2023年08月06日

2023年8月6日 主日礼拝説教「あなたの罪は赦された」大坪信章牧師

8月6日ルカによる福音書5章17節〜26節、出エジプト記34章4節〜10節                 
説 教「あなたの罪は赦された」大坪信章牧師                         

 ここに至るまで、イエスさまは、御言葉の権威によって、力に満ちた宣教をガリラヤ地方でして来られました。ある時は、故郷で恵み深い御言葉の権威を示され、ある時は、会堂で悪霊に取りつかれた男から悪霊を追放されました。また、ある時は、シモンの姑の家で姑から熱を去らせました。そのため、4章40節「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」のです。そして、ある時は、ティベリアス湖とも呼ばれるガリラヤ湖畔で大漁の御業を行われ、先週は、ある町で、全身重い皮膚病にかかった人を清められました。それらすべての出来事は、奇跡でした。ただ、その奇跡は、人々の中で、イエスさまの心(神の御心)を伴わせることのない奇跡として、一人歩きをしていったのです。そのことが15節に記されています。「しかし」それは、イエスさまの思いとは裏腹に「うわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た」と。けれども、16節を見ると、イエスさまは「人里離れた所に退いて祈っておられた」のです。それは、まるで人々を避け、奇跡の出し惜しみをしているかのようですが、決してそうではありません。イエスさまは、全身重い皮膚病にかかった人を清めた時「よろしい、清くなれ」(13節)と言って、御心(神の御心)を示されました。その神の御心を、ご自分の心とし続けるために、イエスさまは、常に祈り、神さまとの交わりを保たれたのです。

 そして、場面は代わり、17節、それは「ある日のこと」でした。この「ある日」はマルコ福音書では「カファルナウム」に滞在していた時の「ある日」、イエスさまが「教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた」のです。ここに初めて登場した「ファリサイ派」と「律法の教師」彼らが揃うと、何か、ただならぬ出来事が始まるように思えます。かつて、悪霊の登場に、ものすごく異様な感じを覚えたような、それに似た不穏な空気を感じます。それは、続く言葉にも表れていて「この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」とあるのです。要するに、彼らは、ガリラヤだけではなく、南のユダヤ地方、そして、都エルサレムを含むイスラエル全土から遣って来たのです。すると、かなりの数の人がいたことになりますが、マルコ福音書では「律法学者が数人」となっています。いずれにしろ、彼らは、まるで観客のように「そこに座っていた」。それは、イエスさまの言動を窺うためだけに。一方、イエスさまは「主の力が働いて」人々の「病気をいやしておられ」ました。つまり、ファリサイ派の人々と律法の教師たちは、イエスさまの言動を視察しに来たのです。それは、イエスさまが、ファリサイ派や律法の教師たちが言うところの律法違反をしているとの噂が広まっていたからです。確かに、悪霊に取りつかれた男の癒しもペトロの姑の癒しも安息日に行われました。また、集まって来る群衆にイエスさまが教えを説き、群衆を扇動していると噂されたか、或いは、それについて、彼らが疑念を抱いたからです。 

 すると、18節「男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした」のです。男たち、これは、マルコ福音書では「4人」の男たちが、中風を患っている人を連れて来て、イエスさまの前に置こうとしたのです。中風というのは、聞きなれない病ですが、今で言う脳血管障害や脳出血、或いは、脳卒中の後遺症のことです。具体的には、半身不随や片麻痺、言語障害や手足のしびれで、寝たきり状態もあり得ました。ここまでを読み進めて、私たちは「ある日」の出来事が、ある家の中で起こったことを理解するのです。もし、そこがカファルナウムの町であればペトロの姑の家だったかもしれません。要するに、イエスさまが教え、人々の病気を癒し、それをファリサイ派や律法の教師たちが視察していたのは、家の中だったのです。この当時の庶民階級の家は、小さくて6畳、大きくて10畳の平屋でした。上流階級の家は、中庭を中心とした複合建築で、小さくて14畳、大きくて23畳でした。ただ、この家が、どれほど大きかったのかは分かりませんが、分かるのは高さで、平屋であれば3mだったと言われています。また、もう1つ分かるのが、それは、床を担ぐ男たちと家の状況です。19節を見ると「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」ということです。男たちは、中風を患っている人を家の中に運び込む方法を考えたようですが、いっぱいで無理でした。普通は、それで諦めて帰るか、ひたすら待つか、ですが、男たちは、その家の屋根に上ったのです。当時の建物には、外階段が付いており、そこから屋根に上ることができました。その屋根は、普通、梁を等間隔に渡し、その上に枝を敷き詰め、更に、その上に細枝や葦や草を敷き詰め、更に、その上に土を30cmほどの厚さで敷き詰めました。ただ、このルカ福音書は「瓦をはがし」とあるので、ややニュアンスが違って聞こえます。それは、この福音書が、異邦人に読まれることを念頭に置いて書かれたので、ローマ風の家屋の屋根に見られる瓦という言葉を使ったのです。ですから、この家の屋根は、数十センチ掘れば穴が空き、そこから、中風を患っている人を、床ごとイエスさまの前に、つり降ろせたのです。

 普通なら、他人の家の屋根を剥がせば大ごとで、横入りをすれば不満も出そうなものですが、それは問題にはなっていません。むしろ、イエスさまが、20節「その人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」と言われたことが問題です。この罪の赦しの宣言は、4人の男たちの信仰を、イエスさまが見た(見抜いた)ことによるものでした。ただ、これまでにも、そういう状況はあり、それは、冒頭でも引用した4章40節です。「いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た」のです。ただ、その時イエスさまが、彼らに、どの程度の信仰を見られたかは分かりません。しかし、イエスさまは、4人の男たちには、はっきりと「その人たちの信仰を見て」病人に「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのです。それなら、普通に考えて、男たちの抱いていた信仰は、イエスさまに対する深い信仰で、それは、単に病の癒しではなく、罪の赦しを求める信仰だったということになります。この罪の赦しは、この物語を読み進めれば、神にしかできない特別な権威であることが分かります。ただ、この地上では、14節に記されている通り、神に仕える祭司だけが、罪の贖いの儀式によって、その権威を担っていました。要するに、中風を患っている人を連れて来た男たちは、イエスさまを単なる奇跡行為者ではなく、神の子・救い主と信じていたのです。当時は、病と罪が結び付いていた時代で、病は罪の結果だと受け止められていました。それによって、病人は人間性が疑われ、人間として扱われない時代でした。だから、イエスさまが中風を患っている人に「人よ」と呼びかけられたことは、この人の人間性を取り戻した一言であり、それは「あなたの罪は赦された」という言葉によって実現したのです。

 ところで、どうしてイエスさまは、中風を患っている人を連れて来る男たちの優しさや、また、家の屋根を剥がしてまで病人をつり降ろす熱心さを、信仰と見たのでしょうか。というのは、先程も言ったように、他の人々も病人を連れて来ており、この家に集まっていた人々の中にも、そういう人がいたはずです。しかし、イエスさまが信仰を見たのは、男たちだけでした。それは、もう、イエスさまが、男たちの心を見抜いたとしか言いようがないのです。ただ、この男たちが、マルコの福音書では「4人」とあったことに、信仰の深さが暗示されているように見えます。おそらく4人の男は、中風を患っている人を床に乗せて運ぶ際、その四隅の布か、もし、そこに2本の棒を渡しているのなら、その先端を握るかしたはずです。また、病人を屋根からつり降ろす時も、床の四隅の布や棒に、紐やロープを括り付けたに違いないのです。そうすると、次のような構図が出来上がるのです。聖書の旧約の時代、幕屋や神殿にあった祭壇には、四隅に角と呼ばれる青銅製の突起物が突き出ていました。それは、もし罪を犯してしまう人がいても、その祭壇の角を掴めば、その人の罪は赦されたのです。ただ、それは、決して、完全な罪の赦しを与えるものではなかったことは、ダビデの晩年の物語を見れば分かります。それは、聖書の旧約、列王記上の1章と2章に記されています。それは、ダビデ王の王位を窺ったアドニヤと、それに加担したダビデの軍の司令官ヨアブの物語です。この2人は、祭壇の角を掴みました。しかし、結局は、その罪のゆえに死に至りました。話しが行き過ぎましたが、要するに、中風を患っている人の床の四隅を掴む男たちに、祭壇の四隅の角を掴む人、それは、罪の赦しを求める人の姿が重なるのです。そうすると、その床の上に寝かされた病人は、まるで祭壇の上の犠牲の供え物のようです。しかも、ソロモンの時代、祭壇は、祭司が階段を上って行く先にあり、そこで罪の贖いの儀式が行なわれました。そう言ったことを総合すると、イエスさまの前には、罪に苦しむ人が祭壇で屠られるのを待ち、その祭壇の脇では、必死になって、その人の罪の赦しを願う男たちが、祭壇の角を掴んでいるように見えるのです。

 ところが、21節を見ると「律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた」のです。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と。先程も少し触れたように、罪を赦す権威は、神の特別の権威なので、イエスさまが病人に罪の赦しを宣言した時、彼らは反射的に心の中で、そう思ったのです。しかし、イエスさまは、22節〜24節にある通り「彼らの考えを知って(見抜いて)、お答えになった」のです。「何を心の中で考えているのか。23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と。そう言われると「あなたの罪は赦された」というのは、ただ言うだけなので簡単なように聞こえます。しかし「起きて歩け」とういうのは、実際に動けない人を動かすので難しいように聞こえます。おそらく、ファリサイ派や律法学者たちは、神が人間の罪を赦すのは簡単で、祭司も罪の赦しを宣言するのに、犠牲の献げ物を献げれば事足りる(それは、簡単な)ことだと思っていたのでしょう。しかし、一人間であるイエスさまが、そう言っただけでは、赦されたかどうかなんて分かるはずもないと思っていたのです。だからイエスさまは、24節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われたのです。すると、25節「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」のです。要するに、この出来事は、次のことを意味したのです。当時、病は罪の結果と考えられていました。だから、病が癒されたのであれば、その原因となる罪も赦されたことになるということです。それで、その人は、イエスさまから罪の赦しの宣言を聞いたので、ただ喜んだのではなく、神を賛美しながら帰って行ったのです。この健全な喜びは、周囲の人々にも波及しました。26節を見ると「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」からです。それは、このルカ福音書において、あのクリスマスの羊飼いたちが、乳飲み子のイエスさまに出会った後「神をあがめ、讃美しながら帰って行った」(1章20節)ように、です。

 ところで、イエスさまは、ただ一言で、中風を患っている人の病を癒し、罪を赦されました。けれども、それは、簡単なことだったのでしょうか。実際「あなたの罪は赦された」と言うのは難しく「起きて歩け」と言うのも難しいのです。なぜなら「あなたの罪は赦された」という言葉には、それこそ、イエスさまの十字架の身代わりの出来事が約束されているからです。14節に記されている通り、この地上では、祭司だけが、罪の贖いの儀式によって、人に罪の赦しを宣言することができました。ただ、そこには犠牲があり、血が流れました。また、祭司自身も、自分の罪のために、その贖いの儀式を行なう必要がありました。だから、この地上で「あなたの罪は赦された」と、本当に、完全な意味で宣言することができるのは、イエスさまだけなのです。そして、イエスさまは、その罪の赦しの約束を反故にしないために、日夜、祈りながら御言葉に従い、神の御心を御自分の心とされたのです。それは、罪人である私たちを救うために、十字架の死と復活という、究極の愛を示すことです。そうして、イエスさまは、十字架への道を歩まれたのです。そして、ついに十字架に付けられたイエスさまは、まさに祭壇で屠られる小羊の身代わりでした。まさに祭壇のような床に伏し、罪の意識に苦しむ中風を患う人の身代わりでした。そして、まさに、日々罪の意識に悩む私たちの身代わりでした。死ぬということは、それも、正しい方が正しくない者のために死ぬということは、決して簡単なことではありません。私たちの命は、沢山の犠牲によって成り立っています。その中でも、神の独り子イエスさまを、私たちの命の代償として私たちに与えるほどに愛する、神の不変の愛によって成り立っているのです。今日、私たちは、それを聖餐の恵みの儀式を通して味わいます。この石山教会に遣わされる前、四国と奥羽の2つの教会に遣わされました。1つ目の教会では、十字架と復活の福音の言葉を語ることが示されました。また、2つ目の教会では、聖霊の働きは御言葉であることを語ることが示されました。そして、今、この石山教会では、罪の赦しを語ることが示されているのです。それは、すべて、遣わされた先の教会から聞こえてきた言葉です。だから、この教会では、罪の赦しの宣言を必要としている人が大勢いるのだと思っています。それは、イエスさまが、あなたのために十字架に架かって死んでくださったという言葉を必要としている人です。「人よ、あなたの罪は赦された。」御言葉は信じるためにあります。御言葉を、どんな時も生きる力と喜びに変え、今日も神さまを高らかに賛美しましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:12| 日記