2023年10月08日

2023年10月8日 主日礼拝説教「人生の重荷をおろして」大坪信章牧師

マタイによる福音書11章28節〜30節、詩編55篇23節
説 教 「人生の重荷をおろして」

 今日は、特別伝道礼拝ということで、沢山の方々に呼びかけて一緒に礼拝を献げています。他に特別なことと言えば、賛美歌3曲を聖歌3曲に替えたことです。賛美歌もそうですが、聖歌は、より福音的で、伝道的で、何より、救霊(霊の救済)のために用いられてきた歴史があります。選曲は、それぞれ、今日の聖書の御言葉、28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」に因んでいます。例えば、最初に歌った聖歌409番の内容ですが、イエスさまは、重荷を背負って疲れ果てている人に、愛の手を伸べて、御自分の所へ来るようにと呼んでおられます。そして、最後に「疾くイェスに来よ」とありますが、この「疾く」というのは疾風の疾です。これは「急いで直ぐにイエスさまの所に来て」という意味です。急いで直ぐにというのは、とても大事なのです。なぜなら、この世界には、重荷を背負って疲れ果てている人が沢山いて、その中で、失われる命も多いからです。だからと言って、イエスさまの所に行けば、重荷が全く無くなるということではありません。あの戦国武将が言った言葉も然りです。「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」

 先週、京阪の比叡山坂本駅まで行き、穴太衆の石垣を見てきました。それは、石に呼ばれたからです。石に呼ばれて出かけたのは初めてでした。そもそもは、9月の半ば頃に、役員数名と大津教会の教会員を訪ねた帰り、坂本駅の辺りを車で通った時、役員から穴太衆の石垣のことを聞いたからです。その後、どうしても、その石垣のことが頭から離れず出かけていました。その石垣は、ほとんど無加工の自然石を積み上げる野面積みで、形も大きさも違う石を積み上げるのですが、どうして、こんなにも美しいのだろうと思うのです。また、それなのに石垣の強度が半端ないのです。ただ、その野面積みの石垣を、実は、他所でも見ていたのです。7月末に、彦根教会で4月に赴任した牧師の就任式があって出席し、帰りがてら、近くの彦根城のお堀の石垣を、堀の外から眺めたのです。その時は、カーブの曲線を描く石垣の美しさに目が留まりましたが、彦根城の石垣にも、穴太衆が関わっていたとは知りませんでした。その美しさの本質を見落とさないためにも、説明を伝え聞くのは大事だと思いました。

 だから、イエスさまのことも、やっぱり何度でも話して説明し、こうして伝道していく必要があると思うのです。十字架の美しさを、皆さんが見落とさないようにです。どうして、十字架が美しいのかと言うと、十字架は、縦と横の比率が約1対1.6の黄金比率だからです。そのように、十字架は、見た目だけでも、人々の目を引き付けてやまない美しさがあります。でも、そのような見た目の美しさであれば、建物や芸術作品が黄金比率なら、誰もが目を奪われるのです。本当の美しさは、見た目で終わりません。その中身(内容)です。穴太衆の石垣の美しさは、私の目を満足させてくれましたが、イエスさまの十字架の美しさ、その犠牲を伴う愛は、私たちの心と魂を救うのです。

 イエスさまは言われます。28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。この「重荷を負う者」というのは、この聖書の新約が書かれたギリシア語で「フォルティゾー」と言って、重荷を負わされている者のことです。負わされている重荷というのは、皆さんも経験があるのではないでしょうか。それは、もう、途中で疲れ果ててしまうほどに重たいのです。この「疲れた」という言葉は、ギリシア語で他の意味を探すと、もう何もかもが「嫌になる」それくらい、重荷は重たいのです。けれども、重荷にも色々あって、ギリシア語の「バロス」もそうなのです。その意味は「負担」です。その重荷について聖書が言っているのは、互いに負い合いなさいということです。(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)

 考えてもみれば、そうです。重荷は、負い合うことで負担が軽くなります。私も最近、重荷を負いました。それは、考えても調べてもよく分からなくて、心配と不安だけが募っていったので、役員に相談したのです。そしたら「その道に詳しい人がいるから相談してみてください」と言われて相談しました。そしたら、その人は、親身になって話しを聞いてくれたので、電話を切った後、心は軽くなっていました。要するに、その役員と、その道に詳しい人は、私の重荷を負ってくれたのです。だから、何かしら負担に感じたら相談することが重荷をおろすことに繋がります。相談しようとしないのは、恥ずかしいとか、どうせ分かってもらえないとか、怒られるとか、そういう気持ちになるからです。でも、世界的に有名な、あの喜劇王は言いました。「人間とは優しい生き物なんだよ。風が吹いてお前の帽子が飛ばされても、きっと誰かが拾ってくれるものなんだよ」と。前任地でも、私が色々抱えた時に相談した人が言った言葉で、忘れられない言葉があります。その人は牧師以外にも色んな働きをされていて多忙な方でした。でも、電話をかければ、終わりには、決まって、こう言われるのです。「あなたの気持ちを話してくれてありがとう」と。

 そのように、大概の重荷(負担)は、負い合うことで少なくなります。けれども、今日、イエスさまが「来なさい」と呼び掛けている人たちの重荷は、負わされている重荷でありながら、同時に負う必要のある重荷で、誰に話しても、誰に頼んでも、他に誰も代わってもらえない重荷なのです。ただ、その場合、人は、その重荷に対して、負わされているという思いと、自ら負っているという思いがあるのです。先ほど、穴太衆の石垣の話しをしましたが、彼らは、仕事が石積みですから、物理的に重い石を扱います。また、職人ですから、その責任を誰彼に頼んで負ってもらうこともできません。だから、それは、明らかに重荷です。けれども、彼らにとって、その重荷は喜び(使命感)でもあるのです。その石が一つも余らず、奇麗に収まった時の喜びがあるのです。つまり、私たちは、重荷を負わされていると思う時、疲れ果てており、自ら負っていると思う時、それは、使命感を抱いている時、むしろ、良い汗を掻いて喜びや感動が与えられていたりするのです。私の場合、言葉を職業としているというのもあって、言葉が重荷です。時々、自分も含めて、人間の言葉に絶望するわけです。けれども、その重荷は、同時に喜びでもあります。それは、神の言葉を伝えるという使命感を与えられているからです。その神の言葉は、天に留まっているのではなく、イエス・キリストとして、また、聖霊として、この地上に降って来て、私を救い、また、沢山の人を救ってくれるのです。

 しかし、今日、イエスさまが呼び掛ける「疲れた者、重荷を負う者」というのは、自ら、その重荷を負っていると考えても、決して喜びとは思えない、喜びにはならない、それは、重荷でしかない人々のことなのです。しかも、その重荷は、誰にも負ってもらえず、代わってももらえない重荷です。それが、最も重い重荷で、それが罪であり、後悔であり、罪悪感なのです。聖書の中では、当時、そういう人々が非常に多かったのです。それは、律法で、人々の生き方が制限されていたためです。人々は、その生活の細かい所にまで負わされた重荷によって疲れ果てて、また、それを自ら負おうにも、一つでも律法に違反すれば、罪人として断罪されたのです。この日本でも、しきたりとか風習で「こうしなければならない」とか、そうしなければ、祟りや悪いことが起こるとか、そんなふうに負わされている重荷の何と多いことでしょうか。そして、痛い目に遭えば自業自得とか、呪われていると言われ、常に、目に見えない何ものかに、恐怖心を抱いて生きなければならないのです。いわゆる多神教や無宗教のこの国では、偶像や虚像に学ぶことで重荷を負わされている人が大勢います。つまり、偶像は、私たちに重荷を負わせはしても、重荷を負ってくれることはないのです。

 だから、イエスさまは言われるのです。29節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。でも、結局は、イエスさまも「軛を負い」「私に学べ」と言っているので、重荷を負わせる対象に過ぎないではないかと言われるかもしれません。ただ、イエスさまは、30節で「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とも言っておられます。その軛というのは二頭の牛を結び付けて荷物を運ばせるための農具です。イエスさまは、私たちに、その軛を負うように言われますが、イエスさまが、そのペアになって、その軛を一緒に負ってくださるのです。だから、荷を負ってはいても、それは、軽いという不思議が起こるのです。イエスさまは、私たちに重荷を負わせる神ではなく、私たちの重荷を一緒に負ってくださる神なのです。それが、十字架を背負い、十字架に架けられ、血を流された姿で、この世に示されたのです。その美しさは、人生の、到底、負い切れない重荷を背負い、疲れ果てた私たちを赦し、再び立ち上がらせる愛なのです。こうして、イエスさまは、私たちが負わされている重荷をすべて引き受け、私たちが自ら、その軛を負い、イエスさまの教えに学んで生きる道を開かれるのです。そこには、ただ信仰だけが必要です。その教えは、神と人を愛するということです。その時、私たちは、あらゆるすべての掟に堪えることができるのです。人生の重荷をおろして、その代わりに、イエスさまが負いなさいと言われる軽い荷としての軛を負いましょう。イエスさまは、いつまでも私たちと一緒にいてくださいます。だから、イエスさまと共に、神と人とを愛する喜びの人生を目指していきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記

2023年10月07日

2023年10月15日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:コリントの信徒への手紙2、4章7節〜15節
説教:「土の器」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書6章27節〜36節、レビ記19章17節〜18節
説 教: 「敵を愛する神の子ども」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:18| 日記

2023年10月01日

2023年10月1日 主日礼拝説教「人生の意味を考える」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章20節〜26節、コヘレトの言葉9章5節 
説 教 「人生の意味を考える」  

 今日から、私たちは、この6章20節から6章の終わりまで、しばらくの間イエスさまの説教に聴きます。ただ、来週の神学校日・特別伝道礼拝と、10月第5週目の召天者記念礼拝は、他の福音書の御言葉に聴きます。ということで、10月は、ところどころルカ福音書からは離れますが、イエスさまの説教を中心に、礼拝を守っていきます。そのイエスさまの説教は、先週の礼拝でもお話ししたように「平地の説教」と呼ばれています。その比較対象として、マタイ福音書には、説教の内容が、ほぼ同じ「山上の説教」がまとめられているということも、先週の礼拝でお話ししました。更に、そのマタイ福音書は、神の民イスラエルのユダヤ人を対象(読者)として書かれたのに対し、このルカ福音書は、異邦人(異教徒)を対象(読者)として書かれたということもお話ししました。このルカ福音書の「平地の説教」は、マタイ福音書の「山上の説教」より、教えの数が少ないですが、段落ごとに5つの説教が並んでいます。

 今日は、その1つ目の説教です。20節から26節までの表題には「幸いと不幸」とあります。これは、マタイ福音書のほうでも1つ目の説教ですが、表題には「幸い」とだけあります。そして、その「幸い」の教え、それは「あなたがたは、幸いである」という言い回しの教えが8つあります。それで、その教えは、一般的に「八福(8つの幸福)の教え」と言われています。けれども、ルカ福音書にはある「不幸」の教え、それは「あなたがたは、不幸である」という言い回しの教えがないのです。何故なのでしょうか。それは、マタイ福音書の読者である神の民イスラエルのユダヤ人たちの現状が、既に十分、不幸に値していたからです。ユダヤは、当時ローマ帝国の属州で、その統治下にあり、色んな意味で抑圧されながら生活をしていました。過去を遡っても、そうです。バビロン捕囚やエジプトの奴隷生活など、彼らの現状は、歴史的にみても、支配や悲哀や苦悩を被ってきたのです。だから、昔も、その当時も、彼らの境遇が報われたとは、本当の意味では言えませんでした。

 ただ、彼らは、神さまに選ばれた民、選民でした。それは、神さまが契約(約束)を結ばれた民で、いつか必ず、その約束は果たされる、報われるということを信じる民でした。だから、彼らは、いわゆる高い精神性を持った民だったのです。勿論、その中には、沢山の苦労や辛い経験を通して、逆に人の痛みや苦しみが分かるようになるということも含まれています。つまり、選民とは、そういう自覚と、それに加えて、世界に対する導き手(手本)という使命感を基礎とします。しかし、神の民イスラエルのユダヤ人たちの、選民であるという自覚は、逆に、選民意識や選民思想という、傲慢な思いを生む結果になってしまいました。そして、他者を卑しい存在として見下し、排除する考えに陥ってしまったのです。だから、マタイ福音書の「あなたがたは、幸いである」という八福の教えは、ルカ福音書の幸いの教えと、言っている内容は同じでも、微妙に文言に違いがあります。例えば、ルカ福音書の6章20節で言えば、貧しいは貧しいでも、ルカ福音書のように、単に「貧しい人々」ではなく「心の貧しい人々」(5章3節)が幸いだと言われています。他には「心の清い人々」(8節)という表現もあります。また、ルカ福音書の6章21節で言えば、飢えるは飢えるでも、ルカ福音書のように、単に「飢えている人々」ではなく「義に飢え渇く人々」(5章6節)が幸いだと言われています。他には「義のために迫害される人々」(10節)という表現もあります。更に、21節で言えば、嘆きは嘆きでも、ルカ福音書のような、単に「泣いている人々」が「笑う」(各21節)ではなく「悲しむ人々」が「慰められる」(5章4節)と言われています。前者は表面的な解決であり、後者は内面的な解決と捉えることができます。

 このように、神の民イスラエルのユダヤ人たちは、すべての民が手本とする民なのです。それは、マタイ福音書5章13節、14節で言われている「地の塩」や「世の光」として生きる、精神性の高い民なのです。だから、読者が異邦人(異教徒)であるルカ福音書には、そういう高い精神性が見られないのです。しかし、そのことは、今、イエスさまによって選ばれたという、私たちクリスチャンにも、広い意味では言えることなのです。つまり、選民という自覚が、他者を卑しい存在として見下したり、排除したりする考えに陥ってはならないということです。むしろ、私たちは、そういう人々の導き手(手本)として、より次元の高い段階で生きることが求められているということです。ただ、そのように次元の高い段階と言うと、思い上がってしまったり、世捨て人のようになったり、孤高のような人間になり兼ねません。そこで、次の話しは、大きい小さい、高い低い、強い弱い、多い少ない、そういう話しをしていきます。

 実は、ルカ福音書のほうも、マタイ福音書と同じように、その教え自体は8つあります。しかし、八福の教えと言わないのは、その内容が、幸いに当たる教え4つに対して、不幸に当たる教えが4つで8つの教えになっているからです。幸いに当たる教えは、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々、迫害を受けている人々です。そして、不幸に当たる教えは、富んでいる人々、満腹している人々、笑っている人々、誉められている人々です。ただ、その教えは、いずれも、この世の基準とは、大きくかけ離れています。この世の基準は、貧しいこと、飢え渇くこと、嘆くことを、不幸と考えます。また、逆に、富み栄えること、満ち足りること、喜ぶことを、幸せと考えます。しかし、イエスさまは、ここで、はっきりと、貧しいこと、飢え渇くこと、嘆くことを、幸せと言われ、逆に、富み栄えること、満ち足りること、喜ぶことを不幸と言われたのです。確かに、私たちも、この世で起こることを俯瞰で見た時に、おそらく、何度か感じたことがあるのです。例えば、発展途上国の子どもたちの目の輝きや笑顔。また、先進国の人々の魂が抜けてしまったような瞳や行動。或いは、栄光からの転落という人生や事件など。それは、逆転の発想のうちに入るのかもしれません。要するに、大きい、高い、強い、多い、だから、それが良いことであり、小さい、低い、弱い、少し、だから、それは悪いことだということにはならないのです。そのように考えれば、何かが有るから、何かを得たから、何かを知っているから、それが良いことであり、何かが無いから、何かを失ったから、何かを知らないから、それは悪いことだということにもならないのです。イエスさまが、この幸いと不幸の教えの中で言っておられることも、要するに、逆転の発想(逆転の真理)です。この逆転の発想(逆転の真理)は、他のイエスさまの言葉や聖書の言葉にも、多く見られます。

 例えば、マタイ福音書の山上の説教の中では「狭い門から入りなさい」(7章13節)と言われています。また、このルカ福音書では「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(9章24節)。また「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(22章 26節)と言われています。そして、ヨハネ福音書では「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章24節)。また「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(16章20節)と言われています。そして、すべての福音書に記されている最大の逆転の発想(逆転の真理)と言えば、十字架の死からのイエスさまの復活です。更に、その復活の主イエスさまと出会い、使徒として召されたパウロは、正に、この逆転の発想(逆転の真理)を生きていました。例えば、パウロ一行が第2回伝道旅行でフィリピの町に行った時のことです。使徒言行録には、その中のパウロとシラスが牢獄に入れられたと書いてあるのです。しかし「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌を歌って神に祈っていると」(16章25節)と続くのです。牢獄では、普通、暗雲が立ち込めます。また、賛美は、普通、礼拝で歌うものと考えます。しかし、パウロは、賛美を、まるで当たり前のように牢獄で歌うのです。そう考えれば、パウロが、囚人としてローマの国に船で移送される時もそうでした。使徒言行録には、船が暴風雨に襲われたと書いてあるのです。その時、パウロが動揺する舟の乗組員に言ったことは「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています」(27章25節)でした。それは、天使が船の安全について、神の言葉を告げたからです。そして最後に、これは、パウロの有名な言葉です。パウロは、コリントの信徒への手紙2、12章で「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)と言い、また「私は弱い時にこそ強いからです」(10節)と言うのです。いずれも逆転の発想です。

 だから、話しを今日、朗読された御言葉に戻すと、イエスさまは言われるのです。22節23節「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」と。ここで明らかにされていることは「天には大きな報いがある」ということです。ただ、そのような報いに関しても、この世の基準には、例えば、因果応報があります。これは、聖書の旧約の時代に、物事の考え方として、神の民イスラエルに浸透してしまっていた教えです。それは、良いことをしていれば、その人に幸せが訪れ、悪いことをしていれば、その人に災いが下るというものです。しかし、この話しは、それほど単純ではなく、同じ旧約で議論となった神議論があります。それは、良いことをしているのに、災いを被る人がおり、悪いことをしているのに、幸いを被る人がいるというものです。もはや、そうなると、それは、この世の基準と言うより、この世の矛盾と言えるのかもしれません。取って付けて言えば、苦しい時の時間は、とても長く感じますが、楽しい時の時間は、ものすごく短く感じるのも、そうかもしれません。大変な時は、早く過ぎ去ってほしいのに、それは、返って長かったりするのです。ただ、あとから、その時を振り返ってみれば「そう言えば、あの時も、あっという間だった」という感覚になることもあります。いずれにしろ、この世においては、苦しみの時が長く、楽しみの時が短いように感じたとしても、それは、やはり、感覚に過ぎないのです。何より、この世における長いと感じる時間(それは、大変な状況の時が多いのですが)、その時間の中では、人生を濃密に生きているという認識を否むことはできません。だから、それが人生なのだという気持ちに落ち着くというのもあるのです。ただ、聖書が言葉として、言葉にして、はっきりと表し、また、教えているのは「天には大きな報いがある」(23節)という真実です。だから、私たちは、その言葉を人生の意味として、考える必要があるのです。そして、その「天」という言葉は、同時に「永遠」という言葉のニュアンスを、私たちに伝えてくれるものでもあります。

 だからイエスさまは、言われるのです。24節〜26節「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今、満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」と。このように、この行(くだり)には、既に報いが生じてしまった現実というものを確認することができます。ただ、こういう報いが生じてしまった現実を、何もかも否定してしまうというのは極端です。イエスさまは、24節〜26節の現実が、すべてではないということを、教えておられるのではないでしょうか。しかし、そういう心境では、ほとんどの場合、人生の意味を深く考えることは、できないのです。ただ、そのような報いが生じた現実の後に、不幸の現実が遣って来る。それは「飢えるようになる」「悲しみ泣くようになる」のですが、それは、イエスさまが「あなたがたは、幸いである」と言われたところの現実であるというところに、救いがあります。要するに、私たちは、どのような状況の中に立たされても、人生の意味を考えることが求められているのですが、その状況は、どうしても20節〜23節の現実であることのほうが多いのです。そこで気づかされることは「こうだから、こうなる」とか「それは、有り得ない」とか、そういう自分を主とした判断に陥ってはならないということです。なぜなら、私たちは、神ではないし、この世界や歴史、或いは、自分自身を救いに導くことさえできない人間です。だから、神さまを主とした判断を求めていく必要があるのです。それが、私たちクリスチャンとして、神さまに選ばれた民、神さまが契約(約束)を結ばれた民が持つ、高い精神性なのです。その契約(約束)は必ず果たされる、それは、報われることを、信仰によって知っているからです。もし、私たちが富む必要があるのであれば、それは、神の恵みに富む必要があるといえます。

 要するに、人生に固定観念を作らないこと、そして、それに縛られないことが大事なのです。今日の教会学校では、次の御言葉に聴いて学びました。コリントの信徒への手紙1、10
章13節「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる。」その中で、説教例の中にもあったのですが「窮鼠猫を噛む」という諺を参考にして話しました。固定観念に縛られていれば、いわゆる、鼠は、それ以上、逃げる道が無くなって、猫を噛むという結果になるわけですが、固定観念に縛られなければ、四方八方が囲まれていても、上は空いている。それは、天は開かれているということを見出すのです。

 ところで、報いという漢字は、幸せという字が入っています。けれども、報いや幸せという字を調べても、それは、直接、私たちが考えているような幸せやいい意味での報いを意味する文字ではなかったのです。報という漢字は、もともと、罪人に罰を与えるという意味があり、幸という漢字は もともと、手かせの象形で罰を逃れることを意味するからです。要するに、報いというのは、字義通りなのかもしれません。聖書にも「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙6章23節)とあります。しかし、イエスさまは、その罪人の罪の身代わりのために十字架に架かってくださったのです。そう考えれば、私たちが受ける罪の報いは、本当に恐ろしいものでしかなかったのです。しかし、イエスさまの十字架の愛によって、私たちには、幸いという、それは、手かせ足かせという罪の報いから逃れることができたのです。こうして、私たちは、苦しみや悲しみの中にありながら、幸いの本当の意味、それは、価値を知ったのです。だから、私たちは、一過性の享楽に耽り、その幸いの価値を低くするような、精神性の低い民になってはいけないのです。私たちは、精神性の高い民として、沢山の苦労や辛い経験を通し、幸いの本当の価値を知るのです。また、そういう経験を通して、人の痛みや苦しみが分かる人間に成長させていただくのです。そういう自覚を持ちながら、それに加えて、世界に対するイエス・キリストの救いの発信に使命感を抱くのです。この秋は、イエスさまの説教(御言葉)を聞きながら、人生の意味を深く考える日々を導いていただきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記