2023年07月02日

2023年7月2日 主日礼拝説教「権威ある言葉」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章31節〜37節、列王記上18章30節〜40節
説教「権威ある言葉」大坪信章牧師

 31節に「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた」とあります。イエスさまは、これまでおられたガリラヤの故郷ナザレから、ガリラヤ湖の北西岸に位置するカファルナウムという町に下って来られました。距離にして南から北へ約40キロの移動です。更にナザレは標高が約360mであるのに対して、カファルナウムは海抜マイナス200mなので、約600m近い標高差を下って行ったことになります。けれども、カファルナウムの町は、初めて行く町ではありません。それは、イエスさまが4章23節でナザレの人々に言われた言葉で分かります。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」と。このイエスさまの言葉は、図星でした。ナザレの人々は、本当にそう思っていたのです。しかし、イエスさまは、カファルナウムで為さったことをナザレでは為さいませんでした。なぜなら、ナザレの人々は、イエスさまをヨセフの子だと思っており、また、彼らの信仰は、しるし(奇跡)見たさであり、決して、御言葉に聴き従う信仰ではなかったからです。そのため、イエスさまは、28節で、故郷ナザレの人々から殺されそうになりました。このことからも分かるように、イエスさまは、2つの町を行ったり来たりしますが、イエスさまにとってのガリラヤ伝道の拠点は、故郷ナザレではなかったのです。拠点は、収税所もあり、多くの人々で行き交う交通の要衝の町カファルナウムでした。また、弟子のペトロは、このカファルナウムの対岸にあるベトサイダという漁師町の出身でしたが、このカファルナウムには、妻や妻の姑と共に住む家がありました。そして、そこがイエスさまや弟子たちの生活の拠点にもなりました。イエスさまは、十字架の時が来るまで、3年間に亘って宣教活動をされましたが、その大半である約2年半、このカファルナウムで宣教されるのです。

 イエスさまは、このカファルナウムの町に遣って来られると、これまでと同じように、安息日ごとに会堂に行き、当時は、巻物状の聖書であった旧約の書簡を朗読しては、そこから勧め(説教)をされました。すると、32節「人々はその教えに非常に驚いた」というのです。なぜなら「その言葉には権威があったからである」と続きます。それは、故郷ナザレの人々も同じでした。22節を見ると「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあるからです。だから、ナザレの人々も、カファルナウムの町の人々が、イエスさまの教えを聞いた時に感じた「権威」というものを認めていたのです。しかし、ナザレの人々は、イエスさまについて「この人はヨセフの子ではないか」と思っていたことで躓いたのです。現に、イエスさまを預言者の一人と考えて躓く人や、イエスさまを、ただの人間と考えて躓いてしまう人々がいます。しかし、カファルナウムやナザレの人々は、イエスさまの教えに、驚くほどの権威を認めた、そのことは事実なのです。それも、権力で圧倒するのではなく、言葉によって圧倒するというのです。それは、恐怖や強制力で圧倒するのではなく、恵み深い言葉にも表れている安心や自由によって圧倒するということなのです。私たちは、このイエスさまの教え(恵み深い言葉)に対して、驚くほどの権威を感じているでしょうか。また、その権威とは、実際どのようなものだったのでしょうか。考えても見れば、この世は、そのような権威ではなく、恐怖や強制力という名の権力で、私たちの生活や私たち自身脅かし、圧倒しているのではないでしょうか。この国は、まだ、それ程ではなくても、諸外国では、恐怖や強制力という名の権力によって苦しむ人々の何と多いことでしょうか。そうして、人は、自尊心を失い、自由を失い、気力までをも失い、無気力になっていくのです。そうならない人もいるかもしれません。しかし、そうなってしまう人がいます。

 それでは、イエスさまは、誰のために、この世に遣わされ、また、あのような十字架の死を遂げられたのでしょうか。それは、そうならない人のためではなく、そうなってしまう人々のためです。自尊心を失い、自由を失い、気力までも失い、自分は何てダメな人間なんだ、弱い人間なんだと思っている、そうなってしまう、そのあなたのために、そのあなたを救うためにイエスさまは来られたのです。イエスさまは、少し先の物語の5章31節32節で次のように言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。「罪人」というのは、誰かではないのです。自分なのです。自尊心を失い、自由を失い、気力までも失い、自分は何てダメな人間なんだと思っている自分なのです。それは、自分が思っているよりも、ものすごく罪深いことです。自分を愛せないで、どうして人を愛せるのかということだからです。結局は、自分を愛せないから、本当の意味で人を愛することもできないのです。すべてのあらゆる罪の数々は、この、自分を愛せないという事実に起因するのではないでしょうか。でも、そのような自分を、多くの人は、まるで被害者のように思っているので、他の人を指さして言うのです。「自分で自分を正しい思っている人こそ罪人だ」と。でも、そのように、自分は間違っていないと言うのであれば、結局その人も自分を正しいと思っている人の中の1人なのです。要するに、すべての人は、死という病に罹っているのです。そして、その病から逃れられる人は誰もいないのです。しかし、その病から救われる人はいるのです。

 どこかで聞いた言葉ですが『誰かを罪人だと言って指をさす時、他の3本の指は自分に向いている」という言い方があります。本当に、そうだなと思います。でも、そのことを考えている中で「どうして、誰も、そのことに気付かないのだろう」と思ったのです。そう言うと、何だか、自分だけ気付いているような言い方になりますが、勿論、自分も含めてです。そして、そう思った時、それが何故だか分かりました。それは、人を指さした時、自分の方に向いている他の3本の指を、残り1本の親指で、しっかり押さえ付けて、手の平の中に隠してしまっているからです。そうして、自分が罪人であることを認めないのです。この「罪人」という言葉は、ものすごく嫌なイメージが付きまとっているので、誰もが、そう言われることに嫌悪感を抱きます。しかし、イエスさまは、レッテルを張るために言っておられるのではないのです。レッテルというのは、元は商品などに付けるタグのことを言うそうです。イエスさまは、その罪人と書かれたタグを私たちに付けようとしているのではないのです。そうではなく「もう付いていますよ」と教えてくださっているのです。だから、私たちは「本当だ。それは、恥ずかしい」と言って、それを認めるだけなのです。そうして、恐怖や強制力という名の権力によって苦しむ人々を、イエスさまは、それこそ恵み深い言葉によって救おうとしておられるのです。

 イエスさまの言葉に権威があったというのは、今日の物語でも分かることですが、マタイ福音書の5章〜7章に記されている山上の説教(山上の垂訓)を語り終えた時にも分かります。その時、イエスさまの説教を聞いていた人々は言いました。5章28節29節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と。ですから、カファルナウムの人々が、イエスさまの教えに権威を認めた背景には「彼らの律法学者のようにではなく」というのがあったに違いないのです。それでは、律法学者は、どのように教えていたと言うのでしょうか。なぜ、その教えには権威がなかったのでしょうか。律法学者と言えば、聖書の言葉、神の掟である律法の、言ってみれば第一人者でした。しかし、彼らは、先人の律法学者であったラビ(教師)たちの教えを繰り返すだけで、彼らの教えは、聖書の権威や神の言葉(御言葉)の権威を、ある程度、失墜させた上で語るものだったからです。一方、イエスさまの教えに権威が認められたのには、勿論、理由があります。イエスさまの教えは、聖書の権威や神の言葉(御言葉)の権威を、そのまま語るものだったからです。

 少し角度を変えて言えば、律法学者は、聖書の言葉(御言葉)や、神の掟である律法に従うために、一人一人を、その律法に向き合わせるのではなかったのです。そうではなく、その律法に従うためには、何をしなければならないのか、どうすればよいのかを彼らが考えて、それを強制したのです。しかし、イエスさまの教えは、マタイ福音書の7章の山上の説教の終わりで、マタイが「権威ある者としてお教えになった」と言っている通りなのです。それは、聖書の言葉(御言葉)や神の掟である律法に従うために、一人一人を、その律法と向き合わせるための言葉を紡いで語られたからです。だから、その律法に従うためには、どういう心構えで、どういう姿勢で、その律法と向き合わなければならないのか、それを一人一人は教えられたのであり、考えさせられたのです。そうして、自発的に、人々を律法に聴き従わせるようにされたのです。それが権威なのです。それに対して、律法学者は、権威ではなく、結局は権力で、無理に、人々を律法に聴き従わせるようにしただけだったのです。少し話しが飛躍しますが、よく言われることがあります。それは、律法に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)とあるのですが、律法学者は、その隣人を「同胞の民」と解釈するので、その同胞から外れる隣人、つまり、異邦人は敵として憎んでもいいことになるのです。それに対して、イエスさまは山上の説教の中で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章44節)と言われ、隣人を愛することについて教え、自発的に愛することを制限したり諦めたりしないようにと導かれるのです。要するに、イエスさまは「聖書は、こう言っている」と言っておられるのです。山上の説教の中では「わたしは言っておく」という言葉で言い表されていますが、それもまた、イエスさま御自身が神の言葉なので「聖書は、こう言っている」ということなのです。それが権威ある言葉であり、御言葉の権威なのです。

 ところが、33節34節を見ると「会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ」のです。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。大声で叫んでいるのは、男ではなく悪霊です。既に男は、悪霊に支配されています。大体、大声で叫んだり、わめきたてたりすることに、悪霊の性質が現われているというものです。しかし、この悪霊は、イエスさまを前にした時、その攻撃性を遺憾なく発揮することができず、まるで、怯えるかのように「ああ」と言い、続けて、こう言ったのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。悪霊は、イエスさまが誰かを知っていました。それは、荒れ野の誘惑の物語の中で、悪魔(サタン)がイエスさまを3度、誘惑した時、イエスさまは、3回とも御言葉によって誘惑を退けられたからです。その後、悪魔はイエスさまから離れて行き、その情報が悪霊にも伝達されたのでしょう。その「神の聖者」つまり、神の子・救い主であるイエスさまが、自分の目の前に遣って来たのですから、悪霊が慌てふためくのも当然です。そこでイエスさまは、悪霊がイエスさまを神の子・救い主であると証しすることを許さず、35節で「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りに」なりました。すると「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」のです。

 ところで、この「汚れた悪霊に取りつかれた男」の話しに物語が展開したのは、33節からでした。その時、口語訳では「すると」と言って次の展開が始まるのですが、新共同訳では「ところが」と言って始まっているのです。そうすると、それまでに話題となっていたのは、イエスさまの言葉には、権威があったという話しでした。だから、その話しからは、当然考えられる結果ではない、それとは異なる話しへと内容が展開するということになります。だから、この出来事は、意外性に富む内容になっているということになるのです。それは、次のことを意味しているのではないでしょうか。先程、イエスさまは、権力ではなく言葉によって、それは、恐怖や強制力で圧倒するのではなく、恵み深い言葉にも表れている安心や自由によって圧倒すると言いました。しかし、この「汚れた悪霊に取りつかれた男」の出来事には、恵み深い言葉や、そこに現れている安心や自由による圧倒というよりも、どちらかと言えば、恐れによる圧倒という印象を持ってしまうのではないでしょうか。

 イエスさまは、この出来事を通して、正に、この男は、この世にある、恐怖や強制力という名の権力で、自分自身や、自分の生活が圧倒されていた人だったのではないでしょうか。そうして、人は、自尊心を失い、自由を失い、気力までをも失い、無気力になっていくのですが、それは、私たち一人一人の現状でもあるのではないでしょうか。勿論それは、あなたの本来の姿ではありません。だから、そのあなたが『権威ある言葉』それは、御言葉の権威(恵み深い言葉)によって、安心と自由を得て生きるために、イエスさまは、権力や、恐怖や強制力に対して叱責されたのではないでしょうか。詩篇104篇6節〜9節に次のような御言葉があります。「深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた」と。結果、この悪霊は、男を人々の中に投げ倒して出て行きましたが、聖書は「何の傷も負わせずに出て行った」と伝えています。このことによって、今後、男には、御言葉の権威(恵み深い言葉)によって、いたずらに傷つくこともなく、安心と自由を得て生きる道が約束されたのです。そして、悪霊は、荒れ野の誘惑の悪魔(サタン)と同様、御言葉の権威に屈服し、自発的に出て行ったのです。それは、男に「何の傷も負わせずに」つまり、何の力も、影響力も与えることなく立ち去ったことからも分かります。

 こうして、イエスさまの言葉には権威があり、力があり、その権威は、人に安心と自由を与えるものであることが分かりました。そして、私たちを支配する権力や、恐怖や強制力を退ける力にも恵まれているということも分かりました。この出来事を経て、人々は皆驚いて、互いに言ったとあります。36節37節「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」と。このように、悪霊さえも、素直に、自発的にイエスさまの言葉、御言葉の権威に従うことを考えれば、御言葉に従うことを疎かにしてしまう人間の罪の深さを感じるのでま。悪霊でさえも、イエスさまが神の子・救い主であることを知っているのです。悪霊でさえも、御言葉の権威には、素直に従うのです。人間というのは、本当に、自分本位に物事を考えているのであり、利己的に生きようとする者なのです。自分が絶対的な中心で、社会や他人は二の次なのです。ただ、それは、自分を愛しているということのように見えて、実はそうではないのです。他者を愛せてはいないという点で、それは、自分を本当の意味で愛しているのではないのです。ここで立ち去った悪霊然り、荒れ野の誘惑で立ち去った悪魔(サタン)然り、彼らは、イエスさまの十字架の時に向けて、再び存在感を表します。しかし、イエスさまは、十字架の死によって、私たちには罪の赦しを与え、悪霊や悪魔(サタン)には、完全に勝利されたのです。だから、私たちは、ただ、恵み深い御言葉の権威によって、神に愛されているという、心からの、安心と自由という名の救いを生きる道が備えられたのです。だから、私たちは、御言葉の恵みに満たされて、聖霊の導きの中を歩みます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:10| 日記

2023年7月9日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書1章18節〜25節
説教:「聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書4章38節〜41節、列王記上17章17節〜24節
説 教: 「いやしの業」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:44| 日記