2024年06月30日

2024年6月30日 主日信徒立証礼拝「ただ信じなさい」大坪信章牧師

ルカによる福音書8章49節〜56節、列王記上17章17節〜24節              
「ただ信じなさい」       

 先週の聖書の物語は、珍しい2段構えでした。1つ目の物語が進む中で、突然2つ目の物語が割り込み、1つ目の物語は一時中断しました。その後、割り込んだ2つ目の物語は、無事に完結し、完結した喜びの中で、中断していた1つ目の物語が、今日、再び動き始めます。この2段構えの物語の凄いところは、2つの物語が、それぞれ、救いの希望の物語として完結するということです。大体、二段構えというのは、あるやり方で駄目なら、もう一方のやり方というふうに、2つの方法を用意しておくことを言います。割り込んだ2つ目の物語の、出血が止まらない女性の病は、無事に癒され、その目的が果たされました。しかし、1つ目の物語である今日の物語が問題です。なぜなら、1つ目の物語の目的は、割り込んだ2つ目の物語に時間を要したためか、潰えてしまったからです。にも拘わらず、このあと、1つ目の物語の目的も無事に果たされます。だから、二段構えというより、初めから倍の成果を期待できる二本仕立てのようです。要するに、イエスさまを、ただ信じるなら、聖書の物語だけではなく、私たちの人生や命もまた、潰えることはないのです。

 それでは、中断していた1つ目の物語を読んでいきます。49節「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て」言いました。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と。先程も言った通り、1つ目の物語は、ここで完全に潰えました。42節で「12歳ぐらいの一人娘」と紹介されていた、会堂長の娘は、死んだのです。ヤイロは、ついさっきイエスさまに出会い、娘の事情を説明し、イエスさまと一緒に娘のいる家へ向かっている途中でした。家まで、あと少しでした。しかし、途中、割り込んできた女性に時間を奪われてしまいました。そう思えば思う程、悔やんでも悔やみきれない最後を迎えてしまいました。娘は、死んだのです。イエスさまを求めたのは、娘が良くなるという希望が果たされるためでした。だから、今となっては、使いの者がイエスさま言った通りです。「この上、先生を煩わすことは」もうありません。もうイエスさまに、娘の所へ来てもらうには及びません。むしろ、これから来てもらう必要があるのは、葬儀社や、葬儀を請け負う、職業としての泣き女や泣き男です。泣き男というのは、あまり聞かない言葉ですが、実際、旧約のアモス書5章には、神の裁きの日を嘆くために、泣き男が呼ばれます。

 しかし、イエスさまは、使いの者からの報告を、50節「聞いて会堂長に言われ」ました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と。こうして、イエスさまが、ヤイロの家に辿り着くと、51節「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しに」なりませんでした。つまり、イエスさまは、死にかけていた娘のために、或いは、死んだ娘のために集まったすべての人々を、家の中と家の外に分けたのです。まず、家の中には、弟子たちと死んだ娘の両親だけが入りました。弟子たちと言っても、今回イエスさまについて来たのは「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ」の3人だけでした。彼らは、今後イエスさまがヘルモン山で変貌される時の証人であり、十字架前夜に、ゲッセマネの園で祈るイエスさまに、傍で祈っているようにと指名された証人であり、更に、イエスさまが昇天されたあと、初代教会を代表する、主イエスの十字架と復活の証人になります。そして、両親ですが、父親のヤイロは、娘の死を知った時、イエスさまから「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われましたが、母親は無名の人で、特にイエスさまと会話した記録もなく、夫のヤイロの傍にいることしかできません。だから、家の中に呼ばれた彼らの共通点は、信じたいのは山々だけれども、という人々です。

 それに対して、家の外には、イエスさまに纏わりついて来た群衆の他、ヤイロの娘の事情を知って集まっていた人々がいました。52節を見ると「人々は皆、娘のために泣き悲しんで」いて、この中に、泣き女や泣き男という職業の人々もいました。そうすると、家の外は、嗚咽や金切り声などで、物々しい雰囲気になっていたことが窺えます。このように、人間の死という場面に、泣き女や泣き男が雇われるというのは、ユダヤでは、非常に重要なことでした。当時は、裕福な者しか、泣き女や泣き男を雇えませんでした。しかし、紀元2世紀頃までに、ユダヤでは、貧しい者でも最低1人の泣き女を雇わなければならないという決まりが作られるほどでした。ということは、家の外に分けられた人々の共通点は、嘆き悲しみでした。これが、最悪の状態を迎えた人間の行き着く先です。ただ、涙には、痛みや苦しみを和らげる効果もあります。実際、人間は、涙を流すことで痛みが治まり、精神が回復するとも言われています。だから、泣くことが悪いことのようにネガティブに受け止めるのは違います。

 しかし、イエスさまは「娘のために泣き悲しんでいる」人々に向かって言われました。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と。これに対して、53節「人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った」とあります。もはや家の外は、嘆き悲しみに嘲笑までもが入り混じる、何とも言えない雰囲気になっていました。それを余所に、イエスさまは、家の中に入って娘の手を取り、娘に呼びかけて言われました。54節「娘よ、起きなさい。」すると、55節「娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」のです。そこでイエスさまは、両親に向かって「娘に食べ物を与えるように指図をされ」ました。この「娘よ、起きなさい」という呼びかけは、マルコ福音書では「タリタ、クム」(これは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である)と原語で説明されています。このヤイロの娘が蘇生した物語は、途中で割り込んで来た、出血が止まらない女性の物語との間に、大きな違いがあります。出血が止まらない女性は、イエスさまを信じて自らが癒やされました。しかし、ヤイロの娘が蘇生したのは、娘の信仰ではなく、父親のヤイロの信仰が関係しました。ヤイロは、イエスさまに言われた「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」という言葉を信じたのか、信じなかったのかは、分かりません。けれども、結果、娘は息を吹き返したので、ヤイロは、ただ信じたのです。

 それでは、ヤイロは、ただ何を信じたのでしょうか。イエスさまは、最初「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。家の外の人々は、その言葉を聞いてイエスさまを嘲笑しました。共観福音書の同じ物語によれば、家の中に居たヤイロたちも、死ではない眠りについて、イエスさまの言葉を聞いています。おそらく、ヤイロたちは、嘲笑まではしなくても、息が止まった娘の現実に動揺を隠せなかったはずです。それでは、ヤイロは、ただ何を信じたのでしょうか。次にイエスさまは「娘の手を取り」ました。イエスさまは、力なく床の上で動かなくなった娘の手を握られました。しかし、娘がイエスさまの手を握り返すことはありませんでした。それでは、ヤイロは、ただ何を信じたのでしょうか。その時イエスさまは娘に言われました。「娘よ、起きなさい」と。ヤイロが、ただ信じることができたとするなら、このイエスさまの言葉、御言葉だけだったのではないでしょうか。「娘よ、起きなさい」(「そうだ、眠っているなら、起きろ」と。)この御言葉は、戸惑いながらも、主であるイエスさまに従おうとする者たちの、揺れ動く信仰を、くすぐる希望に満ちた御言葉です。つまり、端から信じようとせず、嘲笑するような人々に対しては「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」で十分なのです。それ以上、どれだけ話しても、説得しても、理解できるはずがないからです。しかし、イエスさまを求め、信じながらも、一抹の不安を抱え、戸惑いつつ、それでも主であるイエスさまに従おうとする人々の前で、イエスさまは言われたのです。「娘よ、起きなさい」と。

 要するに、第2の物語は、出血が止まらない女性が御言葉を信じ、その手を伸ばした信仰が関係し、この第1の物語は、娘を失ったヤイロが、主の口から出る御言葉を、ただ信じた信仰が関係しました。いずれも、人間の側に生じた信仰が、イエス・キリストの救いの力を受け止めた物語です。ただ、私たちは、これら一連の出来事を、信じれば病気が治り、死んだ人も生き返ると言った、安易な受け止め方をしてはいけません。旧約の時代に神さまが為さった奇跡も、新約の時代にイエスさまが為さる奇跡も、いずれも驚かされます。しかし、驚かされる奇跡は、旧約においては、神の救いの力の証明であり、新約においては、イエスさまが神に等しい方であり、私たちの救いであることの証明でした。それが、はっきりと世に示された出来事が、イエスさまの十字架の贖いの死と復活だったのです。現に、この娘の蘇り(蘇生)の奇跡は、イエスさまの復活の予兆です。イエスさまは、私たちの罪のために十字架に架かって死んでくださり、死者の中からの甦りによって、永遠の命の約束となられました。それによって、イエスさまは、神に等しい神の子・救い主であることが、はっきりと世に証明されたのです。だから、それを境に、奇跡物語は影を潜めていきます。この十字架と復活の主イエスさまを、ただ信じることが、罪の赦しと永遠の命という、真の救いの希望だからです。それに優る、どんな慰めも癒しもありません。私たちにとって、罪に塗れたまま絶命すること以上の悲しみはありません。娘の両親は、娘の蘇生に、56節「非常に驚いた」とありますが、イエスさまは、両親に「この出来事をだれにも話さないようにとお命じに」なりました。これは、出血が止まらない女性やゲラサ人の男への対応とは、全く向きが違います。なぜなら、死者の蘇りの奇跡は、イエスさまの復活の予兆なので、自己の都合で軽々しく、死者の蘇りが求められてはならないからです。しかし、ただ信じる者には、今日も、罪の赦しと復活の永遠の命が与えられます。信仰とは、神のご都合による、神の御計画に従って生きることだからです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:16| 日記

2024年06月27日

2024年7月7日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書9章9節〜13節
説教:「主イエス、マタイを弟子にする」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書9章1節〜9節、列王記上17章1節〜16節
説 教:「うわさの主(ぬし)」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:49| 日記

2024年06月23日

2024年6月23日 主日スクリーン伝道礼拝「信仰があなたを救った」大坪信章牧師

ルカによる福音書8章40節〜48節、民数記15章37節〜41節
「信仰があなたを救った」 
 
 イエスさまは、弟子たちを連れて、ガリラヤ湖の向こう岸の、ゲラサの地に行っておられました。けれども、程なくして、そこから帰って来られたのです。イエスさまは、ゲラサの地に行かれた目的を確実に果たされました。イエスさまは、ゲラサの地で「悪霊に取りつかれた男」から悪霊を追放し、男を救われたからです。その時、男は、自ら志願して、イエスさまのあとに従いたいと願い出ましたが、イエスさまは、それを許さず、男をゲラサの地の信徒伝道者に任命されました。こういう従い方、こういう用いられ方もあるのです。だから、誰しもが皆、聖職者になる必要は無いのかもしれません。ただ、時代は今、風雲急を告げています。献身者や牧師が少なくなり、牧師がいない教会が増えてきています。それに対して、救われる人々は、常時、緩やかではありますが起こされています。今の時点で、石山教会にも洗礼を希望する人はいます。だからこそ、羊を飼う羊飼いとしての牧師の働きが必要です。教会は、神の国の砦であり避け処でもあります。その牙城が崩れかけそうになっている今、何を為すべきなのかは、自ずと分かります。まず、その砦を守る人が起こされるように祈る必要があります。それと同時に、教会は、主にあって1つになる必要があります。
  
 とは言っても、イエスさまの弟子としての献身者も、ゲラサの男のような信徒伝道者も、為すべきことは同じです。それは、男がゲラサの地で果たした務めで間違いありません。それは「神さまが、自分にしてくださったこと」を話して回るということです。ここで考えさせられるのです。信仰とは何かということです。信仰とは、“主が自分に、どんなことを為さったのか”ということで、伝道とは“その事実を証言する”ことです。“主が自分に…”もそうですし“主が民に(私たちに)…”もそうです。でも、中には、信仰を勘違いして、逆に“自分が神さまに、どんなことをしているか”と考え、それを話して回る人がいます。それは、聖書中の登場人物で言うところの律法学者・ファリサイ派の人たちです。だから、クリスチャンに限って、さすがに、そんなふうに思うことは、無いだろうと思われるかもしれませんが、あります。昔、礼拝で「主は」「主が」と声高に叫び、信仰とは何かについてメッセージを語った礼拝後、見事に「私は」「私が」という証しを始めた方がいました。正直、心が萎えそうになりました。今年度は『豊かな礼拝 豊かな交わり』という年間標語のもとに歩んでいます。その中で、第5主日は“信徒立証礼拝”を設けました。礼拝後、報告の前に、教会員に証しをしてもらいます。証しとは何か。主を証しするとは、どういうことかについて知るためです。現代は、主が、私に、どんなことを為さったかを語るクリスチャンが少なくなりました。

 ところで、ゲラサ人の男の物語は、実に、今日の物語にも通じるところが大きいのです。今日の物語は、そのゲラサの地から、イエスさまが、40節「帰って来られると、群衆は喜んで迎えた」という言葉から始まります。なぜ、喜んだのかと言えば「人々は皆」イエスさまを「待っていた」からです。もし、人々がイエスさまを、主と信じて待っていたのであれば、それは、もう、私たちが見習わなければならない模範的な姿です。けれども、帰って来たイエスさまを喜んで迎えた群衆の姿は、少し違っていました。それは、この物語を読み進めれば分かります。すると41節「そこへ、ヤイロという人が来た」のです。「この人は会堂長」でした。彼は、イエスさまの「足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと」願いました。ヤイロは、カファルナウムの会堂から遣って来ました。そこは、かつて、イエスさまが律法の朗読や勧めを為さり、ある男から悪霊を追い出した会堂でした。だから、当然、会堂長のヤイロがイエスさまを知らないわけはありません。しかし、今ヤイロは、イエスさまを、ただ知っている者ではないのです。ヤイロは、イエスさまの「足もとにひれ伏して」願っています。つまり、イエスさまを主と信じ、求める者になっています。ヤイロが求めたのは、42節にあるように「十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていた」からです。自分の願い以上に、親が子を思う願いの何と強力なことでしょう。一人娘です。この子を失ったら、もう変わりがいないのです。

 ただ、このヤイロの物語は、ここで一旦、終わります。というのは、イエスさまが、ヤイロの家に「行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た」からです。この群衆の立ち位置は、イエスさまを主と信じ、求めているのではありません。イエスさまが、死にかけていたヤイロの娘を癒す、その出来事の目撃者となるためです。つまり、群衆は、野次馬です。野次馬は、自分と直接関係ないことに、浅はかな興味を抱き、物見高く集まり、面白半分に騒ぎ立てて見物する人々だからです。要するに、群衆は、彼らが有名人と見なしたイエスさまが、今から死にかかった少女を回復させに行くのを囃し立てているのです。しかし、その群衆の中に、一人の女性が紛れ込んでいました。その女性は、43節で説明されている「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」でした。そして、ここから場面が切り替わり、この出血が止まらない女性の物語が始まり、結果、この女性も、また、この物語の直後に最悪の状態に陥ったヤイロの娘も共に癒やされます。そういう意味で、この2つの奇跡物語は、珍しい二段構えの構造になっています。

 ところで、この、12年間、出血が止まらない女性の病は、古い訳で「長血」とあり、ある種の出血を伴う婦人病の一種と言われています。更に、女性は「医者に全財産を使い果たし」たにも拘らず、どの医者からも「治してもらえ」ないという、医療への不信と絶望を抱いた過去を持っていました。更に、この病気は、宗教的に汚れた者と見なされ、病気の女性に触る者は汚れ、病気の女性が誰かに触ることも禁じられていました。だから、女性は、公の場に出られず、内に籠もり、孤独に苛まれていた女性でした。しかし、44節「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。当時のユダヤの男性の衣服(上着)には、必ず、四隅に飾りのような房が付いていました。それは、律法で定められていたからです。民数記15章37〜41節「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。」

 つまり、衣の房は「主のすべての命令」すなわち、御言葉を指しています。その衣服の房を見る時、人は誰でも神の命令(御言葉)を思い起こし、神である主に立ち帰り、自らを神によって聖別された民と自覚したのです。すると、イエスさまは、突然、45節「わたしに触れたのはだれか」と言われました。「人々は皆、自分ではないと答えたので」ペトロが、それを擁護するように「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言いました。人々は、本当のことを言ったのです。人々は、イエスさまに触っていません。イエスさまに当たったかもしれないし、ぶつかったかもしれませんが、意識的には触らなかったのです。しかし、それでもイエスさまは、執拗に、46節「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われました。なぜなら、群衆の中には、意識的に手を伸ばし、イエスさまの衣の房に触れた者がいたからです。そこで、47節「女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」のです。女性は、その場で、主を証ししました。その時、イエスさまは言われました。48節「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。

 イエスさまの衣の房に力があったのではありません。それは、すべての男性の衣に付いていたものだからです。イエスさまは「私から力が出て行ったのを感じた」と言われました。この女性は、イエスさまの衣の房である「青いひも」を見た時、御言葉を思い出したのです。「わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である」という御言葉が、耳に木魂していたに違いありません。イエスさまは、女性に言われました。「あなたの信仰があなたを救った」と。「あなたの信仰」です。イエスさまを取り巻いて、押し合っていた群衆の中で、ただ一人、この女性だけが、御言葉を思い起こし、イエスさまを主と信じたのです。イスラエルの民を、エジプトの国、奴隷の家から導き出した「あなたたちの神、主」が、正に今、ここに生きておられると信じたのです。イエスさまから出て行った力は、女性を認め、赦し、愛する力です。女性は、12年間、病気になってこの方、誰にも存在を認められず、汚れた者としての病、それは、罪の重荷を背負い、愛を通わせることもできませんでした。しかし、イエスさまから出た力は、そのすべての苦しみから、女性を解放したのです。なぜなら、イエスさまは、私たちが決して担い切れない呪縛としての十字架を背負い、身代わりとなって死んでくださる方だからです。女性は、イエスさまから「安心して行きなさい」と促されて行きます。この安心は、イエスさまを主とする信仰によって、イエスさまが、いつまでも私と共におられるという安心です。これから先、この女性に何があったとしても、この平安を奪うものは、もう何もなくなったのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記