2023年06月18日

2023年6月18日 主日礼拝説教「聖霊の力に満ちて」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章1節〜14節、申命記8章1〜10節
説 教 「聖霊の力に満ちて」大坪信章牧師

 1節に、こうあります。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と。イエスさまは、聖霊に満ちておられます。というのは、この直前にイエスさまは、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから、悔い改めの洗礼を受けられたからです。その時、3章22節によれば「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って」来たのです。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。いわゆる、これが洗礼なのです。洗礼への入り口は悔い改めです。その時、水は、その人にとって水の中に沈む、つまり、それは自分に死ぬことを意味します。その後、水の中から上がることになりますが、上がれば、それで新しい命を生きることにはなりません。なぜなら、イエスさまは「洗礼を受けて祈っておられると」と続くからです。祈りとは礼拝のことでもあります。要するに、イエスさまは、洗礼を受けて礼拝されたのです。その時「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で」降って来たのです。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。つまり、神の言葉(御言葉)が聞こえたのです。

 この聖霊、それは、御言葉こそが、洗礼を受けて自分に死んだ者に与えられる新しい命なのです。だから、洗礼は受けたら、それで終わりではありません。悔い改めから始まった洗礼は、祈り(それは、礼拝)へと繋がり、その礼拝から聖霊(それは御言葉)へと繋がっているのです。特に祈りと聖霊、それは、礼拝と御言葉は、密接な関係にあります。この礼拝と御言葉こそ、洗礼を受けて自分に死んだ人にとって、新しい命を生きる力です。だから、洗礼は、受けたらそれで終わりではありません。受けたら、そこからが始まりなのです。新しい命を生きることが始まるのです。これから洗礼を受ける人は、これから新しい命を生きることが、聖霊、すなわち、御言葉によって始まるのです。もし、洗礼を受けたのに、まだ始まっていない人がいれば、今すぐに始めてください。礼拝で、聖霊を、それは御言葉を受けて、新しい命を始めてください。それは、とても嬉しいことなのです。聖書には、洗礼について説明している御言葉があります。それを見ればよく分かります。ペトロの手紙1、3章21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」とあります。この「正しい良心」こそ聖霊であり御言葉です。因みに、この聖霊は、求めるものの中で、一番、良いものと言われています。また、求めるなら必ず与えられるものでもあります。それは、この福音書の11章13節でイエスさまが言っておられます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。ですから、聖霊の力に満ちるというのは、神の言葉、御言葉に満ちるということなのです。それは「正しい良心」に満ちること、神の御心を我が心とすることなのです。

 こうして、イエスさまは、聖霊の力に満ちてヨルダン川からお帰りになりました。帰られたと言っても、これは、ヨルダン川を後にしたということです。なぜなら、その後、このように話しは続くからです。1節、2節「そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」と。イエスさまは、4章15節でガリラヤに帰られます。しかし、その途中、荒れ野を通られたのです。この荒れ野は、ヨルダン川からガリラヤに向かう道の途上にあります。丁度、ヨルダン川に近いエリコの町から、約10キロ西にある山と言われています。現在は「誘惑の山」と呼ばれています。イエスさまは自ら、そこを目指したのではありません。洗礼を受け、ガリラヤに帰ろうとしておられたイエスさまを、“霊”が、荒れ野(誘惑の山)へ導いたのです。それは、悪霊ではなく聖霊です。聖霊がイエスさまを「引き回した」のです。そして、イエスさまは、その荒れ野で「四十日間、悪魔から誘惑を受けられ」たのです。40日と言えば、旧約のノアの箱舟の物語で、40日40夜、雨が降り続いた試練の出来事や、イスラエルの民が余儀なくされた、40年の荒れ野の試練に思いが至ります。この試練については、後程また、取り扱います。

 そして何より、モーセがシナイ山で、神さまから、十戒を記した2枚の石の板を再授与された時のことが思い起こされるのです。モーセは、初めに授与された、神の指で記された十戒の2枚の石の板を持って、山を下りました。すると、山の麓では、モーセの兄アロンが民に唆されて、金の子牛の偶像を作っていたのです。そこでモーセは、持っていた石板を山の麓で投げつけ、石板は粉々に砕け散りました。そのため、神さまは、その出来事の後で、再び十戒を記した2枚の石の板を、モーセに再授与されたのです。その時モーセは、シナイ山に40日40夜とどまったのです。これら旧約の時代の40という数字は、すべて試練を意味する期間でした。しかもモーセは、その40日間「パンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した」と、出エジプト記34章28節にあるのです。そう考えると、モーセのシナイ山の40日と、イエスさまの荒れ野(誘惑の山)の40日には、多くの共通点があります。中でも、御言葉の共通点を、私たちは心に留める必要があります。モーセは、シナイ山にとどまった40日後に、自ら用意した2枚の石の板に「契約の言葉」である十戒の御言葉を刻みました。そして、イエスさまは、その40日後に、14節「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」のです。つまり、聖霊の力、御言葉の力に満たされ、御言葉を、その心に刻まれたのです。

 それにしても、です。40日間も聖霊がイエスさまを引き回すという言葉の表現が信じられないような気もするのです。イエスさまが洗礼を受けられた時、聖霊は、柔和な鳩のようでした。また、その直後に続いた神の言葉(御言葉)は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、愛と信頼に満ちた言葉でした。そのような聖霊の、そのような御言葉の余韻冷めやらぬままに、聖霊は、イエスさまを引き回したのです。引き回すというのは、見せしめのために、罪人が市中を引き回されるようなイメージがあって、どう考えても、聖霊に似つかわしくありません。けれども、マタイ福音書に記されている、この同じ物語には、イエスさまが「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(4章1節)とあるのです。だから、聖霊がイエスさまを「引き回された」のは、誘導であり、指導であり、ガイド(道案内)のことなのです。それも、今、帰る途上にあるガリラヤまでの道案内では、勿論ありません。それは、イエスさまが、これから果たそうとしておられる、十字架と復活の救いの使命を導く道案内です。

 このような試練については、新約のヘブライ人への手紙12章5節から7節で、それは「鍛錬」という性質があると説明されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」と。しかし、この試練の中で、イエスさまを誘導でも、指導でもなく、誘惑し、道を踏み外させようとした存在こそ悪魔(サタン)なのです。すべての誘惑は、このサタンの仕業です。この誘惑については、新約のヤコブ書1章12節から15節に、試練との兼ね合いで説明されています。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と。

 このように考えると、誘惑は、確かに人を惑わしますが、それは、突発的であり、また、部分的です。そして、思い付きのような、確固たる土台のない、ふわふわと浮いたような出来事に過ぎません。しかし、試練は、今、引用した御言葉からも分かるように、神の御計画であり、神の国の全体像を視野に入れてあるものです。また、それは、粛々と進められ、確固たる土台がある、どっしりとした出来事なのです。その土台こそが、祈り(礼拝)であり、また、聖霊(御言葉)なのです。これらは、先程の引用した御言葉によれば「上から、光の源である御父から来る」「良い贈り物、完全な賜物」です。だから、祈り(礼拝)、聖霊(御言葉)を軽んじるということは「良い贈り物、完全な賜物」を拒絶したのと同じなのです。私たちは、記念すべき日には何かしらのプレゼントをもらったのです。それは、本当に嬉しいものです。でも、灯台もと暗しと言うのでしょうか。神さまは、祈りと聖霊、それは、礼拝と御言葉という良い贈り物、完全な賜物を、一年に一度や特別の日だけではなく、毎週、いえ、毎日、日毎の糧として与えてくださっているのです。そのことに気付いた人は幸いです。イエスさまは、それを、この荒れ野の誘惑という出来事の中で、身をもって教えてくださったのです。

 そうして、40日の期間が終わった時、悪魔はイエスさまに言いました。3節「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」 と。悪魔は、40日間、何も食べず、空腹を覚えられたイエスさまが、神の子だと分かった上で誘惑したのです。「荒れ野に、ごろごろと転がっている石をパンに変える奇跡なんて容易いだろう」と。しかし、イエスさまは、4節「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった」のです。これは、旧約の申命記8章3節の御言葉を引用でした。この「人はパンだけで生きるものではない」という御言葉の続きは「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」です。つまり、人は御言葉によっても生きるものなのです。そして、この御言葉は、神がイスラエルの民に、40年の荒れ野を思い起こさせて言われた言葉だったのです。すなわち、荒れ野の40年の試練は、正に、人は御言葉によって生きることを知らせるためだったのです。その続きには、次のようにも語られています。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(5節)と。

 更に、5節から7節を見ると「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた」のです。そして、言いました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と。先週の礼拝では、主の祈りの最後を子どもたちと共に学びました。「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり」と。悪魔は、自分を拝めば、その国と力(権力)と栄(繁栄)を与えようと言うのです。しかし、それは、本当にすごい、本当に素晴らしい御業を為さる神さまだけに相応しいのです。だから、イエスさまも当然、8節「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と、お答えになりました。これは、旧約の申命記6章13節の御言葉を引用でした。

 そこで、悪魔は、最後にイエスさまを誘惑の山から差ほど遠くない、9節「エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言いました。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』と。そして、この最後の誘惑で、悪魔は、聖書の御言葉、これは、詩編91篇11節、12節の御言葉まで引用して言ったのです。10節「というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、11節『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」と。これに対して、イエスさまは、12節「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。これは、旧約の申命記6章16節の御言葉の引用でした。今、イエスさまは、神さまから試されているのです。私たちも、いつだって試されているのです。それは、信仰があるのかないのかを試されているのです。それなのに、私たちは「神さまが、こうしてくれたら信じる」とか「自分の思い通りにしてくれたら信じる」と言い出すのです。自分の思い通りにしてきた結果、それが滅びに至る道だと知ったからこそ、私たちはイエスさまを信じ、従うと決めたのです。それを今更、神さまを信じ従う者から、自分の思いのままに神さまを従える者になっているのであれば、その立場の逆転に気付かないのであれば、その人は幸いとは言えません。

 こうして、13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」のです。一方、悪魔の誘惑に勝利され、試練を乗り越えられたイエスさまは、14節「“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られ」ました。それは、聖霊の力、御言葉の力に満ちておられたのです。そして「その評判が周りの地方一帯に広まった」とあります。その評判とは、御言葉による勝利の生活でした。悪魔は十字架の時に、再びイエスさまを誘惑しましたが、イエスさまは御言葉によって勝利し、私たちの罪の報酬である死にも打ち勝たれたのです。こうしてイエスさまは、その生涯を通じて、身をもって教えてくださったのです。神の子どもとされた人々は、どのような時も、御言葉によって生きるということを。私たちは、この方を信じることによって、また、この方に従うことによって開かれる道を、聖霊の力に満ちて真っ直ぐに歩んでいきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:09| 日記