フィリピの信徒への手紙4章2節〜7節、詩編94篇19節
説 教 「思いわずらうな」
今日は、子ども祝福合同礼拝です。今年から、礼拝後の祝福の祈りの時は、子どもたちの頭の上に手を置いて祈ります。これは、子どもたちの心と体に、そして、これからの人生に、神さまの祝福や愛が溢れることを願う儀式です。頭の上に手を置くのは、イエスさまが、子どもたちの上に手を置いてお祈りされたからです。皆さんの頭の上に、普段、誰かが手を置いたりしますか? 親戚の叔父さんに会えば「大きくなったな」と言われて、頭を撫でられるかもしれません。小さかった頃は「かわいいね」って、色んな人に頭を撫でられたと思います。それも全部、今日の祝福式の祝福と似ています。それは、その子のことを大切に思っているのです。皆さんも、赤ちゃんの頭を撫でたことがあるのではないでしょうか。それは、とっても素適なことです。
でも、テレビでは、人の頭の上に手を置くのではなく、人の頭を叩く人がいます。それは、とってもおかしいです。頭は叩くものではなく守るものです。地震の時、テーブルの下に隠れて、出てきたらヘルメットを被るのは、頭を守るためです。頭は、とっても大事なのです。頭がダメージを受けたら、元気でも体が動かなくなることもあります。だから、戦うスポーツでも、頭の後頭部は叩かないのがルールです。叩いたら、減点か反則負けです。だから、友だちとふざけ合っていても、頭は叩いてはいけません。自分がされたら嫌ですね。自分がされたら嫌なことは人にしない。これは、晴嵐小学校のお便りにも書いてありました。でも、聖書には、もっと凄いことが、それは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」って書いてあります。
ところで、今日の聖書のお話しには、叩いてはいないと思いますが、対立や言い合いをする人が出てきます。簡単に言えば口喧嘩です。もしかしたら、朝、口喧嘩してきた人がいるかもしれません。今日のお話の中で口喧嘩をしていたのは「エボディア」と「シンティケ」という2人の婦人です。2人は、ヨーロッパで最初に建てられたフィリピ教会のクリスチャンなのに、口喧嘩をしていたのです。でも、お互いに考えていることが違えば、誰でも分かり合えなくなることはあります。口喧嘩の次は、叩き合いになるかもしれません。今、世界で戦争が起こっていて、みんな「戦争反対」って言いますが、口喧嘩や叩き合うのも立派な戦争です。だから、それが分かっている人は、その代わりに、もう口も聞かなくなります。
それで、教会を建てたパウロは、口喧嘩をしている2人を、それぞれ傍に呼んで、宥めてお願いしたのです。頼むから「主において同じ思いを抱きなさい」って。パウロは「イエスさまの心を持ちなさい」と言ったのです。イエスさまの心というのは、自分のことしか考えない心ではなくて、相手の気持になって考えられる心です。それを、思いやりと言います。思いやりが無い人は、自分の気持ちを全部、相手に要求します。普通は、それで相手が嫌だと思っていることが分かったら、それ以上、自分の気持ちを押し付けたりはしません。それでも、自分の要求を押し通そうとする時、喧嘩になります。その時に、少しでも相手の気持ちを考えられたら、喧嘩には、ならないのです。だから、思いやりがある人は、相手に要求することがあっても、相手の気持ちを考えて、自分の要求を抑えられる人なのです。そうして、思いやりがあれば、お互いに考えていることが違っても、少しずつ歩み寄ることもできるのです。
イエスさまは、思いやりの塊の方でした。自分のことは全く考えませんでした。イエスさまは、父なる神さまのことと、私たち人間のことを考えてくださいました。イエスさまは、神さまと人間の、その、どちらの気持ちも、よく理解してくれたのです。だから、パウロは、口喧嘩をしていた「エボディア」と「シンティケ」の2人だけではなく、教会の他の人にもお願いしました。3節「真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです」と。パウロは「俺たちは、みんな仲間だから、2人の間に入って2人から話しを聴いて2人が仲直りできるようにしてくれ」って言っているみたいです。
先週、幼稚園では、子どもたちの絵画展が2日間ありました。子どもたちが描いた絵は、1つとして同じものはありませんでした。同じお題のものを書いても、どこかが、何かが違います。象さんの絵を描いても色々です。それは、みんな考えていることが違うからです。そしたら、子どもたちは、毎日、喧嘩ばかりしているのでしょうか。子どもたちは、仲良く楽しく遊んでいます。それは、先生たちが、子どもたちを支えているからです。だから、子どもたちは、自分のことだけではなく、他のお友達の気持ちも考えられる子どもに成長していきます。それなのに、大人が喧嘩していたら、子どもたちに笑われてしまいますね。笑わないかな、でも、とても心配します。
だから、パウロは言うのです。4節5節 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」と。「喜び」というのは、自分が満足して喜ぶことではありません。「主において」なので、イエスさまのように喜ぶのです。それは、自分ではなく、相手を喜ばせることです。人に何かをしてあげたら自分も嬉しくなります。でも、自分の要求を相手に押し付けても、相手は喜ばないし自分も嬉しくありません。更にパウロは「イエスさまが、もうすぐ戻って来る」と言います。みなさんは、イエスさまが戻って来た時に、喧嘩をしている姿を見てもらいたいですか。それとも、みんなで助け合って、喜び合っている姿を見てもらいたいですか。それが、パウロの言う「広い心」寛容です。寛容は、相手の気持ちを考えられる心、自分の気持ちと違う人の気持ちを認められる心のことです。それが、イエスさまの心です。
だから、パウロは言っています。6節7節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と。教会の中で、誰かが喧嘩を始めると、喧嘩をしていると、思いわずらってしまいます。心配してしまいます。これから、教会は、どうなるのだろうって。周りの人は、みんな嫌な気持ちや暗い気持ちになって、みんなの心が苦しくなります。もう教会は終わりだって思います。喧嘩をしている人たちは、みんな憎み合って死んでしまう。周りの人たちも、みんな、悲しい思いをして死んでしまう。もうめちゃめちゃだって思います。
でも、パウロは「思いわずらうな」心配するなって言うのです。神さまに、仲間がいることを感謝して、お祈りしようって言うのです。そうすれば、みんなの心と考えが、この世界の平和のために来てくれたイエスさまの心と考えに変わっていくよって言うのです。イエスさまの心は、相手の気持ちになって考えられる心、思いやりです。イエスさまは、その思いやりによって、私たちが罪にまみれて、暗い気持ちになって生きていくことが無いように、死んでいくことが無いように、私たちの罪の身代わりになって十字架に架かって死んだのです。人を愛するっていうのは、自分の気持ちを押し通すことではなくて、相手の気持ちに寄り添うことなのです。そのためには、自分の気持ちを抑えることも大事です。だから、聖書には「霊の結ぶ実は、愛であり」という言葉がありますが、その最後の実は「自制」です。自制とは、自分の気持ちを抑えることです。それも愛なのです。
別に、教会が大聖堂ではなくても良いのです。少しくらい不便なことがあっても良いのです。便利を求めたら切りがありません。それは律法です。「何々しなければならない」となるからみんな苦しくなります。そうではなくて、お互いに安心して、平和な気持ちで日曜日の朝を共に過ごせるだけで良いでしょ。聖書のお話しを聞いて、礼拝が終われば「元気だった? この前の日曜日、休んでいたけど、体の具合が悪かった? また、来週、元気で会おうね」って。それだけで良いでしょ。今年のクリスマスは、コーヒーブレイクの時間が戻ってきます。そこでは、お茶菓子を手に、そんな会話ができれば嬉しいです。そしたら「教会に来て良かったな」って思えます。「ああ、クリスマスだな」って思えます。
でも、若い頃は反抗期もあり「こうしろああしろ、何で俺が言ってんのにせえへんねん。あいつは生意気や。ふざけやがって」とか、そういう気持ちにもなるでしょう。でも、大人になって、それをやったら大人気ないです。自分のことしか考えられない。それが罪です。だから、私も18歳のクリスマスに「神さま、赦してください」って洗礼を受けて神学校に行ったのです。その日、牧師は、私の頭に手を置き「父と子と聖霊とのみ名によって、バプテスマ(洗礼)を授ける。アーメン」って祈ってくれました。牧師になった時も、先輩や仲間が私の頭に手を置き祈ってくれました。その時、イエスさまの愛や仲間の愛が、心と体に染み渡りました。それも祝福でした。
今日、子どもたちの上に、また、大人の人たちの上にも、イエスさまの十字架の愛が豊かに注がれています。だから、自分のことばかり考えないで、相手の気持ちになって考えられるイエスさまの心を、自分の心の中に持って、生きていきましょう。
2023年11月12日
2023年11月12日 主日礼拝説教「思いわずらうな」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:06| 日記