2023年09月10日

2023年9月10日 主日礼拝説教「手を伸ばしなさい」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章6節〜11節、マラキ書3章19節〜21節             
説 教 「手を伸ばしなさい」

 先週は、安息日論争とも呼ばれる、それは、信仰を語る上で、とても重要な物語でした。この安息日は、その当時、最も人々の生活の中に浸透していた律法でした。それで、このような問題として表面化してきたとも言えます。この安息日論争を吹っかけてきたのは、ファリサイ派の人々でした。先週は、彼らが安息日に、麦畑で麦の穂を摘まんで食べた、イエスさまの弟子たちの行動を仕事だと批判し、安息日の掟に違反していると言ったのです。しかし、イエスさまは、聖書の旧約の物語を引用して、彼らに安息日の掟の捉え方について、また、安息日は誰のもので、誰のためにあるのかを教えられました。しかし、ファリサイ派の人たちは、まだ納得がいかなかったようです。それが今日の物語に表れています。ですから、今日の物語は、安息日論争第2弾と言われることもあります。イエスさまは、その中で、安息日の守り方について教えられました。それは、私たちが安息日を、どのように過ごすのか、また、それは、日々の生活を、私たちが、どのように過ごすのか、延いては、自分の人生を、どのように生きるのか、に繋がっていきます。

 今日の物語は、次の御言葉から始まっています。6節「ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた」と。イエスさまが、安息日に会堂におられるのは、ごく普通のことです。この福音書の4章で、イエスさまが故郷のナザレへ行かれた時も安息日でした。そして、イエスさまは、会堂で聖書のイザヤ書を朗読され、その御言葉から人々に教えられました。その後も、イエスさまは、安息日にカファルナウムの町の会堂で教えられました。ただ、その時は、そこに悪霊に取りつかれた男がいたので、イエスさまは、その男から悪霊を追い出されました。そして、今日の物語には「そこに(それは会堂に)一人の人がいて、その右手が萎えていた」とあるのです。悪霊に取りつかれた男にしろ「右手が萎えていた」人にしろ、彼らは、肩身の狭い思をしながら生きていた人々でした。これまでは、悪霊や病気に悩まされていた人が対象でしたが、今回、会堂内にいたのは、身体の一部に不自由さがあった人でした。「右手が萎えていた」とありますが、別に手が無かったというのではなく、右手の力が衰えて動かなくなっていたのです。もしかしたら、石工や大工のような手を使う仕事で痛めたのかもしれません。大体、右手が聞き手という人のほうが多いことを考えれば、この人は、既に生活の資を得るための仕事を失っていたか、または、今後、仕事を失うだろうということが予測できます。

 すると、7節、そこに居合わせた「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」のです。彼らは、この前の出来事で、安息日論争第1弾を吹っかけた人々だったに違いありません。彼らは、安息日論争の第1弾で、イエスさまに太刀打ちできませんでした。だから、再びイエスさまを陥れるために、機会を窺っていたのでしょう。ということは、会堂に、1人の「右手の萎えていた」人がいたわけですが、それは、律法学者たちやファリサイ派の人々が、わざわざ、そこに連れて来て、そういう状況を敢えて設定したということも考えられます。ただ、考えてもみれば、そこは会堂です。会堂は、聖書(御言葉)を通して神の御顔を仰ぎ見て、神と出会う場所です。そして、聖書(御言葉)を通して、私たちは、神が、どのような方なのかを知るのです。ただ、律法学者たちやファリサイ派の人々がやっていることは、聖書を通してではなく、その一部を通してなのです。聖書は、律法と預言の書物ですから、律法と預言を通す必要があるのに、彼らは、その一部、つまり、律法しか通さないのです。律法を通せば、私たちも身に覚えがあるのではないでしょうか。それは、神の御顔を仰ぎ見ようとしても、人のことが気になって仕様がないということが。そうして、人の粗探しをすることになって、結局は、神ではなく人を見ることになるのです。だから、この物語も含め、安息日論争の中で、律法学者たちやファリサイ派の人々が、神の御顔を仰ぎ見た瞬間が一度でもあったでしょうか。彼らは、仲間内で顔を見合わせていたことが容易に想像できます。聖なる会堂の中に居ながら、神の動向(御業)ではなく、人の動向を気にする彼らには、全く人間的な思いしかありません。

 そう言えば、この福音書の24章27節には、復活のイエスさまが、エマオへの途上で2人の弟子たちと共に歩いておられた時のことが記されています。イエスさまは「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」と。だから、私たちは、聖書を、それは全体(律法と預言)を通して、真の神の御心を知り、真の神と出会うのです。何事も一部や一面しか見ないなら、私たちも律法学者たちやファリサイ派の人々のようです。他人を見る時もそうです。他人の一面しか見ないということがあります。そして、歴史を見る時もそうです。歴史の一面しか見ないということがあります。また、世の中には「木を見て森を見ず」ということわざがあります。それは「物事の一部分や細部に拘り過ぎると、本質や全体を見落とす」そのことを意味する表現です。しかし、考えても見れば「木を見て森を見ず」とは言っても、反対に「森を見て木を見ず」という言い方はないのです。このように、物事を総合的、包括的、マクロ的に見る目を養わなければ、いつの時代でも、人は極端な思想へ傾いていくのです。聖書も同じです。先程のことわざのように言えば「律法を見て聖書を見ず」という事態が起こるのです。しかし「聖書を見て律法を見ず」という言い方はないのです。或いは、この時代で言えば「旧約を見て聖書を見ず」という事態も起こり得ますが「聖書を見て旧約を見ず」という言い方もないのです。

 だから、律法学者たちやファリサイ派の人々の目は、自ずから、極端な思想を物語っていたということが窺えます。それで、8節を見ると、イエスさまは、その「彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、『立って、真ん中に出なさい』と言われた」ので「その人は身を起こして立った」のです。そうすると、まるで、イエスさまから、安息日論争を仕掛けるようにも見えますが、マタイ福音書のほうでは、ファリサイ派の人々が論争を吹っかけています。この物語では、既に律法学者たちやファリサイ派の人々が、敢えて「右手の萎えていた」人を、そこに居合わせるように、状況設定をした可能性を考えれば、論争を始めるのは、いつも彼らの側からなのです。ただ、どちらが仕掛けたとしても、結果は同じです。イエスさまが発言されれば、それに対して律法学者たちやファリサイ派の人々は、もう、それ以上、何も言えなくなるからです。論争というのは、意見の違う者たちが、互いに自分の説を主張し、論じ合い、言い争うことです。けれども、安息日論争においては、そのような方向へ話しは展開しないのです。論争にもならない。そういう意味で、イエスさまの言葉、それは、神の言葉(御言葉)は、平和をもたらす、平和を実現させる言葉、というのが、よく分かります。
 
 そこで、イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々に向かって言われました。9節「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」と。イエスさまは、尤もなことを仰ったのです。安息日という祝福された日には「善を行なうこと」具体的には、人助けをすること、また「命を救うこと」それは、危険から人を守ることは、仕事の範疇には入らず、安息日でも許されていたことだからです。そのような隣人への愛は、実際に律法にも書かれてあることで、律法全体は、神と人への愛の掟であるとも言えるのです。また、それと同時にイエスさまは、律法学者やファリサイ派の人々への皮肉も込めて言っておられます。安息日という祝福された日に「悪を行なうこと」具体的には傷つけることや「滅ぼすこと」それは、見殺しにすることが求められているのか、と。だから、彼らは黙ったまま何も言えませんでした。

 この安息日論争は、この福音書の中で第4弾まで続きます。第3弾は、13章10節以下の「病の霊に取りつかれた女の癒し」第4弾は、14章1節以下の「水腫を患っている人の癒し」です。いずれも、ルカ福音書だけに記されている物語です。そこには、この物語でイエスさまが仰った「善を行なうこと」「命を救うこと」の具体例が挙げられています。13章のほうでは、その15節で「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」と。また、14章のほうでは、その5節で「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と。そのように、そもそも善を行なうことや命を救うことは、安息日の規定を守ることよりも優先されていたのです。しかし、いつしか、命に関係ない病気や傷害などの治療は、仕事という認識に変わっていったのです。その律法に違反した場合は、鞭打ちの刑や投獄が科せられましたが、それこそ命に関わる問題です。要するに、律法学者たちやファリサイ派の人々は、人には厳しい目を向けながら、自分たちは都合よく生きていたのです。ですから、イエスさまは、10節「彼ら一同を見回して」とありますが、これは、マルコ福音書3章では、イエスさまが彼らに対して「怒って…彼らのかたくなな心を悲しみながら」(5節)となっています。そして「右手の萎えていた」人に「手を伸ばしなさい」と言われ、その人がその通りにすると「手は元どおりになった」のです。ところが、11節「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」つまり、イエスさまを殺そうと話し合ったのです。それは、イエスさまという存在を完全に受け入れなかった、否定したということです。それは、言ってみれば、伸ばされた神の御手をはたいた。払い除けたということなのです。

 というのは、聖書の旧約には「右の手」という言葉が、それは、出エジプト記のエジプトからの解放の出来事、海を渡るあの出来事の時から使われています。それは、勿論、神の「右の手」です。その神の「右の手」が、イスラエルをエジプトの奴隷の地から救い出した、と、指導者モーセとイスラエルの民は歌ったのです。(出エジプト記15章)その救いの「右の手」は、その後も、イスラエルを様々な困難から救い出しました。そして、詩編98篇1節には、次のような賛歌が歌われているのです。「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた」と。だから、モーセとイスラエルの歌に出て来た「右の手」も含め、詩編の「右の御手」や「聖なる御腕」は、イエス・キリストなのです。私たちの主は、いつの時代も、目には見えない、イエス・キリストの恵みによって、救いの御業を果たして来られたのです。そして、今や、その「聖なる御腕」「右の御手」は、イエスさまの到来によって、私たちに向かって伸ばされ続けています。だから、イエスさまは言われます。「手を伸ばしなさい」と。イエスさまが、神の右の手として伸ばされているからこそ、イエスさまは、そう言われたのです。伸ばしても届かないのに、伸ばせという人はいません。伸ばせば、必ず、その手を取ってくださる方がいるのです。それが、イエス・キリストです。イエスさまは、私たちへの、神さまからのご厚意です。だから、私たちが手を伸ばしさえすれば、私たちは、神の救いの手を掴むのです。イエスさまを掴むのです。そうすれば、手が元通りになる以上の喜び、それは、私たちが元通りになるのです。それは、私という存在が、神の中に居るのです。今日も十字架の主が、両手を広げて私たちに、愛の御手を差し伸べてくださっています。今日も復活の主が、両手を広げて私たちに、祝福の御手を差し伸べてくださっています。イエスさまは言われます。「手を伸ばしなさい」と。イエスさまは、その手を、決して離すことはありません。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記