2023年11月05日

2023年11月5日 主日礼拝説教「心からあふれ出ること」大坪信章牧師

ルカによる福音書6章43節〜49節、箴言4章20節〜27節    
説 教 「心からあふれ出ること」 

 今日で、6章が終わりますが、6章半ばから始まったイエスさまの『平地の説教』も終わります。振り返れば、その教えは『逆転の発想』(逆転の真理)でした。おそらく、その当時、その教えを聞いた人々は、度肝を抜かれたことでしょう。それは、私たちにも言えることです。イエスさまは、20節で「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われましたが、人は、それこそが不幸だと考えます。しかし、イエスさまは、24節で「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と言われましたが、人は、富み栄えることこそ、幸せの絶頂だと考えます。また、イエスさまは、27節で「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言われましたが、敵対者には、憎しみの感情が湧くものです。そして、38節では「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われましたが、与えれば、自分は明らかに損失を被るのです。だから、その御言葉を信じ、その御言葉に聞き従って生きるというのは、とても勇気のいることです。

 イエスさまは、この一連の説教を終えるに当たって、2つの譬えを話されました。それが『実を結ぶ木の譬え』と『家と土台の譬え』です。これらの譬えは、イエスさまの『平地の説教』の終わりの教えなので、単なる個の教えというだけではなく、イエスさまの全説教の結論にもなっています。現に、この2つの譬えは、マタイ福音書の『山上の説教』のほうでも、最後を締め括る教え、いわゆる、結論になっています。だから、この2つの譬えには、これまでの教え以上に、メッセージ性が強く表れていると言えます。それは、共通のメッセージ性です。ただ、この2つの譬えは、表現としては、それぞれ全く別物です。『実を結ぶ木の譬え』は、農場や農地を譬えの下地にしています。そして、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とあるように、言葉に重きが置かれています。しかし『家と土台の譬え』のほうは、町や村を譬えの下地にしています。そして、46節で「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」とあるように、行ないに重きが置かれています。このように、2つの譬えは、それぞれ表現の仕方に違いがありますが、強く表れているメッセージ性だけは、それぞれが同じ目的を果たしています。

 それでは、この2つの譬えのメッセージ性について、見ていきたいと思います。『実を結ぶ木の譬え』は、44節の「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という内容です。つまり、結果の如何が最大の焦点だということです。それで、43節では「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」と言われています。だから、それが、どんなに良い木に見えても、その木が悪い実を結べば、その木は悪い木です。逆に、どんなに悪い木に見えても、その木が良い実を結べば、その木は良い木です。良くも悪くも、その結果が物を言うのです。要するに、何事も結果次第なのです。このことについては『家と土台の譬え』のほうも同じです。その内容を『実を結ぶ木の譬え』と比較検討するため、44節の御言葉のように纏めると次のようになります。「家は、それぞれ、その建て方によって分かる。」つまり、この譬えも、結果の如何が最大の焦点だということです。だから、49節で、どんなに立派な家が建っているように見えても、洪水になって川の水が家に押し寄せた時、家が倒れれば、その家には問題があったのです。その結果が物語るのです。そして、その結果は、火を見るよりも明らかなのです。

 そうして、この2つの譬えは、一方が言葉に重きを置き、もう一方は行ないに重きを置きながら、それぞれが同じ目的としての結果に向かっています。だから、この2つの譬えは、ルカとマタイ双方の福音書で、どちらか一方が欠けたりせず、まるで、表裏一体の教えのようです。というより、一方の譬えは、言葉、もう一方の譬えは、行ないを扱っているので、そういう意味でも、2つの譬えは、切り離して考えることはできないとも言えます。これは、イエスさまが、律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられた時に言われた言葉に似ています。その時、イエスさまは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と言われました。また「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ福音書22章35節〜40節)と言われました。このように、愛が、一面的ではなく表裏一体の教えであるのと同じように、生き方も、決して一面的ではないのです。それは、表裏一体の教え、つまり、言葉と行ないです。言葉だけが立派だとか、行動だけが立派だというのは、生き方においては成立しないのです。言葉が立派なら、その人は行動も立派です。また、行動が立派なら、その人は言葉も立派です。だから、言葉が上品なのに、行動に品が無いということや、行動が上品なのに、言葉に品が無いということは、有り得ないのです。

 だから、イエスさまの仰る通りです。43節44節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」のです。ただ、イエスさまが、ここで、わざわざ挙げた木の具体例は「茨」と「野ばら」で、両方とも悪い木です。つまり、これが、私たちの罪の現実の姿なのです。しかし、イエスさまが、ここで重視されるのは「茨」や「野ばら」ではなく、むしろ「いちじくは採れないし」「ぶどうは集められない」という悲しみです。要するに、イエスさまは、私たちが「良い木」となり「良い実」を結び、「良い実」を採って集めたいと思っておられるのです。そこで、イエスさまは、この『実を結ぶ木の譬え』が言わんとすることを、更に詳しく説明するため、今度は『心の倉から良いものを出す、善い人の譬え』について話されました。45節「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と。この「善い人」というのは「良いもの」を心の倉の中に蓄える人です。その「良いもの」とは、イエスさまが、これまで話してこられた説教であり、教えであり御業です。或いは、聖書の旧約で、神が成された驚くべき御業の数々や、また、その出来事や救いの歴史でもあります。

 今この季節、丁度10月下旬から、動物たちは、冬眠するために、食糧を蓄えて準備しています。同じように、私たちも「良いもの」である御言葉や神の御業を心の倉に蓄えて、冬の時代に備えておく必要があります。こうして、45節「人の口は、心からあふれ出ることを語る」という御言葉が実現し、私たちは、自らの口で、良い知らせである福音を語るのです。心に秘めてあること、心に満ちあふれているものが、人の口を吐いて出てくるからです。だから、尚更、その心の中は「良いもの」で、あふれさせる必要があります。その御言葉や御業は、ただ知っているというのではなく、信じているということが大事です。ローマの信徒への手紙10章10節には「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」とあるからです。人は、心からあふれ出る、その自分が信じる言葉を語ることによって救われるのです。

 だから「良い木」になって「良い実」を結びたい人、つまり「善い人」として「良いものを入れた心の倉から良いものを出し」「心からあふれ出ること」を語りたい人は、神を呼び求めます。なぜなら「良いもの」は、自分の中には存在せず、この世の中を見渡しても無いからです。讃美歌21の386番にもあるように『良いものみな、神から来る』からです。詩編104篇21節も「若獅子は餌食を求めてほえ、神に食べ物を求める」と表現されています。イエスさまは、求める者には、神が聖霊を与えてくださるとも言われます。それは、求める者に必ず与えられる神の言葉、御言葉です。

 しかし、イエスさまは言われます。46節「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と。イエスさまは、私たちを愛し、罪と滅びの世界から救い出してくださる救い主です。だから、私たちの叫びを聞き、その願いに応えてくださる主、慈しみ深く、憐み深い方です。しかし、私たちは、その言葉を聞くだけで終わらせて、その御言葉が紡ぎ出す、神の救いの物語を始めようとも、生きようともしないのです。だから、イエスさまは言われます。47節以下「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と。昔、高校生の時、柔道の授業中、畳が敷かれた広間の真正面には、額が掲げられていました。そこには、次の言葉が記されていました。「言われる前にやる者、上の上、言われてやる者、中の中、言われてもやらない者、下の下」イエスさまは、私たちが、御言葉の教えや説教を聞いても、聞くだけで終わることを悲しまれます。私たちに与えられた最も良いものは福音です。それは、この暗くなりつつある時代に光を輝かせ、救いがどこにあるのかを指し示し、その救いの御名を誉め讃えさせてくれます。福音は、私たちの身代わりとなり、十字架に架かって死なれたイエスさまの十字架の出来事です。また、その死から3日目に復活され、私たちに新しい命の希望を与えた復活の出来事です。私たちは「心からあふれ出ることを語る」のです。この信仰と希望と愛の御言葉を語り、この御言葉を行なって生きる人になりましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記

2023年11月03日

2023年11月12日 礼拝予告

〇教会学校 10時30分〜の子ども祝福合同礼拝に合流します。
      通常の9時15分〜の礼拝はありません。

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:フィリピの信徒への手紙4章2節〜7節、詩編94篇19節
説 教:「思いわずらうな」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 19:50| 日記