2023年07月09日

2023年7月9日 主日礼拝説教「いやしの業」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章38節〜41節、列王記上17章17節〜24節                
説 教「いやしの業」大坪信章牧師

 今、イエスさまは、ガリラヤ地方の、それもガリラヤ湖の北西岸に位置するカファルナウムの町におられます。そのカファルナウムの会堂で、イエスさまは安息日に、聖書の旧約の書簡(巻物)を朗読し、そこから勧め(説教)を為さいました。すると、人々は、そのイエスさまの言葉に驚いたのです。それは、イエスさまの言葉に権威があったからです。その御言葉の権威は、カファルナウムに来る前の、故郷ナザレの町の人々も、同じように感じたことでした。それは、その言葉が、恵み深い言葉だったことへの驚きでした。しかし、カファルナウムの会堂には、悪霊に取りつかれた男がいたのです。そして、この悪霊は、イエスさまが神の子だと知っていたので、恐れを抱き、大声で叫び、喚き立てました。そこで、イエスさまは、その悪霊に向かって「黙れ、この男から出て行け」とお叱りになりました。すると、悪霊は、その男を人々の中に投げ倒して出て行ったのです。しかし、この悪霊という名の権力は、結局、その男に何一つ危害を加えることができずに、イエスさまの前から立ち去りました。

 この物語は、先週の礼拝で朗読されました。ただ、その中で1つ不思議に思ったことがあるのです。それは、御言葉が朗読される会堂に、悪霊に取りつかれた人がいたということです。そこが明らかに、そういう人たちの溜まり場のような所であれば違和感などないのですが、会堂にいたのです。一体、その男の、どこに悪霊の付け入る隙があったのでしょうか。そこで「取りつく」という言葉を辞書で調べると、幾つか挙げられている意味の中に「ある感情などが根付いて離れなくなる」とあるのです。その感情が、怒りや悲しみというのは想像がつきます。それが根付いて離れなくなれば、つまり、執着すれば、そこに被害者意識が生まれます。そして、恐れや不安、憎しみや恨み、果ては、絶望にまで囚われてしまいます。そういう人間の状態を表す言葉の中に、自己中心があります。それは、自分が絶対で、周りの迷惑も考えずに行動することだと説明されています。また、責任転嫁もあります。これは、自分の行動や選択に責任を持たず、周りに責任を押し付けることだと説明されています。更に、被害妄想や人間関係の揉め事もあります。これらは、自分を守るために、周りの人たちへの攻撃性を強めることだと説明されています。つまり、そこが御言葉の朗読される所であっても、悪霊に付け入る隙を与えれば、権力に支配され、囚われの身となってしまうこともあるということなのです。

 だから、安息日を守ると言っても、ただ、安息日を確保すれば良いという話しではなくなるのです。むしろ、安息日を、どのような心持ちで過ごすのかが大事なのです。そもそも礼拝というのは、始めに罪の告白の祈りが伴います。その祈りは、すぐに聞かれ、御言葉の権威が、それは、罪の赦しの宣言が私たちを救います。その救いの恵みへの応答として、感謝の祈りや献げ物が献げられます。そして、様々なしがらみという権力から解放された私たちは、平和と自由が与えられ、祝福の祈りよって派遣されるのです。悪霊に取りつかれた男は、悪霊が出て行った後、解放と回復と自由の恵みに与かり、御言葉の権威によって生きる者となりました。

 そして、今日の物語へと続くのです。38節を見ると、イエスさまは、その「会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった」とあります。宣教の舞台が、これまでの会堂から個人の家へと移ったことが分かります。「シモン」というのは、シモン・ペトロのことで、イエスさまの一番弟子となる人です。また、その「家」というのは、ペトロの妻の実家でした。その家は、会堂のすぐ傍にあったのです。その家に、イエスさまが入って行かれると「シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいた」とあります。シモンの姑は、高熱によって、うなされていたのです。それが、風邪を拗らせた程度のものなのか、それとも、マラリアなど、死の危険を伴う程のものなのかまでは分かりません。ただ、その病によって、家の中は暗く、どんよりとした空気が漂っていたことは想像に難くありません。しかし、それがどのような家であれ、家もまた、会堂と同様、宣教の舞台なのです。すると、会堂で、イエスさまの恵み深い言葉や悪霊追放の出来事を見聞きしていた「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」のです。シモン・ペトロや、その妻は、身内の非常事態で動揺していたのかもしれません。つまり、人々は、会堂の中で為されたイエスさまの言動、中でも、悪霊追放のような、いやしの業を期待したのです。

 人々は、イエスさまに対して「この人なら、シモンの姑を、いやすことができる」と思って「頼んだ」のです。それは、彼女のことをイエスさまに問うたとか、願ったという意味の祈りの言葉です。そこで、39節「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」のです。この時イエスさまは、会堂の中で熱に対して「叱りつけられると」とあるので、悪霊に対して為さったのと同じように「この女から出て行け」と叱られたのです。それでは、男に取りついた「悪霊」と、シモンの姑を苦しめた「熱」には、どのような類似性があったのでしょうか。それは、いずれも人間を支配する現象でした。悪霊に取りつかれた男も、高熱にうなされたシモンの姑も、権力によって強制的に平和と自由が奪われた人々の象徴なのです。その権力を、イエスさまは去らせたのです。そうして、いやされた彼女は、権力に脅かされていなければ、今頃は、普通にしていたであろうこと、それは「すぐに起き上がって一同をもてなした」のです。こうして、熱が去った後、また一人、解放と回復と自由の恵みに与って、御言葉の権威によって生きる者が起こされたのです。

 こうして、暗く陰鬱とした空気が漂うシモンの家は、明るさと活気を取り戻しました。それは、なぜでしょうか。シモンの姑の病が癒やされたからでしょうか。それとも、癒やされたシモンの姑が、元気に明るく振る舞ったからでしょうか。そうではありません。そこにイエスさまがおられたからです。人間の元気や明るさというのは、決して絶対的なものではなく、いつまた、権力に支配されるか分かりません。しかし、そこに権力でさえも立ち去らせるイエスさまがおられるならば、人はまた、御言葉の権威によって、恵み深い言葉に養われ、明るさと活気を取り戻すことができるのです。イエスさまは、ヨハネ福音書8章12節で、御自分のことについて、次のように言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。その光は、公けに開かれた場としての会堂で輝きを放つだけではありません。私的な閉ざされた空間である個々の家においてもまた、輝きを放つのです。このイエスさまを信じて従うならば、人は、もう、決して暗闇の中を歩み続けることはないのです。

 ところで、私たちは、この出来事を、シモンの姑が平和や自由を得ただけの物語にしてしまってはなりません。自分のこととして受け止め直す必要があるのです。つまり、38節の「彼女」の2文字に「あなた」の3文字を入れると「人々はあなたのことをイエスに頼んだ」 となります。もし、私たちが今、平和や自由を与えられているのであれば、それは、誰かが、あなたのことをイエスに問うたのです。願ったのです。しかし、本当の伝道は、ここからなのです。つまり、38節の「人々」の2文字に「あなた」の3文字を入れ、「彼女」の2文字に「家族や友人、仲間や隣人」の2文字を入れるのです。すると「あなたは家族のことをイエスに頼んだ。」「あなたは友人のことをイエスに頼んだ。」「あなたは仲間や隣人のことをイエスに頼んだ」となるのです。これが願いや祈り、そして、信仰の本当に意味するところなのです。

 先々週の礼拝で、イエスさまが故郷ナザレで「いつものとおり安息日に会堂に入り」(16節)という御言葉に聴きました。イエスさまをはじめ、神の民は、当たり前のように安息日を守りました。しかし、もし、その当たり前が、独り善がりの祈りや信仰になっていれば、そこに、喜びの感情は、ありません。むしろ、怒りや悲しみの感情が生まれ、対立が起きるのです。なぜなら、独り善がりな祈りや信仰は、解放と回復と自由の救いの真逆をいくことだからです。安息日に礼拝を守る意味は、解放と回復と自由の救いを、共に喜び合うことなのです。そういう意味で、教会は、原点に返らなければなりません。人が、あらゆる権力から解放され、隣人が救いに与ることの喜びのために、信じる心、祈る心を1つにしていく必要があるのです。そして、私たちは、いつどんな時も共に、御言葉の権威である、恵み深い言葉によって生きる喜びを分かち合っていくのです。ただ、病気が治るとか、怪我が治ることが、いやしの業なのではないのです。人が人間性を取り戻し、御言葉の権威である恵み深い言葉によって自分らしく生き、共に喜び合って神と共に生きること、それが、いやしなのです。

 だから、私たちの祈りや信仰が独り善がりになっているなら、教会は衰退の一途を辿ります。しかし、一人ひとりが協調的に献身的に祈りや信仰を抱くなら、教会は解放と回復と自由の恵みに与り、息を吹き返します。だから、シモンの姑のいやしの後には、人々が協調的に、献身的に生きる姿が見られるのです。40節41節「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスをメシアだと知っていたからである」と。ここには、一人ひとりが協調し合おうとする姿が見られます。また、一心に他の人のことに力を尽くそうとする姿が見られます。「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」ように「病苦で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」のです。悪霊が喚き立てて言っていることからも分かるように、イエスさまは神の子です。この方が、私たちの罪、過ち、病、死の病のために身代わりとなり、十字架の上で苦しみ死なれ、3日目に復活させられたのです。このイエスさまを信じ、祈る心を一つにし、共に喜び合う。そのことによって、私たちは、イエス・キリストの救いを、世に証しするのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:25| 日記

2023年7月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヘブライ人への手紙2章14節〜18節
説教:「ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書4章42節〜44節、イザヤ書52章7節〜10節
説 教: 「福音宣教」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:38| 日記

2023年07月02日

2023年7月2日 主日礼拝説教「権威ある言葉」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章31節〜37節、列王記上18章30節〜40節
説教「権威ある言葉」大坪信章牧師

 31節に「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた」とあります。イエスさまは、これまでおられたガリラヤの故郷ナザレから、ガリラヤ湖の北西岸に位置するカファルナウムという町に下って来られました。距離にして南から北へ約40キロの移動です。更にナザレは標高が約360mであるのに対して、カファルナウムは海抜マイナス200mなので、約600m近い標高差を下って行ったことになります。けれども、カファルナウムの町は、初めて行く町ではありません。それは、イエスさまが4章23節でナザレの人々に言われた言葉で分かります。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」と。このイエスさまの言葉は、図星でした。ナザレの人々は、本当にそう思っていたのです。しかし、イエスさまは、カファルナウムで為さったことをナザレでは為さいませんでした。なぜなら、ナザレの人々は、イエスさまをヨセフの子だと思っており、また、彼らの信仰は、しるし(奇跡)見たさであり、決して、御言葉に聴き従う信仰ではなかったからです。そのため、イエスさまは、28節で、故郷ナザレの人々から殺されそうになりました。このことからも分かるように、イエスさまは、2つの町を行ったり来たりしますが、イエスさまにとってのガリラヤ伝道の拠点は、故郷ナザレではなかったのです。拠点は、収税所もあり、多くの人々で行き交う交通の要衝の町カファルナウムでした。また、弟子のペトロは、このカファルナウムの対岸にあるベトサイダという漁師町の出身でしたが、このカファルナウムには、妻や妻の姑と共に住む家がありました。そして、そこがイエスさまや弟子たちの生活の拠点にもなりました。イエスさまは、十字架の時が来るまで、3年間に亘って宣教活動をされましたが、その大半である約2年半、このカファルナウムで宣教されるのです。

 イエスさまは、このカファルナウムの町に遣って来られると、これまでと同じように、安息日ごとに会堂に行き、当時は、巻物状の聖書であった旧約の書簡を朗読しては、そこから勧め(説教)をされました。すると、32節「人々はその教えに非常に驚いた」というのです。なぜなら「その言葉には権威があったからである」と続きます。それは、故郷ナザレの人々も同じでした。22節を見ると「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるからです。だから、ナザレの人々も、カファルナウムの町の人々が、イエスさまの教えを聞いた時に感じた「権威」というものを認めていたのです。しかし、ナザレの人々は、イエスさまについて「この人はヨセフの子ではないか」と思っていたことで躓いたのです。現に、イエスさまを預言者の一人と考えて躓く人や、イエスさまを、ただの人間と考えて躓いてしまう人々がいます。しかし、カファルナウムやナザレの人々は、イエスさまの教えに、驚くほどの権威を認めた、そのことは事実なのです。それも、権力で圧倒するのではなく、言葉によって圧倒するというのです。それは、恐怖や強制力で圧倒するのではなく、恵み深い言葉にも表れている安心や自由によって圧倒するということなのです。私たちは、このイエスさまの教え(恵み深い言葉)に対して、驚くほどの権威を感じているでしょうか。また、その権威とは、実際どのようなものだったのでしょうか。考えても見れば、この世は、そのような権威ではなく、恐怖や強制力という名の権力で、私たちの生活や私たち自身脅かし、圧倒しているのではないでしょうか。この国は、まだ、それ程ではなくても、諸外国では、恐怖や強制力という名の権力によって苦しむ人々の何と多いことでしょうか。そうして、人は、自尊心を失い、自由を失い、気力までをも失い、無気力になっていくのです。そうならない人もいるかもしれません。しかし、そうなってしまう人がいます。

 それでは、イエスさまは、誰のために、この世に遣わされ、また、あのような十字架の死を遂げられたのでしょうか。それは、そうならない人のためではなく、そうなってしまう人々のためです。自尊心を失い、自由を失い、気力までも失い、自分は何てダメな人間なんだ、弱い人間なんだと思っている、そうなってしまう、そのあなたのために、そのあなたを救うためにイエスさまは来られたのです。イエスさまは、少し先の物語の5章31節32節で次のように言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。「罪人」というのは、誰かではないのです。自分なのです。自尊心を失い、自由を失い、気力までも失い、自分は何てダメな人間なんだと思っている自分なのです。それは、自分が思っているよりも、ものすごく罪深いことです。自分を愛せないで、どうして人を愛せるのかということだからです。結局は、自分を愛せないから、本当の意味で人を愛することもできないのです。すべてのあらゆる罪の数々は、この、自分を愛せないという事実に起因するのではないでしょうか。でも、そのような自分を、多くの人は、まるで被害者のように思っているので、他の人を指さして言うのです。「自分で自分を正しい思っている人こそ罪人だ」と。でも、そのように、自分は間違っていないと言うのであれば、結局その人も自分を正しいと思っている人の中の1人なのです。要するに、すべての人は、死という病に罹っているのです。そして、その病から逃れられる人は誰もいないのです。しかし、その病から救われる人はいるのです。

 どこかで聞いた言葉ですが『誰かを罪人だと言って指をさす時、他の3本の指は自分に向いている」という言い方があります。本当に、そうだなと思います。でも、そのことを考えている中で「どうして、誰も、そのことに気付かないのだろう」と思ったのです。そう言うと、何だか、自分だけ気付いているような言い方になりますが、勿論、自分も含めてです。そして、そう思った時、それが何故だか分かりました。それは、人を指さした時、自分の方に向いている他の3本の指を、残り1本の親指で、しっかり押さえ付けて、手の平の中に隠してしまっているからです。そうして、自分が罪人であることを認めないのです。この「罪人」という言葉は、ものすごく嫌なイメージが付きまとっているので、誰もが、そう言われることに嫌悪感を抱きます。しかし、イエスさまは、レッテルを張るために言っておられるのではないのです。レッテルというのは、元は商品などに付けるタグのことを言うそうです。イエスさまは、その罪人と書かれたタグを私たちに付けようとしているのではないのです。そうではなく「もう付いていますよ」と教えてくださっているのです。だから、私たちは「本当だ。それは、恥ずかしい」と言って、それを認めるだけなのです。そうして、恐怖や強制力という名の権力によって苦しむ人々を、イエスさまは、それこそ恵み深い言葉によって救おうとしておられるのです。

 イエスさまの言葉に権威があったというのは、今日の物語でも分かることですが、マタイ福音書の5章〜7章に記されている山上の説教(山上の垂訓)を語り終えた時にも分かります。その時、イエスさまの説教を聞いていた人々は言いました。5章28節29節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と。ですから、カファルナウムの人々が、イエスさまの教えに権威を認めた背景には「彼らの律法学者のようにではなく」というのがあったに違いないのです。それでは、律法学者は、どのように教えていたと言うのでしょうか。なぜ、その教えには権威がなかったのでしょうか。律法学者と言えば、聖書の言葉、神の掟である律法の、言ってみれば第一人者でした。しかし、彼らは、先人の律法学者であったラビ(教師)たちの教えを繰り返すだけで、彼らの教えは、聖書の権威や神の言葉(御言葉)の権威を、ある程度、失墜させた上で語るものだったからです。一方、イエスさまの教えに権威が認められたのには、勿論、理由があります。イエスさまの教えは、聖書の権威や神の言葉(御言葉)の権威を、そのまま語るものだったからです。

 少し角度を変えて言えば、律法学者は、聖書の言葉(御言葉)や、神の掟である律法に従うために、一人一人を、その律法に向き合わせるのではなかったのです。そうではなく、その律法に従うためには、何をしなければならないのか、どうすればよいのかを彼らが考えて、それを強制したのです。しかし、イエスさまの教えは、マタイ福音書の7章の山上の説教の終わりで、マタイが「権威ある者としてお教えになった」と言っている通りなのです。それは、聖書の言葉(御言葉)や神の掟である律法に従うために、一人一人を、その律法と向き合わせるための言葉を紡いで語られたからです。だから、その律法に従うためには、どういう心構えで、どういう姿勢で、その律法と向き合わなければならないのか、それを一人一人は教えられたのであり、考えさせられたのです。そうして、自発的に、人々を律法に聴き従わせるようにされたのです。それが権威なのです。それに対して、律法学者は、権威ではなく、結局は権力で、無理に、人々を律法に聴き従わせるようにしただけだったのです。少し話しが飛躍しますが、よく言われることがあります。それは、律法に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)とあるのですが、律法学者は、その隣人を「同胞の民」と解釈するので、その同胞から外れる隣人、つまり、異邦人は敵として憎んでもいいことになるのです。それに対して、イエスさまは山上の説教の中で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)と言われ、隣人を愛することについて教え、自発的に愛することを制限したり諦めたりしないようにと導かれるのです。要するに、イエスさまは「聖書は、こう言っている」と言っておられるのです。山上の説教の中では「わたしは言っておく」という言葉で言い表されていますが、それもまた、イエスさま御自身が神の言葉なので「聖書は、こう言っている」ということなのです。それが権威ある言葉であり、御言葉の権威なのです。

 ところが、33節34節を見ると「会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ」のです。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。大声で叫んでいるのは、男ではなく悪霊です。既に男は、悪霊に支配されています。大体、大声で叫んだり、わめきたてたりすることに、悪霊の性質が現われているというものです。しかし、この悪霊は、イエスさまを前にした時、その攻撃性を遺憾なく発揮することができず、まるで、怯えるかのように「ああ」と言い、続けて、こう言ったのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。悪霊は、イエスさまが誰かを知っていました。それは、荒れ野の誘惑の物語の中で、悪魔(サタン)がイエスさまを3度、誘惑した時、イエスさまは、3回とも御言葉によって誘惑を退けられたからです。その後、悪魔はイエスさまから離れて行き、その情報が悪霊にも伝達されたのでしょう。その「神の聖者」つまり、神の子・救い主であるイエスさまが、自分の目の前に遣って来たのですから、悪霊が慌てふためくのも当然です。そこでイエスさまは、悪霊がイエスさまを神の子・救い主であると証しすることを許さず、35節で「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りに」なりました。すると「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」のです。

 ところで、この「汚れた悪霊に取りつかれた男」の話しに物語が展開したのは、33節からでした。その時、口語訳では「すると」と言って次の展開が始まるのですが、新共同訳では「ところが」と言って始まっているのです。そうすると、それまでに話題となっていたのは、イエスさまの言葉には、権威があったという話しでした。だから、その話しからは、当然考えられる結果ではない、それとは異なる話しへと内容が展開するということになります。だから、この出来事は、意外性に富む内容になっているということになるのです。それは、次のことを意味しているのではないでしょうか。先程、イエスさまは、権力ではなく言葉によって、それは、恐怖や強制力で圧倒するのではなく、恵み深い言葉にも表れている安心や自由によって圧倒すると言いました。しかし、この「汚れた悪霊に取りつかれた男」の出来事には、恵み深い言葉や、そこに現れている安心や自由による圧倒というよりも、どちらかと言えば、恐れによる圧倒という印象を持ってしまうのではないでしょうか。

 イエスさまは、この出来事を通して、正に、この男は、この世にある、恐怖や強制力という名の権力で、自分自身や、自分の生活が圧倒されていた人だったのではないでしょうか。そうして、人は、自尊心を失い、自由を失い、気力までをも失い、無気力になっていくのですが、それは、私たち一人一人の現状でもあるのではないでしょうか。勿論それは、あなたの本来の姿ではありません。だから、そのあなたが『権威ある言葉』それは、御言葉の権威(恵み深い言葉)によって、安心と自由を得て生きるために、イエスさまは、権力や、恐怖や強制力に対して叱責されたのではないでしょうか。詩篇104篇6節〜9節に次のような御言葉があります。「深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」と。結果、この悪霊は、男を人々の中に投げ倒して出て行きましたが、聖書は「何の傷も負わせずに出て行った」と伝えています。このことによって、今後、男には、御言葉の権威(恵み深い言葉)によって、いたずらに傷つくこともなく、安心と自由を得て生きる道が約束されたのです。そして、悪霊は、荒れ野の誘惑の悪魔(サタン)と同様、御言葉の権威に屈服し、自発的に出て行ったのです。それは、男に「何の傷も負わせずに」つまり、何の力も、影響力も与えることなく立ち去ったことからも分かります。

 こうして、イエスさまの言葉には権威があり、力があり、その権威は、人に安心と自由を与えるものであることが分かりました。そして、私たちを支配する権力や、恐怖や強制力を退ける力にも恵まれているということも分かりました。この出来事を経て、人々は皆驚いて、互いに言ったとあります。36節37節「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」と。このように、悪霊さえも、素直に、自発的にイエスさまの言葉、御言葉の権威に従うことを考えれば、御言葉に従うことを疎かにしてしまう人間の罪の深さを感じるのでま。悪霊でさえも、イエスさまが神の子・救い主であることを知っているのです。悪霊でさえも、御言葉の権威には、素直に従うのです。人間というのは、本当に、自分本位に物事を考えているのであり、利己的に生きようとする者なのです。自分が絶対的な中心で、社会や他人は二の次なのです。ただ、それは、自分を愛しているということのように見えて、実はそうではないのです。他者を愛せてはいないという点で、それは、自分を本当の意味で愛しているのではないのです。ここで立ち去った悪霊然り、荒れ野の誘惑で立ち去った悪魔(サタン)然り、彼らは、イエスさまの十字架の時に向けて、再び存在感を表します。しかし、イエスさまは、十字架の死によって、私たちには罪の赦しを与え、悪霊や悪魔(サタン)には、完全に勝利されたのです。だから、私たちは、ただ、恵み深い御言葉の権威によって、神に愛されているという、心からの、安心と自由という名の救いを生きる道が備えられたのです。だから、私たちは、御言葉の恵みに満たされて、聖霊の導きの中を歩みます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:10| 日記