2023年12月31日

2024年12月31日 主日礼拝「来るべき方」大坪信章牧師

ルカによる福音書7章18節〜35節、イザヤ書40章3節〜11節                 
説 教 「来るべき方」
 
 2023年の年が今日で終わります。そう思うと、まるで走馬灯のように、この一年の教会と幼稚園の色んな出来事が思い返され、感謝の思いでいっぱいになります。まず、神さまの大いなる導きに感謝です。また、多くの人々の愛と配慮に感謝です。そして、教会の仲間と共に、喜びの時も悲しみの時も、それを分かち合えたことに感謝です。本当に色んな出来事がありました。でも、最後は、やっぱり、クリスマスを迎えられたことが、それこそ天使の告げた通り「大きな喜び」(2章10節)でした。今や待降節アドベントの期間は満ち、待ち望んだイエスさま誕生の日を迎えました。けれども、深い意味では、まだアドベントは続いています。私たちは、イエスさまの再臨の日を待ち望んでいるからです。その日イエスさまは、栄光に輝く御姿で私たちのもとへ来られます。私たちは、その日が来るのを、イエスさまの遺言通り「互いに愛し合い」(ヨハネ福音書15章17節)ながら、待ち望みたいと思います。

 ところで、クリスマスの日、この世と世の多くの人々は、イエスさまを受け入れませんでした。イエスさまは、家畜小屋の飼い葉桶へ追いやられました。ただ、飼い葉桶の中の救い主は「しるし」(2章12節)であって、それは、十字架のしるしでした。このように、イエスさまは、私たちの罪のために十字架に架かって死に、私たちを罪と滅びから救ってくださる方なのです。この救い主像は、キリストの教会やクリスチャンの間では周知の事実です。また、救いを求めて教会に来られる人々も、直に、そのことを理解します。しかし、未だ、この世の多くの人々にとっては、受け入れ難く信じ難いことでもあります。特に宗教学者である律法学者やファリサイ派は、イエスさまへの妬みもあって、イエスさまを受け入れません。そして何と、イエスさまの誕生6か月前に、イエスさまの先駆者として生まれたヨハネも、イエスさまに疑いを抱いたのです。ヨハネは、イエスさまが神の子・救い主として、公けに世に現れる直前に現れました。そして、旧約で預言されていた「荒れ野で叫ぶ者の声」(3章4節)として、先駆者の使命を果たすために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、ヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる」「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3章16節)と言って、イエスさまが救い主であると証ししました。その後ヨハネは、当時ガリラヤとペレアの領主だったヘロデ王の息子、ヘロデ・アンティパスの悪事を責めたため、牢に幽閉されてしまいました。

 ですから、18節で「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」というのは、牢に幽閉されていたヨハネに知らせたということなのです。ヨハネの弟子たちが知らせた「これらすべてのこと」とは、狭義的に、この物語の前で、イエスさまが、やもめの息子を生き返らせたことです。しかし、広義的には、イエスさまが公けに現れてから、これまでに為さった、すべての働き(業)を意味しています。要するに、死者の蘇りを含む、病人の癒しや悪霊の追い出し、体の不自由な人々の癒しです。そこで、18節19節を見ると「ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた」のです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。この疑問の言葉に表れているように、ヨハネは、救い主イエスさまの働き(業)に戸惑っています。その疑問を、ヨハネの弟子たちから聞いたイエスさまは、その時、正に、21節にある通り「病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた」のです。それでイエスさまは、ヨハネの2人の弟子に、こうお答えになりました。22節23節「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と。イエスさまは、偽のメシア(救い主)がするように、自らメシアであると名乗らず、客観的事実によって、ヨハネの疑問への答えとしました。このような救い主像は、聖書の旧約の預言書であるイザヤ書の中で取り扱われています。ヨハネは、旧約最後の預言者であり、預言者を代表する預言者です。そのヨハネが、この救い主像を知らないはずがありません。知っていたからこそ、ヨハネは、荒れ野で「わたしよりも優れた方が来られる」「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3章16節)と叫んだのです。その「火」とは、罪人を焼き尽くす火ではなく、罪を焼き尽くす火です。なぜなら、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(3章3節)からです。また「ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」(3章18節)からです。もし、その「火」が裁きの火なら、人間が幾ら悔い改めたところで、裁きに堪えられる人間は一人もいません。つまり、誰一人救われないのです。だから、ヨハネは、悔い改めて福音を信じる人々が次々に起こされていた現状に戸惑ったのではないのです。ヨハネ自身、イエスさまが「麦を集めて倉に入れる」(3章17節)と言っています。だから、むしろ悔い改めず、イエスさまの働き(業)を信じない反対者や異邦人(ローマ帝国の人間)たちが、一向に裁かれない現状に戸惑ったのです。ヨハネ自身、イエスさまが「殻を消えることのない火で焼き払われる」(3章17節)とも言っているからです。

 こうして、ヨハネの使いが去った後、イエスさまは、群衆に向かってヨハネの偉大さについて話し始められたのです。24節〜27節「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と。ヨハネは「風にそよぐ葦か」と言われています。これは、ゆらゆらと揺れて、はっきりしない人間の譬えです。しかし、ヨハネは、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、領主ヘロデにしたように、悔い改めない人々の罪を容赦なく責めました。また、彼は「しなやかな服を着た人か」と言われています。しかし、そんな人は、宮殿にはいても荒れ野にはいません。ヨハネは、マルコ福音書によれば「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」(1章6節)と記されています。更に、ヨハネは「預言者か」と言われています。それは図星でした。しかし、その予想を超えて「預言者以上の者である」と言われています。イエスさまは、旧約のマラキ書3章1節の御言葉を引用し、ヨハネこそ、預言されていた救い主の先駆者だと言われました。その上、28節に至っては「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」とまで賛辞を送りました。これ以上の誉め言葉はありません。しかし、イエスさまは、最後の最後で言われたのです。「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と。なぜなら、ヨハネは、悔い改めの洗礼を授け、悔い改めの救いを宣べ伝えました。しかし、28節「神の国で最も小さな者でも」イエスさまから「聖霊と火」で洗礼を受け、罪の赦しの救いを与えられるからです。悔い改めは、人間の側からの神への働きかけなので、完全ではありません。しかし、罪の赦しは、神の側からの人間への働きかけなので、完全なのです。いずれにしろ、29節で言われているように「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。」つまり、民衆や徴税人は、ヨハネが宣べ伝えた悔い改めを受け入れ、神の救いの御計画の正しさを認めたのです。しかし、30節で言われているように「ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。つまり、彼らは悔い改めなかったのです。そして、この、それぞれの態度は『来るべき方』に対しても、全く同じだったのです。

 そこで、イエスさまは言われました。31節32節「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった』」と。当時、こういう遊びが子どもたちの間で流行っていたようです。結婚式ごっこと葬式ごっこです。後者は、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、子どもたちは、大人がしていることを、とにかく真似するのが大好きです。最初の赴任地では、日曜日の大人の礼拝が終わった午後になると、朝、教会学校に来た子どもたちが、もう一度、教会に遊びに来ることが、多々ありました。そして、それは一時期でしたが、何をするかと言えば、礼拝ごっこです。司式者役の子が聖書を朗読し、奏楽者役の子までいて、奏楽者役の子は、そのために一曲、片手でメロディーを覚えて弾いていました。そして、司式者役が牧師役も兼ねて短いお話をして、献金当番役がいて、その後、礼拝が終わるという、そんな楽しい思い出がよみがえってきます。ただ、イエスさまの言う「今の時代の人たち」に譬えられた結婚式ごっこと葬式ごっこは「互いに呼びかけ」は、するものの、どちらも一方通行だったのです。確かに、葬式ごっこのグループが、結婚式ごっこのグループに葬式の歌を歌っても泣いてくれないのは目に見えています。また、その逆も然りで、結婚式ごっこのグループが、葬式ごっこのグループに向かって笛を吹いても、まず踊ってはくれません。要するに、イエスさまの言われる「今の時代の人たち」は、相手の要求を受け入れず、自分の要求ばかりを相手に押し付ける人たち、ということなのです。だから、33節にあるように「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と」言うのです。ヨハネは、悔い改めの救いを宣べ伝えて、自らは、悔い改めの生活をしているのです。しかし、それを見て、そこまでやるのは気違いだと言って受け入れないのです。また、34節にあるように「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と」言うのです。イエスさまは、罪の赦しの福音を宣べ伝えておられるのです。それなのに、その喜びを削ぐように、節度をわきまえないとか、罪人の仲間だと言って受け入れないのです。要するに、そういう人は『来るべき方』が来ても、そして、何をしても、何を呼び掛けても、最初から受け入れるつもりも信じるつもりもないのです。結局、誰が来ても受け入れないのです。信じないのです。

 この前、YouTubeを見ていたら、ミュージシャンが嘆いている映像がありました。その歌手は言うのです。「聴衆から、こんな曲を作ってほしいとか、こんな歌詞を書いてほしいと言われるのが辛い」と。また、このようなことも言っていました。「自分たちには音楽の方向性があり、テーマがあり、それを日々、形にしているのだから、ファンである皆さんには、それを聞いて受け止めてほしい」と。更に「自分たちがやっている音楽を否定して、それとは違った何かを要求してくるのがファンなのだろうか。自分たちがやっている音楽を応援してくれて、受け入れてくれるのがファンなのではないか」と。それを聞いて、今日の物語で、イエスさまが「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われた意味が分かった気がしたのです。例えば、よく訓練されたレスキュー隊が要救助者を救い出そうとしているのに「いや、そのやり方では、人は救えないですよ。もっとこうしたほうが良い」とは、どの口が言っているのかということです。だから、クリスマスに生まれたイエスさまこそが『来るべき方』なのです。そして、その十字架のしるしが、私たちを罪と滅びから救うのです。イエスさまは言われます。35節「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と。聖書は言っています。「神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(ローマ書11章33節)その深い御計画は、それを信じる者によって証明されるのです。私たちは、今、その救いを喜び賛美しています。それが答えです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記

2024年1月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:テモテへの手紙1、1章12節〜17節
説教:「罪人の最たる者」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:コリントの信徒への手紙2、12章1節〜10節、出エジプト記4章10節〜17節
説 教:「弱さを誇る」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:57| 日記

2024年1月1日 礼拝予告

〇主日礼拝 11時00分〜
聖 書:エフェソの信徒への手紙4章25節〜5章2節
説 教: 「神に倣う者」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:54| 日記