ヨハネによる福音書14章1節〜7節、創世記28章10節〜12節
説 教 「天に通じる道」
今日は、召天者のご遺族をお招きして、召天者記念礼拝を守っています。礼拝堂の、皆さまから見て左手に、ご遺族の愛するご家族、また、教会の人々が愛する友の遺影が並んでいます。人は、誰もが人として生まれ、人として、その人生を全うします。それは、すべての人が通る道です。しかし、やがて死が訪れた時、人は、その出来事の前に沈黙せざるを得ません。人として生まれた命には、必ず死という終わりがあるというのが定説です。そして、この死は、今の時点では、決して避けることができない現実です。この死の出来事を、私たちは、一体どのように受け止めればよいのでしょうか。また、そこに巻き起こる感情を、一体どこに向ければよいのでしょうか。人は、死という出来事を前にすれば、誰もが、その戸惑いを隠せません。結局、人は、生きるとは言っても、死ぬまでを生きているに過ぎないのです。
けれども、召天者の方々は、人として生まれ、人として人生を全うされただけではありません。人として生まれ、実に、神の子どもとしても生まれた方々、或いは、執り成され、今も、こうして執り成され続けている方々です。人としての命には終止符が打たれましたが、神の子どもとして生まれた命、また、その執り成され続けている祈りには、まだ終止符が打たれていません。むしろ、神の子どもとして生まれた命は、始まったばかりです。ですから、召天者の方々にとって、死は、終わりではなく通過点です。とは言っても、死は、受け入れ難い現実です。一般的にも、理不尽な出来事とされています。なぜなら、その死がもたらすものは、破壊であり、別離であり、喪失であり、虚無だからです。それゆえに、私たちは、その死の出来事の前では、全く落ち着いては居られず、動揺を隠せません。
今日、朗読された聖書の中にも、私たちと同じように、動揺を隠せない弟子たちの姿があります。イエスさまは弟子たちに言われました。1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。弟子たちが心を騒がせたのは、14章の前の13章33節で、イエスさまが弟子たちに、こう言われたからです。「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と。また、36節でも言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と。その時、弟子のペトロは、こう答えました。37節「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と。弟子のペトロは、イエスさまの死を予感し、思ってもみないことを口にしました。少なからずペトロは、死がもたらす、破壊、別離、喪失、虚無を察して動揺したのです。
その時「心を騒がせるな」と、イエスさまは言われたのです。つまり、慌てるな、心配するなと言われたのです。実は、そう言われたイエスさまも、死の出来事を前にして、心、騒がせられたのです。それは、ラザロが死んだ時です。ラザロのために人々が泣いていた時、イエスさまは「心に憤りを覚えて」「興奮して」「涙を流された」のです。その直後、ラザロの墓に近づかれた時も、再び「心に憤りを覚えて」おられます。それだけではなく、ご自分の十字架の死が近づいた時も、イエスさまは「心騒ぐ」と言われました。また、12弟子の一人であるユダの裏切りが決定的となった時も、イエスさまは「心を騒がせ」ておられます。要するに、イエスさまは、人間の心の弱さを知っておられるのです。だから、その恐れや不安が、神の約束や御業を疑わせることもご存じです。そのためイエスさまは、ご自分の死について、十字架前夜、ゲッセマの園で祈り抜き、心を定め、十字架の死を神の御心と信じて行かれました。
だから、イエスさまは、弟子たちにも「神を信じ、わたしをも信じなさい」と言われるのです。神には、驚くべき救いのご計画があるからです。また「わたしをも」と言われたのは、イエスさまが、その神の救いのご計画だからです。これは、信じる対象が2つあるというのではありません。イエスさまは、ご自分によって示される、神の救いのご計画を信じるように、と言われたのです。イエスさまは、唯一無二の救いです。また、その計画の始まりであり終わりです。つまり、イエスさまは、救いの完成者なので、それ以外の救いの可能性は、他にないのです。イエスさまによって成し遂げられた十字架と復活こそが完全な救いです。イエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって死んで復活し、罪の力に勝利されたので、救いは、イエスさま以下でも、それ以上でもないのです。このイエスさまと私たちを結ぶのが信仰です。この信仰によって、人は新たに生まれ、神の子としての命を始めます。もはや、罪人として死に留まることなく、イエスさまによって、罪赦された神の子として生きるのです。
ペトロは、イエスさまが、どこか遠くに行ってしまうように思えたので、死を予感し、心を騒がせました。けれども、そうではなかったのです。イエスさまは、言われます。2節3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と。イエスさまは、十字架と復活の救いの業を成し遂げて「父の家」に行かれるのです。その「父の家」には「住む所がたくさんある」と言われています。「住む」ということは生きるということです。そこは「場所」とも言い換えられているように居場所です。もし、弟子たちが、今後その命に終止符を打つのなら、イエスさまが、弟子たちのために場所を用意しに行く必要はありません。この「場所」という言葉には、色んな意味があります。町や地域、建物や部屋(座席)の他、可能性や機会(チャンス)という意味もあります。また「用意」するという言葉には、宿泊や食事という意味もあります。要するに、そこは、神の子どもとしての新しい命が育まれるのに、最適の環境なのです。イエスさまは、その場所を用意したら、戻って来て、私たちを、その場所に迎えてくださるのです。
イエスさまは、話した内容を、弟子たちが理解したものと思って言われました。4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と。イエスさまとしては「これだけ言ったのだから、さすがに、わたしがどこへ行くのか、また、どの道を通れば、そこへ行けるのか、分かったね」という気持ちだったのです。しかし、弟子のトマスが言いました。5節「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」 と。彼は、疑い深いトマスです。その上、弟子たちを代表する者として言っています。だから、結局は、弟子たちみんなが疑っていたのです。このように、弟子たちがイエスさまの言葉を理解しなかったのは、心が騒いでいたからです。疑いは、目に覆いを掛け、大事なものを見えなくさせるのです。今が、どういう時なのかもそうです。自分が、どんな者かというのもそうです。そして、自分の行く末に何が待っているのかもそうです。信じなければ見えないのです。ただ、信じても、それが見えた所で、そこに救いはありません。今がどういう時なのかは、終末で、今や戦争の騒ぎは、全世界を巻き込むほどです。また、自分が、どんなに不確かな者かも含め、自分の行く末に待っているのは死です。私たちは、死ぬために生きるのでしょうか。このように、私たちが疑わず、はっきりと見ようとした時、救いは、この世にも自分にも無いことを知るのです。
そこで、イエスさまは言われました。6節7節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と。イエスさまは「わたしが道だ」と言われます。この道という言葉の原語は「〜への道」なので、ただ当てもなく続く道のことではありません。私たちが歩く道のゴールは、おそらく、誰も目指してはいなくても、死です。しかし、イエスさまという道は、死への道ではなく、真理への道であり、命への道です。このイエスさまを通って、私たちは「父のもと」すなわち、住む所がたくさんある私たちの居場所、そこは、神の子としての命が始まる環境へ、辿り着きます。それが『天へと通じる道』です。道は、生き方という意味もあるので、これが、つまり、イエスさまを信じるという生き方が、天へと通じる道だとも言えます。
今、教会の前で建物が建築されています。その建築過程を、朝と昼、幼稚園の子どもたちの送迎のために園長と一緒に門に立ちながら、ずっと眺めています。土台よりも前に、最初に造られたのが3階まで上る鉄筋の階段でした。土台もないのに、そこに階段だけがある光景は、何かのモニュメントのようで違和感しかありませんでした。自分の口を吐いて出てきた言葉は「天へと続く階段」でした。そして、園長の口を吐いて出てきたのが「ヤコブの梯子」でした。また、奇遇ですが、先週の金曜日は、園児たちの同伴で、消防署見学に行きました。消防士の丁寧な対応に頭が下がりましたが、何と『はしご車』まで用意してくださっていました。そして、実際に隊員を乗せた梯子を上まで伸ばしてくださったのです。そして、そこから記念撮影をしてくれました。その時に、頭の中を巡っていた言葉は「天へと続く梯子」でした。普通は、そんな所に、空中なんかに、階段なんて、あるはずがない、という所に、突然、階段や梯子が現れるという不思議。それと同じように、信じるなら『天に通じる道』は、確かにあるのです。しかし、このような所に、というのが落とし穴です。このような私の傍にもあるのです。そのイエスさまという道は、ただ、信じる人だけが歩いて行く道です。
2023年10月29日
2023年10月29日 主日礼拝説教「天に通じる道」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:17| 日記