2023年10月29日

2023年10月29日 主日礼拝説教「天に通じる道」大坪信章牧師

ヨハネによる福音書14章1節〜7節、創世記28章10節〜12節
説 教 「天に通じる道」

 今日は、召天者のご遺族をお招きして、召天者記念礼拝を守っています。礼拝堂の、皆さまから見て左手に、ご遺族の愛するご家族、また、教会の人々が愛する友の遺影が並んでいます。人は、誰もが人として生まれ、人として、その人生を全うします。それは、すべての人が通る道です。しかし、やがて死が訪れた時、人は、その出来事の前に沈黙せざるを得ません。人として生まれた命には、必ず死という終わりがあるというのが定説です。そして、この死は、今の時点では、決して避けることができない現実です。この死の出来事を、私たちは、一体どのように受け止めればよいのでしょうか。また、そこに巻き起こる感情を、一体どこに向ければよいのでしょうか。人は、死という出来事を前にすれば、誰もが、その戸惑いを隠せません。結局、人は、生きるとは言っても、死ぬまでを生きているに過ぎないのです。

 けれども、召天者の方々は、人として生まれ、人として人生を全うされただけではありません。人として生まれ、実に、神の子どもとしても生まれた方々、或いは、執り成され、今も、こうして執り成され続けている方々です。人としての命には終止符が打たれましたが、神の子どもとして生まれた命、また、その執り成され続けている祈りには、まだ終止符が打たれていません。むしろ、神の子どもとして生まれた命は、始まったばかりです。ですから、召天者の方々にとって、死は、終わりではなく通過点です。とは言っても、死は、受け入れ難い現実です。一般的にも、理不尽な出来事とされています。なぜなら、その死がもたらすものは、破壊であり、別離であり、喪失であり、虚無だからです。それゆえに、私たちは、その死の出来事の前では、全く落ち着いては居られず、動揺を隠せません。

 今日、朗読された聖書の中にも、私たちと同じように、動揺を隠せない弟子たちの姿があります。イエスさまは弟子たちに言われました。1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。弟子たちが心を騒がせたのは、14章の前の13章33節で、イエスさまが弟子たちに、こう言われたからです。「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と。また、36節でも言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と。その時、弟子のペトロは、こう答えました。37節「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と。弟子のペトロは、イエスさまの死を予感し、思ってもみないことを口にしました。少なからずペトロは、死がもたらす、破壊、別離、喪失、虚無を察して動揺したのです。

 その時「心を騒がせるな」と、イエスさまは言われたのです。つまり、慌てるな、心配するなと言われたのです。実は、そう言われたイエスさまも、死の出来事を前にして、心、騒がせられたのです。それは、ラザロが死んだ時です。ラザロのために人々が泣いていた時、イエスさまは「心に憤りを覚えて」「興奮して」「涙を流された」のです。その直後、ラザロの墓に近づかれた時も、再び「心に憤りを覚えて」おられます。それだけではなく、ご自分の十字架の死が近づいた時も、イエスさまは「心騒ぐ」と言われました。また、12弟子の一人であるユダの裏切りが決定的となった時も、イエスさまは「心を騒がせ」ておられます。要するに、イエスさまは、人間の心の弱さを知っておられるのです。だから、その恐れや不安が、神の約束や御業を疑わせることもご存じです。そのためイエスさまは、ご自分の死について、十字架前夜、ゲッセマの園で祈り抜き、心を定め、十字架の死を神の御心と信じて行かれました。

 だから、イエスさまは、弟子たちにも「神を信じ、わたしをも信じなさい」と言われるのです。神には、驚くべき救いのご計画があるからです。また「わたしをも」と言われたのは、イエスさまが、その神の救いのご計画だからです。これは、信じる対象が2つあるというのではありません。イエスさまは、ご自分によって示される、神の救いのご計画を信じるように、と言われたのです。イエスさまは、唯一無二の救いです。また、その計画の始まりであり終わりです。つまり、イエスさまは、救いの完成者なので、それ以外の救いの可能性は、他にないのです。イエスさまによって成し遂げられた十字架と復活こそが完全な救いです。イエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって死んで復活し、罪の力に勝利されたので、救いは、イエスさま以下でも、それ以上でもないのです。このイエスさまと私たちを結ぶのが信仰です。この信仰によって、人は新たに生まれ、神の子としての命を始めます。もはや、罪人として死に留まることなく、イエスさまによって、罪赦された神の子として生きるのです。

 ペトロは、イエスさまが、どこか遠くに行ってしまうように思えたので、死を予感し、心を騒がせました。けれども、そうではなかったのです。イエスさまは、言われます。2節3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と。イエスさまは、十字架と復活の救いの業を成し遂げて「父の家」に行かれるのです。その「父の家」には「住む所がたくさんある」と言われています。「住む」ということは生きるということです。そこは「場所」とも言い換えられているように居場所です。もし、弟子たちが、今後その命に終止符を打つのなら、イエスさまが、弟子たちのために場所を用意しに行く必要はありません。この「場所」という言葉には、色んな意味があります。町や地域、建物や部屋(座席)の他、可能性や機会(チャンス)という意味もあります。また「用意」するという言葉には、宿泊や食事という意味もあります。要するに、そこは、神の子どもとしての新しい命が育まれるのに、最適の環境なのです。イエスさまは、その場所を用意したら、戻って来て、私たちを、その場所に迎えてくださるのです。

 イエスさまは、話した内容を、弟子たちが理解したものと思って言われました。4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と。イエスさまとしては「これだけ言ったのだから、さすがに、わたしがどこへ行くのか、また、どの道を通れば、そこへ行けるのか、分かったね」という気持ちだったのです。しかし、弟子のトマスが言いました。5節「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」 と。彼は、疑い深いトマスです。その上、弟子たちを代表する者として言っています。だから、結局は、弟子たちみんなが疑っていたのです。このように、弟子たちがイエスさまの言葉を理解しなかったのは、心が騒いでいたからです。疑いは、目に覆いを掛け、大事なものを見えなくさせるのです。今が、どういう時なのかもそうです。自分が、どんな者かというのもそうです。そして、自分の行く末に何が待っているのかもそうです。信じなければ見えないのです。ただ、信じても、それが見えた所で、そこに救いはありません。今がどういう時なのかは、終末で、今や戦争の騒ぎは、全世界を巻き込むほどです。また、自分が、どんなに不確かな者かも含め、自分の行く末に待っているのは死です。私たちは、死ぬために生きるのでしょうか。このように、私たちが疑わず、はっきりと見ようとした時、救いは、この世にも自分にも無いことを知るのです。

 そこで、イエスさまは言われました。6節7節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と。イエスさまは「わたしが道だ」と言われます。この道という言葉の原語は「〜への道」なので、ただ当てもなく続く道のことではありません。私たちが歩く道のゴールは、おそらく、誰も目指してはいなくても、死です。しかし、イエスさまという道は、死への道ではなく、真理への道であり、命への道です。このイエスさまを通って、私たちは「父のもと」すなわち、住む所がたくさんある私たちの居場所、そこは、神の子としての命が始まる環境へ、辿り着きます。それが『天へと通じる道』です。道は、生き方という意味もあるので、これが、つまり、イエスさまを信じるという生き方が、天へと通じる道だとも言えます。

 今、教会の前で建物が建築されています。その建築過程を、朝と昼、幼稚園の子どもたちの送迎のために園長と一緒に門に立ちながら、ずっと眺めています。土台よりも前に、最初に造られたのが3階まで上る鉄筋の階段でした。土台もないのに、そこに階段だけがある光景は、何かのモニュメントのようで違和感しかありませんでした。自分の口を吐いて出てきた言葉は「天へと続く階段」でした。そして、園長の口を吐いて出てきたのが「ヤコブの梯子」でした。また、奇遇ですが、先週の金曜日は、園児たちの同伴で、消防署見学に行きました。消防士の丁寧な対応に頭が下がりましたが、何と『はしご車』まで用意してくださっていました。そして、実際に隊員を乗せた梯子を上まで伸ばしてくださったのです。そして、そこから記念撮影をしてくれました。その時に、頭の中を巡っていた言葉は「天へと続く梯子」でした。普通は、そんな所に、空中なんかに、階段なんて、あるはずがない、という所に、突然、階段や梯子が現れるという不思議。それと同じように、信じるなら『天に通じる道』は、確かにあるのです。しかし、このような所に、というのが落とし穴です。このような私の傍にもあるのです。そのイエスさまという道は、ただ、信じる人だけが歩いて行く道です。
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2023年10月28日

2023年11月5日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:エフェソの信徒への手紙1章15節〜23節
説教:「教会はキリストの体」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書6章43節〜49節、箴言4章20節〜27節
説 教:「心からあふれ出ること」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 22:23| 日記

2023年10月22日

2023年10月22日 主日礼拝説教「気前のよい神の子ども」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章37節〜42節、申命記7章9節〜15節
説 教 「気前のよい神の子ども」

 先週は「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」という教えに聴きました。その御言葉も含め、その後にも、沢山の教えが続きましたが、その一つ一つは、敵を愛する愛の様々な形と言えました。ガラテヤの信徒への手紙5章22節には「霊の結ぶ実」が9つあります。それは、まず「愛であり」とあって、その後に「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。いわゆる、愛にも色々あって、その豊かさと濃密さが、神の愛と呼ばれるアガペーの特質です。それは、単なる感情的なエロスや、友情的なフィリアと呼ばれる愛を超える愛です。この超越した愛の実現を、イエスさまは、私たちに願っておられます。ただ、それは、もともと、神が民に願っておられること(御心)でした。そのために、神は、あらゆる方法、それこそ、先ほどの愛の豊かさと濃密さによって民を愛されました。しかし、民は、その愛を裏切り続けたのです。要するに、人は誰も、その愛を実現することができなかったのです。

 しかし、その神の愛を、神の子であるイエスさまが、十字架に架けられた姿で実現し、世に示されました。つまり、神の敵となった罪深い人間を、罪の報酬としての死や滅びから救い出すために、イエスさまは、身代わりとなって死なれたのです。だから、これ以上の愛は無いのです。しかし、この神の愛(アガペー)が示された以上、この愛は、確かに、この世に存在します。私たちは、このイエスさまの十字架の愛によって、初めて愛を知ったのです。だから、愛が裏切られる時も、愛に飢え渇く時も、また、愛の葛藤によって苦しむ時も、このイエスさまの十字架の愛は、信じることのできる愛として、世に確立されています。そして、このイエスさまの十字架の愛を信じた時、私たちは、その愛の豊かさと濃密さの中にいて、神が願い、イエスさまも願う、愛の実現に向かって生きるのです。

 そこで、今日、イエスさまは言われるのです。37節「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」と。ここで言う「裁くな」とは、偏見という意味です。また「罪人だと決めるな」とは、非難という意味です。だから、これは普通に、人が人を指導したり、注意したり、諭したり、間違いを指摘したりするな、と言っているわけではありません。それは、仕方にもよるのかもしれませんが、犯罪に目を瞑って良いはずはなく、違法行為や不正行為への取り締まりが為されなければ、社会は惨憺たる状態になってしまいます。ただ、それが、今の社会そのものであるとも言えます。また、そういう偏見や非難が自分の中にあるのであれば、それが罪なのです。そのままでは、決して、イエスさまが願っておられる、愛の実現を生きることはできなくなります。しかし、それだけでは済まなくなります。

 なぜなら、その人は、神によって裁かれ、神によって罪人だと決められてしまうからです。要するに、その人は、愛の実現を生きる根拠としてのイエスさまの十字架の愛の豊かさと濃密さを、一緒に失うことになるのです。そして、その人は、神の愛の中にいない者となるのです。それは、その人にとって、次のことを意味します。それは、罪の報酬としての死が決定的となり、滅びが確定したということです。だから、イエスさまは、私たちが神から裁かれ、将来、神から見捨てられた者になることがないようにと願われるのです。私たちは、イエスさまの教えを聞く時、その教えに対して、決して、自分が充分な者だとは言えません。だから、その教えは、命令でありながら、イエスさまの、私たちに対する願望だということを知る必要があるのです。

 そうして、私たちは、イエスさまが願う愛の実現に向かって生きるのです。それが、37節の「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」という教えです。これらの教えも、神の愛(アガペー)の豊かさの一つです。冒頭で紹介した「霊の結ぶ実」に当てはめれば「赦し」は「寛容」で、「与える」が「善意」です。ただ、この積極性は、私たちの恵みに繋がってはいますが、私たちの救い、それは、私たちが神の子となる資格という恵みに直結しているかと言えば、そうではありません。もし、そうなってしまえば、人を赦すことが、罪の赦しの基準になってしまいます。また、善い行ないが、私たちを義(正しい者)とする基準になってしまいます。そうすると、救いは、神の御手の中にあるのではなく、私たちの手の中にあるということになり、自分が神のようにさえなってしまいます。そして、何より、イエスさまの十字架の死も無意味になります。イエスさまの十字架の死は、私たちの罪のための贖罪の献げ物なのです。私たちは、それが、どのような罪であっても、その罪を心に抱いた時点で、その罪の報酬は死なのです。その罪は、自分の行ないでは、帳消しにできないのです。
 
 だから「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」というのは、こういうことなのです。つまり、私たちが人を赦せば、それによって、神が私たちを赦してくださっていること、そして、赦されている喜びや有り難味が分かるということです。なぜなら、依然、神は目に見えない方ですし、神が私たちの罪を赦されたと言われても、私たちは、どうしても、その現実味に欠けるのです。しかし、私たちが人を赦すなら、私たちは、その葛藤や、相手への気持ち、また、相手の気持ちを味わい知ることになるのです。それによって、私たちは、神の葛藤や、神の私たちへの気持ち、また、自分の気持ち、それは、赦されることが、どんなに有り難いことかを知るのです。主の祈りの中にも似た言葉があります。それは「我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」ですが、それも同じなのです。人を赦すことが、私たちの罪の赦しの基準になるのではありません。というより、人の罪を赦すなら、私たちは、その葛藤や、相手への気持ち、また、相手の気持ちを味わい知ることになるのです。それによって、私たちは、神の葛藤や、神の私たちへの気持ち、また、自分の気持ち、それは、赦されることが、どんなに有り難いことかを知るのです。

 だから、赦しの教えの後に続く、38節の「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」というのも、同じなのです。私たちが人に与えるということを通して、神が、どれほどのものを与えてくださっているかということを知るのです。それは「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」のです。なぜなら「あなたがたは自分の量る秤で、量り返されるから」です。だから、私たちは、自分の量る秤を大きくすればするほど、神の恵みが自分に対して、どれほどまでに大きいのかを知ることになるのです。それは、もう、抱えきれないほどの恵みでいっぱいなのに、それでも、まだ押し入れるほどで、それでもまだ足りないので、今度は、揺すって隙間を埋めて押し込むほどなのです。しかし、それでもまだ足りないので、もう、あまりの量に、恵みは、私たちの足元に零れ落ちて、くるぶしまで、いえ、膝にまで達するほどなのです。要するに、もし、私たちが少し与えるなら、私たちは、神が私に対して、少しの恵みを与えてくださっていることを知るのです。それは、そこまでしか想像がつかないからです。しかし、私たちが多くを与えるなら、私たちは、神が私に対しても多くの恵みを与えてくださっていることを知るのです。それは、そこまで想像がついた(見当がついた)ということなのです。だから、このことは「赦しなさい」という教えにも反映されるのです。もし、私たちが少し赦すなら、私たちは、神が私に対しても少し赦してくださっていることを知るのです。それは、そこまでしか想像がつかないのです。しかし、私たちが、多く赦すなら、私たちは、神が私に対しても多く赦してくださっていることを知るのです。それは、そこまで想像がついた(見当がついた)ということなのです。

 ところで、今日のイエスさまの教えは、するなという教えもあれば、しなさいと言う教えもあって色々ですが、この後も、3つほど譬えが続きます。併せて5つの教えや譬えがありますが、そのいずれも、前後の関係に、全く脈絡がないように思われます。このように、色んな教えや譬えを次々と順繰りに話すというのは、ユダヤの教師が、聴衆を飽きさせないために使う説教の方法とも言われています。また、著者のルカが、一つのテーマのもと、イエスさまの教えや譬えを、ここに纏めたというふうに考えることもできます。そうすると、何かが見えてくるのではないでしょうか。それは、人は誰でも、自分の目が、はっきり見えていないということ、それは、ちゃんとした見方ができていない、ということが見えてくるのではないでしょうか。

 イエスさまは、39節で譬えを話されました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」と。これは、偏見、それは、思い込みや決めつけが邪魔をして、視野が狭くなっている、或いは、完全に見えていない人のケースです。その人は、同じ境遇にある人を手引きすることなどできるわけがなく、結局は、お互い穴に落ちてしまうということです。また、イエスさまは、40節で譬えを話されました。「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と。これは、無知によって、視野が狭くなっている人のケースです。その人は、知識のある教師を指導することなどできるわけがないのです。ただ、「修行」とありますが、これは、知識を習熟すれば、その教師のようになることはできる、つまり、無知ではなくなるということです。

 そして、最後に、イエスさまは、41節42節で譬えを話されました。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」と。このように、私たちは、偏見や無知によって狭くなった視野で、どうして、正しく物事や人(相手・他者)を判断することができるのか、ということなのです。だから、人は、まず、自分の中から偏見を取り除き、無知の状態を克服して初めて、はっきり見えるようになって、本当にその物事や、その人(相手・他者)のことを思って、正しく判断することができるのです。

 このように、私たちは、人にあれやこれや言う前に、自分を振り返る必要があったのです。私たちは、常に、神の御前に立って、自分を省みる必要があったのです。そうすれば、私たちは、そこで知るのです。それは、イエスさまが、どれほどまでに、私たちの罪のために苦しみ、壮絶な十字架の死を遂げられたのかということを。だから、私たちが神の御前に立った時、自分の本当の姿、それは、罪に支配された自分を見て愕然とするのです。しかし、そこで、自分が本来あるべき姿をも見て、喜び感謝することにもなるのです。イエスさまは、私たちの罪(偏見、無知)のために、私たちが裁かれ、断罪されなければならない、その罪のために、身代わりとなって死なれたからです。ここに愛があります。だから、今日の説教題『気前のよい神の子ども』というのは、まさしくイエスさまのことです。しかし、それは同時に、イエスさまが、私たちのためを思って望まれることなのです。こうして、罪の現実の中にいる私たちは、イエスさまの十字架の愛によって罪赦され、愛の中に入れられ、愛の実現のために生きる道が開かれているのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記