2023年06月04日

2023年6月4日 主日礼拝説教「神の心に適う者」大坪信章牧師

ルカによる福音書3章21節〜38節、イザヤ書42章1〜4節             
説 教「神の心に適う者」大坪信章牧師

 今日は、聖霊降臨節第2主日です。先週の聖霊降臨日、ペンテコステ、教会の誕生日から1週間が経ちました。また、今日は、三位一体主日でもあります。教会の暦では、ペンテコステの次の日曜日が、この三位一体主日となります。週報にも記載している通り、三位一体とは、父なる神(造り主)、子なる神(救い主)、そして、聖霊なる神(助け主)が一つの神であるということです。この場合、三つの位に優劣をつけることは相応しくありません。三位一体の理解で考えさせられたのは、昔、神学生の頃だったか、同じ学生の友人から聞いたことが、いつも思い出されます。それは、ボールペンで紙に黒い点を付けるのですが、それを1回として、もうあと2回、同じ黒い点の上に点をつけるのです。残っているのは1つの黒い点だけですが、それは、3つの点でもあるのです。ただ、それも、最初に付けた点と最後に付けた点に時間差がありますから、厳密に言えば違います。確かに、歴史的には、父なる神が造り主として現われ、子なる神が救い主として現われ、聖霊なる神が助け主として現われるという順序です。けれども、事実は、その順序が先ではなく、神は一つ(唯一)であるというところから、すべてが始まっています。その時から、神は三位一体であられたのです。創世記の一番初めに戻れば、父と子と聖霊の存在を聞き取ることができます。また、図で表される三位一体は、父と子と聖霊の文字が、円を描くように書かれることが多いです。そこには、父と子と聖霊の交わりというメッセージが込められています。信じるなら、私たちもその交わりの中にいます。私たちは、洗礼を受けた時から、その交わりの中にいます。なぜなら、人は誰でも、イエスさまを信じれば、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けるからです。また、人は誰でも、礼拝の最後に、父と子と聖霊の名によって祝福を受け、世に遣わされるからです。だから「神が私たちと共にいてくださる」というのは、まさに、この「三位一体の神が共にいてくださる」ということなのです。その実感は、ただ、御言葉に耳を傾けて聴くことにより、それも、イエス・キリストの言葉を聴くことによって湧いてきます。要するに、イエス・キリストを聞くこと、イエス・キリストを知ることによって湧き上がるのです。だから、人は誰でも、御言葉によって洗礼を受けたのです。また、御言葉によって祝福を受け、世に遣わされるのです。なぜなら、人は誰も、御言葉によらなければ、イエスがキリストであると知ることはできないからです。このことは、今日の聖書の物語であるイエスさまの洗礼物語からも知ることができます。

 というより、このイエスさまの洗礼物語は、三位一体の神を説明するには、ものすごく分かりやすい物語だと言えます。なぜなら、実際に、この物語には、父と子と聖霊が、それは、目に見える姿で現れているからです。この物語は、これまで聞いてきた聖書の物語、それは、洗礼者ヨハネの物語に続く物語です。洗礼者ヨハネは、民衆に「悔い改めの洗礼」を呼びかけていました。しかし、それを聞いて集まってきた民衆には、次のように話したのです。16節「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。このヨハネよりも「優れた方」こそ、私たちの主イエスさまです。この方は「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」方なのです。イエスさまは、ヨハネが授ける「悔い改めの洗礼」(水のバプテスマ)では拭いきれない罪を「聖霊と火の洗礼」(聖霊のバプテスマ)を授けることによって赦してくださるのです。そして、新しい命である永遠の命を与えてくださるのです。このようにして、洗礼者ヨハネは、自分の後から来られる方、それは、イエスさまが自分に優り、自分とは全く比較にならない方だと言ったのです。そして、そのイエスさまが、子なる神(救い主9として来られたのです。このイエスさまは、洗礼者ヨハネよりも優れた方なので、すぐにヨハネの前に出て行かれたかと言えば、そうではありませんでした。21節を見ると、イエスさまは、民衆が洗礼をヨハネから受けていた時に、その民衆の中の一人として、それは、ヨハネから洗礼を受ける者たちの列に並ばれたのです。洗礼者ヨハネが証しした内容によれば、イエスさまは、順番を待って列に並ぶ必要など全くないのです。例えば、コンサートの歌手が、チケットを持って、コンサート会場の長蛇の列に並んだりするでしょうか。しません。むしろ、真っ先にステージに上がります。たとえ、諸事情があって遅れて来たとしても、向かうはステージです。イエスさまも真っ先にヨハネの前に立ち「聖霊と火の洗礼」を民衆に授けてもおかしくない、いえ、そうするべきなのに順番を待っておられたのです。しかも「悔い改めの洗礼」を受けるために…。何だか、何もかもが、おかしいなと思うのです。

 だから、マタイによる福音書に記されている、同じイエスさまの洗礼の物語では、ヨハネがイエスさまに、こう言っているのです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」(3章14節)すると、イエスさまは言われたのです。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(同15節)と。イエスさまは「今は、止めないでほしい」と言っておられます。ということは、もし、このことが将来、行われるのであれば、その時は、止めてくれということになります。今、イエスさまは受肉された、神の子であり、人の子でもあるキリスト・イエスとして現れました。しかし、イエスさまの将来は、復活し、栄光に輝く御姿で天に昇られます。だから、もし、その時に、このようなことが行われるのであれば、止めてほしいということになります。つまり、今、イエスさまは、神の御子でありながら、人の子でもあるからこそ、神の御子が通るべき道だけでなく、人が通るべき道をも通られるのです。それが、悔い改めて神に立ち帰るという道であり、罪を自覚し、罪を認める心なのです。だとしても、神の御子であるイエスさま御自身に罪があったと言うのではありません。イエスさまにとっての罪の自覚とは、御自分が罪人の一人に数えられ、多くの人々の罪を背負うという自覚だからです。また、イエスさまにとっての罪を認める心とは、多くの人々の罪が赦されるために、御自分が、その罪のための犠牲の小羊となると認めることだからです。要するに、イエスさまは、悔い改めの洗礼を受けに来た人々、それは「人間と同じ者」(フィリピの信徒への手紙2章7節)になられたのです。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼を受けに来た人々に言いました。4節「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と。イエスさまもまた「主の道を整え」られたのです。それは、人の子として、ご自分の思いや心を優先する道ではなく、神の御子として、神の思いと神の御心を優先する道を整えられたのです。そのことは、苦難が始まる十字前夜に、イエスさまが、ゲッセマネの祈りの中で、もう一度、はっきりされたことでした。その時、イエスさまは、こう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)と。

 そして、とうとう順番が回って来ました。イエスさまは、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから「悔い改めの洗礼」(水のバプテスマ)を授けてもらったのです。そうして、21節「…イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け」とあります。これは、天が裂けたのです。天が裂けたということは、そこから神が見えるのです。しかし、聖書は、神を見た者は死ぬと言っています。だから、父と子と聖霊が見える姿で現れると言っても、父なる神が、実際、人間の目に見えるということはありませんし、あってはならないのです。すると「天が開け」た後、続いて、22節には「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあるのです。聖霊も、普通、人間の目に見えませんが、ここでは、確かに「鳩のように目に見える姿」で、イエスさまの上に「降って来た」とあります。これは、決して、聖霊が「鳩」であるということではなく、飽く迄も「鳩のように」です。それは、他に連想するとすれば「主の天使」のように見えたのです。ただ、聖書は「主の天使のように」聖霊が目に見える姿で現れたとは言わなかったのです。なぜなら、主の天使は、御言葉を取り次ぐ存在だからです。しかし、聖霊は、御言葉を取り次ぐ存在ではありません。聖霊は、神の言葉(御言葉)そのものだからです。それでは、なぜ「鳩」なのかと言われれば、それは、ノアの大洪水の時代に思いを馳せることへと導かれます。ノアは、水が完全に引き、陸地が現れたかどうかを確かめようとした時、最後に鳩を放ちました。すると、鳩は、オリーブの葉をくわえて帰って来たのです。それは、良い知らせ(平和)を告げる存在として帰って来たのです。同様に、聖霊もまた、良い知らせを告げる神の言葉として、ここに現われているのです。それは、世を救う神の言葉(御言葉)として、イエス・キリストを証しするために現われているのです。こうして、聖霊が目に見える姿で現れることによって、人の目は、聖霊のほうに向けられたわけです。だから、その代わりと言っては何ですが、誰もが神を見ることの危険に遭わずに済んだとも言えます。いずれにしろ、ここには、目に見える姿で、父と子と聖霊の三位一体の神を、私たちは認めることができるのです。

 しかし、くどいですが、厳密に言えば神を見ることはできません。ただ「天が開け」ということで、そのことを見て感じ取ることならできます。ただ、私たちは、このイエスさまの洗礼の出来事の中で、より確かな仕方で、父なる神の存在を認めることができるのです。なぜなら、聖霊が、イエスさまの上に降ると同時に、天から聞こえたからです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が。要するに神の言葉(御言葉)が聞こえたのであり、それが、イエスさまの上に降った、ということは、イエスさまを証したからです。それも、主の天使のような、神の言葉を取り次ぐ存在を介することなく、直接、御言葉が、イエスさまの上に降ったのです。聖霊が降ると同時に「わたしの心に適う者」と。これは、他の訳では「わたしはあなたを喜ぶ」とか「あなたはわたしの誇りだ」とあります。それは、イエスさまが、神の御言葉に従順であられたことによります。イエスさまは、この洗礼の出来事によって、人類の罪のための十字架の死を受け入れられたのです。それは、旧約聖書に書かれた御言葉の実現者としての姿でもあります。つまり、神が、罪を背負い、罪のために十字架で死なれるイエスさまを愛されたのです。また、それだけではなく、そのイエスさまを「御心に適う者」と呼び、喜び、誇りに思われたのは、ただただ、御言葉への従順さのゆえだったのです。その御子イエス・キリストに、神は聖霊を(御言葉を)注がれたのです。23節を見ると、こうして、イエスさまが「宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」とあります。これは、旧約の律法で、聖職者としての務めは、30歳からと決まっていたからです。

 ところで、このイエスさまは、人々からは「ヨセフの子と思われて」いましが、23節〜38節までのところに、ヨセフから始まってアダム、更には、神に至るイエスさまの系図が記されています。これと比較対照されるマタイ福音書の系図のほうは、ヨセフからアブラハムに至るまで続いています。それは、マタイ福音書が、ユダヤ人に向けて、ルカ福音書が、異邦人に向けて書かれているためという説があります。また、それぞれの福音書を比較すれば、先祖の名前の違いが顕著に表れているのですが、それは、マタイ福音書がヨセフの家系、ルカ福音書がマリアの家系で繋がっているためと言われたりもします。ただ、このルカ福音書は、イエスさまが「ヨセフの子と思われていた」それは、人の子と思われていたけれども、実に、神の子であったということを証明するための系図なのです。私たちもまた、そのことは、常に問われているのです。人としての人生を全うするのか、それとも、悔い改めて神に立ち帰り、聖霊と火の洗礼を受け、御言葉によって神の子とされた人生を全うするのかということです。しかし、私たちが、こうして主の御前に集い、御言葉によって生きる生活の土台を、きちんと作り上げるなら、今日も、これからも、私たちの上には聖霊が、御言葉が降るのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。そして、御言葉は、どんな時も私たちを救うのです。それは、御言葉が、イエス・キリストの十字架と復活の救いを思い出させてくださるからです。私たちは、この御言葉によって生きるなら、ただ年を重ね、弱り果てていくだけの人生ではありません。神の子どもへと返る、それは、神の子どもに向かって成長していく人生なのです。それが、御言葉によって生きる人々の、心からの喜びであり感謝です。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:10| 日記

2023年6月11日 礼拝予告

〇教会学校 10時30分〜の子どもの日・花の日合同礼拝に合流します。
      通常の9時15分〜の礼拝はありません。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ユダの手紙24節〜25節、歴代誌上29章10節〜13節
説 教: 「さんびは主のもの」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:43| 日記