2023年09月17日

2023年9月17日 主日礼拝説教「弟子から使徒への選び」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章12節〜16節、出エジプト記3章9節〜15節                
説 教 「弟子から使徒への選び」   

 12節の「そのころ」というのは、律法学者たちやファリサイ派の人々が、安息日論争に敗北した「そのころ」です。彼らは、自分たちから、イエスさまに論争を吹っかけておきながら、その論争に負けたことで、メンツは丸潰れでした。彼らは、イエスさまとの間で、そういうことを何度も重ねてきていたので、相当うっぷんが溜まっていたことが窺えます。その、うっぷんが、やがて怒りに変わり、その怒りは、彼らの心を支配し、それがイエスさまへの殺意となって表れたのです。そのことが、11節に記されています。「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と。「何とかしよう」というのは、彼らがイエスさまを殺そうと話し合ったということです。つまり、彼らがイエスさまに対して殺意を抱くようになった「そのころ」イエスさまは、12節「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」のです。イエスさまは、祈りの方ですから、祈ることは日常的でした。夕べには「人里離れた所に退いて」(5章16節)祈り、朝は「まだ暗いうちに」「人里離れた所へ出て行き」(マルコ福音書1章35節)祈られました。しかし、今回は「祈るために山に行き」「夜を明かす」とあるのです。「山」は、イエスさまが、父である神と交わりの時を過ごす場所として好まれました。ただ、今回は、そこで一晩中、夜を徹して祈られたのです。それは、その祈りの求めるところ、その思いが、いつになく強かったということです。その徹夜の祈りは、まるで、断食ならぬ、断睡、これは、造語ですが、断食のように、睡眠を断ってまで祈りに集中されたのです。

 その特別な祈りの内容は、13節の言葉から推測できます。「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあるからです。イエスさまは、大勢の弟子たちの中から12人の使徒を選ぶために、夜を徹して祈られたのです。その12の数は、イスラエル民族が12部族であった、その数(完全数)に由来しています。この12人の選抜が「そのころ」つまり、律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエスさまに殺意を抱くようになった頃に行なわれたのです。それで、合点がいくのです。なぜなら、イエスさまは、ご自分が亡き後の福音宣教のこと、弟子たちのこと、そして、その共同体として、のちに形成される教会のことを考えておられたからです。要するに、イエスさまが、弟子たちの中から12人を選び、彼らを使徒と名付けられたのは、ご自分の権能(権威)を、彼らに委譲するためだったのです。そういう意味では、使徒は、まるで、小さなキリスト、小キリストのようにも見えます。ところで、その委譲された権能が、どのようなものだったのか、それは、このルカ福音書には記されていません。けれども、マタイ福音10章1節には、それが「汚れた霊に対する権能」であり、それは「汚れた霊を追い出す」ため、また「あらゆる病気や患いをいやすため」であると記されています。また、マルコ福音書3章14節15節には「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」であると記されています。使徒たちを「自分のそばに置くため」というのは、イエスさまが弟子に教えるように教えると同時に、訓練を授けるためでした。具体的には、説教(宣教)に関して、奇跡に関して、弟子となる者への教育に関して、そして、集団としての弟子が信仰共同体として形成され、のちに組織化される教会運営に関してです。これらの権能は、ここに至るまでに、イエスさまが教えや御業(奇跡・しるし)の中で行なわれた中心的な働きでした。

 このように、弟子と使徒の関係性の中には、まだ、この時点では、はっきりとは見えない、教会という組織(共同体)の未来が、薄っすらと映し出されていると言えます。いわゆる、弟子と使徒は、教会の縮図です。ただ、使徒という言葉を聞いて、真っ先に思い浮かべるのは、あの使徒言行録に出てくる使徒パウロではないでしょうか。彼は、元々、イエスさまの昇天後の教会の時代に、教会とクリスチャンを迫害する律法学者・ファリサイ派でした。しかし、ダマスコへの途上で、復活のイエスさまと出会い、イエスさまから直接、異邦人伝道へと任命された使徒でした。ただ、時系列で、順を追っていけば、今回イエスさまによって選ばれた12弟子、彼らが、最初に12使徒と呼ばれたのです。そのリストが、14節〜16節に記されています。「それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである」と。この12人の名前から分かることは、皆、普通の人だったということです。彼らは、知識量が均等とか、性格が同じとか、背格好が似ているとか、そういう基準は何もありませんでした。12使徒から分かることは、12色の色鉛筆のように、それは、まさに色々で雑多というか、良く言えば、皆それぞれ個性的な人たちでした。先程、弟子の中から使徒が立てられることで、そこに、薄っすらと教会という組織(共同体)が映し出されていると言いましたが、この雑多で個性的というのが、教会と言えるのかもしれません。具体的には、リストの最後のユダは、都エルサレムの出で、他の11人は、ガリラヤの田舎の出です。また、リストの最初から見ていけば、ペトロとアンデレの兄弟は、ペトロが、そそっかしくて、アンデレが、穏やかという対照的な性格でした。続くヤコブとヨハネは、イエスさまから「雷の子」とも呼ばれるほどに激しい性格の持ち主でしたが、ヨハネは性格が一変し、愛をテーマとした福音書と手紙を書きました。他には、疑い深いトマスもいれば、裏切り者となるユダもいます。職業で言えば、ペトロからヨハネまでの4人の漁師、徴税人のマタイ、そして、熱心党のシモンがいます。そのうち、徴税人はローマ帝国の手下、熱心党はユダヤの愛国者ですから、両者は、普通に相容れない関係のなのです。更に、この使徒たちは、弟子から使徒へと選ばれておきながら、あってはならない性質を持ち合わせてもいました。それは、使徒の一人であるユダがそうでしたが、ユダのように露骨ではないにしろ、詰まるところ、全員がイエスさまを見捨てて逃げた弱い人間でした。

 しかし、同時に彼らは、復活のイエスさまから、もう一度呼ばれた時に、その招きに従う素直さ、従順さも持ち合わせていました。この使徒の中でも誰も完璧な人はいないのです。イエスさまは、完璧で申し分の無い人々を、徹夜の祈りを通して選ばれたのではないのです。むしろ、何かを見失っていた。何かが欠けていた。何かが足りなかった。しかし、何かを求めていた。だから、イエスさまは、徹夜の祈りを通して、彼らが、その務めに堪えることができるように、徹底的に執り成されたのです。それは、まるで、イエスさまの愛と憐れみと慈しみを、彼らに擦り込むように。それが、広い意味で言うところのイエスさまの弟子であり、また、その中から選ばれた使徒たちだったのです。ですから、教会や、教会の人々への清いイメージというのは、一体どこから出てきたのかと思うのです。考えてもみれば、教会というのは、自分が罪深い人間であることに気がついている人、或いは、気づかされた人、つまり、罪人の集まりなのです。それが、ただの罪人の集まりなら、どんな集会が行なわれているのか、そら恐ろしくもなります。でも、その罪人たちは、同時にイエスさまの十字架の贖いによって赦された罪人でもあるのです。だから、教会や教会の人々には、イエス・キリストの十字架のもとに、それは、十字架の愛と赦しと平和のもとに一つとなって神を誉め讃え合い、協力し合って神の宣教の業に勤しむという、そういう清さや美しさがあるのです。だから、大事なのは、イエスさまが招き、呼んでおられる時に、その招きに応じることです。それが、弟子にも、また、使徒にも共通していることです。更に、すべての弟子は、使徒ではありませんが、すべての使徒は、弟子なわけです。だから、弟子と使徒の間には、その職務上の違いはあっても、決して、優劣が生まれる関係であってはならないのです。

 そこで、その職務上ということを、もう少し深堀りしていきたいと思います。弟子と使徒の違いは、文字を見れば、多少は分かります。弟子というのは、教師から、その専門的な教えを受け入れ、その教えが広まっていくのを助ける人のことです。また、使徒というのは、全権を委任された者、或いは、神から遣わされた者(使者)のことで、宣教する者、福音を宣べ伝える者を表す総称です。先週の教会学校の礼拝のお話は、丁度、その使徒たちの働きのことが触れられていました。彼らは、福音を宣べ伝えて、教会を建て、制度を整えていくという話しです。このように、弟子と使徒には、それぞれに役割があるのです。それを、今の言葉で言えば、教会に仕える信徒と教師と言えます。この9月3日には洗礼式を執行し、13日には病床洗礼式を執行しました。洗礼式では受洗準備会を行ない、信徒必携を5回に分けて学びました。その第1章「教会生活」の第8項目目に「教会の組織」があり、その1項目目で「教師」のことが取り扱われています。そこに次のような一文があります。「教師は、信徒の中から特別な召命を受けて献身した者である。教師は、み言葉の宣教を使命として神から選びわかたれた者であって、教会における信仰の導き手である」と。そして、その後には、先程も少し触れたように、教師と信徒は、神の前に職務上の違いはあるけれども、身分の違いはないことが記されています。更に、その教師の職分とは、伝道牧会の働きのために専念すること、とあるのです。その働きとは、冒頭で述べた、使徒がイエスさまと生活を共にし、訓練を受けたこと、すなわち、説教(宣教)に関して、奇跡に関して、弟子となる者への教育に関して、そして、集団としての弟子が信仰共同体として形成され、のちに組織化される教会運営に関してです。勿論、その中には、先日行われた洗礼式の執行や、毎月行なわれる聖餐式の執行も含まれます。ということは、教師のように専念するまでには至らなくても、信徒も、その働きを支えることにおいては、広い意味で同じ働きの中にあるということなのです。それについては、信徒必携に「万人祭司」という言葉を使って説明されています。それは「キリスト者全員が(それは、教師も信徒も)、他者を神に導く祭司であるという考え」のことなのです。

 このように、イエスさまに従う人の多くは、弟子(信徒)であり、弟子(信徒)は、イエスさまから選ばれた使徒(教師)のような権能(資格)を有してはいません。しかし、それは、単なる職務上の違いであって、結局は、弟子も使徒も、それは、信徒も教師も、同じ関心と、同じ目的(使命)と、同じ喜びを共有する者たちなのです。その目的(使命)と喜びとは、旧・新約聖書を通して、イエス・キリストが、私たちの救い主であることを知ること、また、そのイエス・キリストの救いとは、神が定められた十字架の死と復活によるものであることを伝えることなのです。そして、私たちと同じ罪人が、悔い改めて、イエスさまの十字架の血によって赦された罪人となることなのです。そうして、私たちは共に福音を分かち合い、神を誉め讃え合います。そして、信仰共同体としての教会、それは、主イエス・キリストの体なる教会を組織し、この世に建てていきます。だから、互いに、主から託された務めを全うすることができるように、共に祈り合っていきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記

2023年09月16日

2023年9月24日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ローマの信徒への手紙12章1節〜2節
説教:「神に献げなさい」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書6章17節〜19節、士師記6章11節〜18節
説 教: 「力に満ち溢れる主」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:31| 日記

2023年09月10日

2023年9月10日 主日礼拝説教「手を伸ばしなさい」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章6節〜11節、マラキ書3章19節〜21節             
説 教 「手を伸ばしなさい」

 先週は、安息日論争とも呼ばれる、それは、信仰を語る上で、とても重要な物語でした。この安息日は、その当時、最も人々の生活の中に浸透していた律法でした。それで、このような問題として表面化してきたとも言えます。この安息日論争を吹っかけてきたのは、ファリサイ派の人々でした。先週は、彼らが安息日に、麦畑で麦の穂を摘まんで食べた、イエスさまの弟子たちの行動を仕事だと批判し、安息日の掟に違反していると言ったのです。しかし、イエスさまは、聖書の旧約の物語を引用して、彼らに安息日の掟の捉え方について、また、安息日は誰のもので、誰のためにあるのかを教えられました。しかし、ファリサイ派の人たちは、まだ納得がいかなかったようです。それが今日の物語に表れています。ですから、今日の物語は、安息日論争第2弾と言われることもあります。イエスさまは、その中で、安息日の守り方について教えられました。それは、私たちが安息日を、どのように過ごすのか、また、それは、日々の生活を、私たちが、どのように過ごすのか、延いては、自分の人生を、どのように生きるのか、に繋がっていきます。

 今日の物語は、次の御言葉から始まっています。6節「ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた」と。イエスさまが、安息日に会堂におられるのは、ごく普通のことです。この福音書の4章で、イエスさまが故郷のナザレへ行かれた時も安息日でした。そして、イエスさまは、会堂で聖書のイザヤ書を朗読され、その御言葉から人々に教えられました。その後も、イエスさまは、安息日にカファルナウムの町の会堂で教えられました。ただ、その時は、そこに悪霊に取りつかれた男がいたので、イエスさまは、その男から悪霊を追い出されました。そして、今日の物語には「そこに(それは会堂に)一人の人がいて、その右手が萎えていた」とあるのです。悪霊に取りつかれた男にしろ「右手が萎えていた」人にしろ、彼らは、肩身の狭い思をしながら生きていた人々でした。これまでは、悪霊や病気に悩まされていた人が対象でしたが、今回、会堂内にいたのは、身体の一部に不自由さがあった人でした。「右手が萎えていた」とありますが、別に手が無かったというのではなく、右手の力が衰えて動かなくなっていたのです。もしかしたら、石工や大工のような手を使う仕事で痛めたのかもしれません。大体、右手が聞き手という人のほうが多いことを考えれば、この人は、既に生活の資を得るための仕事を失っていたか、または、今後、仕事を失うだろうということが予測できます。

 すると、7節、そこに居合わせた「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」のです。彼らは、この前の出来事で、安息日論争第1弾を吹っかけた人々だったに違いありません。彼らは、安息日論争の第1弾で、イエスさまに太刀打ちできませんでした。だから、再びイエスさまを陥れるために、機会を窺っていたのでしょう。ということは、会堂に、1人の「右手の萎えていた」人がいたわけですが、それは、律法学者たちやファリサイ派の人々が、わざわざ、そこに連れて来て、そういう状況を敢えて設定したということも考えられます。ただ、考えてもみれば、そこは会堂です。会堂は、聖書(御言葉)を通して神の御顔を仰ぎ見て、神と出会う場所です。そして、聖書(御言葉)を通して、私たちは、神が、どのような方なのかを知るのです。ただ、律法学者たちやファリサイ派の人々がやっていることは、聖書を通してではなく、その一部を通してなのです。聖書は、律法と預言の書物ですから、律法と預言を通す必要があるのに、彼らは、その一部、つまり、律法しか通さないのです。律法を通せば、私たちも身に覚えがあるのではないでしょうか。それは、神の御顔を仰ぎ見ようとしても、人のことが気になって仕様がないということが。そうして、人の粗探しをすることになって、結局は、神ではなく人を見ることになるのです。だから、この物語も含め、安息日論争の中で、律法学者たちやファリサイ派の人々が、神の御顔を仰ぎ見た瞬間が一度でもあったでしょうか。彼らは、仲間内で顔を見合わせていたことが容易に想像できます。聖なる会堂の中に居ながら、神の動向(御業)ではなく、人の動向を気にする彼らには、全く人間的な思いしかありません。

 そう言えば、この福音書の24章27節には、復活のイエスさまが、エマオへの途上で2人の弟子たちと共に歩いておられた時のことが記されています。イエスさまは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」と。だから、私たちは、聖書を、それは全体(律法と預言)を通して、真の神の御心を知り、真の神と出会うのです。何事も一部や一面しか見ないなら、私たちも律法学者たちやファリサイ派の人々のようです。他人を見る時もそうです。他人の一面しか見ないということがあります。そして、歴史を見る時もそうです。歴史の一面しか見ないということがあります。また、世の中には「木を見て森を見ず」ということわざがあります。それは「物事の一部分や細部に拘り過ぎると、本質や全体を見落とす」そのことを意味する表現です。しかし、考えても見れば「木を見て森を見ず」とは言っても、反対に「森を見て木を見ず」という言い方はないのです。このように、物事を総合的、包括的、マクロ的に見る目を養わなければ、いつの時代でも、人は極端な思想へ傾いていくのです。聖書も同じです。先程のことわざのように言えば「律法を見て聖書を見ず」という事態が起こるのです。しかし「聖書を見て律法を見ず」という言い方はないのです。或いは、この時代で言えば「旧約を見て聖書を見ず」という事態も起こり得ますが「聖書を見て旧約を見ず」という言い方もないのです。

 だから、律法学者たちやファリサイ派の人々の目は、自ずから、極端な思想を物語っていたということが窺えます。それで、8節を見ると、イエスさまは、その「彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた」ので「その人は身を起こして立った」のです。そうすると、まるで、イエスさまから、安息日論争を仕掛けるようにも見えますが、マタイ福音書のほうでは、ファリサイ派の人々が論争を吹っかけています。この物語では、既に律法学者たちやファリサイ派の人々が、敢えて「右手の萎えていた」人を、そこに居合わせるように、状況設定をした可能性を考えれば、論争を始めるのは、いつも彼らの側からなのです。ただ、どちらが仕掛けたとしても、結果は同じです。イエスさまが発言されれば、それに対して律法学者たちやファリサイ派の人々は、もう、それ以上、何も言えなくなるからです。論争というのは、意見の違う者たちが、互いに自分の説を主張し、論じ合い、言い争うことです。けれども、安息日論争においては、そのような方向へ話しは展開しないのです。論争にもならない。そういう意味で、イエスさまの言葉、それは、神の言葉(御言葉)は、平和をもたらす、平和を実現させる言葉、というのが、よく分かります。
 
 そこで、イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々に向かって言われました。9節「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と。イエスさまは、尤もなことを仰ったのです。安息日という祝福された日には「善を行なうこと」具体的には、人助けをすること、また「命を救うこと」それは、危険から人を守ることは、仕事の範疇には入らず、安息日でも許されていたことだからです。そのような隣人への愛は、実際に律法にも書かれてあることで、律法全体は、神と人への愛の掟であるとも言えるのです。また、それと同時にイエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々への皮肉も込めて言っておられます。安息日という祝福された日に「悪を行なうこと」具体的には傷つけることや「滅ぼすこと」それは、見殺しにすることが求められているのか、と。だから、彼らは黙ったまま何も言えませんでした。

 この安息日論争は、この福音書の中で第4弾まで続きます。第3弾は、13章10節以下の「病の霊に取りつかれた女の癒し」第4弾は、14章1節以下の「水腫を患っている人の癒し」です。いずれも、ルカ福音書だけに記されている物語です。そこには、この物語でイエスさまが仰った「善を行なうこと」「命を救うこと」の具体例が挙げられています。13章のほうでは、その15節で「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と。また、14章のほうでは、その5節で「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と。そのように、そもそも善を行なうことや命を救うことは、安息日の規定を守ることよりも優先されていたのです。しかし、いつしか、命に関係ない病気や傷害などの治療は、仕事という認識に変わっていったのです。その律法に違反した場合は、鞭打ちの刑や投獄が科せられましたが、それこそ命に関わる問題です。要するに、律法学者たちやファリサイ派の人々は、人には厳しい目を向けながら、自分たちは都合よく生きていたのです。ですから、イエスさまは、10節「彼ら一同を見回して」とありますが、これは、マルコ福音書3章では、イエスさまが彼らに対して「怒って…彼らのかたくなな心を悲しみながら」(5節)となっています。そして「右手の萎えていた」人に「手を伸ばしなさい」と言われ、その人がその通りにすると「手は元どおりになった」のです。ところが、11節「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」つまり、イエスさまを殺そうと話し合ったのです。それは、イエスさまという存在を完全に受け入れなかった、否定したということです。それは、言ってみれば、伸ばされた神の御手をはたいた。払い除けたということなのです。

 というのは、聖書の旧約には「右の手」という言葉が、それは、出エジプト記のエジプトからの解放の出来事、海を渡るあの出来事の時から使われています。それは、勿論、神の「右の手」です。その神の「右の手」が、イスラエルをエジプトの奴隷の地から救い出した、と、指導者モーセとイスラエルの民は歌ったのです。(出エジプト記15章)その救いの「右の手」は、その後も、イスラエルを様々な困難から救い出しました。そして、詩編98篇1節には、次のような賛歌が歌われているのです。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた」と。だから、モーセとイスラエルの歌に出て来た「右の手」も含め、詩編の「右の御手」や「聖なる御腕」は、イエス・キリストなのです。私たちの主は、いつの時代も、目には見えない、イエス・キリストの恵みによって、救いの御業を果たして来られたのです。そして、今や、その「聖なる御腕」「右の御手」は、イエスさまの到来によって、私たちに向かって伸ばされ続けています。だから、イエスさまは言われます。「手を伸ばしなさい」と。イエスさまが、神の右の手として伸ばされているからこそ、イエスさまは、そう言われたのです。伸ばしても届かないのに、伸ばせという人はいません。伸ばせば、必ず、その手を取ってくださる方がいるのです。それが、イエス・キリストです。イエスさまは、私たちへの、神さまからのご厚意です。だから、私たちが手を伸ばしさえすれば、私たちは、神の救いの手を掴むのです。イエスさまを掴むのです。そうすれば、手が元通りになる以上の喜び、それは、私たちが元通りになるのです。それは、私という存在が、神の中に居るのです。今日も十字架の主が、両手を広げて私たちに、愛の御手を差し伸べてくださっています。今日も復活の主が、両手を広げて私たちに、祝福の御手を差し伸べてくださっています。イエスさまは言われます。「手を伸ばしなさい」と。イエスさまは、その手を、決して離すことはありません。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記