〇教会学校 9時15分〜
聖書:コリントの信徒への手紙1、13章1節〜13節
説教:「いつまでも残るは信仰、希望、愛」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書11章28節〜30節、詩編55篇23節
説 教: 「人生の重荷をおろして」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
2023年09月30日
2023年10月8日 礼拝予告
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:07| 日記
2023年09月24日
2023年9月24日 主日礼拝説教「力に満ち溢れる主」大坪信章牧師
ルカによる福音書6章17節〜19節、士師記6章11節〜18節
説 教 「力に満ち溢れる主」
今日の聖書の個所は、数節の至って短い物語です。もしかしたら、物語とまではいかないかもしれません。なぜなら、この数節は、先週の12使徒が選ばれた物語の続きでもあるからです。確かに17節を見ると「イエスは彼らと」それは12人の使徒たちと「一緒に山から下りて」と、話しが繋がっていきます。また、この数節の至って短い物語は、この後20節から始まる、イエスさまの平地の説教とも呼ばれる教えのプロローグ(序文)でもあります。確かに17節には「平らな所にお立ちになった」とあり、18節には、人々が「イエスの教えを聞くため」とあります。要するに、今日の17節〜19節は、前後の物語に関係する物語、それは、繋ぎの物語なのです。例えば、繋ぎと言えば、列車の連結器や楽曲の間奏も、そうです。繋ぎは、決してメインではなく目立ちません。だから、列車の写真を撮る撮り鉄(鉄道写真家)はいても、連結器の写真を撮る撮り鉄はいません。また、メロディーの、さびに感動する人はいても、間奏に感動する人もいません。或いは、文章の段落や余白も、広い意味では繋ぎです。それに関しては、真っ白な単なる空白にしか過ぎません。しかし、そういった繋ぎや間(ま)、そして、空白というのは、何か一つのものを成り立たせ、完成させるためには、非常に重要な役割を果たしています。同じように、今日の繋ぎの物語も、物語全体に対して言えば、非常に重要な役割を担っていると言えます。この繋ぎの物語には、大事なことが2つ記されています。
1つは、少し長くなりますが、先ほど少し触れた、イエスさまが「山から下りて、平らな所にお立ちになった」ことです。それは、先ほど、20節から始まる教え(平地の説教)のプロローグ(序文)に当たると言いました。それでは、なぜ、20節から始まる教えは、平地の説教と呼ばれるようになったのでしょうか。というのは、イエスさまが人々に教えられる場面は、他にも、数限りなくあるからです。平地の説教と呼ばれるようになった理由、それは、この教えと、ほぼ同じ内容の教えが、マタイ福音書のほうにもあるからです。また、その教えは、平地ではなく、むしろ、平地から山に登った場所を舞台としているからです。だから、その教えは、山上の説教とか山上の垂訓と呼ばれています。そういう同じ内容の比較対象と成り得る物語があるので、一方は平地の説教、もう一方は、山上の説教になるのです。そうすると、この両方の比較による違いが生まれます。それを、私たち読者は、知っておく必要があります。それは、今、述べてきたように、平地と山上という場所の違いもそうですが、実は、教える「時」も違っています。このルカ福音書の平地の説教は、イエスさまが12人の使徒たちを選び出した後の話しです。つまり、それは「彼らと一緒に山から下りて」からの話しです。だから、イエスさまは、既に12人の使徒たちに権能(権威)を授け、12使徒を、ご自分と同じ使者(教える者)として、ご自分の側に置いておられる状態を想像させます。その上で、多くの弟子たちを始めとする民衆や群衆に教えられるので、使徒たちが、イエスさまの説教を聞く立場は、また、少し違います。しかし、マタイ福音書の山上の説教は、まだ、12人の使徒たちを選ばれる前の話しなのです。そうすると、のちに使徒として選ばれる12人の使徒たちは、その時点では、まだ、より多くの弟子集団の一員に過ぎないことになります。要するに、構図としては、イエスさま、ただお一人が、教える側にいることになります。そこで、多くの弟子たちは、山の上で、ただ一人、腰を下ろすイエスさまのほうへ近づき、聞く体制を整えるのです。その上で、イエスさまは、民衆や群衆も含めた、すべての人々に、教えられたのです。
このように、マタイ福音書のほうでは、イエスさまが、ただお一人山の上で、人々と向かい合われるのです。それは、聖書の旧約で言えば、指導者であり祭司であり預言者でもあるモーセが、シナイ山の頂きで、神さまから十戒を戴く姿を彷彿とさせます。要するに、マタイ福音書では、イエスさまが、聖書の旧約時代に約束されていた、権威ある不動のメシア(それは、唯一の神の子、救い主でありながら、真の王)であることを、象徴的に伝えています。例えば、マタイ福音書のクリスマスと言えば、3人の博士の物語です。今では「占星術の学者」と訳されますが、その東の国(東方)の博士たちは、はるばるユダヤに遣って来ました。そして、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエスさま(それは、幼子)を礼拝しました。実は、あの博士たちは、それぞれが東の国の一国の主(あるじ)、王だったと言われています。要するに、諸国の王たちも礼拝するイエスさまは、イスラエルの民のために、十字架の救いを成し遂げる王の王として、象徴的に描かれています。それは、マタイ福音書が、ユダヤの国の人々(神の民イスラエル)のために書かれた福音書だったからです。それに対して、ルカ福音書は、同じイエスさまが、むしろ、その山の上から下りて来られるのです。また、そのイエスさまは、既に12人の使徒たちを選び、彼らに御自分の権能(権威)を授けておられます。そうすることで、イエスさまは、人々の中で生活を共にし、人々と共におられる救い主であるということを、象徴的に伝えているのです。例えば、ルカ福音書のクリスマス物語と言えば、羊飼いと天使の物語です。羊飼いたちは、町の郊外で、夜通し羊たちと生活をしていました。それは、彼らが、律法を守ることができない人々、つまり、罪人の扱いを受けていたことを表しています。しかし、御使いが、宣教の対象として、救い主誕生の知らせを告げたのは、まさに、この羊飼いたちだったのです。彼らは、ヨセフとマリア以外で、それは、世界で初めてイエスさま(それは、乳飲み子)を礼拝する者となったのです。要するに、イエスさまは、罪人を救う救い主なのです。それは、私たちの罪のための犠牲として、十字架に架けられる救い主として、象徴的に描かれています。ヨハネ福音書の言葉で言えば「世の罪を取り除く神の小羊」です。それは、ルカ福音書が、異邦人(異教徒である罪人)のために書かれた福音書だったからです。
だから、12使徒と一緒に山を下りられたイエスさまの前には、17節を見ると「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」のです。その対象は、まず、イエスさまに従っていた「大勢の弟子」たちでした。そして「民衆」とありますが、それは「ユダヤ全土とエルサレムから」やって来た、旧約の時代で言うところの南王国ユダのユダヤ人たちでした。また「ティルスやシドンの海岸地方から」とあるのは、地中海の東海岸にあるフェニキアの町で、そこはイスラエルの領土の北側の外です。つまり、そこは、もともと、バアルやアシェラという豊穣と多産の偶像を拝む異教徒(異邦人)の町だったのです。中でも、ティルスより、約35キロ、更に北に位置するシドンの国の王は、かつて、イスラエルの王国時代に、自分の娘イゼベルを、北イスラエル王国の王アハブに嫁がせたのです。更に、そのアハブ王と妻イゼベルの娘アタリヤは、何と南ユダ王国の王ヨラムに嫁いだのです。そうして、異教徒であるシドンの王の娘や孫娘が、北と南のイスラエル王国に入り込むようなことが起こったのです。そして、その過程で、当然、シドンの国の偶像、バアルやアシェラも、イスラエルの国中に蔓延っていったのです。挙句の果てには、南王国ユダの王ヨラムの妻となったアタリヤは、息子でユダの王であったアハズヤが早世した後、強引にユダ王国の王として即位したのです。そして、ユダの王族の反感を買ったアタリヤは、ユダの王族をすべて滅ぼそうしたのです。幸い、一人の男の子ヨアシュだけが、叔母のヨシェバに匿われて生き延び、その後、アタリヤは退けられ、ヨアシュがユダの王の座を守り通すことになったのです。このように、メシア・救い主の誕生が約束されていた、そのユダ王国の王族を絶やそうとまでした曰くつきの異教徒の国からも、イエスさまを求めに来たのです。私たちには、色んな過去があります。どこで生まれたとか、どこの出だとか、そういう血筋や国籍だけではありません。どういう信仰を持っていたとか、それを今も持っているとか、或いは、人生の陰や闇を生きて来たとか、どっちつかずの人生を生きているとか、もしかしたら、誰にも言えず、誰にも知られたくない過去を持つ人もいるかもしれません。もう、これが私の運命(さだめ)だと思って、人生は変えられないと諦めている人もいるかもしれません。たとえ、そうだとしても、イエスさまを求めるなら、イエスさまが受け入れない人は、誰一人としていないのです。そればかりか、これは、ヨハネ福音書にある『カナの婚宴』の話しですが、イエスさまは、水をぶどう酒に変えることのできる御方なのです。また、これは、既にルカ福音書でも読んできたことですが、イエスさまは、その新しいぶどう酒を、古い革袋に入れたりは、なさらないのです。それは、革袋が破けて、新しい葡萄酒ともども、ダメになるからです。だから、新しぶどう酒は、新しい革袋に入れるのです。18節に「汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた」とあるように、イエスさまを求めて来た人々は、誰もが皆、癒されました。要するに、イエスさまを求めるなら、癒されない病は無いのです。パウロも言っているように「見よ、すべてが新しくなった」(コリントの信徒への手紙2、5章17節/口語訳)のです。
だから19節を見ると「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」のです。それは「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」です。 これが大事なことの2つ目です。イエスさまから「力が出て」いたということです。それは、一体どういうことなのでしょうか。確かに、何かに触れて癒されるような経験は、時々あります。この前9月14日には、こんなことがありました。石山教会のオルガンは、この春のうちに2つとも壊れてしまったことは、皆さんもご存じのことと思います。その件で役員が今後を考えていた時、一時的にリードオルガンを貸してくださっていた大津教会の教会員ご夫妻が、この度そのオルガンを譲ってくださることになったのです。それで、その日、そのご夫妻のお宅に役員と御礼に伺ったのです。すると、そこには、沢山の英国製の家具がありました。その方は、その家具の修理などを専門としておられる方でした。そして、そこに、幾つかの古いオルガンもありました。そのうちの一つに触れて、少し音階程度に弾いてみたのです。すると、その鍵盤は、自分が慣れ親しんで弾いてきたピアノのようでもありました。そして、片手で足りる音階を弾いた時、感じたのです。弾き終わった後に、口を吐いて出てきた言葉は「癒された」でした。その場にいた人はお聞きになったと思います。物に触れて癒される経験は、初めてかもしれません。歳を取ったからかもしれません。リードオルガンなので、弾いたあと、息づかいのような音や音色が聞こえますが、そういうものにも触れたからなのかもしれません。また、人に触れることで癒される経験もあります。以前の教会幼稚園では、朝、子どもたちを迎える時に「おはよう」の挨拶と共に、よく子どもたちと手を合わせて「タッチ」していました。コロナ禍で随分と控えた時期もありましたが、今でも覚えています。その内の2人とタッチした瞬間、何かが違うというか、癒されたというか、別に病気とか、怪我が治ったわけでは勿論ありません。気持ちが安心したと言うのでしょうか。確かに、他の子たちには無かった何かを、その2人の子どもたちからは感じたのです。ただ手を合わせただけで。それは、人それぞれなのかもしれません。だから、イエスさまに触れようとした人々のこと、そして、イエスさまから力が出たことが、何となく分かるような気がするのです。ただでさえ、人には気配があり存在感があります。俗にいうオーラなどを感じたり見たりする人もいます。生きているなら、何かしらのエネルギーが体の表面にも現れているでしょうし、それは、時に植物や、また、歴史的建造物にも感じることがあります。牧師が、あまり感覚や感情の話しをしていては、おかしいのかもしれませんが、これは普通に生きている人間として感じます。ただ、常々申していますように、感覚や感情は一時的なものです。要するに、それよりももっと確かなもの、確かなことがあるのです。
今日の御言葉には「イエスから力が出て」とありますが、それは、イエスさまから力が「現れる」とか「発せられる」という意味があります。いわゆる、出ているのです。それで、他には、力が「流れ出る」とか「出発する」それは、そこから「始まる」という意味もあるのです。だから、それは、命の力なのです。その命の力とは、人の命を生かす力で、それは、イエスさまの教えや、その働きに見られる愛や憐れみや慈しみなのです。それを、イエスさまのもとに集まった人々は、感じているのです。ただ、それを感覚や感情として感じたとしても、それは、やはり一時的なことに過ぎません。それでは、どうすれば良いのでしょうか。それが言葉なのです。私たちもそうなのではないでしょうか。分かっていても、思っていても、言ってほしいこと、言葉にしてほしいことがあるのです。それは「ありがとう」という感謝の言葉や、また「愛してるよ」という愛の言葉です。それは、私たちに生きる力を与えるものであり、それがイエスさまにとっては教えであり、このあと話される平地の説教なのです。つまり、イエスさまから「力が出て」というのは、一時的に人を癒すような、そういう感覚や感情的な力ではなく、もっと確かな、それは、言葉としての癒しなのです。それも、力ある言葉としての癒しなのです。その力ある言葉というのは、その言葉が真実であり、うそ偽りがないということです。なぜなら、イエスさまの愛は、十字架の愛として世に示されました。イエスさまの命は、復活の命として世に示されました。こうして、私たちの罪は赦され、新しい命が与えられたのです。「イエスから力が出て」います。それは、イエスさまから力が「出発する」とか「始まる」という意味でもあると言いました。このイエスさまと共に始める人生、このイエスさまと共に始まる人生、また、このイエスさまと共に既に始まっている人生、それが癒され神の子どもとされた人生です。この命の力に満ち溢れる主の御言葉によって、私たちの人生を喜んでいきましょう。
説 教 「力に満ち溢れる主」
今日の聖書の個所は、数節の至って短い物語です。もしかしたら、物語とまではいかないかもしれません。なぜなら、この数節は、先週の12使徒が選ばれた物語の続きでもあるからです。確かに17節を見ると「イエスは彼らと」それは12人の使徒たちと「一緒に山から下りて」と、話しが繋がっていきます。また、この数節の至って短い物語は、この後20節から始まる、イエスさまの平地の説教とも呼ばれる教えのプロローグ(序文)でもあります。確かに17節には「平らな所にお立ちになった」とあり、18節には、人々が「イエスの教えを聞くため」とあります。要するに、今日の17節〜19節は、前後の物語に関係する物語、それは、繋ぎの物語なのです。例えば、繋ぎと言えば、列車の連結器や楽曲の間奏も、そうです。繋ぎは、決してメインではなく目立ちません。だから、列車の写真を撮る撮り鉄(鉄道写真家)はいても、連結器の写真を撮る撮り鉄はいません。また、メロディーの、さびに感動する人はいても、間奏に感動する人もいません。或いは、文章の段落や余白も、広い意味では繋ぎです。それに関しては、真っ白な単なる空白にしか過ぎません。しかし、そういった繋ぎや間(ま)、そして、空白というのは、何か一つのものを成り立たせ、完成させるためには、非常に重要な役割を果たしています。同じように、今日の繋ぎの物語も、物語全体に対して言えば、非常に重要な役割を担っていると言えます。この繋ぎの物語には、大事なことが2つ記されています。
1つは、少し長くなりますが、先ほど少し触れた、イエスさまが「山から下りて、平らな所にお立ちになった」ことです。それは、先ほど、20節から始まる教え(平地の説教)のプロローグ(序文)に当たると言いました。それでは、なぜ、20節から始まる教えは、平地の説教と呼ばれるようになったのでしょうか。というのは、イエスさまが人々に教えられる場面は、他にも、数限りなくあるからです。平地の説教と呼ばれるようになった理由、それは、この教えと、ほぼ同じ内容の教えが、マタイ福音書のほうにもあるからです。また、その教えは、平地ではなく、むしろ、平地から山に登った場所を舞台としているからです。だから、その教えは、山上の説教とか山上の垂訓と呼ばれています。そういう同じ内容の比較対象と成り得る物語があるので、一方は平地の説教、もう一方は、山上の説教になるのです。そうすると、この両方の比較による違いが生まれます。それを、私たち読者は、知っておく必要があります。それは、今、述べてきたように、平地と山上という場所の違いもそうですが、実は、教える「時」も違っています。このルカ福音書の平地の説教は、イエスさまが12人の使徒たちを選び出した後の話しです。つまり、それは「彼らと一緒に山から下りて」からの話しです。だから、イエスさまは、既に12人の使徒たちに権能(権威)を授け、12使徒を、ご自分と同じ使者(教える者)として、ご自分の側に置いておられる状態を想像させます。その上で、多くの弟子たちを始めとする民衆や群衆に教えられるので、使徒たちが、イエスさまの説教を聞く立場は、また、少し違います。しかし、マタイ福音書の山上の説教は、まだ、12人の使徒たちを選ばれる前の話しなのです。そうすると、のちに使徒として選ばれる12人の使徒たちは、その時点では、まだ、より多くの弟子集団の一員に過ぎないことになります。要するに、構図としては、イエスさま、ただお一人が、教える側にいることになります。そこで、多くの弟子たちは、山の上で、ただ一人、腰を下ろすイエスさまのほうへ近づき、聞く体制を整えるのです。その上で、イエスさまは、民衆や群衆も含めた、すべての人々に、教えられたのです。
このように、マタイ福音書のほうでは、イエスさまが、ただお一人山の上で、人々と向かい合われるのです。それは、聖書の旧約で言えば、指導者であり祭司であり預言者でもあるモーセが、シナイ山の頂きで、神さまから十戒を戴く姿を彷彿とさせます。要するに、マタイ福音書では、イエスさまが、聖書の旧約時代に約束されていた、権威ある不動のメシア(それは、唯一の神の子、救い主でありながら、真の王)であることを、象徴的に伝えています。例えば、マタイ福音書のクリスマスと言えば、3人の博士の物語です。今では「占星術の学者」と訳されますが、その東の国(東方)の博士たちは、はるばるユダヤに遣って来ました。そして、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエスさま(それは、幼子)を礼拝しました。実は、あの博士たちは、それぞれが東の国の一国の主(あるじ)、王だったと言われています。要するに、諸国の王たちも礼拝するイエスさまは、イスラエルの民のために、十字架の救いを成し遂げる王の王として、象徴的に描かれています。それは、マタイ福音書が、ユダヤの国の人々(神の民イスラエル)のために書かれた福音書だったからです。それに対して、ルカ福音書は、同じイエスさまが、むしろ、その山の上から下りて来られるのです。また、そのイエスさまは、既に12人の使徒たちを選び、彼らに御自分の権能(権威)を授けておられます。そうすることで、イエスさまは、人々の中で生活を共にし、人々と共におられる救い主であるということを、象徴的に伝えているのです。例えば、ルカ福音書のクリスマス物語と言えば、羊飼いと天使の物語です。羊飼いたちは、町の郊外で、夜通し羊たちと生活をしていました。それは、彼らが、律法を守ることができない人々、つまり、罪人の扱いを受けていたことを表しています。しかし、御使いが、宣教の対象として、救い主誕生の知らせを告げたのは、まさに、この羊飼いたちだったのです。彼らは、ヨセフとマリア以外で、それは、世界で初めてイエスさま(それは、乳飲み子)を礼拝する者となったのです。要するに、イエスさまは、罪人を救う救い主なのです。それは、私たちの罪のための犠牲として、十字架に架けられる救い主として、象徴的に描かれています。ヨハネ福音書の言葉で言えば「世の罪を取り除く神の小羊」です。それは、ルカ福音書が、異邦人(異教徒である罪人)のために書かれた福音書だったからです。
だから、12使徒と一緒に山を下りられたイエスさまの前には、17節を見ると「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」のです。その対象は、まず、イエスさまに従っていた「大勢の弟子」たちでした。そして「民衆」とありますが、それは「ユダヤ全土とエルサレムから」やって来た、旧約の時代で言うところの南王国ユダのユダヤ人たちでした。また「ティルスやシドンの海岸地方から」とあるのは、地中海の東海岸にあるフェニキアの町で、そこはイスラエルの領土の北側の外です。つまり、そこは、もともと、バアルやアシェラという豊穣と多産の偶像を拝む異教徒(異邦人)の町だったのです。中でも、ティルスより、約35キロ、更に北に位置するシドンの国の王は、かつて、イスラエルの王国時代に、自分の娘イゼベルを、北イスラエル王国の王アハブに嫁がせたのです。更に、そのアハブ王と妻イゼベルの娘アタリヤは、何と南ユダ王国の王ヨラムに嫁いだのです。そうして、異教徒であるシドンの王の娘や孫娘が、北と南のイスラエル王国に入り込むようなことが起こったのです。そして、その過程で、当然、シドンの国の偶像、バアルやアシェラも、イスラエルの国中に蔓延っていったのです。挙句の果てには、南王国ユダの王ヨラムの妻となったアタリヤは、息子でユダの王であったアハズヤが早世した後、強引にユダ王国の王として即位したのです。そして、ユダの王族の反感を買ったアタリヤは、ユダの王族をすべて滅ぼそうしたのです。幸い、一人の男の子ヨアシュだけが、叔母のヨシェバに匿われて生き延び、その後、アタリヤは退けられ、ヨアシュがユダの王の座を守り通すことになったのです。このように、メシア・救い主の誕生が約束されていた、そのユダ王国の王族を絶やそうとまでした曰くつきの異教徒の国からも、イエスさまを求めに来たのです。私たちには、色んな過去があります。どこで生まれたとか、どこの出だとか、そういう血筋や国籍だけではありません。どういう信仰を持っていたとか、それを今も持っているとか、或いは、人生の陰や闇を生きて来たとか、どっちつかずの人生を生きているとか、もしかしたら、誰にも言えず、誰にも知られたくない過去を持つ人もいるかもしれません。もう、これが私の運命(さだめ)だと思って、人生は変えられないと諦めている人もいるかもしれません。たとえ、そうだとしても、イエスさまを求めるなら、イエスさまが受け入れない人は、誰一人としていないのです。そればかりか、これは、ヨハネ福音書にある『カナの婚宴』の話しですが、イエスさまは、水をぶどう酒に変えることのできる御方なのです。また、これは、既にルカ福音書でも読んできたことですが、イエスさまは、その新しいぶどう酒を、古い革袋に入れたりは、なさらないのです。それは、革袋が破けて、新しい葡萄酒ともども、ダメになるからです。だから、新しぶどう酒は、新しい革袋に入れるのです。18節に「汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた」とあるように、イエスさまを求めて来た人々は、誰もが皆、癒されました。要するに、イエスさまを求めるなら、癒されない病は無いのです。パウロも言っているように「見よ、すべてが新しくなった」(コリントの信徒への手紙2、5章17節/口語訳)のです。
だから19節を見ると「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」のです。それは「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたから」です。 これが大事なことの2つ目です。イエスさまから「力が出て」いたということです。それは、一体どういうことなのでしょうか。確かに、何かに触れて癒されるような経験は、時々あります。この前9月14日には、こんなことがありました。石山教会のオルガンは、この春のうちに2つとも壊れてしまったことは、皆さんもご存じのことと思います。その件で役員が今後を考えていた時、一時的にリードオルガンを貸してくださっていた大津教会の教会員ご夫妻が、この度そのオルガンを譲ってくださることになったのです。それで、その日、そのご夫妻のお宅に役員と御礼に伺ったのです。すると、そこには、沢山の英国製の家具がありました。その方は、その家具の修理などを専門としておられる方でした。そして、そこに、幾つかの古いオルガンもありました。そのうちの一つに触れて、少し音階程度に弾いてみたのです。すると、その鍵盤は、自分が慣れ親しんで弾いてきたピアノのようでもありました。そして、片手で足りる音階を弾いた時、感じたのです。弾き終わった後に、口を吐いて出てきた言葉は「癒された」でした。その場にいた人はお聞きになったと思います。物に触れて癒される経験は、初めてかもしれません。歳を取ったからかもしれません。リードオルガンなので、弾いたあと、息づかいのような音や音色が聞こえますが、そういうものにも触れたからなのかもしれません。また、人に触れることで癒される経験もあります。以前の教会幼稚園では、朝、子どもたちを迎える時に「おはよう」の挨拶と共に、よく子どもたちと手を合わせて「タッチ」していました。コロナ禍で随分と控えた時期もありましたが、今でも覚えています。その内の2人とタッチした瞬間、何かが違うというか、癒されたというか、別に病気とか、怪我が治ったわけでは勿論ありません。気持ちが安心したと言うのでしょうか。確かに、他の子たちには無かった何かを、その2人の子どもたちからは感じたのです。ただ手を合わせただけで。それは、人それぞれなのかもしれません。だから、イエスさまに触れようとした人々のこと、そして、イエスさまから力が出たことが、何となく分かるような気がするのです。ただでさえ、人には気配があり存在感があります。俗にいうオーラなどを感じたり見たりする人もいます。生きているなら、何かしらのエネルギーが体の表面にも現れているでしょうし、それは、時に植物や、また、歴史的建造物にも感じることがあります。牧師が、あまり感覚や感情の話しをしていては、おかしいのかもしれませんが、これは普通に生きている人間として感じます。ただ、常々申していますように、感覚や感情は一時的なものです。要するに、それよりももっと確かなもの、確かなことがあるのです。
今日の御言葉には「イエスから力が出て」とありますが、それは、イエスさまから力が「現れる」とか「発せられる」という意味があります。いわゆる、出ているのです。それで、他には、力が「流れ出る」とか「出発する」それは、そこから「始まる」という意味もあるのです。だから、それは、命の力なのです。その命の力とは、人の命を生かす力で、それは、イエスさまの教えや、その働きに見られる愛や憐れみや慈しみなのです。それを、イエスさまのもとに集まった人々は、感じているのです。ただ、それを感覚や感情として感じたとしても、それは、やはり一時的なことに過ぎません。それでは、どうすれば良いのでしょうか。それが言葉なのです。私たちもそうなのではないでしょうか。分かっていても、思っていても、言ってほしいこと、言葉にしてほしいことがあるのです。それは「ありがとう」という感謝の言葉や、また「愛してるよ」という愛の言葉です。それは、私たちに生きる力を与えるものであり、それがイエスさまにとっては教えであり、このあと話される平地の説教なのです。つまり、イエスさまから「力が出て」というのは、一時的に人を癒すような、そういう感覚や感情的な力ではなく、もっと確かな、それは、言葉としての癒しなのです。それも、力ある言葉としての癒しなのです。その力ある言葉というのは、その言葉が真実であり、うそ偽りがないということです。なぜなら、イエスさまの愛は、十字架の愛として世に示されました。イエスさまの命は、復活の命として世に示されました。こうして、私たちの罪は赦され、新しい命が与えられたのです。「イエスから力が出て」います。それは、イエスさまから力が「出発する」とか「始まる」という意味でもあると言いました。このイエスさまと共に始める人生、このイエスさまと共に始まる人生、また、このイエスさまと共に既に始まっている人生、それが癒され神の子どもとされた人生です。この命の力に満ち溢れる主の御言葉によって、私たちの人生を喜んでいきましょう。
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2023年09月19日
2023年10月1日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:コリントの信徒への手紙1、10章13節
説教:「試練を逃れる道」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書6章20節〜26節、コヘレトの言葉9章5節
説 教: 「人生の意味を考える」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:コリントの信徒への手紙1、10章13節
説教:「試練を逃れる道」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書6章20節〜26節、コヘレトの言葉9章5節
説 教: 「人生の意味を考える」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
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