2023年07月23日

2023年7月30日 礼拝予告

〇教会学校
7月30日(日)〜8月27日(日)まで夏休校です。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書5章12節〜16節、列王記下20章1節〜7節
説 教: 「御言葉への信頼」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 00:46| 日記

2023年07月16日

2023年7月16日 主日礼拝説教「福音宣教」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章42節〜44節、イザヤ書52章7節〜10節                 
説 教「福音宣教」大坪信章牧師

 ここ2週の日曜日に亘り、礼拝で読み進めてきた聖書の物語は、悪霊の追放という内容でした。悪霊の追放という言い方は、現代社会において、ほとんどしません。だから、そういう言葉を聴くと、異様な感じを受けるという人のほうが多いのではないかと思います。ですから、もし、そういうことが、銘打って行なわれていれば、怪しいとか、いかがわしいと思うのは無理もないことです。ただ、これまでも見てきたとおり、聖書には、はっきりと、悪霊の追放のことが書かれているのです。しかし、それは「神の国は近づいた」という福音宣教の、ある意味、証拠に過ぎないのです。つまり、それは、しるし(目印)であって、決して、それ自体がメインであったということではないのです。

 このルカ福音書には、今述べた実情に合った物語が、少し先の10章17節以下にあります。イエスさまが、福音宣教のために72人を任命し、町や村に派遣された物語です。その後、72人は、遣わされた先から喜んで帰って来て、イエスさまに報告しました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と。すると、イエスさまは言われました。18節〜20節「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。イエスさまが、そのように仰るのは、ご尤もです。なぜなら、悪霊が弟子たちに服従するというのは、明らかに「神の国は近づいた」という福音宣教の内容と矛盾するからです。要するに、結局は、弟子たちが悪霊を支配しているという構図になるからです。福音というのは、主の御言葉の権威による、解放と回復と自由の喜びです。だからと言って、その解放と回復と自由を、他の人や、他の何かを支配する自由にしても良い、ということにはなりません。そして、そこには、落とし穴があるのです。72人は、イエスさまから権威を授かりました。それは、イエス・キリストという御名(お名前)の権威なのです。だから、悪霊が服従したと言っても、直接は、弟子たちに対してではなく、イエスさま御自身に対してなのです。それを、自分に服従したと置き換えてしまう、その捉え方そのものが危険です。それは、イエスさまの権威、その厳かな神の力を、自分の信仰の力のように考える高ぶりであり、思い上がりです。その時、その人は、常に隙を窺って「ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って」(ペトロの手紙1、5章8節)いる悪霊、悪魔が、喜んで虜にする対象になってしまうでしょう。だから、そうなってしまえば、いずれにしろ、全く「神の国は近づいた」ということにはならないのです。なぜなら、神の国というのは、神の支配のことを言うからです。

 だから、任命された72人の驚きと感動の報告に比べ、イエスさまの受け答えは、極めて冷静でした。悪霊の追放は、大変インパクトがありますが、言ってみれば、インパクトだけしかありません。つまり、その出来事に本質はないのです。だから、ある意味、悪霊は、現象と言えるのです。そうすると、72人の弟子たちは、その現象が消え去ったことを喜んだことになります。しかし、それは、本質に触れる出来事ではなかったのです。ここで言うところの現象は、別の言葉で言えば、しるし(目印)です。例えば、石山教会を目指して来られる人には「教会は、商店街の通りにある、郵便局の角を曲がった所に見えます」と言えば良いのです。つまり「郵便局を目印にして来てください」と言えば分かり易いのです。そして、実際に来られる人は、その目印である郵便局が見えた時、勿論、嬉しいでしょう。しかし、その角を曲がった所にある目的地の教会を見て、そこに入って初めて、その人は、目的を達成した喜びに溢れるのです。そのように、主イエスの御名によって悪霊が出て行く、病が癒される、というのは、単なる現象への対処に過ぎないのです。それで、問題が解決したということにはならないのです。それ以上に、それに優るものとしての本質が、そこには在るのです。そして、そこに触れることが本当の解決なのです。そのための「神の国は近づいた」という宣言なのです。それは、神の国の支配(イエス・キリストのご支配)の訪れなのです。訪れるというのは、元々、音を連れるということを意味する言葉だと言われています。だから、イエスさまは、福音という音を連れて来られたのです。それは、罪と死と滅びの力に囚われていた人々に、解放と回復と自由の救いを与える十字架と復活の良い知らせです。また、それは、私たちの名前を天に書き記し、御国の世継ぎとしてくださるほどの永遠の命を受ける良い知らせです。この恵み、恩寵が、琴線に触れることこそが本質的な喜びなのです。木々がざわめいたのは、どうしてなのでしょう。それは、風が吹いたからです。それでは、悪霊が出て行ったのは、どうしてなのでしょう。病が癒されたのは、どうしてなのでしょう。それは、聖霊の風が吹いたからです。神の国が。そこに近づいたからです。イエスさまのご支配が、恵み深い御言葉の権威が近づいたからです。その御言葉の権威と力による、解放と回復と自由の救い、これが、福音宣教の核心であり、それが福音宣教によって始まったのです。

 そうして、安息日に、カファルナウムの町で、シモンの姑を癒されたイエスさまは、夕方になると、もっと大勢の人々に対応されました。それは、ユダヤ人の安息日(土曜日)が終わる夕方、日曜日が始まる夕方でした。その時間帯に合わせ、人々がイエスさまの下に、40節「いろいろな病気で苦しむ者」を連れて来たのです。イエスさまは「その一人一人に手を置いていやされ」ました。このよう
に、そこにイエスさまが中心の交わりがあるなら、人は自ずからそこに行きたくなるのです。また、人々を、そこに連れて行きたくもなるのです。しかし、そこにイエスさまではなく、人間が中心の交わりができていれば、人は誘われても、そこに行きたいとは思わなくなるのです。また、人々を連れて行きたいと考えもしなくなるのです。マルコ福音書13章には、終末のことが書かれています。その14節にこう書かれています。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と。教会も同じです。人間が、それも人間の言葉が中心となってしまえば、イエス・キリストの血が私たちを救う喜びや感謝は、そこから去ってしまうのです。そして、そこは、互いに血や涙を流し合う交わりになるのです。だから、イエスさまは、御自分の下に連れて来られた「その一人一人に」「手を置いていやされ」たのです。手を置くというのは、聖書の旧約の時代から、事ある毎に行なわれていました。祝福を与える時、聖別する時、また、相続や任職する時にも行なわれました。或いは、自分自身が手を置くもの、それは、往々にして動物の献げ物でしたが、そこに自分自身や民の罪を移す・重ねるという意味でも行なわれました。それは、手を置く者と手を置かれたものとが1つになるということを意味しました。その他にも、支える、養う、励ます、元気づけるという言葉にも、手を置く、それは、添えるというような感じではなく、掴むという意味が関係しているとも言われます。そうすると分かり易いのです。イエスさまは「いろいろな病気で苦しむ者」をしっかり掴まれた。それは、支えられたということになるからです。そうして、イエスさまは、彼らを養ったのです。励ましたのです。元気づけたのです。それは、どのようにしてかと言えば、それは、イエスさま御自身が荒れ野で養われ、励まされ、元気づけられたように、です。すなわち、イエスさまが荒れ野で仰られたように「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)ということです。恵み深い御言葉の権威と力によって生きるのです。だから、ただ手を置けば癒されるという話しでは、決してないのです。

 しかし、人々は、言葉の重要性よりも奇跡という出来事のほうに心惹かれたのでしょう。だから、この後、42節以下で、イエスさまが翌朝「人里離れた所へ出て行かれ」ると「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」のです。その時、イエスさまは、祈っておられました。それは、人間の言葉から離れ、神の言葉に満たされる時を過ごしておられたのです。 しかし、人々が、それは、人間の言葉が割り込んで来た時、イエスさまは言われました。43節「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」 と。このイエスさまの言葉が物語っているように、癒しは、単なるパフォーマンスではなく、神の国の福音を告げ知らせる言葉なのです。それは、御言葉による語り掛けであり、恵み深い御言葉の権威です。ただ、恵み深い御言葉の権威とは言っても、悪霊を追放した時、イエスさまは「権威と力とをもって」(37節)命じられました。また、悪霊や熱という現象を、イエスさまは「叱る」(36節、40節)という仕方で去らせています。叱ると怒るの違い、これは、よく保育の現場などで話題になりますが、そういうことなのです。簡単に言えば、怒るというのは、自分本位で感情を爆発させるネガティブな傾向にあるものです。しかし、叱るというのは、相手本位で、理性をもって、より良い方向へ教示するポジティブな傾向にあるものです。イエスさまは、悪霊や熱などの現象に対して、いずれも感情ではなく理性を持って対処されたということになるのです。ただ一度、イエスさまが憤られたのは、マルタとマリアの兄弟であるラザロが死んで、人々が泣いている時でした。そして、死に対する憤りの後、イエスさまもまた、涙を流されました。ですから、福音宣教は、恵み深い御言葉の権威によって為されるのです。たとえ、権威に力を伴わせることがあっても、常に理性を働かせ、言葉によって理解へと導き対処するのです。要するに、福音宣教というのは、決してパフォーマンスやインパクトの重視ではなく、感情が理性を上回るようなものでもないのです。どんな時も理性で、且つ、言葉、それは、恵み深い御言葉の権威によって、福音宣教は、推し進められたのです。そうして、イエスさまは、44節「ユダヤの諸会堂に行って宣教された」のです。今、私たちの心がイエスさまに向かって動いたのであれば、それは、私たちの心の中に、聖霊(御言葉)の風が吹いたからです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 12:56| 日記

2023年7月23日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ローマの信徒への手紙5章6節〜8節
説教:「死にて葬られ、よみにくだり」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書5章1節〜11節、イザヤ書55章8節〜13節
説 教: 「神の言葉の威力」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:12| 日記