どっしりとした出来事なのです。その土台こそが、祈り(礼拝)であり、また、聖霊(御言葉)なのです。これらは、先程の引用した御言葉によれば「上から、光の源である御父から来る」「良い贈り物、完全な賜物」です。だから、祈り(礼拝)、聖霊(御言葉)を軽んじるということは「良い贈り物、完全な賜物」を拒絶したのと同じなのです。私たちは、記念すべき日には何かしらのプレゼントをもらったのです。それは、本当に嬉しいものです。でも、灯台もと暗しと言うのでしょうか。神さまは、祈りと聖霊、それは、礼拝と御言葉という良い贈り物、完全な賜物を、一年に一度や特別の日だけではなく、毎週、いえ、毎日、日毎の糧として与えてくださっているのです。そのことに気付いた人は幸いです。イエスさまは、それを、この荒れ野の誘惑という出来事の中で、身をもって教えてくださったのです。
そうして、40日の期間が終わった時、悪魔はイエスさまに言いました。3節「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」 と。悪魔は、40日間、何も食べず、空腹を覚えられたイエスさまが、神の子だと分かった上で誘惑したのです。「荒れ野に、ごろごろと転がっている石をパンに変える奇跡なんて容易いだろう」と。しかし、イエスさまは、4節「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった」のです。これは、旧約の申命記8章3節の御言葉を引用でした。この「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉の続きは「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」です。つまり、人は御言葉によっても生きるものなのです。そして、この御言葉は、神がイスラエルの民に、40年の荒れ野を思い起こさせて言われた言葉だったのです。すなわち、荒れ野の40年の試練は、正に、人は御言葉によって生きることを知らせるためだったのです。その続きには、次のようにも語られています。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)と。
更に、5節から7節を見ると「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」のです。そして、言いました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。先週の礼拝では、主の祈りの最後を子どもたちと共に学びました。「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」と。悪魔は、自分を拝めば、その国と力(権力)と栄(繁栄)を与えようと言うのです。しかし、それは、本当にすごい、本当に素晴らしい御業を為さる神さまだけに相応しいのです。だから、イエスさまも当然、8節「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、お答えになりました。これは、旧約の申命記6章13節の御言葉を引用でした。
そこで、悪魔は、最後にイエスさまを誘惑の山から差ほど遠くない、9節「エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』と。そして、この最後の誘惑で、悪魔は、聖書の御言葉、これは、詩編91篇11節、12節の御言葉まで引用して言ったのです。10節「というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、11節『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と。これに対して、イエスさまは、12節「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。これは、旧約の申命記6章16節の御言葉の引用でした。今、イエスさまは、神さまから試されているのです。私たちも、いつだって試されているのです。それは、信仰があるのかないのかを試されているのです。それなのに、私たちは「神さまが、こうしてくれたら信じる」とか「自分の思い通りにしてくれたら信じる」と言い出すのです。自分の思い通りにしてきた結果、それが滅びに至る道だと知ったからこそ、私たちはイエスさまを信じ、従うと決めたのです。それを今更、神さまを信じ従う者から、自分の思いのままに神さまを従える者になっているのであれば、その立場の逆転に気付かないのであれば、その人は幸いとは言えません。
こうして、13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」のです。一方、悪魔の誘惑に勝利され、試練を乗り越えられたイエスさまは、14節「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られ」ました。それは、聖霊の力、御言葉の力に満ちておられたのです。そして「その評判が周りの地方一帯に広まった」とあります。その評判とは、御言葉による勝利の生活でした。悪魔は十字架の時に、再びイエスさまを誘惑しましたが、イエスさまは御言葉によって勝利し、私たちの罪の報酬である死にも打ち勝たれたのです。こうしてイエスさまは、その生涯を通じて、身をもって教えてくださったのです。神の子どもとされた人々は、どのような時も、御言葉によって生きるということを。私たちは、この方を信じることによって、また、この方に従うことによって開かれる道を、聖霊の力に満ちて真っ直ぐに歩んでいきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:09| 日記