ルカによる福音書7章11節〜17節、列王記下4章32節〜37節
説 教 「生命を与える主イエス」
今日の福音書の出来事は、これまで私たちが見てきたイエスさまの御業の中では、最たるものと言えます。これまで、イエスさまは、度々、悪霊に取りつかれた男を癒し、病人を癒し、体の不自由な人を癒されました。いわゆる、イエスさまの宣教の業は『いやしと教え(御言葉)』です。けれども、今日の出来事は、これまでのような癒しではなく、死んだ生命が、何と、もう一度、生きる、生き返るという死者のよみがえりです。すなわち、平行の癒しではなく垂直の癒しです。これをもって、イエスさまの癒しの業は、ひとまず頂点に達しました。そして、この時点でイエスさまの業は、1つの区切り目を迎えたのです。なぜなら、この出来事は、17節を見ると次のように言われているからです。「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」と。そして、18節以降では、この広まった死者のよみがえりの話しを、あの洗礼者(バプテスマの)ヨハネの弟子たちが耳にし、やがて、それが牢獄に繋がれていた洗礼者ヨハネ自身の知るところとなるのです。そこでヨハネは、2人の弟子をイエスさまの下に送って言わせました。19節「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。それは、ヨハネが抱いていた救い主像が、罪人や悪人を裁く裁き主だったからです。しかし、自分の弟子たちが巷で聞いてきた噂は、自分の救い主像とは、全くかけ離れていました。それで、イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、こう答えられました。22節23節 「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。要するに、ヨハネは、イエスさまに躓いたのです。また、この後、30節には「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」が「自分に対する神の御心を拒んだ」とありますが、要するに、彼らも躓いたのです。どうして躓いたのかと言えば、それは「自分の考えが正しい」と思っているからです。このように、自分が正しいと思っている人々が、神の寵愛や恵みを受けることは決してありません。昨日、滋伝協(滋賀伝道協力)教育委員会主催の『教会芸術を学ぶ集い』〜賛美歌で祝うクリスマス〜のコンサートに参加しました。アヴェ・マリアなどの歌やオルガン演奏等を聞きながら、満ち足りた一時を過ごしました。開会礼拝では「分かち合う」と題して、エフェソの信徒への手紙5章6節〜20節を通してメッセージをいただきました。「暗いこの世だから、私たちは賛美を歌うのです」と。また「時には、躓くようなことがあるかもしれない。だから、私たちは、共に歌を分かち合い、言葉を分かち合い、思いを分かち合うのです」と。つまり、礼拝を守るのです。それは、自分の命を守るのです。
開会礼拝では、奏楽を担いましたが、そのメッセージ後に歌った讃美歌は、讃美歌21の81番『主の食卓を囲み』でした。それを伴奏しながら、メッセージが更に力を増したように思えました。イエスさまは「目の見えない人」の目を開き「足の不自由な人」を歩かせ「重い皮膚病を患っている人」を清くし「耳の聞こえない人」の耳を開かれました。そして「死者」を生き返らせ「貧しい人」に福音を告げ知らせる救い主です。そのことが信じられないなら、どうして、次の事実を信じられるでしょうか。イエスさまは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかって死んでくださる主(救い主)なのです。これから迎えるクリスマスは、イエスさまが十字架に架かって死ぬためにお生まれになる日、ということを忘れてはなりません。この主の歌である賛美を分かち合い、この主の言葉である御言葉を分かち合い、この主の思いである御心を分かち合いながら、私たちは、数多の躓きを乗り越えていくのです。『主の食卓を囲み』を弾きながら、その食卓で、私たちは、イエスさまの裂かれた肉と流された血潮を分かち合うことを思い、豊かな気持へ導かれました。この物語の中で、イエスさまが死者をよみがえらせたことによって、待ち望むべき救い主は、どのような方であるのかが、はっきりと世に示されたのです。そう意味で、1つの区切り目を迎えたのです。また、それは、このルカ福音書を書いたルカにとっても1つの区切り目でした。というのは、13節を見ると、ルカは初めて、この物語の中でイエスさまを「主」と呼んだからです。つまり、この死者のよみがえりの出来事が、医者であるルカをして、そう言わせたのです。だから、この死者のよみがえりの出来事は、単なる奇跡物語ではないのです。奇跡物語は「そんなことがあるはずはない」とか「信じられない」という反応を、私たちに求めていません。そもそも、奇跡は、イエスさまが主であり、イエスさまの教えが確かであることを指し示す出来事です。だから、奇跡物語というのは、逆に、自分が正しい人間だという思いや、自分の考えが、すべてだと思う思いを、完全に打ち砕く出来事でもあると言えるのです。
それでは、この死者のよみがえりの物語を見ていきます。11節「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」とあります。この前の『百人隊長の物語』は、ガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムが舞台でしたが、ナインは、そこから南西に約30キロ降った、丁度ナザレの南、タボル山の近くです。標高差が400mもある上り坂なので大変な道のりです。けれども、イエスさまは、そこに一日強の時間を掛けて向かわれたのです。そうして、12節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった」のです。イエスさまの後に従ってきた弟子と群衆の行列は、期待と希望に満ちていましたが、ナインの町の門から外に出てきたのは、諦めと絶望に満ちた葬送の行列でした。イエスさまが遠路遥々、険しい坂道を上って来られたのは、この行列の先頭を歩く、死んだ一人息子の母親に会うためでした。この息子は40歳以下の若者だったので、母親は、働き盛りの愛する一人息子を失ったのです。今、働き盛りを強調したのは、家計簿が、この一人息子にかかっていたからです。その事実の補足として「その母親はやもめ」で「町の人が大勢そばに付き添って」いたともあります。つまり、この母親はやもめで、身寄りのない捨てられた女のようになっていたのです。町の人が大勢付き添っていても、多数は泣き女であり、やもめの周りは悲しみが渦巻いていました。すると、13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」のです。 そして、14節「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた」のです。イエスさまは、この二言を言うために、一日強の時間を掛けて険しい上り坂を歩いて来られたのです。イエスさまは、やもめの痛々しい姿に心を痛め、深い同情を示されました。「憐れに思い」という言葉は、腸がちぎれるほどの痛みを持って、イエスさまが、この母親の痛みを共有されたことを意味します。中々できることではありませんが、そのあとの言葉「もう泣かなくともよい」と言うだけなら誰でも言えます。ただ、そのあとには「いつまでも、泣いていたって仕様がないじゃないか」と言葉を足すはずです。人は、これ以上の言葉をかけられないのです。しかし、イエスさまは、もう1つの言葉を持っておられました。イエスさまは、木製の担架のような「棺」に手を触れて言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。すると、15節「死人は起き上がってものを言い始めた」ので、イエスさまは「息子をその母親にお返しになった」のです。その時、16節「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった」と言った』のです。「大預言者」これは、聖書の旧約に出て来る偉大な預言者と呼ばれたエリヤや、今日、聖書で朗読されたエリヤの後継者エリシャの物語を読めば分かります。彼らの働きも、死者のよみがえりだったからです。ここで「恐れを抱き、神を賛美」した人々は、その物語を思い出したのでしょう。恐れというのは、勿論、畏れ敬う気持であるのは当然ですが、漢字が使い分けられているように、同時に、恐いという「恐れ」もあったに違いないのです。「神にできないことは何一つない」と言った受胎告知後のマリアの反応のように「神は何を為さるか分からない」そういう恐さがあるのです。それは、時に、私たちの驚きや感動となって、ここで人々が言ったように「神はその民を心にかけてくださったと」言うのです。それは「神は、その民を訪れてくださった」と言うのです。
自分のこととして、置き換えれば分かるはずです。死人が起き上がってものを言い始めるわけですから、畏怖の前に、正直、恐れが先に立ちます。今の時代は、非暴力が叫ばれていますが、聖書の物語でさえ、虐待や脅しを心に植えつけるので、教育上宜しくないという話しも聞きます。しかし、根本的に、神に対する畏れもそうですが、恐れを失えば、人間は、一体どこに向かうか行き先は明瞭です。人間は弱く愚かですが、何度も罪を冒し、何度も同じことを繰り返すのでしょうか。そうして、神の忍耐を試し、この世から見捨てられたような一やもめを愛した、神の腸がちぎれるほどの痛みを伴う、その愛を弄ぶのでしょうか。と言ったところで、実際は、そうなのかもしれません。それが人間なのかもしれません。ただ、今、終末、再臨が遅れていると言われて久しいですが、その理由が聖書に書いてあります。ペトロの手紙2、3章9節〜14節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」と。神は、一人でも多くの人々が悔い改め、立ち帰るように待っておられるのです。はっきり言って、自分が自分の罪のために滅ぼされてしまうと言うなら恐ろしいです。別に、神がそう仰り、そう為さると言われなくても、それは、自分の心が一番良く分かっていることです。私は、若い頃に神さまに怒られましたが、怒られて良かったと思っています。何度も同じことを繰り返せば、たとえ神が自分を赦してくださったとしても、おそらく自分が自分を赦せなくなったと思うからです。私が、今こうして、ここに立っているのは、神への恐れと、畏れと、感謝と、喜びがあるからです。また、聖書は、こうも言っているのです。ローマの信徒への手紙2章1節〜5節「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」と。だから、すべてが終わり、すべてが一新される、その終末、再臨が来る前に、自分の判断で、自分の決心で神を信じ、神に立ち帰り、神に従うのです。神の前に自らの力を捨て、降参し、降伏し、神の御腕に、乳飲み子のように委ねられる者となることを、神は求めておられるのです。
先週、一人の姉妹の病床を訪れました。歌が好きで、若い頃、聖歌隊をしていた彼女は、わたしの目に、白いシーツで覆われたベッドの上で器具を装着され、虚しく横たわっていたわけではありませんでした。力は大分失われ、呼吸は苦しそうでした。しかし、わたしの目に、彼女は、神の御腕の中に委ねられている者、それは、安心して自分を任せる神の子どもの姿に見えました。「わたしも、そうなりたい。すべての人が、そうなってほしい」と思いました。勿論「死の床に伏せろ」と言っているのではありません。自分の力を捨てて「神の御腕の中に委ねられた者となりたい、なってほしい」と思ったのです。詩篇131編2節3節に「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」とあります。イエスさまは、今日言われました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と。これは命令です。主の命令です。命令です。それなのに、未だうずくまっているのですか。若者は起きました。主の命令は、命を与えます。それは、先週の百人隊長の話しの中でも言った通りです。命令とは「命を与える言いつけ」と書くのです。そして、実に「命令」と言われなくても、この「命」そのものが、その一字が、命令という意味を持っていることに気づくのです。命は、口と命令の令の字で構成されているからです。また「命」は、叩くという漢字が入ってもいるのです。だから、神が試練を与え、命を叩き、火で精錬された金のように輝かせてくださるということでもあるのです。また、その命を叩く音は、心臓の鼓動ということでしょうか。もしかしたら、心臓の鼓動は、神が私たちの命に触れ、ドアを叩くように私たちの命にノックし、私たちと、いつまでも共にいてくださろうとしているのかもしれません。ただ、今日の物語の中で、死んだ一人息子の命にイエスさまがノックされたことは、確かな事実です。そして、実に、それは、ヨハネの黙示録でも言われているのです。3章20節「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と。
ところで、今日の説教は『生命を与える主イエス』と題しましたが「命」ではなく「生命」です。その通り、この死んだ一人息子は、起き上がりましたが、それは、生命としての命を回復した。つまり、よみがえりはよみがえりでも、蘇生としての蘇りに過ぎません。それでも、この死人の復活は、驚きを通り越していますが、神の御業は、こんなもんじゃないのです。蘇りではなく、甦り、それは、更に生まれると書いた甦りだからです。それは、罪と死に支配された生命ではなく、蘇生したとしても、やがては必ず死に至る生命ではなく、罪の赦しが与えられた永遠の命です。このように、神の怒りを受け、断罪されるしかない私たちの命は、その神の怒りを受け、断罪された救い主イエスさまによって贖われたのです。この主イエスの御言葉に聞き従い、この肉体が、ただの肉体となることがないように、やがては栄光に輝く復活の体となるように、健全な魂を宿す者となりましょう。
2023年11月26日
2023年11月26日 主日礼拝「生命を与える主イエス」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記
2023年12月3日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:ルカによる福音書1章5節〜25節
説教:「ザカリアへの御告げ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書1章5節〜25節、申命記32章48節〜52節
説 教:「ザカリアの不信仰」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:ルカによる福音書1章5節〜25節
説教:「ザカリアへの御告げ」
〇主日礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書1章5節〜25節、申命記32章48節〜52節
説 教:「ザカリアの不信仰」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 05:33| 日記
2023年11月19日
2023年11月19日 主日礼拝説教「主イエスの命令」大坪信章牧師
ルカによる福音書7章1節〜10節、申命記32章45〜47節
説 教 「主イエスの命令」
今日は「主イエスの命令」という説教題で、お話します。私たちは、年度の初めからルカ福音書を読み進めていますが、丁度、イエスさまの『平地の説教』と呼ばれる教えが一通り終わりました。そして、1節を見ると「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあります。イエスさまにとって、カファルナウムは、ペトロの姑の家がある町で、マタイ福音書では「自分の町」と説明されています。だから、イエスさまは、そこに帰って来られたと言ったほうが良いのかもしれません。そのカファルナウムは、イエスさまが、ガリラヤ地方で宣教する上で本拠地とされた町で、多くの奇跡が行なわれました。しかし、その町の人々は、結局、悔い改めず、イエスさまを信じませんでした。そこで、イエスさまは、10章15節で、その町について言われました。「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と。これは、私たち、教会に属する人々への戒めでもあります。教会は、イエスさまが、自分の町とされたということ以上に、パウロに言わしてみれば、御自分の体とされた場所「キリストの体なる教会」です。だから、教会に属する人々は、イエスさまのことを誰よりも近くに感じ、イエスさまの教えは誰よりもよく知り、その奇跡のことも驚きを持って聞いています。だから救われる。だから天にまで上げられると思っていますが、果たして、そうなのでしょうか。イエスさまの『平地の説教』の最後は、御言葉を聞くだけではなく、聞いて行なう者が「岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」でした。その家は、しっかり建ててあったので、不測の事態の時にも揺り動かされることはありませんでした。カファルナウムは交通の要衝で、シリアのダマスコからエジプトへ続く「海の道」と呼ばれる重要な道が通っていました。また、交易税を徴収する税関もあり、商業と漁業で栄えました。更には、会堂(シナゴーグ)が建てられ、人々の精神性は、決して低くはありませんでした。しかし、カファルナウムは、今、廃墟です。「海の道」には従っても「キリストの道」は従わなかったのです。
ところで、そのカファルナウムで、2節を見ると「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」のです。そこで、3節〜5節「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです』」とあります。ここに、百人隊長と、その「部下」が出てきます。この部下に関して知り得ることは、彼が「病気で死にかかっていた」ということです。そして、7節では「わたしの僕」と言われています。また、8節では「兵隊」と「部下」が使い分けられていることから、この部下は、百人隊長にとって厚い信頼を寄せる兵士ではなく、召し使いのような存在だったと考えられます。ただ、隊長レベルの人間が一召し使いの病気のことを、これ程までに気に掛けるというのは有り得ません。普通は使い捨てです。また、もう1つ有り得ないのが、このローマの百人隊長は、一召し使いの病気のことで「ユダヤ人の長老たちを使いにやった」ということです。もし、一兵士を使いにやれば、百人隊長は強制的、或いは、暴力的にイエスさまを従わせ、召し使いの病気を癒やさせるという結末が想像できますが、そうではありませんでした。更に有り得ないのが、ユダヤ人の長老たちは、いわゆる侵略者側の命令で使いに出されるので嫌々行くはずです。しかし、長老たちは、イエスさまのもとに来て「あの方は、そうしていただくのに(それは、部下を助けてもらうのに)ふさわしい(そういう資格や値打ちがある)人」だと「熱心に願った」のです。なぜなら、百人隊長はユダヤ人を愛し、自ら率先してユダヤ人のために会堂を建てたからです。その会堂は、4章でイエスさまが教え、汚れた悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出した、あの会堂だったのでしょうか。現在、廃墟のカファルナウムには、同じく廃墟の会堂が残っていますが、その土台部分は、イエスさまの時代に建てられた会堂跡だと言われています。このように、百人隊長が直接やって来たのではなく、使いの者がやって来たわけですが、イエスさまに向かって「熱心に願った」のは間違いありません。
そこで、6節7節「イエスは一緒に出かけられた」のです。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は、今度は「友達を使いにやって言わせた」のです。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と。百人隊長は、イエスさまが自分のもとに近づいた時、今度は、友達を使いにやってイエスさまに言わせました。1つは「あなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではなない」ということ。もう1つは「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思った」ということです。これは、先程、ユダヤ人の長老たちが、イエスさまに向かって熱心に願った中で言った、ふさわしい資格や値打ちが自分には無いと言ったのです。百人隊長が、最初からイエスさまのもとに赴かなかったのは、自分がユダヤ人ではなく異邦人だったから、或いは、民間人ではなく兵士だったからかもしれません。とは言え、彼は、ローマの軍隊の中では隊長級の位の高い人物で、一兵士(一兵隊)なんかではありませんでした。しかし、彼は、自分が位の高い存在だと分かっていても、それが果たして神と呼ばれる者を前にしても、そう言えるのか、と思うに至ったのでしょう。イエスさまが自分のもとにやって来ると考えれば、その「もとに」ということは、その「下(した)に」を意味するからです。つまり、自分の支配下や影響下に神に等しい方を入れることになるからです。
だから、百人隊長は、友達に言わせました。7節8節「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と。百人隊長は、イエスさまに、ご足労には及びません。「一言」それは「ただ、御言葉をください。」「そうすれば、わたしの僕は癒やされる」と言ったのです。百人隊長は、自分が持つ権威によって、自分の下にいる兵隊や部下に命令を下すことができました。その時、兵隊や部下が命令に逆らうなど以ての外で、命令通りに従うことを知っていました。しかし、百人隊長は、次のことも、よく心に留めていたのです。それは、自分が権威を持つ者だと言う前に、既に口にしています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが」と。これが、とても大事なのです。百人隊長が、どうして、ここまでの人格者で有り得たのかが、その一言で分かるのです。「わたしも権威の下に置かれている者です。」だから、百人隊長は、自分の上にいる千人隊長、総督、更に、その上の皇帝(カイザル)の権威に服していたわけです。ただ、それだけでは、百人隊長のような人格者であることは難しいと言えます。なぜなら、人間が血迷う時というのは、自分が権威の下に置かれている者という自覚が欠如している時だけではなく、その権威自体が誤っている時でもあるからです。その時、人間とは何と弱い者でしょう。素晴らしい能力、賜物を戴いていても、のぼせ上がって正常な判断力を失い、逆上して理性を失うのです。今回、初めて知りましたが、のぼせ上がるというのは、漢字では逆上すると書くようです。百人隊長は、権威の下に服さない者ではなく服す者でしたが、その権威を越えて神の権威の下に服する者だったのです。それが、百人隊長を、人格者を越えたところの、一人の純真な信仰者たらしめたのです。
これを聞いたイエスさまは、9節「感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われ」ました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。そして、10節を見ると「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になって」いました。こうして見ると、百人隊長の部下は癒やされて元気になりましたが、イエスさまが百人隊長の望む「ひと言」(命令)を下した事実はありません。ただ、この同じ物語が記された他の福音書の並行記事では、百人隊長が中風の病を患った僕について、また、王の役人は、死にかかっていた自分の息子について、直接イエスさまの下に行って事情を説明しています。そうして、それぞれイエスさまから言われた「ひと言」を信じて帰っていきました。そして、僕も息子も、それぞれ良くなったわけですが、それは、イエスさまから「ひと言」が発せられた、その時だったことが強調されています。しかし、このルカ福音書では、イエスさまの「ひと言」が、使いに行った人たちに託されることはなく、ただ、群集の方を振り向いて「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と「ひと言」言われただけでした。しかし、使いの者たちが百人隊長の下に帰ると、既に、その僕は癒やされていたのです。だから、ルカ福音書においては、イエスさま御自身が、神の言葉、神の「ひと言」であることが強調されていると言えます。要するに、私たちがイエスさまを信じるなら、その御言葉に聞き従う必要があるのです。また、私たちが御言葉に聞き従うなら、イエスさまの権威の下に服する必要があるのです。なぜなら『主イエスの命令』は神の命令であり、私たちに命の希望、それも永遠の命の希望を約束するからです。現に、命令とは、文字を見ても、命を与える言いつけと書きます。私たちの主イエスさまは、父なる神の権威に服し、十字架の道を厭われませんでした。そして、最後は「成し遂げられた」(ヨハネ福音書19章30節)と言って、十字架の贖いの死という任務を完了し、息を引き取られました。そして、その3日目の朝に復活されました。だから、私たちも主の権威の下に置かれた者として、その御言葉の権威が与える希望を信じる者でありたいと思います。
説 教 「主イエスの命令」
今日は「主イエスの命令」という説教題で、お話します。私たちは、年度の初めからルカ福音書を読み進めていますが、丁度、イエスさまの『平地の説教』と呼ばれる教えが一通り終わりました。そして、1節を見ると「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」とあります。イエスさまにとって、カファルナウムは、ペトロの姑の家がある町で、マタイ福音書では「自分の町」と説明されています。だから、イエスさまは、そこに帰って来られたと言ったほうが良いのかもしれません。そのカファルナウムは、イエスさまが、ガリラヤ地方で宣教する上で本拠地とされた町で、多くの奇跡が行なわれました。しかし、その町の人々は、結局、悔い改めず、イエスさまを信じませんでした。そこで、イエスさまは、10章15節で、その町について言われました。「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と。これは、私たち、教会に属する人々への戒めでもあります。教会は、イエスさまが、自分の町とされたということ以上に、パウロに言わしてみれば、御自分の体とされた場所「キリストの体なる教会」です。だから、教会に属する人々は、イエスさまのことを誰よりも近くに感じ、イエスさまの教えは誰よりもよく知り、その奇跡のことも驚きを持って聞いています。だから救われる。だから天にまで上げられると思っていますが、果たして、そうなのでしょうか。イエスさまの『平地の説教』の最後は、御言葉を聞くだけではなく、聞いて行なう者が「岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている」でした。その家は、しっかり建ててあったので、不測の事態の時にも揺り動かされることはありませんでした。カファルナウムは交通の要衝で、シリアのダマスコからエジプトへ続く「海の道」と呼ばれる重要な道が通っていました。また、交易税を徴収する税関もあり、商業と漁業で栄えました。更には、会堂(シナゴーグ)が建てられ、人々の精神性は、決して低くはありませんでした。しかし、カファルナウムは、今、廃墟です。「海の道」には従っても「キリストの道」は従わなかったのです。
ところで、そのカファルナウムで、2節を見ると「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」のです。そこで、3節〜5節「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです』」とあります。ここに、百人隊長と、その「部下」が出てきます。この部下に関して知り得ることは、彼が「病気で死にかかっていた」ということです。そして、7節では「わたしの僕」と言われています。また、8節では「兵隊」と「部下」が使い分けられていることから、この部下は、百人隊長にとって厚い信頼を寄せる兵士ではなく、召し使いのような存在だったと考えられます。ただ、隊長レベルの人間が一召し使いの病気のことを、これ程までに気に掛けるというのは有り得ません。普通は使い捨てです。また、もう1つ有り得ないのが、このローマの百人隊長は、一召し使いの病気のことで「ユダヤ人の長老たちを使いにやった」ということです。もし、一兵士を使いにやれば、百人隊長は強制的、或いは、暴力的にイエスさまを従わせ、召し使いの病気を癒やさせるという結末が想像できますが、そうではありませんでした。更に有り得ないのが、ユダヤ人の長老たちは、いわゆる侵略者側の命令で使いに出されるので嫌々行くはずです。しかし、長老たちは、イエスさまのもとに来て「あの方は、そうしていただくのに(それは、部下を助けてもらうのに)ふさわしい(そういう資格や値打ちがある)人」だと「熱心に願った」のです。なぜなら、百人隊長はユダヤ人を愛し、自ら率先してユダヤ人のために会堂を建てたからです。その会堂は、4章でイエスさまが教え、汚れた悪霊に取りつかれた男から悪霊を追い出した、あの会堂だったのでしょうか。現在、廃墟のカファルナウムには、同じく廃墟の会堂が残っていますが、その土台部分は、イエスさまの時代に建てられた会堂跡だと言われています。このように、百人隊長が直接やって来たのではなく、使いの者がやって来たわけですが、イエスさまに向かって「熱心に願った」のは間違いありません。
そこで、6節7節「イエスは一緒に出かけられた」のです。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は、今度は「友達を使いにやって言わせた」のです。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と。百人隊長は、イエスさまが自分のもとに近づいた時、今度は、友達を使いにやってイエスさまに言わせました。1つは「あなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではなない」ということ。もう1つは「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思った」ということです。これは、先程、ユダヤ人の長老たちが、イエスさまに向かって熱心に願った中で言った、ふさわしい資格や値打ちが自分には無いと言ったのです。百人隊長が、最初からイエスさまのもとに赴かなかったのは、自分がユダヤ人ではなく異邦人だったから、或いは、民間人ではなく兵士だったからかもしれません。とは言え、彼は、ローマの軍隊の中では隊長級の位の高い人物で、一兵士(一兵隊)なんかではありませんでした。しかし、彼は、自分が位の高い存在だと分かっていても、それが果たして神と呼ばれる者を前にしても、そう言えるのか、と思うに至ったのでしょう。イエスさまが自分のもとにやって来ると考えれば、その「もとに」ということは、その「下(した)に」を意味するからです。つまり、自分の支配下や影響下に神に等しい方を入れることになるからです。
だから、百人隊長は、友達に言わせました。7節8節「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」と。百人隊長は、イエスさまに、ご足労には及びません。「一言」それは「ただ、御言葉をください。」「そうすれば、わたしの僕は癒やされる」と言ったのです。百人隊長は、自分が持つ権威によって、自分の下にいる兵隊や部下に命令を下すことができました。その時、兵隊や部下が命令に逆らうなど以ての外で、命令通りに従うことを知っていました。しかし、百人隊長は、次のことも、よく心に留めていたのです。それは、自分が権威を持つ者だと言う前に、既に口にしています。「わたしも権威の下に置かれている者ですが」と。これが、とても大事なのです。百人隊長が、どうして、ここまでの人格者で有り得たのかが、その一言で分かるのです。「わたしも権威の下に置かれている者です。」だから、百人隊長は、自分の上にいる千人隊長、総督、更に、その上の皇帝(カイザル)の権威に服していたわけです。ただ、それだけでは、百人隊長のような人格者であることは難しいと言えます。なぜなら、人間が血迷う時というのは、自分が権威の下に置かれている者という自覚が欠如している時だけではなく、その権威自体が誤っている時でもあるからです。その時、人間とは何と弱い者でしょう。素晴らしい能力、賜物を戴いていても、のぼせ上がって正常な判断力を失い、逆上して理性を失うのです。今回、初めて知りましたが、のぼせ上がるというのは、漢字では逆上すると書くようです。百人隊長は、権威の下に服さない者ではなく服す者でしたが、その権威を越えて神の権威の下に服する者だったのです。それが、百人隊長を、人格者を越えたところの、一人の純真な信仰者たらしめたのです。
これを聞いたイエスさまは、9節「感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われ」ました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。そして、10節を見ると「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になって」いました。こうして見ると、百人隊長の部下は癒やされて元気になりましたが、イエスさまが百人隊長の望む「ひと言」(命令)を下した事実はありません。ただ、この同じ物語が記された他の福音書の並行記事では、百人隊長が中風の病を患った僕について、また、王の役人は、死にかかっていた自分の息子について、直接イエスさまの下に行って事情を説明しています。そうして、それぞれイエスさまから言われた「ひと言」を信じて帰っていきました。そして、僕も息子も、それぞれ良くなったわけですが、それは、イエスさまから「ひと言」が発せられた、その時だったことが強調されています。しかし、このルカ福音書では、イエスさまの「ひと言」が、使いに行った人たちに託されることはなく、ただ、群集の方を振り向いて「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と「ひと言」言われただけでした。しかし、使いの者たちが百人隊長の下に帰ると、既に、その僕は癒やされていたのです。だから、ルカ福音書においては、イエスさま御自身が、神の言葉、神の「ひと言」であることが強調されていると言えます。要するに、私たちがイエスさまを信じるなら、その御言葉に聞き従う必要があるのです。また、私たちが御言葉に聞き従うなら、イエスさまの権威の下に服する必要があるのです。なぜなら『主イエスの命令』は神の命令であり、私たちに命の希望、それも永遠の命の希望を約束するからです。現に、命令とは、文字を見ても、命を与える言いつけと書きます。私たちの主イエスさまは、父なる神の権威に服し、十字架の道を厭われませんでした。そして、最後は「成し遂げられた」(ヨハネ福音書19章30節)と言って、十字架の贖いの死という任務を完了し、息を引き取られました。そして、その3日目の朝に復活されました。だから、私たちも主の権威の下に置かれた者として、その御言葉の権威が与える希望を信じる者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:14| 日記