ルカによる福音書6章20節〜26節、コヘレトの言葉9章5節
説 教 「人生の意味を考える」
今日から、私たちは、この6章20節から6章の終わりまで、しばらくの間イエスさまの説教に聴きます。ただ、来週の神学校日・特別伝道礼拝と、10月第5週目の召天者記念礼拝は、他の福音書の御言葉に聴きます。ということで、10月は、ところどころルカ福音書からは離れますが、イエスさまの説教を中心に、礼拝を守っていきます。そのイエスさまの説教は、先週の礼拝でもお話ししたように「平地の説教」と呼ばれています。その比較対象として、マタイ福音書には、説教の内容が、ほぼ同じ「山上の説教」がまとめられているということも、先週の礼拝でお話ししました。更に、そのマタイ福音書は、神の民イスラエルのユダヤ人を対象(読者)として書かれたのに対し、このルカ福音書は、異邦人(異教徒)を対象(読者)として書かれたということもお話ししました。このルカ福音書の「平地の説教」は、マタイ福音書の「山上の説教」より、教えの数が少ないですが、段落ごとに5つの説教が並んでいます。
今日は、その1つ目の説教です。20節から26節までの表題には「幸いと不幸」とあります。これは、マタイ福音書のほうでも1つ目の説教ですが、表題には「幸い」とだけあります。そして、その「幸い」の教え、それは「あなたがたは、幸いである」という言い回しの教えが8つあります。それで、その教えは、一般的に「八福(8つの幸福)の教え」と言われています。けれども、ルカ福音書にはある「不幸」の教え、それは「あなたがたは、不幸である」という言い回しの教えがないのです。何故なのでしょうか。それは、マタイ福音書の読者である神の民イスラエルのユダヤ人たちの現状が、既に十分、不幸に値していたからです。ユダヤは、当時ローマ帝国の属州で、その統治下にあり、色んな意味で抑圧されながら生活をしていました。過去を遡っても、そうです。バビロン捕囚やエジプトの奴隷生活など、彼らの現状は、歴史的にみても、支配や悲哀や苦悩を被ってきたのです。だから、昔も、その当時も、彼らの境遇が報われたとは、本当の意味では言えませんでした。
ただ、彼らは、神さまに選ばれた民、選民でした。それは、神さまが契約(約束)を結ばれた民で、いつか必ず、その約束は果たされる、報われるということを信じる民でした。だから、彼らは、いわゆる高い精神性を持った民だったのです。勿論、その中には、沢山の苦労や辛い経験を通して、逆に人の痛みや苦しみが分かるようになるということも含まれています。つまり、選民とは、そういう自覚と、それに加えて、世界に対する導き手(手本)という使命感を基礎とします。しかし、神の民イスラエルのユダヤ人たちの、選民であるという自覚は、逆に、選民意識や選民思想という、傲慢な思いを生む結果になってしまいました。そして、他者を卑しい存在として見下し、排除する考えに陥ってしまったのです。だから、マタイ福音書の「あなたがたは、幸いである」という八福の教えは、ルカ福音書の幸いの教えと、言っている内容は同じでも、微妙に文言に違いがあります。例えば、ルカ福音書の6章20節で言えば、貧しいは貧しいでも、ルカ福音書のように、単に「貧しい人々」ではなく「心の貧しい人々」(5章3節)が幸いだと言われています。他には「心の清い人々」(8節)という表現もあります。また、ルカ福音書の6章21節で言えば、飢えるは飢えるでも、ルカ福音書のように、単に「飢えている人々」ではなく「義に飢え渇く人々」(5章6節)が幸いだと言われています。他には「義のために迫害される人々」(10節)という表現もあります。更に、21節で言えば、嘆きは嘆きでも、ルカ福音書のような、単に「泣いている人々」が「笑う」(各21節)ではなく「悲しむ人々」が「慰められる」(5章4節)と言われています。前者は表面的な解決であり、後者は内面的な解決と捉えることができます。
このように、神の民イスラエルのユダヤ人たちは、すべての民が手本とする民なのです。それは、マタイ福音書5章13節、14節で言われている「地の塩」や「世の光」として生きる、精神性の高い民なのです。だから、読者が異邦人(異教徒)であるルカ福音書には、そういう高い精神性が見られないのです。しかし、そのことは、今、イエスさまによって選ばれたという、私たちクリスチャンにも、広い意味では言えることなのです。つまり、選民という自覚が、他者を卑しい存在として見下したり、排除したりする考えに陥ってはならないということです。むしろ、私たちは、そういう人々の導き手(手本)として、より次元の高い段階で生きることが求められているということです。ただ、そのように次元の高い段階と言うと、思い上がってしまったり、世捨て人のようになったり、孤高のような人間になり兼ねません。そこで、次の話しは、大きい小さい、高い低い、強い弱い、多い少ない、そういう話しをしていきます。
実は、ルカ福音書のほうも、マタイ福音書と同じように、その教え自体は8つあります。しかし、八福の教えと言わないのは、その内容が、幸いに当たる教え4つに対して、不幸に当たる教えが4つで8つの教えになっているからです。幸いに当たる教えは、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々、迫害を受けている人々です。そして、不幸に当たる教えは、富んでいる人々、満腹している人々、笑っている人々、誉められている人々です。ただ、その教えは、いずれも、この世の基準とは、大きくかけ離れています。この世の基準は、貧しいこと、飢え渇くこと、嘆くことを、不幸と考えます。また、逆に、富み栄えること、満ち足りること、喜ぶことを、幸せと考えます。しかし、イエスさまは、ここで、はっきりと、貧しいこと、飢え渇くこと、嘆くことを、幸せと言われ、逆に、富み栄えること、満ち足りること、喜ぶことを不幸と言われたのです。確かに、私たちも、この世で起こることを俯瞰で見た時に、おそらく、何度か感じたことがあるのです。例えば、発展途上国の子どもたちの目の輝きや笑顔。また、先進国の人々の魂が抜けてしまったような瞳や行動。或いは、栄光からの転落という人生や事件など。それは、逆転の発想のうちに入るのかもしれません。要するに、大きい、高い、強い、多い、だから、それが良いことであり、小さい、低い、弱い、少し、だから、それは悪いことだということにはならないのです。そのように考えれば、何かが有るから、何かを得たから、何かを知っているから、それが良いことであり、何かが無いから、何かを失ったから、何かを知らないから、それは悪いことだということにもならないのです。イエスさまが、この幸いと不幸の教えの中で言っておられることも、要するに、逆転の発想(逆転の真理)です。この逆転の発想(逆転の真理)は、他のイエスさまの言葉や聖書の言葉にも、多く見られます。
例えば、マタイ福音書の山上の説教の中では「狭い門から入りなさい」(7章13節)と言われています。また、このルカ福音書では「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(9章24節)。また「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(22章 26節)と言われています。そして、ヨハネ福音書では「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章24節)。また「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(16章20節)と言われています。そして、すべての福音書に記されている最大の逆転の発想(逆転の真理)と言えば、十字架の死からのイエスさまの復活です。更に、その復活の主イエスさまと出会い、使徒として召されたパウロは、正に、この逆転の発想(逆転の真理)を生きていました。例えば、パウロ一行が第2回伝道旅行でフィリピの町に行った時のことです。使徒言行録には、その中のパウロとシラスが牢獄に入れられたと書いてあるのです。しかし「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌を歌って神に祈っていると」(16章25節)と続くのです。牢獄では、普通、暗雲が立ち込めます。また、賛美は、普通、礼拝で歌うものと考えます。しかし、パウロは、賛美を、まるで当たり前のように牢獄で歌うのです。そう考えれば、パウロが、囚人としてローマの国に船で移送される時もそうでした。使徒言行録には、船が暴風雨に襲われたと書いてあるのです。その時、パウロが動揺する舟の乗組員に言ったことは「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています」(27章25節)でした。それは、天使が船の安全について、神の言葉を告げたからです。そして最後に、これは、パウロの有名な言葉です。パウロは、コリントの信徒への手紙2、12章で「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(5節)と言い、また「私は弱い時にこそ強いからです」(10節)と言うのです。いずれも逆転の発想です。
だから、話しを今日、朗読された御言葉に戻すと、イエスさまは言われるのです。22節23節「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」と。ここで明らかにされていることは「天には大きな報いがある」ということです。ただ、そのような報いに関しても、この世の基準には、例えば、因果応報があります。これは、聖書の旧約の時代に、物事の考え方として、神の民イスラエルに浸透してしまっていた教えです。それは、良いことをしていれば、その人に幸せが訪れ、悪いことをしていれば、その人に災いが下るというものです。しかし、この話しは、それほど単純ではなく、同じ旧約で議論となった神議論があります。それは、良いことをしているのに、災いを被る人がおり、悪いことをしているのに、幸いを被る人がいるというものです。もはや、そうなると、それは、この世の基準と言うより、この世の矛盾と言えるのかもしれません。取って付けて言えば、苦しい時の時間は、とても長く感じますが、楽しい時の時間は、ものすごく短く感じるのも、そうかもしれません。大変な時は、早く過ぎ去ってほしいのに、それは、返って長かったりするのです。ただ、あとから、その時を振り返ってみれば「そう言えば、あの時も、あっという間だった」という感覚になることもあります。いずれにしろ、この世においては、苦しみの時が長く、楽しみの時が短いように感じたとしても、それは、やはり、感覚に過ぎないのです。何より、この世における長いと感じる時間(それは、大変な状況の時が多いのですが)、その時間の中では、人生を濃密に生きているという認識を否むことはできません。だから、それが人生なのだという気持ちに落ち着くというのもあるのです。ただ、聖書が言葉として、言葉にして、はっきりと表し、また、教えているのは「天には大きな報いがある」(23節)という真実です。だから、私たちは、その言葉を人生の意味として、考える必要があるのです。そして、その「天」という言葉は、同時に「永遠」という言葉のニュアンスを、私たちに伝えてくれるものでもあります。
だからイエスさまは、言われるのです。24節〜26節「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今、満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」と。このように、この行(くだり)には、既に報いが生じてしまった現実というものを確認することができます。ただ、こういう報いが生じてしまった現実を、何もかも否定してしまうというのは極端です。イエスさまは、24節〜26節の現実が、すべてではないということを、教えておられるのではないでしょうか。しかし、そういう心境では、ほとんどの場合、人生の意味を深く考えることは、できないのです。ただ、そのような報いが生じた現実の後に、不幸の現実が遣って来る。それは「飢えるようになる」「悲しみ泣くようになる」のですが、それは、イエスさまが「あなたがたは、幸いである」と言われたところの現実であるというところに、救いがあります。要するに、私たちは、どのような状況の中に立たされても、人生の意味を考えることが求められているのですが、その状況は、どうしても20節〜23節の現実であることのほうが多いのです。そこで気づかされることは「こうだから、こうなる」とか「それは、有り得ない」とか、そういう自分を主とした判断に陥ってはならないということです。なぜなら、私たちは、神ではないし、この世界や歴史、或いは、自分自身を救いに導くことさえできない人間です。だから、神さまを主とした判断を求めていく必要があるのです。それが、私たちクリスチャンとして、神さまに選ばれた民、神さまが契約(約束)を結ばれた民が持つ、高い精神性なのです。その契約(約束)は必ず果たされる、それは、報われることを、信仰によって知っているからです。もし、私たちが富む必要があるのであれば、それは、神の恵みに富む必要があるといえます。
要するに、人生に固定観念を作らないこと、そして、それに縛られないことが大事なのです。今日の教会学校では、次の御言葉に聴いて学びました。コリントの信徒への手紙1、10
章13節「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる。」その中で、説教例の中にもあったのですが「窮鼠猫を噛む」という諺を参考にして話しました。固定観念に縛られていれば、いわゆる、鼠は、それ以上、逃げる道が無くなって、猫を噛むという結果になるわけですが、固定観念に縛られなければ、四方八方が囲まれていても、上は空いている。それは、天は開かれているということを見出すのです。
ところで、報いという漢字は、幸せという字が入っています。けれども、報いや幸せという字を調べても、それは、直接、私たちが考えているような幸せやいい意味での報いを意味する文字ではなかったのです。報という漢字は、もともと、罪人に罰を与えるという意味があり、幸という漢字は もともと、手かせの象形で罰を逃れることを意味するからです。要するに、報いというのは、字義通りなのかもしれません。聖書にも「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙6章23節)とあります。しかし、イエスさまは、その罪人の罪の身代わりのために十字架に架かってくださったのです。そう考えれば、私たちが受ける罪の報いは、本当に恐ろしいものでしかなかったのです。しかし、イエスさまの十字架の愛によって、私たちには、幸いという、それは、手かせ足かせという罪の報いから逃れることができたのです。こうして、私たちは、苦しみや悲しみの中にありながら、幸いの本当の意味、それは、価値を知ったのです。だから、私たちは、一過性の享楽に耽り、その幸いの価値を低くするような、精神性の低い民になってはいけないのです。私たちは、精神性の高い民として、沢山の苦労や辛い経験を通し、幸いの本当の価値を知るのです。また、そういう経験を通して、人の痛みや苦しみが分かる人間に成長させていただくのです。そういう自覚を持ちながら、それに加えて、世界に対するイエス・キリストの救いの発信に使命感を抱くのです。この秋は、イエスさまの説教(御言葉)を聞きながら、人生の意味を深く考える日々を導いていただきたいと思います。
2023年10月01日
2023年10月1日 主日礼拝説教「人生の意味を考える」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記