〇教会学校 10時30分〜の礼拝に合流します。
通常の9時15分〜の礼拝はありません。
〇主日神の家族礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書6章25節〜34節、出エジプト記16章4節〜5節
説 教:「思い悩むな」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
2024年05月28日
2024年6月9日 礼拝予告
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:03| 日記
2024年05月26日
2024年5月26日 主日スクリーン伝道礼拝「御言葉を聞いて行う人」大坪信章牧師
ルカによる福音書8章19節〜21節 申命記6章1節〜9節
「御言葉を聞いて行う人」
聖書には、旧約を中心に、天地創造やノアの大洪水、また、バベルの塔や出エジプトなど、スケールの大きな物語があります。中でも、最たる物語は、言わずもがな、イエス・キリストの十字架と復活の物語です。ただ、今日の物語は、物語と言うほどのものでもありません。19節〜21節「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった。するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」のです。イエスさまの日常は、おもに人々に教え、癒しの業を行なうことで、この時も誰かの家の中で教えていたか、癒しの業を為さっていました。それが証拠に、家の中は、大勢の人で溢れ返り、家の戸口まで人だかりができていました。
そこに、母マリアと兄弟たちがイエスさまに会いに来たのです。母マリアのことは、誰もがよく知っていますが、兄弟たちは、さほど知られていません。兄弟たちは、イエスさまのあとに生まれた弟や妹たちです。その中には、のちに主の兄弟ヤコブと呼ばれる弟がいます。彼は、聖書の新約の書簡『ヤコブの手紙』の著者です。母マリアの夫ヨセフの名前がないのは、既に世を去っていたためです。この人々は、イエスさまの身内、家族です。家族総出でイエスさまに会いに来たのです。けれども、前述の通り、家の戸口は、人だかりができていて、家の中に入れませんでした。そこで、母マリアと兄弟たちは、近くにいた係りの者か誰かに、会いに来た旨の伝言を頼み、取り次いだ人が、イエスさまの所に行き、その旨を知らせました。その時、一番あり得るイエスさまの対応は「今、話し中、或いは、取込み中だから、外で待っていてください」と、取り次ぎの人に伝言を託し、家族に伝えてもらうということです。しかし、イエスさまは、そういう普通の返答は為さらず、皆の前で「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになったのです。
ところで、この物語には、少々違和感があります。母マリアと兄弟たちは、イエスさまに会いに来ました。でも、その言動は、常軌を逸しているように見えます。イエスさまが人々に教えや、病人の癒しの業を為さっておられるのに、呼び出すというのは失礼に当たります。イエスさまは、話しや癒しの業を中断しなければなりせん。話しを聞いている人や癒しに与っている人々も、強制的に中断させられます。緊急事態であれば話しは別ですが、文面を見る限り緊迫感は感じません。また、もし、癒しを求める病人が、順番に並んでいたとすれば、それは、横入りというか、単なる自分勝手な行動に過ぎません。そうなると、母マリアや兄弟たちは、自分中心で、空気を読めない人と言われても仕方ありません。そう考えると、この時、母マリアと兄弟たちが、どういう目的で、イエスさまに会いに来たのかが分かるのです。
母マリアは、天使ガブリエルから受胎告知を受けて、聖霊によってイエスさまを身ごもった「恵まれた女」でした。だから、私たちプロテスタントのキリスト教会では、決して、そんな呼び方はしませんが、聖母マリアと呼ばれ、信仰深い人と考える人たちもいます。しかし、母マリアは「恵まれた女」ではあっても、聖書の中で特別扱いなどされていません。何より、イエスさまが十字架の死から3日目に復活されるまでは、他の弟子たち同様、イエスさまへの信仰は、揺れ動いていました。母マリアは、イエスさまの十字架の時も復活の時も、他の婦人たちの中の一人として扱われています。そして、弟子たちや婦人たちと共に祈り、約束の聖霊を待つ一人に加えられています。そもそも、母マリアにとって、救い主が自分の身内に、ましてや、それが自分の子どもとなれば、それだけでも充分、信仰の妨げでした。それは、イエスさまの兄弟たちにしても同じでした。だから、イエスさまは、ナザレでは多くの奇跡を為さらなかったのです。つまり、この時、母マリアと兄弟たちは、人々に教え、病を癒す、イエスさまの働きを止めさせて、ナザレの家に連れ帰そうとして会いに来たのです。
もし、用件に緊急性があれば、周囲の人々も状況を察し、イエスさまも迅速に対応されたはずです。しかし、聖書には、そのようなことは書かれておらず、文面からも、そういう緊迫感は読み取れません。しかも、イエスさまの返答は、取り次ぎの人の耳元で囁き、返答を言伝(ことづて)たわけでもないのです。むしろ、母マリアや兄弟たちを含め、その家の中や戸口にいた人々にまで聞こえるように、その場で返答されたのです。しかも、その返答は「待っていてください」というような、ごく普通の返答ではなく、まるで、母マリアと兄弟たちを突き放すような言葉に聞こえます。おそらく、そのイエスさまの返答を聞けば、そこにいた人々は勿論、私たちも含め多くの人々が、首を傾げてしまうのです。イエスさまは、言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。この言葉は、イエスさまが12歳の時に家族から逸(はぐ)れた物語を思い出します。家族が血眼になって探した結果、神殿にいた所を見つけられたイエスさまは言いました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなったのですか」と。また、十字架上のイエスさまの言葉も思い出します。イエスさまは、母マリアと弟子のヨハネの双方に言いました。マリアには「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」ヨハネには「見なさい。あなたの母です」と。
実に、それらの物語も含め、今日の物語には、キリスト教的家族の定義が謳われています。母とは、兄弟とは何かから始まり、家族とは何か。結婚すれば家族になるのか、ただ血が繋がっていれば家族なのかなど。今月8日(水)の聖書に親しみ祈る会に、アジアの婦人信徒2名が参加されました。2人は、キリスト教の集会に参加し、国に帰る前に、日本の教会を見たいということで来会されました。彼らは、石山教会の教会員の知り合いとして来られました。祈りの時間には、2人の内の1人が外国語で祈り、知り合いの教会員が通訳してくれました。祈りが終わった後、石山教会の教会員は、知り得る外国語を駆使して2人と交わり、2人の出身地の話しで盛り上がりました。それを見ていた私は、思わず「今日は、一足早いペンテコステですね」と言って笑いました。その翌日9日(木) は、イエスさまの昇天日で、その10日目の19日がペンテコステでした。その後2人の婦人と、お連れの若者、そして、知り合いの教会員夫妻と私も加えていただき昼食を交えました。そこでも通訳を介して話しに花が咲きました。私は、そこでも「本当に、今日はペンテコステですね」と言うと、2人の内の1人が言いました。「私たちは、言葉は違うけど、霊的には一つです」と。本当にそうでした。逆に、言葉は一緒でも霊的にバラバラな人もいるわけです。そう思うと悲しいです。同じクリスチャンや同じ日本人でも、霊的にバラバラ。勿論、言葉も一緒で霊的にも一緒なら万々歳ですが、言葉は違っても、血縁が無くても、霊的に一つというのは、素敵な神の家族です。
このように、キリスト教的家族の定義は、霊的に一つであるということです。決して、言語が一つということが問題ではありません。それは、先週、朗読された旧約の創世記11章のバベルの塔の物語の通りです。バベルの町の人々は、言語が一つでも、神さまの言葉を聞いて行なうことなく言いました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と。彼らは「神さまの御言葉によって、神の国を建てよう」とは言いませんでした。だから、神さまは、彼らの言語を「混乱(バラル−バベルの語源)させ」「互いの言葉が聞き分けられぬようにして」「彼らを全地に散らされた」のです。だから、依然として、散らさた先で興った国々は、バベルの塔の時よりも規模は小さくなったとは言え、同じ塔を建てています。どこの国も、神の国を建てようとはしません。けれども、イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じ、洗礼を受けて救われ、教会に属する人々は違います。この人々は、悔い改めて福音を信じ、その福音を世に広めるからです。だから、たとえ国や言語が違っても、霊的には、神の家族です。御言葉に聞き、イエスさまの十字架の贖いの象徴であるパンと杯(肉と血)に与り、イエスさまの恵みと愛が、その心の内に溢れています。そのように、私たちは、霊的に一つとなって、この石山の地に、神の教会(神の国)を建てるのです。私たちは、御言葉によって教会を建てます。決して、私たちの言葉によってではありません。私たちの言葉には、悔い改めがないからです。もし、悔い改めのない私たちの言葉で建てようものなら、それは、バベルの塔になるでしょう。教会では、そういう向きも感じないわけではありません。
今日の物語では、母マリアと兄弟たちが、好意的な態度でイエスさまに会いに来たのではなく、否定的な感情を抱いてイエスさまに会いに来ました。イエスさまにとって、母マリアと兄弟たちは身内、家族ですが、その時は、まだ、キリスト教的家族の定義からは外れた者でした。イエスさまは言われます。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。中国に生まれれば中国語、米国に生まれれば英語、日本に生まれれば日本語を話します。しかし、神の国に生まれれば御言葉を話すのです。一人でも多くの人がイエスさまに出会い、洗礼を受け、教会という名の神の国に属し、御言葉を分かち合うことができますように。この神の民、神の家族は、神を父と呼び、イエスさまを神の子・救い主と呼びます。その私たちの交わりは、互いに兄弟姉妹と呼び合うことで強められます。主の日の礼拝毎に御言葉を受け、御言葉によって力を得て、神の家族として、共に歩んでいきましょう。
「御言葉を聞いて行う人」
聖書には、旧約を中心に、天地創造やノアの大洪水、また、バベルの塔や出エジプトなど、スケールの大きな物語があります。中でも、最たる物語は、言わずもがな、イエス・キリストの十字架と復活の物語です。ただ、今日の物語は、物語と言うほどのものでもありません。19節〜21節「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった。するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」のです。イエスさまの日常は、おもに人々に教え、癒しの業を行なうことで、この時も誰かの家の中で教えていたか、癒しの業を為さっていました。それが証拠に、家の中は、大勢の人で溢れ返り、家の戸口まで人だかりができていました。
そこに、母マリアと兄弟たちがイエスさまに会いに来たのです。母マリアのことは、誰もがよく知っていますが、兄弟たちは、さほど知られていません。兄弟たちは、イエスさまのあとに生まれた弟や妹たちです。その中には、のちに主の兄弟ヤコブと呼ばれる弟がいます。彼は、聖書の新約の書簡『ヤコブの手紙』の著者です。母マリアの夫ヨセフの名前がないのは、既に世を去っていたためです。この人々は、イエスさまの身内、家族です。家族総出でイエスさまに会いに来たのです。けれども、前述の通り、家の戸口は、人だかりができていて、家の中に入れませんでした。そこで、母マリアと兄弟たちは、近くにいた係りの者か誰かに、会いに来た旨の伝言を頼み、取り次いだ人が、イエスさまの所に行き、その旨を知らせました。その時、一番あり得るイエスさまの対応は「今、話し中、或いは、取込み中だから、外で待っていてください」と、取り次ぎの人に伝言を託し、家族に伝えてもらうということです。しかし、イエスさまは、そういう普通の返答は為さらず、皆の前で「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになったのです。
ところで、この物語には、少々違和感があります。母マリアと兄弟たちは、イエスさまに会いに来ました。でも、その言動は、常軌を逸しているように見えます。イエスさまが人々に教えや、病人の癒しの業を為さっておられるのに、呼び出すというのは失礼に当たります。イエスさまは、話しや癒しの業を中断しなければなりせん。話しを聞いている人や癒しに与っている人々も、強制的に中断させられます。緊急事態であれば話しは別ですが、文面を見る限り緊迫感は感じません。また、もし、癒しを求める病人が、順番に並んでいたとすれば、それは、横入りというか、単なる自分勝手な行動に過ぎません。そうなると、母マリアや兄弟たちは、自分中心で、空気を読めない人と言われても仕方ありません。そう考えると、この時、母マリアと兄弟たちが、どういう目的で、イエスさまに会いに来たのかが分かるのです。
母マリアは、天使ガブリエルから受胎告知を受けて、聖霊によってイエスさまを身ごもった「恵まれた女」でした。だから、私たちプロテスタントのキリスト教会では、決して、そんな呼び方はしませんが、聖母マリアと呼ばれ、信仰深い人と考える人たちもいます。しかし、母マリアは「恵まれた女」ではあっても、聖書の中で特別扱いなどされていません。何より、イエスさまが十字架の死から3日目に復活されるまでは、他の弟子たち同様、イエスさまへの信仰は、揺れ動いていました。母マリアは、イエスさまの十字架の時も復活の時も、他の婦人たちの中の一人として扱われています。そして、弟子たちや婦人たちと共に祈り、約束の聖霊を待つ一人に加えられています。そもそも、母マリアにとって、救い主が自分の身内に、ましてや、それが自分の子どもとなれば、それだけでも充分、信仰の妨げでした。それは、イエスさまの兄弟たちにしても同じでした。だから、イエスさまは、ナザレでは多くの奇跡を為さらなかったのです。つまり、この時、母マリアと兄弟たちは、人々に教え、病を癒す、イエスさまの働きを止めさせて、ナザレの家に連れ帰そうとして会いに来たのです。
もし、用件に緊急性があれば、周囲の人々も状況を察し、イエスさまも迅速に対応されたはずです。しかし、聖書には、そのようなことは書かれておらず、文面からも、そういう緊迫感は読み取れません。しかも、イエスさまの返答は、取り次ぎの人の耳元で囁き、返答を言伝(ことづて)たわけでもないのです。むしろ、母マリアや兄弟たちを含め、その家の中や戸口にいた人々にまで聞こえるように、その場で返答されたのです。しかも、その返答は「待っていてください」というような、ごく普通の返答ではなく、まるで、母マリアと兄弟たちを突き放すような言葉に聞こえます。おそらく、そのイエスさまの返答を聞けば、そこにいた人々は勿論、私たちも含め多くの人々が、首を傾げてしまうのです。イエスさまは、言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。この言葉は、イエスさまが12歳の時に家族から逸(はぐ)れた物語を思い出します。家族が血眼になって探した結果、神殿にいた所を見つけられたイエスさまは言いました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなったのですか」と。また、十字架上のイエスさまの言葉も思い出します。イエスさまは、母マリアと弟子のヨハネの双方に言いました。マリアには「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」ヨハネには「見なさい。あなたの母です」と。
実に、それらの物語も含め、今日の物語には、キリスト教的家族の定義が謳われています。母とは、兄弟とは何かから始まり、家族とは何か。結婚すれば家族になるのか、ただ血が繋がっていれば家族なのかなど。今月8日(水)の聖書に親しみ祈る会に、アジアの婦人信徒2名が参加されました。2人は、キリスト教の集会に参加し、国に帰る前に、日本の教会を見たいということで来会されました。彼らは、石山教会の教会員の知り合いとして来られました。祈りの時間には、2人の内の1人が外国語で祈り、知り合いの教会員が通訳してくれました。祈りが終わった後、石山教会の教会員は、知り得る外国語を駆使して2人と交わり、2人の出身地の話しで盛り上がりました。それを見ていた私は、思わず「今日は、一足早いペンテコステですね」と言って笑いました。その翌日9日(木) は、イエスさまの昇天日で、その10日目の19日がペンテコステでした。その後2人の婦人と、お連れの若者、そして、知り合いの教会員夫妻と私も加えていただき昼食を交えました。そこでも通訳を介して話しに花が咲きました。私は、そこでも「本当に、今日はペンテコステですね」と言うと、2人の内の1人が言いました。「私たちは、言葉は違うけど、霊的には一つです」と。本当にそうでした。逆に、言葉は一緒でも霊的にバラバラな人もいるわけです。そう思うと悲しいです。同じクリスチャンや同じ日本人でも、霊的にバラバラ。勿論、言葉も一緒で霊的にも一緒なら万々歳ですが、言葉は違っても、血縁が無くても、霊的に一つというのは、素敵な神の家族です。
このように、キリスト教的家族の定義は、霊的に一つであるということです。決して、言語が一つということが問題ではありません。それは、先週、朗読された旧約の創世記11章のバベルの塔の物語の通りです。バベルの町の人々は、言語が一つでも、神さまの言葉を聞いて行なうことなく言いました。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と。彼らは「神さまの御言葉によって、神の国を建てよう」とは言いませんでした。だから、神さまは、彼らの言語を「混乱(バラル−バベルの語源)させ」「互いの言葉が聞き分けられぬようにして」「彼らを全地に散らされた」のです。だから、依然として、散らさた先で興った国々は、バベルの塔の時よりも規模は小さくなったとは言え、同じ塔を建てています。どこの国も、神の国を建てようとはしません。けれども、イエス・キリストの十字架と復活の救いを信じ、洗礼を受けて救われ、教会に属する人々は違います。この人々は、悔い改めて福音を信じ、その福音を世に広めるからです。だから、たとえ国や言語が違っても、霊的には、神の家族です。御言葉に聞き、イエスさまの十字架の贖いの象徴であるパンと杯(肉と血)に与り、イエスさまの恵みと愛が、その心の内に溢れています。そのように、私たちは、霊的に一つとなって、この石山の地に、神の教会(神の国)を建てるのです。私たちは、御言葉によって教会を建てます。決して、私たちの言葉によってではありません。私たちの言葉には、悔い改めがないからです。もし、悔い改めのない私たちの言葉で建てようものなら、それは、バベルの塔になるでしょう。教会では、そういう向きも感じないわけではありません。
今日の物語では、母マリアと兄弟たちが、好意的な態度でイエスさまに会いに来たのではなく、否定的な感情を抱いてイエスさまに会いに来ました。イエスさまにとって、母マリアと兄弟たちは身内、家族ですが、その時は、まだ、キリスト教的家族の定義からは外れた者でした。イエスさまは言われます。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と。中国に生まれれば中国語、米国に生まれれば英語、日本に生まれれば日本語を話します。しかし、神の国に生まれれば御言葉を話すのです。一人でも多くの人がイエスさまに出会い、洗礼を受け、教会という名の神の国に属し、御言葉を分かち合うことができますように。この神の民、神の家族は、神を父と呼び、イエスさまを神の子・救い主と呼びます。その私たちの交わりは、互いに兄弟姉妹と呼び合うことで強められます。主の日の礼拝毎に御言葉を受け、御言葉によって力を得て、神の家族として、共に歩んでいきましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 14:34| 日記
2024年05月24日
2024年6月2日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書6章5節〜15節
説教:「山上の説教(3)祈るときには」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書8章22節〜25節、出エジプト記14章5節〜14節
説 教:「信仰はどこにあるのか」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:マタイによる福音書6章5節〜15節
説教:「山上の説教(3)祈るときには」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書8章22節〜25節、出エジプト記14章5節〜14節
説 教:「信仰はどこにあるのか」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 21:59| 日記