2023年09月07日

2023年9月17日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ローマの信徒への手紙5章1節〜5節
説教:「苦難は忍耐を」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書6章12節〜16節、出エジプト記3章9節〜15節
説 教: 「弟子から使徒への選び」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:19| 日記

2023年09月03日

2023年9月3日 主日礼拝説教「安息日“の”主」大坪信章牧師


ルカによる福音書6章1節〜5節、出エジプト記23章10節〜13節               
説 教「安息日“の”主」大坪信章牧師 

 皆さんは、ご存知でしょうか。この世の中には「の」の法則というのがあるようです。今日の説教題は、まさに、その法則に当てはまる「安息日“の”主」です。そのため、ダブルクォーテーション(二重引用符)を使って“の”を強調しました。この法則は、ある映画監督が、映画のタイトルや副題に“の”を入れるという単純な法則です。ただ、制作者に何か意図があってのことではないようです。けれども、それが殊に法則と呼ばれるのは、そのタイトルの作品が大ヒットするからなのです。確かに「崖の上の◯◯」「となりの◯◯」「風の谷の◯◯」などが当てはまります。別の監督作品の映画「戦場の◯◯」や、副題で言えば「ジェダイの◯◯」も当てはまります。余談が長くなりましたが、今日は「安息日“の”主」というお話です。これは、法則云々、“の”でなければ大変なことになってしまうのです。というのは、一方で「安息日“が”主」という考え方もあるからです。“が”と“の”、この違いだけで、私たちは、安息し損ねる可能性が大だからなのです。これは、安息日論争と呼ばれています。

 1節を見ると「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた」とあります。これが、安息日論争のきっかけとなった出来事です。私たちからすれば「これの何が、そんな論争にまで発展する事態となるのか」と思う程、何でもない出来事です。通りすがりに木の実を摘まんで食べただけです。前任地の秋田では、教会の庭(園庭)に色んな植物が植わっていました。柿、銀杏、無花果、葡萄、桑、梅、ブルーベリーなど。「ここは約束の地カナンか?」それは「神さまがイスラエルに与えられた、ヨルダン川西岸の肥沃で豊かな土地か?」と思ったほどです。柿は、幼稚園の給食に出てきて、干し柿や、無花果の甘露煮、梅ジュースは、職員のおやつに出てきました。そして、桑やブルーベリーに関して言えば、普通に園児たちが、保育中の遊びの時間に摘まんで食べていました。懐かしい子どもたちとの楽しい思い出です。勿論、それは、平日の出来事でした。けれども、今日の出来事の中で問題になっているのは、通りすがりに麦の穂を摘まんで食べたことが、安息日に行われたからなのです。それは、2節にある通り「ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』」と言ったからです。

ファリサイ派、これは、グループの名前ですが、その名の由来は、紀元前587年のバビロン捕囚の時代にまで遡ります。その頃、ユダ王国の民は捕囚民となり、エルサレム神殿は破壊されました。しかし、70年後に、捕囚民はエルサレムに帰還し、神殿は再建され、第2神殿の時代が始まるのです。ファリサイ派は、その頃から存在するユダヤ教の一派です。ファリサイの意味は「分離された者たち」ですが、それは、律法を守らない人々から分離された人々という意味です。ただ、これは、そもそも彼らを揶揄する人々が付けた、あだ名でした。その派が、こんにちでは、ユダヤ教の主流になっているようです。ファリサイ派は、民衆の中に溶け込んで、モーセの律法の精神を説きました。ただ、実際は、モーセの律法を守るために、更に多くの禁止事項を作り、それを守らせたのです。そういう考え方は、ファリサイ派の教えの中に「律法の周囲に垣をめぐらせ」という教えがあることからも分かります。律法だけでも抑止力なのに、その抑止力に更なる抑止力を加え、それを徹底させるのです。例えば、律法の十戒の第4戒には、今日、問題となっている安息日の掟があります。そこには「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト記20章8節)と謳われています。ファリサイ派は、この安息日を守るため、宗教的義務として、まず、あらゆる仕事(労働)を禁じ、その上、更に、その仕事(労働)に、多くの禁止事項を加えたのです。つまり、掟の上に掟という事態が生じ、その結果、ファリサイ派は、律法の本来の目的を見失うことになったのです。

 このことからも分かるように、ファリサイ派は、安息日を定められた神の御心に、ではなく、安息日に、寄り添ったのです。つまり「安息日“の”主」ではなく「安息日“が”主」になってしまったのです。また、この「安息日“が”主」という法則は、次のような事態まで生み出すことになりました。それは、罪の贖い(贖罪)についてです。罪を贖う救いの力というのは、神の代理人としての大祭司が職務上、授かっているものです。それは、執り成しを祈り、犠牲の献げ物を献げることで、人々に罪の赦しを与える力のことですが、ファリサイ派は、それを大祭司から奪ったのです。そして、民の罪を贖う救いの力は、何と、安息日そのものにあるとしたのです。だから、もはや、祭司が犠牲の献げ物によって、贖いの儀式を行なわなくても、罪を悔い改めれば、安息日が罪を赦すことになったのです。つまり、何の犠牲もなしに罪の赦しが行なわれるようになったのです。これは、まさに「安息日“が”主」となった非常に分かり易い例です。そもそも、この安息日論争は、ファリサイ派の人々が、麦畑で麦の穂を摘んで食べたイエスさまの弟子たちを見たことに端を発しています。それは、彼らが、日頃からイエスさまの言動に注視していたからです。というのは、これまでもイエスさまは、安息日に会堂で教え、そこで悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出し、その後、ペトロの姑の熱を叱り、去らせるなど、様々な病の癒しを行なわれました。その病の癒しも「安息日にしてはならない」仕事(労働)の1つでした。だから、そういうことを見聞きしていたファリサイ派の人々は、日毎に、イエスさまへの監視の目を、光らせるようになっていったと考えられます。

 ところで、皆さんは、この話しを聞いていて「あれ?」と思われなかったでしょうか。というのは、ファリサイ派の人々は、イエスさまと弟子たちに「安息日の掟を破るな。それは、律法違反だ」と言ったのです。冒頭でも少し言いましたが、それのどこが律法違反なのかということです。病の癒しの場合は、医者という働きが仕事(労働)なので、まだ分かります。しかし、イエスさまの弟子たちは、麦畑で「麦の穂を摘み、手でもんで食べた」だけなのです。これが、どうして安息日の規定を破る律法違反なのでしょうか。ただ、ファリサイ派の教えによれば、それは、明らかな仕事(労働)なのです。まず「麦の穂を摘む」のは収穫に当たり、それを「手でもんで食べ」るのは、麦の殻を取る脱穀に当たるからです。要するに、イエスさまの弟子たちは、麦の刈り入れという仕事を行なったことになるのです。細かいですが、これが律法主義と呼ばれる人々の安息日の考え方です。ただ、そもそも論、イエスさまの弟子たちは、歩きながら畑の麦の穂を摘んで食べたので、これは、律法の十戒の第8戒にある「盗んではならない」(出エジプト記20章15節)という掟に反するのではないかと思います。ただ、この点に関しては、律法の書物である申命記2章に『人の畑のもの』についての規定が記されています。その25節26節で次のように言われています。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と。このように、たとえ、人の畑のものを摘まんで食べても、明らかに搾取の意志や計画がなければ、それは、盗みにはならないのです。このような考え方には、律法の中心でもある愛(隣人愛)の規定が作用しています。申命記24章19節では次のように言われています。「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」と。

 話しを戻しますが、イエスさまは、ファリサイ派が仕掛けた安息日論争について、旧約時代の、ある出来事を取り上げて言われました。3節「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか」と。それは、聖書の旧約、サムエル記上23章1〜6節の物語を読んだことがないのかと言われたのです。そして、イエスさま自ら、その問いに答えて言われました。すなわち、空腹だったダビデは、4節「神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」と。神の家とも呼ばれた聖所には、12個のパンが、2列に並んだ純金の机の上に置かれていました。そのパンは、神とイエスラエル12部族の交わりを象徴する「聖別されたパン」でした。祭司は、そのパンを、安息日毎に新しいパンに取り換えて、古いパンは祭司が食べたのです。しかし、ダビデとその供の者が空腹に喘いで神の家に来た時、祭司は、祭司だけが食べることの出来るパンをダビデに与え、ダビデは供の者たちに与えたのです。要するに、祭司は、安息日の職務上、安息日の規定に従わなくても罪にならなかったのです。そこで、イエスさまは、ファリサイ派の人々に言われました。5節「人の子は安息日の主である」と。イエスさまは、祭司よりも偉大な方、それは、神の子・救い主です。祭司が、神の代理人として安息日の職務を行ない、その上、憐れみ深いのであれば、神の子・救い主であるイエスさまの職務や憐みは、それ以上です。その職務は、罪深い私たちのために、十字架の死の身代わりとなることによって、私たちを罪と滅びから救い出すことなのです。そして、その憐みは、決して尽きることがありません。詩編の御言葉ふうに言えば、その憐みは、永遠(とこしえ)に、なのです。この方が安息日“の”主です。安息日”が”主なのではなく、イエスさまが安息日“の”主です。

 だから、マタイ福音書12章7節のほうでは、イエスさまが、こう言われたとあるのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と。また、マルコ福音書2章27節のほうでは、イエスさまが、こう言われたとあるのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。これらのイエスさまの言葉を総合すると、安息日のために私たちが存在しているのではなく、安息日が、私たちを憐れむ神の定められた日として存在するということなのです。元を辿れば、安息日とは、創世記2章1節以下にあるように、主が、天地創造という御自分の仕事を完成され、御自分の仕事を離れ、安息なさった日(それは、天地創造の第7日目)です。だから、神さまは「第7の日を祝福し、聖別された」(3節)のです。パウロは、ローマの信徒への手紙14章17節で「神の国は、飲み食い(それは、食物規定の、あれを食べない、これを食べないという制限)ではなく、聖霊によって(それは、御言葉によって)与えられる義と平和と喜びなのです」と言っています。その御言葉に当てはめるなら、安息日は、食べないとか、人を助けないとか、人を癒さないではなく、聖霊によって(それは、御言葉によって)与えられる義と平和と喜びなのです。だから、飲食や、癒し、助けるという働きは、安息日だからしないという問題ではないのです。そういったことは、いつでもどこでも、また、誰にでも、人が心を持っているなら、即座に行なうことなのです。このように、安息日“が”主になる時、私たちは、安息も人間性も人間味も失います。それは、自分や他の何かが主になっている時も同じです。私たちは、どのような日も、どのような時も、ただ、イエスさまが主であり、安息日“の”主でもある時、本当の平安を得るのであり、安息の意味を知り、安息にも与るのです。イエスさまは言われました。マタイ福音書11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」この「わたしのもと」であるイエスさまのもとに、私たちのすべてがありますように。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:22| 日記

2023年9月10日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:ローマの信徒への手紙1章16節〜17節
説教:「福音を恥とせず、信仰によって生きる」

〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書6章6節〜11節、マラキ書3章19節〜21節
説 教: 「手を伸ばしなさい」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:41| 日記