2023年08月27日

2023年8月27日 主日礼拝説教「罪の悲しみ救いの喜び」大坪信章牧師

ルカによる福音書5章33節〜39節、エレミヤ書31章31節〜34節                 
説 教「罪の悲しみ救いの喜び」大坪信章牧師

 33節を見ると「人々は言った」とあります。「人々は」イエスさまに向かって言いました。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と。「人々」は、イエスさまの弟子たちが、断食して祈ったり、悔い改めたりせずに「飲んだり食べたりして」いる、その理由を知りたかったのです。この「人々」が、このように、断食や飲み食いの話しを切り出したのは、この前の出来事が、大いに関係しています。なぜなら、イエスさまは、徴税人のレビが、御自分のために催した盛大な宴会の席で、30節「徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたり」しておられたからです。ただ、直接、その出来事が「人々」の断食や飲み食いの話しのきっかけではなかったとしても、イエスさまの弟子たちは、常日頃から、イエスさまと一緒に、飲んだり食べたりしていたことが窺えます。それは、胃袋のためでもありましたが、それ以上に、交わりや親睦を深める意味合いが強かったに違いありません。

 一方、洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは、度々断食し、祈りを献げていたことが「人々」の言葉から分かります。断食というのは、断つことや節制するという意味の言葉です。広義では、身を悩ますとか肉体的苦痛という意味があります。それは、宗教的な謙虚さを表す行為で、愛する者を失った悲しみ、罪の嘆きや悔い改め、そして、病の癒しなどの時に行なわれます。ただ、大事なのは、断食は、祈りに付随するものであり、祈りを強める業として行なうものであるということです。だから、形だけの偽善的な断食は、旧約の時代から預言者によって非難されてきました。実際、ファリサイ派の弟子たちは、週に2回断食を守っていました。1回目は、モーセが神さまから律法(十戒)を戴くために、シナイ山へ登った週の5日目(木曜日)です。2回目は、そこから下山した週の2日目(月曜日)でした。この断食は、洗礼者ヨハネの弟子たちも同様に行なっていました。しかし、ファリサイ派の弟子たちの断食や祈りは形式的で、人に見せびらかす偽善的な行為だったので、イエスさまから非難されました。実際、イエスさまも断食は、しておられるのです。それは、4章の「荒れ野の誘惑」の時に為さった40日間の断食です。この断食は、祈りを強め、御言葉によってサタンの誘惑を退ける結果となりました。また、弟子たちが、ある人の息子から悪霊を追い出せなかった時、イエスさまは言われました。マタイ福音書17章21節「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない」と。更に、イエスさまが昇天された後の教会の時代にも、使徒の任命や派遣という重要な出来事の中で、使徒たちは断食を奨励し、祈っています。

 ところで、この「人々」というのは、マタイ福音書では「ヨハネ(洗礼者ヨハネ)の弟子たち」となっています。おそらく彼らは、徴税人のレビが催した盛大な宴会の中で、つぶやいた「ファリサイ派の人々や、その派の律法学者たち」(30節)と同様の疑問を感じていたのでしょう。つまり、宗教や信仰の熱心さは、みんなで飲食を楽しむことではない、と。そうではなく、自分たちやファリサイ派のように、断食して祈り、罪を嘆き悔い改めることだと、そう言いたいのです。ただ、巷の群衆は、それ以上に、この断食と飲食の問題について、捻くれた見方をしていました。そのことは、少し先の7章33節〜35節の御言葉から知ることが出来ます。イエスさまは言われました。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」と。このように、群衆は、洗礼者ヨハネを悪霊に取りつかれた者と見なし、イエスさまを大食漢の大酒飲みと見なしたのです。つまり、断食と飲食の問題について、イエスさまに問いかけた「人々」は、悲しみの意味は知っていても、喜びの意味が分からなかったのです。また、群衆は、悲しみの意味も知らなければ、喜びの意味も分からなかったのです。

 そこで、イエスさまは「人々」に答えて言われました。34節35節「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」 と。これは、とても分かり易い譬えです。イエスさまは、ご自分を「花婿」に譬え、弟子たちや罪人たちを「婚礼の客に」に譬えられたのです。確かに、結婚披露宴で、婚礼の客に断食を勧める人や、自ら断食をする人が1人でもいる光景など、見たことがありません。普通は、盛大な宴会が設けられて、そこに、花婿と花嫁の家族、親戚、友人、知人が招かれ、飲んで食べ、みんなして喜びます。誰もがお腹いっぱいになり、心もいっぱいになり、その満ち足りた時間が、ずっと続いてほしいと、そう思いながら、客は、やむなく会場をあとにするのです。ただ、イエスさまは、御自分が40日間、断食を為さったように、断食を否定しておられたわけではありません。イエスさまは、花婿が、突然いなくなる時が来ると言われます。だから、その時になれば、婚宴の客は、嘆き悲しみ、断食することになると言われるのです。確かに、イエスさまが十字架に架けられ、弟子たちの前から奪い取られた時、弟子たちの一体だれが、飲んだり食べたりしたでしょうか。その時は、罪の嘆きや悔い改めの断食が、祈りを深めるために、弟子たちにとって意味あるものだったのです。

 だから「人々」が言うように、罪の嘆きや悔い改めの祈りを断食によって強めるのは大切なことなのです。その大切さは、洗礼者ヨハネが、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、民衆に授けていたことからも分かります。その時にも、罪の嘆きや悔い改めの断食が、祈りを深めるために、大いに意味があったと言えます。しかし、それから間もなく、民衆は、洗礼者ヨハネが語っていた「わたしよりも優れた方」で、また「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(各3章17節)イエスさまをお迎えしたのです。それは、罪の嘆き悲しみの時が過ぎ、救いの喜びが始まったことを意味しました。そのイエスさまが共におられるのです。だから、共に喜び祝うのは当然なのです。この9月には、洗礼式を予定しています。その喜ばしい洗礼式の日に、私たちは、その受洗者と、会堂に集まった兄弟姉妹に、断食を勧めるのでしょうか。今は、まだコロナ禍の影響で、愛餐会が思うように開けませんが、本来なら、その日は、食べて祝う日です。ただ、その洗礼式は、9月の第1日曜日に設けたので、聖餐式があります。その日、姉妹は、罪を悔い改めて洗礼を受け、イエスさまを信じてイエスさまのものとなります。その後は、罪の赦しと新しい命の象徴である、聖餐の恵み(パンと杯)に与かります。それこそ、共に飲んで食べ、喜びと感謝の時を過ごします。そこに断食の意味はありません。飲んで食べ、イエス・キリストの十字架と復活の救いを喜び感謝することにこそ、大いなる意味があります。

 その後、イエスさまは、また別の譬えを話されました。36節「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」と。ここでイエスさまは、福音を「新しい服」に譬え、律法を「古い服」に譬えています。この「古い服」に譬えられた律法の役目は、自分の罪を自覚し、その罪を嘆き悲しみ悔い改めることにあります。しかし「新しい服」に譬えられた福音の役目は、イエス・キリストの十字架と復活の救いを喜び、その救いのために自分の命を献げることにあります。それなのに、律法に欠けが生じたからと言って、そこに福音を宛がっても、福音は破れて台無しになります。また、罪を嘆き悲しみ、悔い改める性質の律法も、喜びと献身が宛がわれても、その目的を果たせません。結局は、どちらも駄目になるのです。ただ、これは、皮肉でもあります。それは勿論、律法によって罪を自覚せず、律法を喜び、その律法に献身している律法学者やファリサイ派への皮肉です。

 更にイエスさまは、別の譬えを話されました。37節「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」と。ここでイエスさまは、福音を「新しいぶどう酒」に譬え、律法を「古い革袋」に譬えています。つまり、この福音を譬えた「新しいぶどう酒」は、発酵する力が強いので、律法に譬えた「古い革袋」を、簡単に破ってしまうのです。そうなると、福音という名の「新しいぶどう酒」は、人の口に運ばれることがなく、人を喜ばせなくなります。また、律法という名の「古い革袋」も、裂かれて全く用を為さなくなります。だから、当然、38節で言われているように「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」のです。ただ「古い革袋」については、こう言われています。39節「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」と。これも皮肉です。勿論、ビンテージもののぶどう酒を愛飲し続ける、律法学者やファリサイ派への皮肉です。

 結局は「花婿」「新しい服」「新しい革袋」に譬えられた福音の前に、私たちは、どういう態度を採るかが問われています。それは、コリントの信徒への手紙2、6章3節の御言葉を借りれば「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」を、どう生きるかが問われています。今は、イエスさまが、私たちの罪の身代わりとなり、十字架の死を死なれた救いの完成の時なのです。他に、どのような救いを探し求めても、どのような救いを待ち望んでも、このイエス・キリストの十字架の救い以外に、私たちを救い得るものは何もないのです。罪の嘆きや悔い改めは大事です。しかし、そこに救いはないのです。真の悔い改めは、神に立ち帰ることだからです。神に立ち帰った時、そこに、神が備えてくださっていたイエス・キリストの十字架の救いがあるのです。私たちは、その十字架の救いを、ただ信じるだけ、罪の赦しと永遠の命を約束されたのです。今日は、この救いを喜ぶための日です。それは、明日も同じです。救いは、もう私たちの前にあるのです。この救いを喜び祝うことこそが、私たちの礼拝と生活なのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:32| 日記

2023年08月24日

2023年9月3日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ヨハネによる福音書3章16節
説教:「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の生命」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書6章1節〜5節、出エジプト記23章10節〜13節
説 教: 「安息日“の”主」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:59| 日記

2023年08月20日

2023年8月20日 主日礼拝説教「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師

ルカによる福音書5章27節〜32節、詩篇32篇1節〜7節
説 教「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師

 27節「その後」とありますが、それは、イエスさまが、中風を患っている人を癒された出来事の「後」のことです。中風を患っている人の癒しの出来事では、御言葉による罪の赦しと病の癒しが行なわれました。その、いずれも決して簡単ではない業を、イエスさまは行なわれました。それは、単純にイエスさまが、それが誰であれ、その一人ひとりに対して責任を持つ神の子・救い主、主だったからです。それゆえに、イエスさまの言葉、その一言一言には、抗し難い、それは、決して抗えない、そういう権威があったのです。要するに、逆らえないということです。積極的に言えば、従わざるを得ないということです。世の中では、権力が行使され、権力に逆らえない、権力に従わざるを得ないという事態を生んでいます。その強制力は、決して平和や平安を約束することはありません。むしろ、不安や恐れを与えています。しかし、今や権力ではなく、主であるイエスさまによって、権威が行使され、その恵みや救いの言葉に逆らえない、その言葉に従わざるを得ないことが起こっています。その強制力は、人々に解放と回復と自由を約束しています。普通、恵みとか救いを拒絶する人はいません。もし「恵みに逆らう」とか「救いの方法に従わない」という言い方があれば、それは、言葉として、ものすごく違和感があります。普通に考えて、恵みや救いは、中々そう有ることが難しいことです。だから、もし、それが実際に有り得るなら、それは、もう本当に有り難いと言うか感謝でしかないのです。しかし、その恵みや救いの喜びを、世の多くの人々は拒絶しています。この恵みと救いは、中風を患っていた人にとって「あなたの罪は赦された」というイエスさまの一言、それは、御言葉によって与えられました。その御言葉に権威があったのは、その一言に、神の子であり救い主であるイエスさまの、彼に対する責任と約束が込められていたからです。イエスさまは、中風を患っている人の罪の身代わりとして十字架を背負い死なれます。それは、イエスさまが主だからです。たとえ人間社会から見捨てられたような人であれ、イエスさまは、その人の主なのです。いわゆる「あなたの罪は赦された」という一言は、中風を患っていた人に対する主の命令だったのです。そして、このことは、今日の物語にも通じることなのです。

 27節「その後」イエスさまは「出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われ」ました。「出て行った」というのは、マルコ福音書では「湖(ガリラヤ湖)のほとりに」出て行ったようです。そして、そこで「レビという徴税人が収税所に座っているのを」見られたのです。この「収税所」で有名なのは、カファルナウムの町の収税所です。そう言えば、中風を患っている人の救いも、マルコ福音書では、カファルナウムの町を舞台に起こっています。そのカファルナウムは交通の要衝でした。だから、その町を出入りする通行人からは通行税が、そして、輸出や輸入の商品などからは通関税が徴収されました。収税所は、その他にも人頭税から所得税に至るまで、様々な税を徴収する事務所だったのです。そして、そこに居た「レビ」は、マルコ福音書では「アルファイの子レビ」と、父親の名前まで明らかにされています。しかし、マタイ福音書では、福音書の著者「マタイ」自身を指すのです。だから、実際、このレビは、レビなのかマタイなのか、それとも、同一人物が途中で名前を変えたのかは定かではありません。ユダヤでは、名前を2つ所有することは有り得ますが、レビとマタイは、いずれもヘブライ語の名前なので、その2つを1人の人間が所有する可能性は低いようです。或いは、レビは、レビ族(神の代理人としての祭司)の家系なので、そのことが関係しているのかもしれません。ただ、この後、徴税人の「レビ」は、悔い改めて主に立ち帰るのです。この当時、徴税人が悔い改めて主に立ち帰るというのは、この出来事や同じく徴税人ザアカイの出来事に限ったことではありませんでした。このルカ福音書を遡れば、3章で、洗礼者ヨハネが、悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた時に「徴税人も洗礼を受けるために来て」(12節)いるからです。だから「レビ」がレビでもマタイでも、或いは、同一人物でも不思議はないのです。ただ、イエスさまの弟子(12人弟子)として選ばれた徴税人は、マタイ(神の賜物)という名前の人物だったということだけは確かなことです。この徴税人のレビは、収税所に座っていました。それは、レビが、ある程度、高い地位に就いていたことを窺わせます。そこで思い出すのが、この福音書の19章に記されている、徴税人ザアカイの物語です。ザアカイについては「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(2節)と説明されているので、明らかに地位の高い人でした。そして、徴税人は皆一様に裕福でした。なぜなら、彼らは、当時ユダヤを植民地としていたローマ帝国に寝返った売国奴、つまり、裏切り者のユダヤ人だったからです。彼らは、大枚をはたいて徴税人の職を勝ち取り、帝国の代理人として、税金や罰金を徴収する権限が与えられていました。レビは、祭司の家系ですから、当然、神の代理人としての働きが求められますが、現状は、ローマ皇帝を主とする帝国の代理人に成り下がっていたと言えます。そして、おもに、先ほど幾つか挙げた様々な税を、通行人から取り立てました。それも、人々から徴収できる正規の徴収額以上の金銭や現物を取り立て、正規の分は帝国に、残りは私利私欲のために自分の懐へ入れたのです。ただ、それと引き換えに、徴税人は、人々から、泥棒や人殺しなどの罪人、また、異教徒(異邦人)と同じくらい憎まれ、会堂からも締め出され、社会から孤立していたのです。

 そのような、徴税人のレビに、イエスさまは目を留められました。そして、唐突に「わたしに従いなさい」と言われると、28節「彼(レビ)は何もかも捨てて立ち上がり」イエスさまに「従った」のです。これは、ルカ福音書の5章で、ガリラヤ湖の漁師たちが「舟を陸に引き上げ、すべてを捨てて」イエスさまに従った出来事と同じです。それを徴税人のレビに当てはめれば、自分の地位の高さを表す「その座を放棄し」そこから「立ち上がり」そして「すべてを捨てて」イエスさまに従いました。それは、冒頭でも話したように、イエスさまが、ガリラヤ湖の漁師たちは勿論のこと、レビにとっても主だからです。いわゆる「わたしに従いなさい」という一言は、徴税人のレビに対する、主の命令だったのです。その後、レビは、29節「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催し」ました。そして「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いて」いました。要するに、レビは、幹事(世話役)を買って出て、徴税人仲間や社会に埋もれていた大勢の人を家に招待したのです。それは、悪名高い人たちや罪人呼ばわりされた病人や体の不自由な人たちでした。このレビが率先して行なった幹事という働きは、色々なスキル(能力)が求められます。特にコミュニケーション能力は欠かせません。その会話術や説得力などは、元々、徴税人のレビが持っていた能力でした。しかし、レビは、その能力を、これまでは、徴税人として使い、様々ものに課税し、必要以上に人々から税を徴収し、正確に帳簿を付けたのです。そういう意味で、レビには、職務遂行能力があったと言えます。しかし、今、彼は、その能力を幹事(世話役)として、イエスさまに献げたのです。

 これまでは、ローマ皇帝がレビの主で、その下でレビは税の徴収者でした。しかし、その主の下で得た高い地位と裕福な暮らしと引き換えに、レビは、人間性も人間味も失ったのです。その結果、レビは、人々の冷たい視線や敵意の目に晒され、息苦しく、それは、生きることが苦しくなっていたのでしょう。しかし、イエスさまが自分の主だと気づいたのです。そして、その下で、レビは社会から爪弾きにされ、社会に埋もれた人々の魂の徴収者になったのです。それは、ルカ福音書5章で、ガリラヤ湖の漁師たちがイエスさまから「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われたのと同じことが、ここでも起こっているのです。つまり、レビは「人間をとる徴税人」になったのです。それは、とても素晴らしいことで、誰もが喜ぶことでした。しかし、30節を見ると「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」イエスさまの弟子たちに言ったのです。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。おそらく、このファリサイ派の問いに、弟子たちは答えられなかったのです。なぜなら、それは、主が良しとされたことだったからです。それで、代わりにイエスさまが答えられました。31節32節「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。悔い改めというのは、自分の人生を後悔することではありません。自分の人生を、新しい主との間で契約を更改するように更改することなのです。

 これまで、イエスさまの働きには、医者の側面が強く出ていましたが、ここで、はっきりと御自分の働きについて証しされました。「わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。つまり、イエスさまは、御自分のことを、真の主を見失った罪人たちの主(神の子・救い主)だと言われたのです。サムエル記上16章7節に、このような御言葉があります。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と。イエスさまは、真の主を見失い、この世の主の下で人間性も人間味も失い、平安も喜びもないレビの心を見抜かれたのです。レビという名前は「親しむ」とか「結合する」という意味があります。これは、レビが誰と親しみ誰と結合するかで、人生は大きく変わることを暗示しています。つまり、誰を主として生きるのか、それによって私たちの人生も大きく変わります。レビは、イエスさまを主とし、失った人間性と人間味を取り戻しました。それは、幹事として、盛大な宴会に多くの人々を招いたことからも分かります。レビの能力は、最大限に最善の仕方で用いられたのです。それは、レビの家系である祭司の働きの復活でもありました。祭司は、人々の罪を贖う儀式を神から請け負っています。同じように、レビは今、人々の罪を贖う主の下へ、社会に埋もれ、罪に悩み苦しむ人々を招く者になったのです。レビは「ここに神の子・救い主がおられます。今すぐおいでください。この方は、私の主、私の罪の贖い主、また、あなたの主、あなたの罪の贖い主です」と言い広めたのではないでしょうか。私たちも、この神の子・救い主である、主イエスさまによって取り戻した人間性、そして、人間味を、喜んで神さまに献げていきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記