マタイによる福音書11章28節〜30節、詩編55篇23節
説 教 「人生の重荷をおろして」
今日は、特別伝道礼拝ということで、沢山の方々に呼びかけて一緒に礼拝を献げています。他に特別なことと言えば、賛美歌3曲を聖歌3曲に替えたことです。賛美歌もそうですが、聖歌は、より福音的で、伝道的で、何より、救霊(霊の救済)のために用いられてきた歴史があります。選曲は、それぞれ、今日の聖書の御言葉、28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」に因んでいます。例えば、最初に歌った聖歌409番の内容ですが、イエスさまは、重荷を背負って疲れ果てている人に、愛の手を伸べて、御自分の所へ来るようにと呼んでおられます。そして、最後に「疾くイェスに来よ」とありますが、この「疾く」というのは疾風の疾です。これは「急いで直ぐにイエスさまの所に来て」という意味です。急いで直ぐにというのは、とても大事なのです。なぜなら、この世界には、重荷を背負って疲れ果てている人が沢山いて、その中で、失われる命も多いからです。だからと言って、イエスさまの所に行けば、重荷が全く無くなるということではありません。あの戦国武将が言った言葉も然りです。「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」
先週、京阪の比叡山坂本駅まで行き、穴太衆の石垣を見てきました。それは、石に呼ばれたからです。石に呼ばれて出かけたのは初めてでした。そもそもは、9月の半ば頃に、役員数名と大津教会の教会員を訪ねた帰り、坂本駅の辺りを車で通った時、役員から穴太衆の石垣のことを聞いたからです。その後、どうしても、その石垣のことが頭から離れず出かけていました。その石垣は、ほとんど無加工の自然石を積み上げる野面積みで、形も大きさも違う石を積み上げるのですが、どうして、こんなにも美しいのだろうと思うのです。また、それなのに石垣の強度が半端ないのです。ただ、その野面積みの石垣を、実は、他所でも見ていたのです。7月末に、彦根教会で4月に赴任した牧師の就任式があって出席し、帰りがてら、近くの彦根城のお堀の石垣を、堀の外から眺めたのです。その時は、カーブの曲線を描く石垣の美しさに目が留まりましたが、彦根城の石垣にも、穴太衆が関わっていたとは知りませんでした。その美しさの本質を見落とさないためにも、説明を伝え聞くのは大事だと思いました。
だから、イエスさまのことも、やっぱり何度でも話して説明し、こうして伝道していく必要があると思うのです。十字架の美しさを、皆さんが見落とさないようにです。どうして、十字架が美しいのかと言うと、十字架は、縦と横の比率が約1対1.6の黄金比率だからです。そのように、十字架は、見た目だけでも、人々の目を引き付けてやまない美しさがあります。でも、そのような見た目の美しさであれば、建物や芸術作品が黄金比率なら、誰もが目を奪われるのです。本当の美しさは、見た目で終わりません。その中身(内容)です。穴太衆の石垣の美しさは、私の目を満足させてくれましたが、イエスさまの十字架の美しさ、その犠牲を伴う愛は、私たちの心と魂を救うのです。
イエスさまは言われます。28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。この「重荷を負う者」というのは、この聖書の新約が書かれたギリシア語で「フォルティゾー」と言って、重荷を負わされている者のことです。負わされている重荷というのは、皆さんも経験があるのではないでしょうか。それは、もう、途中で疲れ果ててしまうほどに重たいのです。この「疲れた」という言葉は、ギリシア語で他の意味を探すと、もう何もかもが「嫌になる」それくらい、重荷は重たいのです。けれども、重荷にも色々あって、ギリシア語の「バロス」もそうなのです。その意味は「負担」です。その重荷について聖書が言っているのは、互いに負い合いなさいということです。(ガラテヤの信徒への手紙6章2節)
考えてもみれば、そうです。重荷は、負い合うことで負担が軽くなります。私も最近、重荷を負いました。それは、考えても調べてもよく分からなくて、心配と不安だけが募っていったので、役員に相談したのです。そしたら「その道に詳しい人がいるから相談してみてください」と言われて相談しました。そしたら、その人は、親身になって話しを聞いてくれたので、電話を切った後、心は軽くなっていました。要するに、その役員と、その道に詳しい人は、私の重荷を負ってくれたのです。だから、何かしら負担に感じたら相談することが重荷をおろすことに繋がります。相談しようとしないのは、恥ずかしいとか、どうせ分かってもらえないとか、怒られるとか、そういう気持ちになるからです。でも、世界的に有名な、あの喜劇王は言いました。「人間とは優しい生き物なんだよ。風が吹いてお前の帽子が飛ばされても、きっと誰かが拾ってくれるものなんだよ」と。前任地でも、私が色々抱えた時に相談した人が言った言葉で、忘れられない言葉があります。その人は牧師以外にも色んな働きをされていて多忙な方でした。でも、電話をかければ、終わりには、決まって、こう言われるのです。「あなたの気持ちを話してくれてありがとう」と。
そのように、大概の重荷(負担)は、負い合うことで少なくなります。けれども、今日、イエスさまが「来なさい」と呼び掛けている人たちの重荷は、負わされている重荷でありながら、同時に負う必要のある重荷で、誰に話しても、誰に頼んでも、他に誰も代わってもらえない重荷なのです。ただ、その場合、人は、その重荷に対して、負わされているという思いと、自ら負っているという思いがあるのです。先ほど、穴太衆の石垣の話しをしましたが、彼らは、仕事が石積みですから、物理的に重い石を扱います。また、職人ですから、その責任を誰彼に頼んで負ってもらうこともできません。だから、それは、明らかに重荷です。けれども、彼らにとって、その重荷は喜び(使命感)でもあるのです。その石が一つも余らず、奇麗に収まった時の喜びがあるのです。つまり、私たちは、重荷を負わされていると思う時、疲れ果てており、自ら負っていると思う時、それは、使命感を抱いている時、むしろ、良い汗を掻いて喜びや感動が与えられていたりするのです。私の場合、言葉を職業としているというのもあって、言葉が重荷です。時々、自分も含めて、人間の言葉に絶望するわけです。けれども、その重荷は、同時に喜びでもあります。それは、神の言葉を伝えるという使命感を与えられているからです。その神の言葉は、天に留まっているのではなく、イエス・キリストとして、また、聖霊として、この地上に降って来て、私を救い、また、沢山の人を救ってくれるのです。
しかし、今日、イエスさまが呼び掛ける「疲れた者、重荷を負う者」というのは、自ら、その重荷を負っていると考えても、決して喜びとは思えない、喜びにはならない、それは、重荷でしかない人々のことなのです。しかも、その重荷は、誰にも負ってもらえず、代わってももらえない重荷です。それが、最も重い重荷で、それが罪であり、後悔であり、罪悪感なのです。聖書の中では、当時、そういう人々が非常に多かったのです。それは、律法で、人々の生き方が制限されていたためです。人々は、その生活の細かい所にまで負わされた重荷によって疲れ果てて、また、それを自ら負おうにも、一つでも律法に違反すれば、罪人として断罪されたのです。この日本でも、しきたりとか風習で「こうしなければならない」とか、そうしなければ、祟りや悪いことが起こるとか、そんなふうに負わされている重荷の何と多いことでしょうか。そして、痛い目に遭えば自業自得とか、呪われていると言われ、常に、目に見えない何ものかに、恐怖心を抱いて生きなければならないのです。いわゆる多神教や無宗教のこの国では、偶像や虚像に学ぶことで重荷を負わされている人が大勢います。つまり、偶像は、私たちに重荷を負わせはしても、重荷を負ってくれることはないのです。
だから、イエスさまは言われるのです。29節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。でも、結局は、イエスさまも「軛を負い」「私に学べ」と言っているので、重荷を負わせる対象に過ぎないではないかと言われるかもしれません。ただ、イエスさまは、30節で「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とも言っておられます。その軛というのは二頭の牛を結び付けて荷物を運ばせるための農具です。イエスさまは、私たちに、その軛を負うように言われますが、イエスさまが、そのペアになって、その軛を一緒に負ってくださるのです。だから、荷を負ってはいても、それは、軽いという不思議が起こるのです。イエスさまは、私たちに重荷を負わせる神ではなく、私たちの重荷を一緒に負ってくださる神なのです。それが、十字架を背負い、十字架に架けられ、血を流された姿で、この世に示されたのです。その美しさは、人生の、到底、負い切れない重荷を背負い、疲れ果てた私たちを赦し、再び立ち上がらせる愛なのです。こうして、イエスさまは、私たちが負わされている重荷をすべて引き受け、私たちが自ら、その軛を負い、イエスさまの教えに学んで生きる道を開かれるのです。そこには、ただ信仰だけが必要です。その教えは、神と人を愛するということです。その時、私たちは、あらゆるすべての掟に堪えることができるのです。人生の重荷をおろして、その代わりに、イエスさまが負いなさいと言われる軽い荷としての軛を負いましょう。イエスさまは、いつまでも私たちと一緒にいてくださいます。だから、イエスさまと共に、神と人とを愛する喜びの人生を目指していきたいと思います。
2023年10月08日
2023年10月8日 主日礼拝説教「人生の重荷をおろして」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記