2023年07月09日

2023年7月9日 主日礼拝説教「いやしの業」大坪信章牧師

ルカによる福音書4章38節〜41節、列王記上17章17節〜24節                
説 教「いやしの業」大坪信章牧師

 今、イエスさまは、ガリラヤ地方の、それもガリラヤ湖の北西岸に位置するカファルナウムの町におられます。そのカファルナウムの会堂で、イエスさまは安息日に、聖書の旧約の書簡(巻物)を朗読し、そこから勧め(説教)を為さいました。すると、人々は、そのイエスさまの言葉に驚いたのです。それは、イエスさまの言葉に権威があったからです。その御言葉の権威は、カファルナウムに来る前の、故郷ナザレの町の人々も、同じように感じたことでした。それは、その言葉が、恵み深い言葉だったことへの驚きでした。しかし、カファルナウムの会堂には、悪霊に取りつかれた男がいたのです。そして、この悪霊は、イエスさまが神の子だと知っていたので、恐れを抱き、大声で叫び、喚き立てました。そこで、イエスさまは、その悪霊に向かって「黙れ、この男から出て行け」とお叱りになりました。すると、悪霊は、その男を人々の中に投げ倒して出て行ったのです。しかし、この悪霊という名の権力は、結局、その男に何一つ危害を加えることができずに、イエスさまの前から立ち去りました。

 この物語は、先週の礼拝で朗読されました。ただ、その中で1つ不思議に思ったことがあるのです。それは、御言葉が朗読される会堂に、悪霊に取りつかれた人がいたということです。そこが明らかに、そういう人たちの溜まり場のような所であれば違和感などないのですが、会堂にいたのです。一体、その男の、どこに悪霊の付け入る隙があったのでしょうか。そこで「取りつく」という言葉を辞書で調べると、幾つか挙げられている意味の中に「ある感情などが根付いて離れなくなる」とあるのです。その感情が、怒りや悲しみというのは想像がつきます。それが根付いて離れなくなれば、つまり、執着すれば、そこに被害者意識が生まれます。そして、恐れや不安、憎しみや恨み、果ては、絶望にまで囚われてしまいます。そういう人間の状態を表す言葉の中に、自己中心があります。それは、自分が絶対で、周りの迷惑も考えずに行動することだと説明されています。また、責任転嫁もあります。これは、自分の行動や選択に責任を持たず、周りに責任を押し付けることだと説明されています。更に、被害妄想や人間関係の揉め事もあります。これらは、自分を守るために、周りの人たちへの攻撃性を強めることだと説明されています。つまり、そこが御言葉の朗読される所であっても、悪霊に付け入る隙を与えれば、権力に支配され、囚われの身となってしまうこともあるということなのです。

 だから、安息日を守ると言っても、ただ、安息日を確保すれば良いという話しではなくなるのです。むしろ、安息日を、どのような心持ちで過ごすのかが大事なのです。そもそも礼拝というのは、始めに罪の告白の祈りが伴います。その祈りは、すぐに聞かれ、御言葉の権威が、それは、罪の赦しの宣言が私たちを救います。その救いの恵みへの応答として、感謝の祈りや献げ物が献げられます。そして、様々なしがらみという権力から解放された私たちは、平和と自由が与えられ、祝福の祈りよって派遣されるのです。悪霊に取りつかれた男は、悪霊が出て行った後、解放と回復と自由の恵みに与かり、御言葉の権威によって生きる者となりました。

 そして、今日の物語へと続くのです。38節を見ると、イエスさまは、その「会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった」とあります。宣教の舞台が、これまでの会堂から個人の家へと移ったことが分かります。「シモン」というのは、シモン・ペトロのことで、イエスさまの一番弟子となる人です。また、その「家」というのは、ペトロの妻の実家でした。その家は、会堂のすぐ傍にあったのです。その家に、イエスさまが入って行かれると「シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいた」とあります。シモンの姑は、高熱によって、うなされていたのです。それが、風邪を拗らせた程度のものなのか、それとも、マラリアなど、死の危険を伴う程のものなのかまでは分かりません。ただ、その病によって、家の中は暗く、どんよりとした空気が漂っていたことは想像に難くありません。しかし、それがどのような家であれ、家もまた、会堂と同様、宣教の舞台なのです。すると、会堂で、イエスさまの恵み深い言葉や悪霊追放の出来事を見聞きしていた「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」のです。シモン・ペトロや、その妻は、身内の非常事態で動揺していたのかもしれません。つまり、人々は、会堂の中で為されたイエスさまの言動、中でも、悪霊追放のような、いやしの業を期待したのです。

 人々は、イエスさまに対して「この人なら、シモンの姑を、いやすことができる」と思って「頼んだ」のです。それは、彼女のことをイエスさまに問うたとか、願ったという意味の祈りの言葉です。そこで、39節「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」のです。この時イエスさまは、会堂の中で熱に対して「叱りつけられると」とあるので、悪霊に対して為さったのと同じように「この女から出て行け」と叱られたのです。それでは、男に取りついた「悪霊」と、シモンの姑を苦しめた「熱」には、どのような類似性があったのでしょうか。それは、いずれも人間を支配する現象でした。悪霊に取りつかれた男も、高熱にうなされたシモンの姑も、権力によって強制的に平和と自由が奪われた人々の象徴なのです。その権力を、イエスさまは去らせたのです。そうして、いやされた彼女は、権力に脅かされていなければ、今頃は、普通にしていたであろうこと、それは「すぐに起き上がって一同をもてなした」のです。こうして、熱が去った後、また一人、解放と回復と自由の恵みに与って、御言葉の権威によって生きる者が起こされたのです。

 こうして、暗く陰鬱とした空気が漂うシモンの家は、明るさと活気を取り戻しました。それは、なぜでしょうか。シモンの姑の病が癒やされたからでしょうか。それとも、癒やされたシモンの姑が、元気に明るく振る舞ったからでしょうか。そうではありません。そこにイエスさまがおられたからです。人間の元気や明るさというのは、決して絶対的なものではなく、いつまた、権力に支配されるか分かりません。しかし、そこに権力でさえも立ち去らせるイエスさまがおられるならば、人はまた、御言葉の権威によって、恵み深い言葉に養われ、明るさと活気を取り戻すことができるのです。イエスさまは、ヨハネ福音書8章12節で、御自分のことについて、次のように言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と。その光は、公けに開かれた場としての会堂で輝きを放つだけではありません。私的な閉ざされた空間である個々の家においてもまた、輝きを放つのです。このイエスさまを信じて従うならば、人は、もう、決して暗闇の中を歩み続けることはないのです。

 ところで、私たちは、この出来事を、シモンの姑が平和や自由を得ただけの物語にしてしまってはなりません。自分のこととして受け止め直す必要があるのです。つまり、38節の「彼女」の2文字に「あなた」の3文字を入れると「人々はあなたのことをイエスに頼んだ」 となります。もし、私たちが今、平和や自由を与えられているのであれば、それは、誰かが、あなたのことをイエスに問うたのです。願ったのです。しかし、本当の伝道は、ここからなのです。つまり、38節の「人々」の2文字に「あなた」の3文字を入れ、「彼女」の2文字に「家族や友人、仲間や隣人」の2文字を入れるのです。すると「あなたは家族のことをイエスに頼んだ。」「あなたは友人のことをイエスに頼んだ。」「あなたは仲間や隣人のことをイエスに頼んだ」となるのです。これが願いや祈り、そして、信仰の本当に意味するところなのです。

 先々週の礼拝で、イエスさまが故郷ナザレで「いつものとおり安息日に会堂に入り」(16節)という御言葉に聴きました。イエスさまをはじめ、神の民は、当たり前のように安息日を守りました。しかし、もし、その当たり前が、独り善がりの祈りや信仰になっていれば、そこに、喜びの感情は、ありません。むしろ、怒りや悲しみの感情が生まれ、対立が起きるのです。なぜなら、独り善がりな祈りや信仰は、解放と回復と自由の救いの真逆をいくことだからです。安息日に礼拝を守る意味は、解放と回復と自由の救いを、共に喜び合うことなのです。そういう意味で、教会は、原点に返らなければなりません。人が、あらゆる権力から解放され、隣人が救いに与ることの喜びのために、信じる心、祈る心を1つにしていく必要があるのです。そして、私たちは、いつどんな時も共に、御言葉の権威である、恵み深い言葉によって生きる喜びを分かち合っていくのです。ただ、病気が治るとか、怪我が治ることが、いやしの業なのではないのです。人が人間性を取り戻し、御言葉の権威である恵み深い言葉によって自分らしく生き、共に喜び合って神と共に生きること、それが、いやしなのです。

 だから、私たちの祈りや信仰が独り善がりになっているなら、教会は衰退の一途を辿ります。しかし、一人ひとりが協調的に献身的に祈りや信仰を抱くなら、教会は解放と回復と自由の恵みに与り、息を吹き返します。だから、シモンの姑のいやしの後には、人々が協調的に、献身的に生きる姿が見られるのです。40節41節「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスをメシアだと知っていたからである」と。ここには、一人ひとりが協調し合おうとする姿が見られます。また、一心に他の人のことに力を尽くそうとする姿が見られます。「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」ように「病苦で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」のです。悪霊が喚き立てて言っていることからも分かるように、イエスさまは神の子です。この方が、私たちの罪、過ち、病、死の病のために身代わりとなり、十字架の上で苦しみ死なれ、3日目に復活させられたのです。このイエスさまを信じ、祈る心を一つにし、共に喜び合う。そのことによって、私たちは、イエス・キリストの救いを、世に証しするのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:25| 日記

2023年7月16日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヘブライ人への手紙2章14節〜18節
説教:「ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書4章42節〜44節、イザヤ書52章7節〜10節
説 教: 「福音宣教」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 06:38| 日記