ルカによる福音書9章18節〜20節、出エジプト記34章4節〜9節
「あなたにとって主とは」
18節に「イエスがひとりで祈っておられたとき」とあります。6章12節では、イエスさまが「祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」という、徹夜の祈りの姿があります。マタイ福音書14章23節には、イエスさまが「祈るためにひとり山にお登りに」なり「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」という、夕べの祈りの姿もあります。更に、マルコ福音書1書35には、イエスさまが「朝早くまだ暗いうちに」「起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」という、朝の祈りの姿もあります。この祈りについて、イエスさまは、神の子・救い主なのに、どうして祈るのか、と思う人もいるでしょう。しかし、イエスさまは、天の父である神を「アバ、父よ」(お父ちゃん)と呼び「お父ちゃん、苦しい」「お父ちゃん、助けて」と祈る方です。このようなイエスさまの姿は、神の子らしくないでしょうか。
イエスさまは、神の言葉が受肉した(肉を受けた)方です。簡単に言えば、神が人となられた方です。だから、完全に神であり、完全に人です。もし、イエスさまが、完全に神としてのみ来られたら、罪深い人間である私たちは、ひとたまりもなく一瞬にして裁かれました。また、イエスさまが、完全に人としてのみ現れたら、どうして、同じ罪深い人間が、罪深い人間を救えるでしょうか。しかし、イエスさまは、完全に神、完全に人です。この、神が人となる出来事は、皆さんも、よく知っているクリスマスの物語です。素敵な物語ですが、神が肉(人間)を纏うことのリスク(危険)を、皆さんは考えたことがあるでしょうか。リスク、危険を冒す(冒険)と言えば、アドベンチャーです。この言葉の語源のアドベントは、クリスマス前の待降節のことです。あのクリスマスを待ち望む約3週間は、罪深い私たちにとって、救い主イエスさまの誕生が待ち遠しい日々です。しかし、父である神さまにしてみれば、私たちを罪から救うために、愛する独り子イエスさまに、肉を纏わせたのです。肉(人間)とは、罪に塗れて、どろどろとしたものです。そのヘドロのようなものを、親は、子どもに被せますか。親は、子どもに罪を着せますか。イエスさまにとって、天のお父さんである神は、その肉である罪を着せたのです。イエスさま御自身は、全く罪を犯されませんでしたが、この試練によって、人間の弱さと愚かさに同情されました。そして、その肉を着て、十字架に架けられ、私たち罪深い人間の罪の贖いの供え物(犠牲)とされたので、肉は裂け、血が流れ出たのです。クリスマスは、私たちにとっては喜びでも、神さまにとっては苦悩です。つまり、人間は、神に対して罪を犯し、神は、その罪深い人間を救うためにリスクを犯し、そのリスクがイエスさまなのです。親からヘドロを着せられた子どもは、お父さんに「どうして、そのようなことを為さるのですか」と聞かないでしょうか。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と訴えない神の子どもがいるでしょうか。だから、イエスさまは祈るのです。
このように、イエスさまが、18節「ひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共に」いました。イエスさまは、一人で祈る時もあれば、弟子たちを連れて行く時もありました。大体、弟子たちを連れて行く時は、信仰上、重要な出来事が絡んでいます。例えば、この先の9章28節には「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」とあります。そこで、イエスさまは、変貌(トランスフィグレーション)これは、変革とか、変化を意味するトランスフォーメンションの派生語です。そこで、イエスさまは、神の救いの御計画を、弟子たちに明かされるのです。また、更に先の22章39節〜41節では、イエスさまが最後の晩餐の部屋から出て「いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」のです。そして、イエスさまは「いつもの場所に来ると」弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ「自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて」祈られたのです。その祈りには、十字架の死という苦い杯を飲み干すことへの深い葛藤が見られます。しかし、イエスさまは「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたのです。しかし、弟子たちは、皆、ひと時も目を覚ましていることはできずに眠っていました。
そして、今日の祈りの場面にも弟子たちがいました。ということは、ここで、イエスさまに関する重大事が明かされたということになります。イエスさまは、弟子たちに、18節「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました。すると、弟子たちは、19節「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」と答えました。群衆の大半は、イエスさまを「洗礼者ヨハネだ」と言っていたようです。洗礼者ヨハネは、イエスさまの母マリアが、イエスさまを身ごもる6か月前に、マリアの親戚のエリサベトの胎に宿り、その胎内でイエスさまが主であると証ししました。その後、イエスさまが30歳で公生涯を始めるために世に出る直前にも「荒れ野で叫ぶ者の声」として現れました。その頃、3章15節には「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と記されています。しかし、ヨハネは、3章16節「わたしよりも優れた方が来られる」とイエスさまを証ししました。その後、ヨハネは、その頃ガリラヤの領主だったヘロデ王の息子ヘロデ・アンティパスの罪を指摘したことで、結局は、幽閉され、群衆の知らぬ間に斬首されます。それで、イエスさまを「洗礼者ヨハネだ」という人がいたのでしょう。また、他に「エリヤだ」という人もいました。エリヤは、旧約時代、北王国イスラエルに遣わされた預言者で、モーセと並ぶ大預言者と呼ばれています。エリヤは、イエスさまのような奇跡(病気の癒し、死者の蘇生)を、後継者のエリシャと同様に行ないました。また、このエリヤは、世を去る時に、死を見ず天に昇っており、イエスさまの昇天のひな型であり、それが大預言者と呼ばれる所以でもあります。エリヤの最後は、天から駆けて来た火の馬が引く火の戦車に乗って天に昇りました。だから、人々は、このエリヤが再び地上に遣わされることを期待していたし、預言者マラキも、マラキ書3章23節で「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と預言していたというのもあります。その他に、マタイ福音書の同じ物語では、16章14節「エレミヤだ」という人もいました。エレミヤは、南王国ユダに遣わされた預言者で、涙の預言者とも呼ばれた哀歌の著者でもあります。エレミヤは、バビロンの支配下で、エジプトへ逃亡したユダの人々によって連れて行かれ、そこで生涯を閉じます。そういうことで、エレミヤも洗礼者ヨハネのように、人々の知らぬ間に死んだので、名前が挙がったのでしょう。また「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」という人もいました。これに関しては、未だにイエスさまのことを、一預言者と見なす民族や人々がいます。彼らの共通点は、決して、それは、もう可笑しなくらい、イエスさまを神の子・救い主とは認めないということです。だから、そういう人たちにしてみれば、イエスさまの具体的な業や教えは、良い人間の行ないであり、素晴らしい人間の思想に過ぎません。そして、そのイエスさまの御名や御言葉を借りながら、自分たちの思想や主義主張を実現しようとするのです。それは、ヒューマニストの人間性であり、人間愛を重んじる救いであり、神の子・救い主が与えてくださる救いの恵みとは違います。
そこで、イエスさまは、弟子たちに、もう一度言われました。20節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。すると、ペトロが答えました。「神からのメシアです」と。ペトロは、イエスさまを「神からのキリスト」「神から遣わされた、神の子・救い主です」と言ったのです。たった一言ですが、この一言を言う人は言うし、言わない人は決して言いません。言う人は殉教や死と引き換えでも言うし、言わない人は口が裂けても言いません。これが簡単なようで実に難しい『信仰の告白』です。そして、この『信仰の告白』と同様に、簡単なようで難しいのが『罪の告白』です。世の中では、自分が罪人だと認めれば、敗者となるという構図ができ上がっており、これまた、自分が間違っていた、自分が誤っていたということを言う人は言うし、言わない人は決して言いません。言う人は自分が正しくても、自分にも至らないところはあったと言えるし、言わない人は目の前に、どんな証拠を突き付けられても言いません。しかし、私たちは、最後の裁きの日に「幾つかの書物」(ヨハネ黙示録20章12節)が開かれ、そこに書かれている自分の行いによって裁かれます。その行いによって救われる人は、誰一人としていません。しかし「もう一つの書物」である「命の書」も開かれます。そこには、救われる人々の名前が記されています。その人々は、神の前で自らの罪を告白し、悔い改め、そして、神の子・救い主イエス・キリストの十字架の罪の贖いと、復活による永遠の命を信じる信仰を告白しました。今日の物語のマタイ福音書のほうで、イエスさまは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、その問いに信仰をもって答えたペトロに、こう言われました。「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と。つまり、イエスさまは、自分の罪を告白し、イエスさまを神の子・救い主と信じる信仰の告白の上に教会を建てると言われたのです。この信仰の告白について聖書は言っています。コリントの信徒への手紙1、12章3節「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と。それでは、皆さん『あなたにとって主とは』誰ですか。「はい。わたしの主は、わたしの罪のために十字架に架かり、死んで復活されたイエスさまです。」この信仰を告白し、主が恵みによって生かしてくださる日々を感謝していきましょう。
2024年07月28日
2024年7月28日 主日スクリーン伝道礼拝「あなたにとって主とは」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:15| 日記
2024年8月4日 主日礼拝予告
〇教会学校
7月28日(日)〜8月18日(日)まで夏休校です。
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書9章21節〜27節、詩編51篇12節〜21節
説 教: 「自分の十字架を背負って」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
7月28日(日)〜8月18日(日)まで夏休校です。
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書9章21節〜27節、詩編51篇12節〜21節
説 教: 「自分の十字架を背負って」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:19| 日記
2024年07月21日
2024年7月21日 主日聖歌隊礼拝「しかない」大坪信章牧師
ルカによる福音書9章10節〜17節、列王記下4章42節〜44節
「しかない」
12人の弟子たちは、9章1節で、イエスさまから「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を」授けられ、各地の宣教へ派遣されました。その後、10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」のです。つまり、9章で、宣教の壮行会が行なわれ、ここでは、その報告会が行なわれました。弟子たちは、派遣先で、これまでイエスさまから聞いて学んだ教えを語り、見て来た奇跡を見様見真似で起こしました。その宣教報告の内容については、10章の出来事が参考になります。そこでは、他に72人の弟子たちが、イエスさまに選ばれて宣教に派遣されます。おそらく、弟子たち12人の宣教報告は、その72人の宣教に、大きな影響を及ぼしたはずです。なぜなら、10章2節で、イエスさまは「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言って、72人を宣教に遣わすからです。だから、12人の弟子たちの宣教報告は、救われる人たちが多いという、嬉しい悲鳴だったと推察できます。
12人の弟子たちは、常日頃からイエスさまの傍で教えを聞いて学び、癒やしを見ては驚いていました。そういう意味で、弟子と言っても、群衆と一線を画すような、突出した何かを身に着けていたわけではありません。しかし、イエスさまから「力と権能」を授かって、派遣先から帰った弟子たちは、一回りも二回りも成長し、呼び名も、10節で「使徒たちは」となっています。この「使徒」という呼び名は、6章13節で、イエスさまが12人の弟子たちを選ばれた時に名付けた呼び名です。これは「神から権威(権能)をもって遣わされた者」という意味があり、正に今、その宣教に携わったのです。その権能とは、悪霊の追放や病気の治癒のための力ですが、マタイ福音書の、同じ派遣物語では、他に、死者の蘇生、重い皮膚病を清める力も授けられています。しかし、今日では、そういった力や権能は、特に神から遣わされた者の証拠ではなくなりました。それは、神から遣わされた神の子・救い主の証拠である、十字架と復活の救いが実現したからです。復活のイエスさまは、昇天前、使徒たちを全世界に遣わすべく、マタイ福音書28章で大宣教命令を下します。その中で、イエスさまは、使徒たちに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と、洗礼と説教の権能を授けました。この洗礼と説教の権能によって、使徒たちは、イエスさまが十字架と復活の主であることを証言し、教会を立てていきます。だから、使徒パウロの教会の時代には、奇跡を敢えて行なう必要もなくなり、教会の時代には、コリントの教会を中心に、賜物として扱われるようになりました。
こうして、宣教報告を聞いたイエスさまは、10節「彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれ」ました。「ベトサイダ」は、ガリラヤ湖北岸を東寄りに北へ登った、なだらかな丘の漁師町でした。また、同じ北岸の西寄りにある湖畔の町カファルナウムは、収税所もある交通の要衝で、商工業も盛んな都会でした。この2つの町の距離は約8キロでした。イエスさまが、弟子たちを連れてベトサイダに「退かれた」のは、宣教で疲れた心と体を休ませ一緒にリトリート(リフレッシュ)するためでした。ベトサイダは、弟子の幾人かの故郷で、リトリートには最適の場所でした。しかし、弟子たちの宣教によって奇跡に与った群衆は、11節「そのこと(退かれたこと)を知って」イエスさまの後を「追った」ので、リトリートどころではなくなりました。そこでイエスさまは、弟子たちを休ませるため、お一人で「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を」癒やされたのです。 そうしているうちに、12節「日が傾きかけたので、十二人はそばに来て」イエスさまに言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と。休息していた弟子たちは、一人で群衆を相手にするイエスさまの疲労、そして、群衆の寝食を案じました。しかし、イエスさまは弟子たちに、13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。弟子たちは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と答えました。というのは、14節「男が五千人ほどいた」ため、手持ちのパンと魚では賄えなかったからです。男だけで5000人、女性や子どもを入れれば2万人近くなります。弟子たちは、買い物に行けば、という可能性を考えましたが、共観福音書の同じ物語では、弟子のフィリポが、すぐに計算して「200デナリオン(約160万円)ものパン」が必要になる。けれども、それでも「足りない」と言いました。なぜ、イエスさまは、このような無理難題を弟子たちに要求したのでしょうか。
実は、宣教から帰ってきた12人の弟子たちは、権能を身に着けた自分を優れた者と思い自惚れていたのです。それは、10章の72人の弟子たちの宣教報告から窺い知れます。72人は、10章17節「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言いましたが、イエスさまは、20節「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。72人には自惚れを…、しかし、イエスさまの言葉には、平安だけを感じます。12人も、宣教から帰って以降、自分の力で何でもできると思い違いをし始めていたのです。しかし、イエスさまから「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われて手元を見たら「パン五つと魚二匹しか」なく、次に、自分たちで食べ物を買いに行こうと計算してみても、結果は「足りない」でした。私たちは、普段から「しかない」という類の言い方が染みついてしまっています。「人数は、これしかいない」「希望は、これだけしかない」「可能性は、これしかない」「寿命は、僅かしかない」と、失望の言葉を並べます。そのあとに続く言葉は「諦めるしかない」「死ぬしかない」です。でも、それではいけないので「生きるしかない」と言ったところで、その言葉には、悲壮感が漂っていて、更に自分を追い込んでしまいます。だから「しかない」では、どうしたって苦しいのです。理想は勿論「生きていていい」なのです。また、見方によっては「こんなにもある」と思い直して、それによって分け合い、喜び合い、感謝し合うこともできますが、それは、見方を変えただけであって、この物語の現実のように限界があります。限界を前にした私たちは、次元を変える必要があります。要するに、目に見える現実への信仰から、目に見えない真実への信仰に乗り換えるのです。具体的には、手元足元ではなく、その先に思いを馳せるのです。目に見えるものや数字を信じるのではありません。それは、私たちの毎日、延いては、私たちの人生や命を、決して保証できない不確かなものです。だから、私たちは、目に見えない真実を信じる信仰に落ち着く必要があります。ただ、実際は、それをする力さえも、自分にはありません。
それでは、どうすれば良いのでしょうか。その時、弟子たちは、イエスさまから、14節15節「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われました。弟子たちは、イエスさまの言葉通り「皆を座らせ」ました。これは、自分の力で何かを始める時の姿勢ではありません。ある意味、これは、人が諦める時に取りやすい姿勢、座り込んでしまうのにも似ていますが、それなら別に、組み分けは必要ありません。実に、この姿勢は、簡単に言えば「頂戴」の姿勢なのです。立ったままで食事をする人は稀です。御言葉通りに従って、50人が一つの食卓を囲めば、5000人なので100の食卓。家族を含めれば2万人なので、200人が一つの食卓を囲む100の食卓ができます。これは、十字架前夜の最後の晩餐の時も同じでした。イエスさまは、弟子たちに、過ぎ越しの食事を準備させ、弟子たちは、イエスさまの言葉通りに、ある家の二階の部屋に、食事を準備しました。このように私たちは、自分の力では、自分を救えないのです。しかし、救いへの準備は出来ます。イエスさまの再臨の日が早く来てほしくても、今の所まだのようです。だから、その日のために準備してイエスさまを待っています。救いは、自分の力で勝ち取るものではなく、主が与えてくださるものなのです。だから、私たちは、主が与えてくださる恵みを、ただ感謝して受けるのです。救いへの準備は、罪を悔い改めながら、御言葉に従って生きるということです。
その時、イエスさまは、16節「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ました。恵や救いは、イエスさまを通して与えられるのです。弟子たちは、給仕として、その恵みを配って回りました。その時、弟子たちは、決して、主人ではありませんでした。弟子たちが主になっても、結果は、五つのパンと二匹の魚「しかない」からです。要するに、自分が主になって何かを行なうには、限界があるのです。しかし、イエスさまを通して与えられるものには、限界がありません。なぜなら、神は、無から有を生み出すことが出来るからです。だから、17節「すべての人が食べて満腹」したのです。「そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」のです。これは、勿論、給仕を務めた弟子たちの分です。弟子たちは、宣教に遣わされ以降、ずっと、食事をする暇もなかったからです。こうして、私たちは「生きていていい」という理想が現実のものとなったのです。イエス・キリストを信じるのです。このイエス・キリストを通して、その十字架の贖いによって、私たちは罪の赦しを得、その復活によって永遠の命を得るからです。その時、私たちは「する」よりも、ただ、そこに「いる」ことによって救われるということが起こるのです。「ここにいていい」のです。そして、イエス・キリストを通して与えられる無尽蔵の恵みを、共に分かち合っていくのです。
「しかない」
12人の弟子たちは、9章1節で、イエスさまから「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を」授けられ、各地の宣教へ派遣されました。その後、10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」のです。つまり、9章で、宣教の壮行会が行なわれ、ここでは、その報告会が行なわれました。弟子たちは、派遣先で、これまでイエスさまから聞いて学んだ教えを語り、見て来た奇跡を見様見真似で起こしました。その宣教報告の内容については、10章の出来事が参考になります。そこでは、他に72人の弟子たちが、イエスさまに選ばれて宣教に派遣されます。おそらく、弟子たち12人の宣教報告は、その72人の宣教に、大きな影響を及ぼしたはずです。なぜなら、10章2節で、イエスさまは「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言って、72人を宣教に遣わすからです。だから、12人の弟子たちの宣教報告は、救われる人たちが多いという、嬉しい悲鳴だったと推察できます。
12人の弟子たちは、常日頃からイエスさまの傍で教えを聞いて学び、癒やしを見ては驚いていました。そういう意味で、弟子と言っても、群衆と一線を画すような、突出した何かを身に着けていたわけではありません。しかし、イエスさまから「力と権能」を授かって、派遣先から帰った弟子たちは、一回りも二回りも成長し、呼び名も、10節で「使徒たちは」となっています。この「使徒」という呼び名は、6章13節で、イエスさまが12人の弟子たちを選ばれた時に名付けた呼び名です。これは「神から権威(権能)をもって遣わされた者」という意味があり、正に今、その宣教に携わったのです。その権能とは、悪霊の追放や病気の治癒のための力ですが、マタイ福音書の、同じ派遣物語では、他に、死者の蘇生、重い皮膚病を清める力も授けられています。しかし、今日では、そういった力や権能は、特に神から遣わされた者の証拠ではなくなりました。それは、神から遣わされた神の子・救い主の証拠である、十字架と復活の救いが実現したからです。復活のイエスさまは、昇天前、使徒たちを全世界に遣わすべく、マタイ福音書28章で大宣教命令を下します。その中で、イエスさまは、使徒たちに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と、洗礼と説教の権能を授けました。この洗礼と説教の権能によって、使徒たちは、イエスさまが十字架と復活の主であることを証言し、教会を立てていきます。だから、使徒パウロの教会の時代には、奇跡を敢えて行なう必要もなくなり、教会の時代には、コリントの教会を中心に、賜物として扱われるようになりました。
こうして、宣教報告を聞いたイエスさまは、10節「彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれ」ました。「ベトサイダ」は、ガリラヤ湖北岸を東寄りに北へ登った、なだらかな丘の漁師町でした。また、同じ北岸の西寄りにある湖畔の町カファルナウムは、収税所もある交通の要衝で、商工業も盛んな都会でした。この2つの町の距離は約8キロでした。イエスさまが、弟子たちを連れてベトサイダに「退かれた」のは、宣教で疲れた心と体を休ませ一緒にリトリート(リフレッシュ)するためでした。ベトサイダは、弟子の幾人かの故郷で、リトリートには最適の場所でした。しかし、弟子たちの宣教によって奇跡に与った群衆は、11節「そのこと(退かれたこと)を知って」イエスさまの後を「追った」ので、リトリートどころではなくなりました。そこでイエスさまは、弟子たちを休ませるため、お一人で「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々を」癒やされたのです。 そうしているうちに、12節「日が傾きかけたので、十二人はそばに来て」イエスさまに言いました。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と。休息していた弟子たちは、一人で群衆を相手にするイエスさまの疲労、そして、群衆の寝食を案じました。しかし、イエスさまは弟子たちに、13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。弟子たちは「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」と答えました。というのは、14節「男が五千人ほどいた」ため、手持ちのパンと魚では賄えなかったからです。男だけで5000人、女性や子どもを入れれば2万人近くなります。弟子たちは、買い物に行けば、という可能性を考えましたが、共観福音書の同じ物語では、弟子のフィリポが、すぐに計算して「200デナリオン(約160万円)ものパン」が必要になる。けれども、それでも「足りない」と言いました。なぜ、イエスさまは、このような無理難題を弟子たちに要求したのでしょうか。
実は、宣教から帰ってきた12人の弟子たちは、権能を身に着けた自分を優れた者と思い自惚れていたのです。それは、10章の72人の弟子たちの宣教報告から窺い知れます。72人は、10章17節「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言いましたが、イエスさまは、20節「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われました。72人には自惚れを…、しかし、イエスさまの言葉には、平安だけを感じます。12人も、宣教から帰って以降、自分の力で何でもできると思い違いをし始めていたのです。しかし、イエスさまから「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われて手元を見たら「パン五つと魚二匹しか」なく、次に、自分たちで食べ物を買いに行こうと計算してみても、結果は「足りない」でした。私たちは、普段から「しかない」という類の言い方が染みついてしまっています。「人数は、これしかいない」「希望は、これだけしかない」「可能性は、これしかない」「寿命は、僅かしかない」と、失望の言葉を並べます。そのあとに続く言葉は「諦めるしかない」「死ぬしかない」です。でも、それではいけないので「生きるしかない」と言ったところで、その言葉には、悲壮感が漂っていて、更に自分を追い込んでしまいます。だから「しかない」では、どうしたって苦しいのです。理想は勿論「生きていていい」なのです。また、見方によっては「こんなにもある」と思い直して、それによって分け合い、喜び合い、感謝し合うこともできますが、それは、見方を変えただけであって、この物語の現実のように限界があります。限界を前にした私たちは、次元を変える必要があります。要するに、目に見える現実への信仰から、目に見えない真実への信仰に乗り換えるのです。具体的には、手元足元ではなく、その先に思いを馳せるのです。目に見えるものや数字を信じるのではありません。それは、私たちの毎日、延いては、私たちの人生や命を、決して保証できない不確かなものです。だから、私たちは、目に見えない真実を信じる信仰に落ち着く必要があります。ただ、実際は、それをする力さえも、自分にはありません。
それでは、どうすれば良いのでしょうか。その時、弟子たちは、イエスさまから、14節15節「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われました。弟子たちは、イエスさまの言葉通り「皆を座らせ」ました。これは、自分の力で何かを始める時の姿勢ではありません。ある意味、これは、人が諦める時に取りやすい姿勢、座り込んでしまうのにも似ていますが、それなら別に、組み分けは必要ありません。実に、この姿勢は、簡単に言えば「頂戴」の姿勢なのです。立ったままで食事をする人は稀です。御言葉通りに従って、50人が一つの食卓を囲めば、5000人なので100の食卓。家族を含めれば2万人なので、200人が一つの食卓を囲む100の食卓ができます。これは、十字架前夜の最後の晩餐の時も同じでした。イエスさまは、弟子たちに、過ぎ越しの食事を準備させ、弟子たちは、イエスさまの言葉通りに、ある家の二階の部屋に、食事を準備しました。このように私たちは、自分の力では、自分を救えないのです。しかし、救いへの準備は出来ます。イエスさまの再臨の日が早く来てほしくても、今の所まだのようです。だから、その日のために準備してイエスさまを待っています。救いは、自分の力で勝ち取るものではなく、主が与えてくださるものなのです。だから、私たちは、主が与えてくださる恵みを、ただ感謝して受けるのです。救いへの準備は、罪を悔い改めながら、御言葉に従って生きるということです。
その時、イエスさまは、16節「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせ」ました。恵や救いは、イエスさまを通して与えられるのです。弟子たちは、給仕として、その恵みを配って回りました。その時、弟子たちは、決して、主人ではありませんでした。弟子たちが主になっても、結果は、五つのパンと二匹の魚「しかない」からです。要するに、自分が主になって何かを行なうには、限界があるのです。しかし、イエスさまを通して与えられるものには、限界がありません。なぜなら、神は、無から有を生み出すことが出来るからです。だから、17節「すべての人が食べて満腹」したのです。「そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」のです。これは、勿論、給仕を務めた弟子たちの分です。弟子たちは、宣教に遣わされ以降、ずっと、食事をする暇もなかったからです。こうして、私たちは「生きていていい」という理想が現実のものとなったのです。イエス・キリストを信じるのです。このイエス・キリストを通して、その十字架の贖いによって、私たちは罪の赦しを得、その復活によって永遠の命を得るからです。その時、私たちは「する」よりも、ただ、そこに「いる」ことによって救われるということが起こるのです。「ここにいていい」のです。そして、イエス・キリストを通して与えられる無尽蔵の恵みを、共に分かち合っていくのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:15| 日記