2023年06月25日

2023年6月25日 主日礼拝説教「主の恵みの年を生きる」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章15節〜30節、イザヤ書61章1節〜3節                 
説 教「主の恵みの年を生きる」大坪信章牧師

 今日の物語に至る過程で、イエスさまは40日間、荒れ野で試練を受けられました。イエスさまは、悪魔の3つの誘惑を退け勝利されたのです。その試練は、聖霊(御言葉)の導きに始まり、聖霊(御言葉)の勝利で終わりました。その後イエスさまは、ガリラヤに帰り、15節を見ると「諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」とあるのです。とは言っても、既に14節を見れば、イエスさまには、その評判も同時に付いて回っていました。「その評判」とは、御言葉による勝利の生活です。なぜなら、イエスさまが40日間、荒れ野で試練に遭う直前、洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられた時に聖霊を受けられたからです。その聖霊は、鳩のように目に見える姿で現れました。そして、その時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたのです。それは、洗礼者ヨハネも、受洗のためにヨルダン川に押し迫った民衆も皆、非現実的な出来事として見聞きしたのです。つまり、聖霊(御言葉)に満たされ、その御言葉によって荒れ野の試練に勝利され、御言葉による勝利の生活(宣教)が、今、始まったのです。だから、イエスさまは「諸会堂」で、それは、ガリラヤ地方の諸々の会堂で教える度に「尊敬」を受け、その教えは絶賛され、イエスさまは賞賛の的でした。要するに、御言葉による勝利の生活が人々を驚かせ、その心を捉えて離さなかったのです。この御言葉による勝利の生活の実践例が、来週の『権威ある言葉』と題する物語です。

 こうして、ガリラヤの諸会堂で民衆から尊敬を受けられたイエスさまは、その後ガリラヤの故郷に向かわれました。16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。これは今に始まったことではなく、ガリラヤに帰られた後ずっとして来られたことです。なぜなら、イエスさまは「いつもの通り安息日に会堂に」入られたとあるからです。イエスさまと言えば、弟子たちを引き連れ、各地を転々と伝道された印象があります。特に、このガリラヤでは、奇跡を交えた御言葉の宣教を数多く行なわれます。しかし、安息日には必ず会堂に行き、礼拝を守られたのです。そうすると、礼拝は、イエスさまにとって宣教の原動力だったことが分かります。また、それは同時に、宣教の労苦や日常の労働が癒される時でもあったのです。なぜなら「いつもの通り」ということは、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、イエスさまが安息日の礼拝を欠かさなかったということだからです。というよりも、忙しいからこそ、疲れ果てているからこそ礼拝を欠かさなかったのです。そうして与えられる癒しは、安息日の恩恵以外の何ものでもありません。安息の掟は、出エジプト記20章の十戒の第4戒「安息日を聖とせよ」です。しかし、それ以前の創世記2章3節が最も古い根拠です。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」と。「祝福と聖別」この言葉に二言はありません。だから、イエスさまも6日の間、働いて、7日目には休まれたのです。

 また「会堂」及び「諸会堂」についてですが、その歴史は、紀元前587年のバビロン捕囚にまで遡ります。会堂は、捕囚期の捕囚民によって建てられ、それ以降、増えていきました。というのは、バビロン捕囚によって、捕囚地に連行されたユダヤ人たちは、神殿を失ったも同然だったからです。というより、バビロンは神殿を破壊し、実質的にも失いました。こういった状況の中で、捕囚民や、ディアスポラ(離散の民)となったユダヤ人たちは、その辿り着いた異国の地で会堂を建設し、そこで神を礼拝し、信仰を守り続けたのです。その後バビロンは、ペルシャによって滅ぼされます。こうして捕囚民は、捕囚から70年後、ペルシャの王キュロスの勅令により、エルサレムへの帰還が許され、神殿の再建に取り掛かったのです。しかし、神殿再建後も、会堂で神を礼拝する良き習慣は引き継がれ、会堂は、ユダヤにも建てられていきました。それは、捕囚民がバビロン捕囚という苦い経験で、御言葉によって生きることの大切さを思い知ったからです。このような経緯で建てられた会堂には、会堂長と呼ばれる人(会堂の管理者)がいました。彼らは、日常的に律法の教育を民や子どもたちに施しました。また、安息日には、礼拝の司式を担当し、祈りや聖書朗読、また、勧めを為す人を会衆の中から指名しました。そして、指名された人は「聖書」、当時は、巻物状の旧約の書簡を朗読したのです。

 イエスさまもまた、この会堂で、聖書朗読の役回りを果たされます。17節を見ると、イエスさまには「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」とあるからです。それが18節19節です。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」これは、旧約の書簡の1つであるイザヤ書61章1節2節の御言葉です。この御言葉を朗読されたイエスさまは、20節を見ると「巻物を巻き、係の者に返して席に座られ」ました。すると「会堂にいるすべての人の目が」イエスさまに「注がれていた」のです。すべての人々の視線がイエスさまに集中したのは、その評判を聞いて、この後、どんな勧めをするのかに注目したのです。ところで、イエスさまが開かれた「預言者イザヤの巻物」は、イエスさまが選んだのではなく、会堂長から「渡され」たものとして開かれました。61章まで目を通されたのでしょうか。それとも、意図して、この個所を開かれたのかは分かりません。けれども「次のように書いてある箇所が目に留まった」のであれば、意図してはいないようです。普通は、何気なく、この「個所が目に留まった」と言うからです。ともかく、その御言葉は、イエスさま御自身について書かれた御言葉でした。それが先程の18節19節の御言葉です。また、その御言葉は、イエスさまにおいて実現されることが約束された御言葉でもありました。そうすると、もし、この御言葉が目に留まらなかったなら、イエスさまは、御言葉を実現できなかったのかと言う人がいるかもしれません。しかし、これまで何度も言ったように、聖書の旧約は、イエスさまのことが書かれているのです。それは、救い主イエス・キリストの到来や、イエス・キリストの救いの御業(十字架と復活)について書かれています。だから、言ってみれば、どこを開いてもイエスさまに結びつく内容が書かれています。だから、イエスさまは、聖書のどこからでも御自分について、御自分が神の子、救い主であると証言できたのです。そのことに気付いた人は、幸いです。

 そこでイエスさまは、21節、人々の視線に応えるように「話し始められ」ました。つまり、聖書朗読後の「勧め」、今でいう説教を為さったのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。要するに、イザヤ書61章の御言葉は、イエスさまが朗読した今日、そして、あなたがたが御言葉を耳にした今日、実現した、と話し始められたのです。ただ、イエスさまは、そのように「話し始められた」とあるので、一言のみならず、その後も、話し続けられたのです。それは、その御言葉が御自分において実現すると話されたのです。つまり、神の子、救い主である御自分の働きについて話されたのです。その御言葉は、イエスさまについて、2つのことを約束しています。まずイエスさまは「『主の霊』である聖霊(御言葉)がおられる」方であると。次にイエスさまは、それゆえに「『貧しい人』それは、御言葉に飢え渇く人々に『福音を告げ知らせる』方であると。そして、その福音は、どのような働きなのかが3つ書かれています。1つ目は「捕らわれている人」の「解放」。2つ目は「目の見えない人」の「視力」の「回復」。そして、3つ目は「圧迫されている人」の「自由」です。すなわち、イエスさまが解放と回復と自由の3つの恵み、それは「主の恵みの年を告げる」のです。これは、いわゆるイエスさまの就任説教と呼ばれます。今日、石山教会では、就任式が行なわれるので、何か巡り合わせを感じます。つまり、この石山教会に就任する者は、人々に「解放と回復と自由は、イエスさまが与えてくださる恵みだ、と、宣べ伝えよ」ということなのです。

 すると、22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」のです。「この人はヨセフの子ではないか」と。 人々は、イエスさまを誉め、その恵み深い言葉に驚きました。しかし、その後に「この人はヨセフの子ではないか」という更なる驚きが続きました。最初の驚きは、単純に「すごい」という感動的な驚きですが、あとの驚きは「なぜだ」という、いぶかしがるような驚きです。だから人々は、最初にイエスさまを誉めながら、その直後に、その事実を自ら否定したのです。言葉を変えて言えば、最初は神の子だと言って喜んだのに、あとでヨセフの子(それは、マリアとヨセフの子)だと言って落胆したのです。この人々の一瞬の変化をイエスさまは見逃さないで言われました。23節「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」と。「医者よ、自分自身を治せ」というのは「医者の不養生」とも言われます。いわゆる「患者を治療するなら、まず、自分自身の健康に気を付けよ」ということです。医者を教師に変えて言えば「生徒に教えるなら、まず、自らを教育せよ」です。ただ「医者よ、自分自身を治せ」というのは、実際に人々が口にした言葉ではありません。人々が口にする前に、イエスさまが人々の考えを見抜かれたのです。ナザレの人々は、カファルナウムでイエスさまが為さった様々な奇跡について聞いていました。それは、汚れた霊を人から追い出す話しや病人の癒しの話しです。だから、ここナザレでも同じことをしてほしいと思っていたのです。つまり、ナザレの人々は、イエスさまに対して「他の町で奇跡を行なうなら、まず、自分の町ナザレで奇跡を行なえ」と思っていたのです。しかし、イエスさまは、彼らの思いを見抜いて言われました。24節「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と。そうしてイエスさまは、旧約時代の預言者エリヤとエリシャの働きについて話されました。まず、25節26節は、簡潔に言えば、預言者エリヤの時代、3年6カ月の間、雨が降らず、大飢饉に見舞われた時があったのです。その時イスラエルでは「多くのやもめ」が苦しみましたが、エリヤは、その中の誰の所にも遣わされず、異邦人が住む「シドン地方のサレプタのやもめ」のもとにだけ遣わされたのです。また、27節は、簡潔に言えば、預言者エリシャの時代、イスラエルには「重い皮膚病」の患者が大勢いたのです。しかし、エリシャは、その中の誰のところにも遣わされず、ただ「シリア人ナアマン」のもとにだけ遣わされ、彼の病は清められました。 要するにイエスさまは、預言者エリヤもエリシャも、イスラエルの人々を癒さず、ただ、異邦人だけを癒したのです。なぜなら、その2人の人物は、御言葉を信じたからです。しかし、イスラエルの人々は、誰も御言葉を信じなかったのです。そこで、28節以下には「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」とあるのです。しかし、イエスさまは「人々の間を通り抜けて立ち去られ」ました。

 当時のイスラエルの人々は、イエスさまがイザヤ書61章の御言葉によって話された解放、回復、自由について、奇跡(それは、しるし)を求めたのです。つまり、今だけが良ければいいと考えたのです。その場しのぎの救いを求めたのです。ひとまず見栄えが良くなれば良かったのです。そのどれ一つを取っても、そこに、その奇跡を行なわれるイエスさまとの、直接的な出会いを求める信仰は微塵もありませんでした。だから、彼らにとってイエスさまが話された言葉は、御言葉ではなかったのです。なぜなら、その御言葉に信頼し、従っていく気など更々なかったからです。自分の思いの方が強く、自分の言葉に従っていたのです。つまり、イスラエルの人々は、御利益的な信仰を求めたのであり、神御自身との出会いを喜ぶ気持ちも、神の救いの御計画を知ろうとする気持ちも無かったのです。御言葉を、自分の欲望を満足させるための言葉にすり替えたのです。しかし、御言葉は、信じるなら、欲望とは比較にならない祝福の大いなることを知るのです。それでは「主の恵みの年」とは一体、何のことを言っているのでしょうか。それは、旧約の時代に実際にあった「ヨベルの年」のことを思い出させる言葉なのです。7年目の年を安息の年と呼びます。そして、その年が7回巡ってきた翌年、つまり50年目を「ヨベルの年」と呼んだのです。ヨベルとは、雄羊の角笛のことで、安息の年の始まりと終わりを告げる時に吹き鳴らされました。その50年目は、耕作地を休ませるだけではなく、奴隷は解放され、売った土地は持ち主の元に戻り、負債のある人は、その負債が帳消しになりました。イエスさまは、そのヨベルの年を、御自分の名において「主の恵みの年」と言われたのです。それは、ただ、物や人が持ち主のもとに戻るという意味よりも更に深い、罪赦されたすべての人が、神のもとに帰るという意味なのです。だから、イエスさまが、ここで言われた解放と回復と自由というのは、罪からの解放であり、回復であり、自由なのです。そのイエスさまを、人々は、崖から突き落とそうとしました。それは、御言葉を殺そうとしたということなのです。そして、イエスさまは、十字架の時に、すべての人々の罪の贖いとして十字架に架かり、罪からの解放と回復と自由、すなわち、復活と永遠の命の希望を私たちに与えてくださったのです。この恵み深い言葉に満たされて生きましょう。これ以上の言葉はありません。この御言葉を知る日々の積み重ねを「主の恵みの年」と言うのです。御言葉から逸れていかないでください。今日は教会の創立記念日です。今日から「主の恵みの年」を始めましょう。気持ち新たに生まれましょう。御言葉の有り難味を知ってください。この御言葉が私たちを救います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記

2023年7月2日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネによる福音書1章14節〜18節
説教:「その独り子、われらの主イエス・キリスト」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書4章31節〜37節、列王記上18章30節〜40節
説 教: 「権威ある言葉」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:13| 日記