2023年10月15日

2023年10月15日 主日礼拝説教「敵を愛する神の子ども」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章27節〜36節、レビ記19章17節〜18節                
説 教 「敵を愛する神の子ども」

 今、世界では、2つの戦争のことが大きな話題となっています。1つ目の戦争は、2022年2月に始まりましたが、現在も進行中です。正直、その戦争は、遠くの出来事という感じが否めませんでした。けれども、この10月7日に始まった戦争は、ものすごく身近な出来事という感じがします。というのは、場所がパレスチナで聖書の物語の舞台だからです。この戦争が始まったことで、益々難しくなりました。それは、今日の聖書の御言葉、27節「敵を愛し」「憎む者に親切にしなさい」の理解が難しくなりました。このような状況の中で、御言葉を、どのように理解し受けとめればよいのか。私たちは、今、何に耳を傾け、どこに心を寄せたら良いのでしょうか。

 攻撃を仕掛けた側にも、報復している側にも、それぞれ言い分があります。しかし、その攻撃が、無差別な暴力と破壊と粛清であることを思えば、それは許されることではありません。やって良いことと悪いことがあります。現状は、攻撃が報復を生み、報復が報復を生む攻撃性の連鎖です。もはや、双方の歴史は複雑に絡み合っています。たとえ、それぞれの過去や歴史を理解したとして、それが果たして、今回の攻撃の正当化や、報復という解決策を認めることになるのでしょうか。実際、攻撃や報復は、しないほうが良いに決まっています。とは言え、自分が、その当事者になっても、そう言い続けられるのか、というのもあります。攻撃や報復が良くないなら、最低限、抵抗や防衛をしたとして、それが、敵の攻撃力に勝るという保障もありません。勝らないのであれば、あとは、されるがまま、滅ぼされるのを待つだけなのか。結局、傍観しているだけなら、何とでも言えるのです。更に、こういう状況の中でも、どこ吹く風で、安逸を貪っている人たちもいます。果たして、真実は、どこにあるのか。幸せは、どこにあるのか。いずれにしろ、今、述べたことの先に、未来はありません。

 それなら、一体、私たちは、何に耳を傾け、どこに心を寄せたら良いのでしょうか。それは、やはり、神の言葉に耳を傾け、心を寄せるしかないのです。今日、イエスさまは言われます。27節「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と。「わたしの言葉を聞いているあなたがた」とは、20節によれば「弟子たち」。17節によれば「大勢の弟子」です。彼らは、高い精神性を持つことが求められている人々のことです。その弟子たちが聞いていたのは、20節〜26節にあるイエスさまの「逆転の法則」或いは「逆転の真理」という教えでした。具体的には、貧しい人や飢えている人、泣いている人や憎まれている人は、幸いであるという教えでした。イエスさまは、その話しを聞いていた弟子たちに「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われたのです。そして、これも同じように「逆転の法則」なのです。

 イエスさまは、弟子たちに「敵」をつくるなと言われたわけではありません。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われたのです。つまり、人間の社会やコミュニティーには、普通に「敵」が存在するのです。その「敵」を愛しなさいと言われても、実際、敵を愛したという事実が、私たちの中に有るのかと言えば、無いのです。それは、行動においても、心の中においても無いのです。それが罪なのです。だから、人間は、誰も「敵を愛しなさい」とは言えないのです。それが言えるのは、イエスさまだけです。なぜなら、イエスさまには、敵を愛したという事実が有るからです。その事実が、イエスさまの十字架の時に実現しました。それが、27節の「敵を愛し」のあとに続く「憎む者に親切にしなさい」から、30節に至るまでの教えです。「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」これらの教えは、私たちへの教えでありながら、そのすべてが、私たちの中には無い事実なのです。しかし、イエスさまの中には有る事実です。だから、イエスさまは、このこともまた、私たちに教えることができるのです。

 「憎む者に親切に」とありますが、イエスさまは、十字架前夜、御自分を捕らえに来た大祭司の手下の耳を癒されました。それは、敵と判断したペトロが、剣で耳を切り落としたからです。また「祈りなさい」とありますが、イエスさまは、悪口を言う者や侮辱する者のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです」と祈られました。また「頬を打つ者には、もう一方の頬を向け」とありますが、イエスさまは、兵士たちに殴られ、ののしられても抵抗されませんでした。また「上着を奪い取る者には、下着をも」とありますが、イエスさまは、くじ引きをして、イエスさまの服を分け合った兵士たちから、それを取り返そうとは、されませんでした。このように、すべては、イエスさまの中に有る事実であり、私たちの中には無い事実です。例えば、あの有名なコリントの信徒への手紙1、13章の愛の賛歌(4節〜7節)もそうです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」これら一つひとつの愛の形も、私たちの中には無い事実ですが、イエスさまの中には有る事実です。その愛は、イエスさまの心であり、十字架の愛(それは、アガペーと呼ばれる神の愛)です。だから、その13章の愛は、イエス・キリストと読み替えると分かり易いのです。それで、13章は「愛の賛歌」と呼ばれるのです。神の愛(アガペー)だけが、イエスさまだけが、誉め讃えられるべき、ふさわしい愛だからです。

 このように「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」という教えは、イエスさまの事実に類する教えであり、私たちの事実には反する教えなのです。それなら、なぜイエスさまは、敵を愛することを弟子たちに命じるのでしょうか。命じておられますが、決して強制ではありません。こうしなければならないと言っておられるのではないのです。そうではなく、むしろ、イエスさまは、そうすることを、弟子たちに願い、望んでおられるのです。つまり「敵を愛し、憎む者に親切にしなさい」というのは、イエスさまの私たちに対する願望なのです。要するに、イエスさまは、私たちに「敵を愛し、憎む者に親切に」してほしいのです。ただ、それは、人間の中には無いので、人間の気持ちとして生まれることはありません。それは、イエスさまの願望であり、神の気持ち、神の祈りだからです。イエスさまは言われます。35節36節「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と。先ほどの聖書朗読の時に、旧約の律法の書物である、レビ記を朗読していただきましたが、そこには、敵を憎めとは、一切書いていないのです。「憎んではならない」「復讐してはならない」「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」(レビ記19章17節18節)と言われています。これは、同じ民族だけのことを言っているのではなく、すべての民族のことを言っているのです。イエスさまは、その神の愛に従って、十字架の時(十字架の死)に向かって歩まれました。そして「敵」を愛し、罪深い人間の、あらゆるすべての罪を背負って十字架の死を遂げられました。そこにあったのは、イエスさまの気持ちではなく、神の気持ち、神の祈り、神の御心でした。イエスさまは、ただ、その神の御心が成るようにと祈り、「憐れみ深い者」としての務めを果たされたのです。今日の説教題『敵を愛する神の子ども』というのは、まさしくイエスさまのことです。しかし、それは同時に、イエスさまが、願いとして、私たちに望んでおられることでもあるのです。

 勿論、私たちが「敵」を愛する愛というのは、神の愛(アガペー)です。決して、私たちの人間的、感情的、友情的な愛ではありません。神の愛(アガペー)とは、神が罪深い私たちの罪を赦し、愛し抜かれた十字架の愛です。その十字架の愛を信じ、そこに立って初めて、私たちは、イエスさまが望んでおられことに応えることができるのです。私たちは、愛されることなしに、愛を知ることも愛を生きることもできないのです。31節で、イエスさまは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と言われます。これは黄金律と呼ばれる御言葉ですが、これも、基本は、愛されることなしには、実行不可能な御言葉です。「人にしてもらいたいと思うこと」それが、愛であることに気づいても、十字架の愛を知ることなしに、私たちの愛されたいという気持ちは、満たされないからです。イエスさまの十字架の愛が、自分に対して、どれほど深いのかを知る者だけが、神の愛(アガペー)を生きることができるのです。

 それは、32節〜34節のところで、イエスさまが言っておられる通りです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」と。 このように、感情的、友情的な愛は、誰に何を言われなくても、誰もがしており、誰でもできることです。「しかし」イエスさまは、繰り返して言われます。35節「あなたがたは敵を愛しなさい」と。このギリシア語の原語は、27節の「敵を愛し」という言葉と全く同じです。私たちは「敵」という言葉に注目してしまいますが、注目すべきは「愛」のほうです。この神の愛(アガペー)が、御言葉を行なう人になるための、大前提だからです。つまり、罪深い私たちを愛してくださった神の愛、イエスさまの十字架の愛によって生きるということです。単に、神の愛によって生きるというのではなく、罪深い私たちを愛し、十字架の上で、その慈しみ深い愛を示されたイエスさまの愛によって生きるのです。その先に「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい」という道が開かれています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記

2023年10月22日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:コリントの信徒への手紙2、12章7節b〜10節
説教:「弱いときにこそ強い」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書6章37節〜42節、申命記7章9節〜15節
説 教: 「気前のよい神の子ども」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 07:46| 日記