2024年03月31日

2024年3月31日 主日礼拝「復活の主を伝えよう」大坪信章牧師

ヨハネによる福音書20章11節〜18節、イザヤ書52章7節〜10節 
「復活の主を伝えよう」     

 40日間に亘った長い受難節レント四旬節の期間、そして、先週の棕櫚の主日から始まった受難週は、この日をもって満ちました。その間、教会では、水曜日の受難週祈祷会、その翌日の洗足木曜日礼拝、そして、金曜日の受難日祈祷会を守りました。今日は、その金曜日に、イエスさまが十字架に架けられ、死んで葬られてから3日目の日曜日の朝、イースターです。この日イエスさまは復活されました。レントの期間、共に苦難を分かち合って来た仲間と迎える、この日の朝は、とても感慨深いです。この主が復活された日曜日は、のちに、キリスト教の安息日と呼ばれるようになります。この日曜日の過ごし方は、ものすごく大事です。それは、週の初めの日だからです。初めに何があるか、で、終わりも決まります。聖書は「初めに言があった」(ヨハネ福音書1章1節)と言っています。安息は、息が安らかと書きますが、これは、私たちが神のもとに帰り、神を礼拝し、神の御言葉に聞き従う状態のことを言うのです。

 けれども、その週の初めの日の朝に、マリアが、11節「墓の外に立って泣いていた」と言うのです。このマリアは、かつて7つの悪霊に取りつかれ、苦しめられたマグダラのマリアです。彼女は、イエスさまによって癒され、イエスさまに従いました。しかし、そのイエスさまを、3日前の金曜日、午後3時に十字架上で失ったのです。その後まもない夕方からは、ユダヤが安息日と定めた土曜日が始まります。だから、アリマタヤのヨセフとニコデモが来て、イエスさまを急いで十字架から下ろし、園にある墓に葬ったのです。そのため、マリアは、イエスさまのご遺体に十分なことが何もできず、それで、安息日が終わった日曜日の朝、イエスさまのご遺体に塗るための香油を持って墓に来たのです。それなのに、その墓は開き、イエスさまのご遺体が無かったので、マリアは、墓の外に立って泣いていたのです。マリアは、愛する人を失った喪失感に続き、イエスさまのご遺体までをも喪失した悲しみ暮れていたのです。

 悪い夢でも見ていると思ったのでしょう。マリアは、再度、11節「泣きながら身をかがめて墓の中を」見ると、12節「遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が」「一人は頭の方に、もう一人は足の方に座って」いて、言いました。13節「婦人よ、なぜ泣いているのか」と。そこでマリアは、不思議と天使の存在を恐れず答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と。そう言いながら、14節「後ろを振り向くと」イエスさまの「立っておられるのが見えた」のです。しかし、それがイエスさまだとは分かりませんでした。「後ろを振り向く」というのは、単なる動作の場合は、そうでもないですが、一般的には、後ろ髪を引かれるようなマイナス言葉です。けれども、この場合、全く逆でした。マリアは、既に墓のほうを、それは、後ろを振り向いていたからです。マリアの心は、後ろ、それは、過ぎ去った過去としての墓の中で死にかけています。

 私たちには、生きていく上で、断ち切る必要のあることが少なからずあります。また、未練が残っていても、前に進まなければならないことが往々にしてあります。ただ、自分の力では、どうにもできないのです。けれども、私たちは、自分の力が及ばなくなった、その所で、神の力に与るのです。ここで、墓の中にいた天使の役割が引き立ちます。天使の大きな役割は、神の臨在を示すことと、御言葉を伝えるということです。実質、墓の中で、絶望の果てに死にかけているマリアに、天使たちは、御言葉を伝えました。2人の天使は、それぞれイエスさまの頭と足のほうに居ました。それは、彼らが語る御言葉が、イエスさまの言葉だったということです。天使たちは「婦人よ、なぜ、泣いているのか」と言いました。実際この言葉を本当の意味で言えるのは、復活の主であるイエスさまだけだからです。共観福音書によれば、天使たちは、イエスさまが「復活なさった」と、婦人たちに復活の主を伝えています。

 そして、その御言葉は、次に実体を持ってマリアの後ろ、それは、過去ではなく現実からも迫って来ました。その只ならぬ気配を感じたのか、或いは、命の息遣いを感じたのか、マリアが振り向くと、そこにイエスさまが立っていて、言われました。15節「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と。しかし、マリアは、イエスさまを「園丁(園の管理人)だと思って」答えました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と。涙がにじんでイエスさまが見えなかったと言うより、人は思い込みによって、目が開いていても本質が全く見えなかったり見間違えるということがあります。しかし、イエスさまが「マリア」と言った時、16節「彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』(先生)」と言いました。この時、彼女が振り向いたのは2回目です。ということは、一旦イエスさまの方を振り向いて、園丁だと思って話した直後、再び墓のほうに向き直り、闇と絶望に囚われていたと考えるのが自然です。しかし、そのマリアを振り向かせたのは、イエスさまでした。それは、まるで、11章の『ラザロの物語』のようです。死んで葬られ、4日も経ったラザロの墓の前で、イエスさまは、大声で叫ばれたからです。「ラザロ、出て来なさい」(43節)と。すると、ラザロは「手と足を布で巻かれたまま」「顔は覆いで包まれて」出て来ました。

 ラザロもマリアも、イエスさまに名を呼ばれました。マリアは、どうして園丁が私の名を知っているのだろうと思ったのかもしれませんが、それよりも、その声と言葉に聞き覚えがあったから振り向いたのでしょう。その先には、マリアが向かなければならない現実・未来がありました。そこは、ただでさえ、緑の木々や花などの植物が、生命力に満ち溢れていた園でした。復活の主は、そこからマリアを招かれました。マリアが見ても信じないので、聞いて信じるように御言葉によって招かれました。冒頭で、聖書は「初めに、言があった」と言っていると言いました。そのあとは、こう続きます。「言は神と共にあった。言は神であった」更に、その「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と。「言」とは、イエスさまのことです。だから、この文章を短縮すれば「イエスさまの言葉の内には、暗闇に打ち勝つ、人間を照らす光があった」となるのです。

 だから、マリアは、咄嗟にイエスさまに縋りついたのでしょう。しかし、イエスさまは言われました。17節「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と。要するに、イエスさまは、復活後40日目に父なる神のもとへ昇天されます。また、いずれ私たちも、父なる神のもとへ帰ります。その時、私たちは、心ゆくまでイエスさまに縋りつけます。しかし、今は、まだ、私たちが肉の束縛から解き放たれていないのです。だからと言って落ち込む必要はありません。イエスさまは、マリアに言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。この言葉は、イエスさまだけではなく、私たちの命もまた、天へと続いているということを証ししています。だから、御言葉は、希望以外の何ものでもない言葉なのです。そこで、18節「マリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」のです。主を見たということは、主の復活が事実だということの証明として伝えることは大切です。けれども、それだけでは不十分です。なぜなら、復活の主は、復活後40日目に昇天され、私たちの目には見えなくなるからです。だから、マリアは「主から言われたこと」も伝えたのです。要するに、復活の主を伝えるというのは、主の御言葉を宣べ伝えるということなのです。その御言葉の内には命があり、その命とは、人間を照らし、闇に打ち勝つ希望の光なのです。それなのに「なぜ、泣いているのか」私たちは、今日より始まる復活節を、いつも、どんな時も、未来を振り返り、復活の主の、希望の御言葉を伝える者となりましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記

2024年03月28日

2024年4月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書3章1節〜12節
説教:「洗礼者ヨハネ」

〇主日礼拝 10時30分〜 
聖 書:ヨハネによる福音書20章19節〜23節、エゼキエル書37章11節〜14節
説 教:「恐れは平和へと変わる」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:28| 日記

2024年03月24日

2024年3月24日 主日合同礼拝「十字架の主イエスの叫び」大坪信章牧師

マタイによる福音書27章45節〜54節、詩編22篇1節〜9節
「十字架の主イエスの叫び」

 今、教会では、イエスさまが、たくさんの苦しみを受け、十字架に架かって死ぬという、聖書の受難物語を読んでいます。そして、今日は、そのイエスさまの最後の1週間が始まる日曜日なのです。その日イエスさまは、子ろばに乗ってエルサレムの都の東の城門から入城されました。石山教会も東に門があるので、この教会をエルサレムの都と考えると、イエスさまは、子ろばに乗って、石山教会の門から、この礼拝堂へと入って来たことになります。その時、エルサレムの都の東の城門に集まっていた群衆は、ヤシの木の仲間である棕櫚の木やナツメヤシの木の枝葉を道に敷き、旗のように振りました。その棕櫚の木やナツメヤシの木は、南国の木をイメージすると分かります。葉っぱが上の方にだけ付いている木です。葉っぱは、手の平のような形をしていて、手の平の10倍くらいの大きさです。また、メタセコイアの木の細長いゲジゲジの小さな葉っぱを10倍にしたくらいの大きさです。群衆は、その枝葉を道に敷き、旗のように振り、神を賛美したのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(21章9節)と。「ホサナ」は「救いがあるように」という意味です。そうやって、群衆は、イエスさまのことを、自分たちを敵から救ってくださるイスラエルの王として歓迎したのです。

 その日曜日から5日目の金曜日、群衆は、急に態度をコロッと変えて、今度は、イエスさまを「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫んだのです。それで、イエスさまは、手足を釘で打たれ十字架につけられました。だから、今日の日曜日から数えて5日目の金曜日は、イエスさまの十字架の死を記念する日です。イエスさまは、その金曜日の午前9時に十字架につけられました。そして「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで」(45節)続き「三時ごろ」イエスさまは「大声で叫ばれた」のです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)という意味の言葉でした。イエスさまは「エリ、エリ」と叫びましたが、それは、ヘブライ語で「神さま、神さま」と叫んだのです。でも、そこにいた人たちの中には、イエスさまが、預言者の「エリヤ、エリヤ」と叫んだと思った人もいたようです。(47節)おそらく、イエスさまは、苦しくて喉や口がカラカラに乾き、言葉がもつれたのでしょう。だから、そこにいた人の一人が「海綿に酸いぶどう酒を含ませ」たのです。これは、ローマの兵士がスポンジのようなものに、自分たちが飲んでいた安物のワインを含ませたのです。そして、それを「葦の棒に付けて」それは、固い草の棒の先に付けて、それを、イエスさまの渇いている口元に伸ばして「飲ませようとした」のです。(48節) でも、他の人たちは「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったのです。(49節)

 しかし、イエスさまは「再び大声で叫び、息を引き取られ」ました。(50節)すると、その時3つの不思議なことが起こりました。1つは「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。2つ目は「地震が起こり、岩が裂け」(51節)ました。そして、3つ目は「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」(52節)のです。その時に生き返った人たちは、イエスさまが復活された後「墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(53節)のです。このすべての出来事を、すぐ傍で見ていたローマの百人隊長や見張り役をしていた人たちは、非常に恐れて「本当に、この人は神の子だった」(54節)と言ったのです。皆さんは、この物語を聞いて、どう思いましたか。百人隊長や見張り役の人たちのように「本当に、この人は神の子だった」と思いましたか。思えませんか。思えないかもしれませんね。だってイエスさまは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫んでいますからね。だから、イエスさまは、神さまから見捨てられた人だと思うかもしれません。でも、本当に、神さまから見捨てられるような悪いことをしていたら、そんなふうに言うでしょうか。もし、本当に悪いことをした人なら「痛い、痛い、死にたくない、死にたくない」と叫ぶか「悪いことをしたのだからしょうがない」と口籠るのではないでしょうか。

 イエスさまは、十字架の上で叫びましたが、適当に叫んだのではないのです。イエスさまは、聖書の旧約の詩編22篇の中にある祈りの言葉を叫んだのです。「神さま、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。その祈りは、神さまから見捨てられるようなことなど何もしていない人が、苦しめられて叫ぶ祈りでした。イエスさまも、今、何も悪いことなどしていないのに、神さまから見捨てられようとしています。それは、全世界すべての人たちの十字架である罪を背負っておられるからです。罪の中に生きている人は、みんな神さまから見捨てられます。たとえ、誰かが見捨てても、他の誰かは見捨てないと思うかもしれません。でも、神さまに見捨てられるというのは、完全に見捨てられたという、ものすごく恐ろしいことなのです。先生は、神さまに見捨てられると思った時がありました。それは、普通に元気に生きていたのですが、神さまから離れそうになった時でした。イメージで言うと、暗闇の中で、自分が、どんどん小さくなり、最後は芥子粒のようになって、パッと消える、そんなイメージでした。神から見捨てられるというのは、ただ死んでしまうというのではなく、魂までもが死ぬという、そういう恐ろしい感覚です。でも、どうして、その時、神さまから見捨てられなかったのかというと、イエスさまが、先生の代わりに、神さまから見捨てられる者となってくださっていたからです。イエスさまは、見捨てられるようなことなど何もしていないのに、先生が、神さまから見捨てられるような苦しみに遭わずに済むように、その苦しみのすべてを背負って死んでくださっていたのです。

 ところで、イエスさまが十字架の上で叫ばれたのは、その1回だけではありませんでした。50節を見ると「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」とあります。みなさんは、どのような時に叫びますか。苦しくて、怖くて、助けてほしい時にも叫ぶと思いますが、嬉しくて、やったぞーっていう時にも叫びませんか。1回目のイエスさまの叫びは、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに神さまから見捨てられる苦しみと恐怖の中の叫びでした。でも、2回目の叫びは、勝利の叫びだったのです。なぜなら、イエスさまが死んでくださることで、イエスさまが背負われた私たちの罪や悪も一緒に死んで消えてしまうからです。つまり、私たちは、罪や悪に支配されることなく、神さまの愛をいっぱいに受けて生きることができるようになるからです。だから、2回目にイエスさまが叫んだ時、3つの不思議なことが起こったのです。神殿の垂れ幕が裂け、地震で岩が裂け、それで岩の中の墓が開いて、聖なる者たちの体が生き返ったのです。その人たちは、イエスさまが復活された後、墓から出て来ました。つまり、神さまを信じる人は、罪や死や滅びによって妨げられることなく、神さまに愛されていつまでも神さまと共に生きるのです。私たちは、このイエスさまの2つの叫び、それは、イエスさまの祈りによって、今日も神さまに赦され、愛されています。このイエスさまを信じて、復活のイースターの朝を、共に喜んで迎えましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記