2023年08月10日

2023年8月13日 主日礼拝奨励「神の時としての今を生きる″」大保 清兄

ヨハネの黙示録1章1節〜20節、ダニエル書12章1節〜4節
奨 励「神の時としての“今を生きる”」 大保 清兄

 今、司会者に朗読して頂いた黙示録1章1節から20節までですが、特に今日、与えられたメッセージは1章8節です。ここから、神さまの恵みを皆さまと共に分かち合いたいと思います。

 皆様は、黙示録を読んで、どのような感想を持たれたでしょう。私の感想は、訳の解らない、無気味な内容であると思いました。意味不明な数字や科学的小説のような物語が描かれています。

 そもそも、黙示とは何でしょうか?調べてみると、ギリシャ語でアポカリュプシス、隠されていたものを神が現わにすること、又は、ベールをはがすことであります。では、隠されていたものとは何でしょう?私達、救われた者の未来、即ち、救いの完成であります。

 特に私が黙示録を意識し始めたのは、1970年代に流行したオカルト映画でした。私と同年輩の方なら、ご覧になったことがあると思います。オーメン、エクソシスト、いずれも悪魔の申し子、聖書によれば、未来に出現すると言われる反キリストのことです。

 ヨハネ第一の手紙4章1節を開いて下さい。
 オーメンは、米国の国連大使の家庭に生まれた子供で、名がダミアン、悪魔の申し子で、やがて、世界を支配する者として育って行きます。他方、エクソシストでは、悪魔を追い払う賜物を与えられている、カトリックの神父との一大決戦であり、特にショッキングだったのは、少女の首が360度回転するシーンでした。

 前置きはさておき、黙示録に戻ります。では、世の終りとは、どんなことでしょうか?よく誤解されるように、この世界の滅亡、天変地異、今日、報道でとりあげられる気候変動による海面の上昇、温暖化による異常気象、戦争のうわさ等により、世界が滅亡するのではないかとの不安な気持ち、恐怖心であります。このようなことは、起きるかもしれないし、起こらないかもしれません。特に、戦争に関しましては、教会は非戦を貫き、我国の平和憲法を世界に掲げていかなければならないと思います。しかし、そのことは破局論、即ち、この世が滅亡するのではないかとの悲観論であります。

 世の終りのこと、神学に於いては終末論と言いますが、救いの完成、新しい天と地、死も涙もない神の国が、キリストの再臨と共に来るという、福音の完成された形であります。

 黙示録を読んで難しいと思われるのは、文章の中に、超自然的な幻や、意味不明な数字が記されているからです。

 黙示録を解釈する3つの方法があります。
1.過去主義的解釈:黙示録が書かれた時代背景 紀元90年頃、ローマ皇帝ドミティアヌス帝による皇帝崇拝を拒否したクリスチャン達とローマとの闘争の歴史を象徴的言葉で書く1つの絵画的なものであります。
2.歴史主義的解釈では、黙示録をヨハネの時代から、世の終り迄を救済史(救いの歴史)の全ての期間を予告するものと見る、教会が迫害を受け、苦しみが段々と深まっていく状態を描いた一種のパノラマ、絵のようなものであります。
3.未来主義的解釈では、世の終りとキリストの再臨の時期(日時ではない)を中心として書かれたものであります。

 私は、歴史的解釈、未来的解釈を受け入れるものであります。しかし、黙示録をテキストとした説教には、教会は昔から消極的でした。何故なら、黙示録の極端な解釈をして、異端に陥る危険性があったからなのです。

 過去の米国のある教会では、再臨がいつ起こるか、具体的数字を発表して、信者の人々が自分の財産を売り払い、再臨を待っていたのですが、その日、何も起こらず大騒ぎになったと言うことです。

 又、最初から異端として捉える宗派ですが、勿論、自分たちこそが、真の宗派は教会ではなく、王国会館であると宣言しているエホバの証人も、やはり、再臨の日時を発表しましたが、その日は何もなく過ぎてしまいました。彼らは面白い弁明をしています。イエスさまは途中まで降りてこられたが、途中で止まっておられるのだと。

 又、最近、話題になっている旧統一教会の教えである、教祖が再臨のキリストであると宣言していますが、そうしたら、二千年前に昇天したキリストは、どこに行かれたのでしょうか?デタラメも甚だしいです。使徒言行録1章9節から11節まで朗読いたします。

 この預言の書とも言われる黙示録は教会で預言の書として朗読され、説教のテキストになりました。それでは、黙示録が書かれた頃の時代背景はどのようなものだったのでしょうか?

 紀元95年、ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害の時であり、迫害の理由は、クリスチャンが皇帝崇拝を拒んだからです。

 ヨハネは流刑地−バトモス島−犯罪人が島流しされる土地に於いて、強制労働をさせられていたと言われます。翌96年、釈放されてエフェソに行き、黙示録を書いたそうです。ペンテコステの後、教会は拡大し続けました。しかし、ユダヤ人による宣教の妨害、帝国による皇帝崇拝の強制、それを拒否するクリスチャン達への迫害がますます激しくなり、中でも有名な皇帝ネロによる使徒パウロ、ペテロへの迫害で、彼らは殉教して行きました。

 次に、終末論−世の終りのことですが、時間の問題が大きく関係してきます。各文明圏では、どのように時間を捕らえてきたでしょうか?東アジア代表の文明圏インドで仏教が誕生したのですが、初めも終りもない円環の時間として捉えられ、教義では輪廻転生と言われました。人間、死ぬと他の者に生まれ変わり、この世に戻り、同じような一生を送る。但し、生まれ変わるのは人間とは限りません。人が生きていた時の行ない、業と言いますが、それによって何に生まれ変わるのか決められています。この苦しい輪廻から逃れるために、仏教徒は修行に励みました。

 西の文明の代表はギリシャです。その考えは、霊肉二元論、霊魂は神性なもの、肉体は汚れたもので、死ぬと霊魂は天上の世界へ、体はハデスと言う死後の世界で影のような形で暮らすそうです。何故、このような奇妙な考えが生まれるのでしょうか?その答えは、ユダヤ教、キリスト教、後にはイスラム教も入ってきますが、創造者による天地創造と言う信仰がなかったからです。現代では当たり前となっている直線的時間と言う考え方、前に向かって流れ、決して後戻りすることはないと言う時間の捉え方であります。

 ちなみに、我が国の元号は中国から輸入され、一世一代、つまり、天皇が即位してから亡くなる迄の元号が贈り名となる訳であります。つまり、天皇が時間をも支配するという意味であります。しかし、この考え方は我が国だけでしか通用しません。世界に於いては、皆様もご存じのように、キリスト紀元による暦があり、キリスト降誕時、文字通り訳すと、キリストの支配する時、又はキリストの降誕前によって、時代のあとさきが分かれているのであります。確かに世界の宗教には、創世神話、つまり、世界の成り立ちを説明する教えがありましたが、ユダヤ・キリスト教のような論理的に一貫した神学はありませんでした。後年、西欧に於いて科学が発展する要因となったのであります。

 この黙示録の預言は手紙の形式を用いて7つの教会に届けられました。大切なことは、神の言はヨハネ個人によって受けとられましたが、教会という会衆の中で朗読され、説教のテキストとして用いられてきたのです。今日に於いても、信仰は個人だけのものではなく、教会によって継承されなければならないのです。

 黙示録の預言を送られた宛先は、アジア州にある7つの教会、エフェソ、スミルナ、ベルガモン、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキアであります。しかし、アジアと言っても、私達の住むアジア大陸ではなく、ローマ帝国の植民都市、小アジア地中海沿岸に存在する教会であります。

 次に、差出人として、黙示・預言の言を与えられたキリストの紹介、今、おられ、かつておられ、やがて来られる方と言う表現は、永遠に存在する方、歴史上かつて起こったことのない前代未聞、驚天動地−今まで見たことも聞いたこともない驚くべき出来事、死から甦った御方を、今一度、思い起させようと言う事であります。

 地上の王たちの支配者であるイエス・キリストとは、西欧に於いてクリスマスの時期に、恒例行事として演奏されるヘンデルのメサイアという曲の中に、キリストをキング・オブ・キングス、ロード・オブ・ロード(王の王、主の主)とたたえるフレーズがあります。ヨハネによる福音書の19章8節に総督ピラトがキリストを尋問する場面がありますが、ピラトはキリストに対して「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」つまりピラトは、あらゆる権限の究極である生殺与奪、即ち、生かすも殺すも私次第にあると威張るのですが、それに対して、キリストは、「神から与えられなければ私に対して何の権限もないはずだ」と言われましたが、返事の意味は次の通りです。

 総督ピラト、又は、その主君である皇帝は、自分たちの力で全世界を支配する最高の権力があると思っているのですが、実は、歴史をも支配される神によって救済のご計画の道具に過ぎないことを、イエスさまによって教えられたのであります。

 恵みと平安とは、神さまの憐み深いご性質のおかげで、人間の罪を赦し、神の子として下さり、安心して神の助けを受けつつ、悩みを乗り越えて、毎日を生かさせて頂くことであります。

 では、私達は、何によって罪から解放されたのでしょうか?キリストの十字架の上で流された血潮のおかげです。確かに、救いは完成されました。しかし、体は今だ贖われていません。体の贖われることを、パウロは心の中でうめきながら待ち望んでいると叫んでいます。(ローマの信徒への手紙8章23節)
この事に、私達は疑問を持ちます。何故、十字架によって罪から解放された筈なのに罪を犯し続けるのだろう。この辺りの消息をマルチン・ルターに聴いてみましょう。

 「キリスト者は一生涯、罪人であると同時に義人である」人間は生まれながら神の審きの下にある罪人であるが十字架の贖いにより罪赦され義人と見なされるようになった。つまり、キリストによって神の前に義しい者とされたのであります。キリストを離れた時は罪人のままであります。「キリスト者は生涯、悔い改め続けなければならない。」私達は洗礼を受けた時のみ、悔い改めるのではなく、生涯に亘って悔い改めること、即ち、神に背を向けた状態から、神に方向転換することであります。そして、世の終りであり、キリストの再臨の時に、罪から完全に解放された新しい体に変えられ、新しい天地、死も涙もない神の国に住まわせて頂くのであります。

 それでは次に、小見出しにある「天上におられるキリストの姿」を見てみましょう。ヨハネの居る場所は、パトモスと言う島で、最初に申し上げたように囚人の流刑地であります。ヨハネは旧約の預言者のように、聖霊によって壮大な終りの日の幻を見せて頂きました。天上におられるキリストの姿は非常に異様に思われます。

 私達が福音書で慣れ親しみある姿は、私達と同じ人間、赤子として生まれ、成長して時には飢え渇き、そして最後に十字架の上で苦しみながら死んでいくという姿であります。

 キリストには2つの性質があると言われています。真の神、真の人であります。天上におられるキリストは、神としてスポットライトが当てられています。又、キリストは3つの職務を持っておられます。王・預言者・大祭司でありますが、時間の都合上、詳しいことは省略いたします。ただ、王としてのキリストにだけ触れたいと思います。王としてのキリストは、皇帝や支配者のように地上の国々を支配されるのみならず、永遠に生きておられ、死や陰府−死んだ後、行くとされる所−さえ支配されると言われます。これらのことが象徴的に書かれています。

 以上のことを頭において頂き、今日、ここに礼拝に集っておられる皆様と共に、今日、神が語って下さるメッセージに耳を傾けたいと思います。8節をご覧ください。キリストは全能の神であります。「私はアルファであり、オメガである。」アルファとはギリシャ語のアルファベット最初の文字A、オメガは最後のZにあたります。神は、私達の誕生のときから年老いて死ぬ迄の全生涯を御手の中において導き支配されます。老いて、だんだん身体が衰えていき、思うように動かすことが出来なくなった時、将来に何の希望もなく、ただ死を待つだけの身となったと思える時も、神は全てをご存じなのです。

 他方、若い人としては、元気があり、将来に向けて多くの希望に満ち溢れています。良い学校を卒業して、安定した会社に就職、恵まれた結婚をして無事、定年まで務めあげ多額の退職金、年金を貰い、悠々自適の老後を夢見るのです。

 最近、政府は人生百年時代、高齢化時代なので、老後年金だけでは不足するので、自分で積み立て、株などへの投資を勧めるキャンペーンを流しています。確かに老後に備えることは必要でありましょう。しかし、それだけで良いのでしょうか? 一寸先は闇と言うことわざがあります。以前発行された教会だよりに投稿された文章に私は大変教えられました。人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか。兄弟は長年連れ添ってこられた伴侶の方を短期間の内に失った悲しみを赤裸々に書いておられます。又、ものの本によりますと、戦後、日銀によって旧円と新円の切り替えが行われ、旧円が紙くず同然になったと言う記録を見ることですが、戦後の混乱期、正に、歴史的大転換であり、このようなことは滅多に起こらないと思いますが、人生には思いもよらないことが起こります。御言に注目して頂きたいのですが、今いましから始まっています。普通の時間の順序ですと、過去・現在・未来になりますが、神は「今います方である」ことが協調されています。私達は、どうしても、過去の自分の犯した過ち、失敗等にとらわれ続けること、そして、未だ、先の見えない未来に不安を覚えるのですが、神は、現在、今を生きよと命じられます。

 老人になると現在が苦しく、過去は良かったと逃避する傾向があります。今日、今を抜きにして人は本当に生きることは出来ません。今を感謝と満足を持って過ごすことが出来なければ、過去の懐かしい思い出も苦いものに変わってしまいます。 又、私達がどんなに素晴らしい未来を描こうとも、現在に満足と感謝がなければ、未来は不安とあせりを、かきたてるものでしかないでしょう。

 では、こうした充実した毎日を送る為には、何が必要でしょうか。それは、今の時を支配される神に目を向けることであります。そして、一日一日を神から与えられた日として、精一杯生きることであります(マタイによる福音書6章25節〜34節参照)。人間の目が過去か未来のどちらかに向いてしまう時、生活の中心を見失うのです。悪魔の企みは今の時を空っぽにしてしまい、今の時、神に出会わないようにさせることです。

 神は、過去・未来をも支配されます。大事なことは、現在、今を支配されることを知ることであります。キリストは、今、生きて救いを与えようと待っておられるのです。

 あなたは、このキリストの招きに、どのように答えられますか?
 コリントの信徒への手紙二 6章1節〜2節
「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:49| 日記

2023年8月20日 礼拝予告

〇教会学校
7月30日(日)〜8月27日(日)まで夏休校です。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書5章27節〜32節、詩編32篇1節〜7節
説 教: 「罪人を招く主イエス」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:32| 日記

2023年8月6日 礼拝予告

〇教会学校
7月30日(日)〜8月27日(日)まで夏休校です。

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書5章17節〜26節、出エジプト記34章4節〜10節
説 教: 「あなたの罪は赦された」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:28| 日記