〇教会学校 10時30分〜の礼拝に合流します。
通常の9時15分〜の礼拝はありません。
〇主日神の家族礼拝 10時30分〜
聖 書:マタイによる福音書13章1節〜9節、詩編126篇5節〜6節
説 教:「種を蒔く人のたとえ」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
2024年08月29日
2024年9月8日 礼拝予告
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:01| 日記
2024年08月25日
2024年8月25日 主日スクリーン伝道礼拝説教「よこしまな時代」大坪信章牧師
ルカによる福音書9章37節〜43節a、列王記下19章14節〜19節
「よこしまな時代」
イエスさまは、3人の弟子たちを連れて、高い山(ヘルモン山)の頂きで、変貌(トランスフィグレーション)されました。それは、まさにイエスさまが、キリスト、神の子・救い主であることが、明らかにされた出来事でした。その「翌日、一同が山を下りると」山の麓では、37節「大勢の群衆がイエスを出迎え」ました。このような状況(構図)は、ごく普通に見慣れた光景で、少なからず、これまで、ずっとそうでした。少し前の出来事、8章40節では、イエスさまが、弟子たちと共にガリラヤ湖の向こう岸(ゲラサ人の地方)に舟に乗って行き、また、そこから舟に乗って「帰って来られる」ということがありました。その時も「群衆は喜んで迎えた」と書いてあります。群衆たちは、イエスさまが戻って来られるのを、今か今かと待ち構えていたのです。今日の物語でも、人々は皆、イエスさまを求めて、ヘルモン山の麓に集まっていました。勿論、群衆たちが、イエスさまを出迎えるというのには、どんな時も、それ相応の目的がありました。それは、自分や自分の家族、或いは、友人たちが、病気や悪霊から解放されるという目的でした。
そうして、イエスさまが山の麓に降り立つと、38節39節「一人の男が群衆の中から大声で言った」のです。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません」と。案の定「一人の男」の「一人息子」には「悪霊」が取りついていたようです。悪霊は、子どもに「突然叫びだ」させ「けいれんを」起こさせ「泡を吹かせ」ました。そうして、悪霊は、子どもを「さんざん苦しめて」「なかなか離れ」なかったので、子どもは、相当の気力や体力が奪われ、日を追うごとに衰弱していきました。「一人の男」は、このように、自分の大事な愛する「一人息子」に悪さをする「悪霊」を、何とか息子から追い出して、息子を解放し、自由の身にしてほしかったのです。ただ、この物語は、少し複雑でした。大勢の群衆と共に、イエスさまを「出迎えた」「一人の男」は、イエスさまを待つ前に、既に、山の麓にいた弟子たちと接触していました。というのは、山には、イエスさまと一緒にペトロとヨハネとヤコブの3人の弟子たちだけが登っており、それ以外の9人の弟子たちは、山の麓で待機していたからです。「一人の男」は、イエスさまに言いました。40節「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と。「一人の男」は、まず、我が子から悪霊を追い出してくれるよう、イエスさまの弟子たちに頼み込んだのです。実際12人の弟子たちは、9章1節以下で、イエスさまによって宣教に遣わされています。その時、弟子たちは、それぞれイエスさまから「力と権能」を授かり、派遣先で、イエスさまが為さったように、人々の病気を癒し、悪霊を追い出しました。しかし、なぜか、この時は、悪霊を追い出せなかったのです。
その時、イエスさまは、その男や傍にいた弟子たち、並びに群衆たちの前で答えられました。41節「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい」と。そうして「一人の男」が、イエスさまのもとに「一人息子」を連れて行くと、悪霊の仕業は一段と激しく、42節「その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせ」ました。しかし、その子がイエスさまのもとに連れて来られた時、イエスさまは「汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しに」なりました。勿論、その場に居た人々は、43節「皆、神の偉大さに心を打たれた」のは言うまでもありません。いわゆる、昨日は、山の上で、イエスさまが、変貌(トランスフィグレーション)され、イエスさまが、神の子、救い主キリストであることが、明らかにされました。そして、それは、山から下りた山の麓でも同じだったのです。
ところで、これで話しが終わって、よい訳はありません。私たちは、イエスさまが、山の上でも山の麓でも神の子・救い主キリストであるということを知りました。それは、イエスさまが、天においても地上においても、神の子・救い主キリストであるということを知ったのです。だから、イエスさまには、悪霊を追い出すことができるのです。それでは、なぜ、そのイエスさまから「権能と力」を与えられた弟子たちは、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。9章1節以下で、弟子たちが宣教に遣わされた時には、それが、できたのです。それなのに、なぜ、今は、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。それについて、共観福音書のマタイやマルコでは、弟子たち自身が、イエスさまに直接、その理由を尋ねています。すると、マタイのほうでは、イエスさまが弟子たちに、次のように答えられました。17章20節「信仰が薄いからだ」と。また、マルコのほうでは、イエスさまが、弟子たちに、次のように答えられました。9章29節「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と。おまけに、マルコのほうでは、自分の息子から悪霊を追い出してほしいと願った父親自体が、イエスさまに「おできになるなら」と言って、イエスさまから「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と窘められています。このように、弟子たちや父親には、この時、信仰もなければ、祈りもなかったのです。それでは、そこに何があったのかと言えば、それは、イエスさまが、この彼らの状態を見て言われた言葉が物語っています。イエスさまは、41節「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われました。他の訳では「曲がった時代」「歪んだ世代」「堕落した世代」など、そういう時代のことを指しています。或いは「ひねくれた世代の人々」「邪悪な世代の人々」また、その「子孫」というような、そういう種族、民、また、そういう民の血を受け継いだ子どもたちのことを指しています。確かに、時代は、人であると言えますし、人は、時代であるとも言えます。また、時代は、人によって変わるし、人は、時代によって変わるとも言えます。しかし、その時の状況は、時代も人も、決して喜ぶことができない、それは、まさに「よこしま」でした。「曲がって」いました。いずれにしろ、その時に、山の麓にいた人々は、神さまに対して「まっすぐ」ではなかったのです。神さまに対して「曲がっていた」のです。それは、彼らが業を行なう時に、イエスさまの御名を信じ、その御名に頼り、その御名によって祈らなかったのです。つまり、自分の力、自分の能力、自分のやり方によったのです。9章1節以下で、宣教に遣わされた時の弟子たちは、イエスさまの存在や、その影響力を身近に感じていたので、イエスさまの御名を信じ、御名によって祈りました。
しかし、山の麓では、少し状況が違いました。イエスさまは、山に登っておられたからです。それは、弟子たちが宣教に派遣された時とは、明らかに様子が違っていました。イエスさまは、弟子たちから離れた状態、雲の上にいるような状況だったのです。それは、まるで、あの出エジプト記の物語と酷似しています。モーセは、シナイ山とも呼ばれた神の山ホレブの頂きで、神さまから十戒を授っていました。そして、山の麓では、出エジプト記32章1節以下を見ると「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民が(モーセの兄)アロンのもとに集まって来て」言ったのです。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と。そして、アロンは、イスラエルの民から、エジプトで手に入れた金の装飾品を集めて、それを鋳造し、彼らのために金の子牛を作ったのです。そして、民と共に、その偶像を礼拝した時、主は、モーセに言われました。7節8節「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」と。このように、イスラエルの民は、神さまに対して「まっすぐ」ではありませんでした。「曲がって」いました。彼らは、自分たちの力で、自分たちの能力で、自分たちの方法で金の子牛を作り、それを拝んで救われようとしました。これが「よこしまな時代」なのです。「よこしまな道」と書いて、邪道と読みますが、まさに、イスラエルの民がしたことは邪道であり、その子孫である、弟子たちを含む人々もまた、今、この物語の中でそうであるように邪道でした。イスラエルの民の歴史は、そもそも、そういう邪道の歴史でした。そう言えば、あの民数記20章では、モーセでさえ、そうでした。イスラエルの民が、荒れ野で水をくれと呟くので、モーセが神の前にひれ伏すと、神さまから「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われたのです。しかし、モーセは「杖で岩を二度打つ」という自分のやり方を実行してしまったのです。それは、神に喜ばれず、モーセは、それが原因で、約束の地カナンに足を踏み入れる前に生涯を閉じました。
イエスさまは、この後、第2回目の受難予告を為さいます。イエスさまが、右にも左にも逸れることなく、まっすぐに歩いて向かわれるのは、十字架と復活の救いの道です。イエスさまが、神さまに対して邪道を行かれるなら、私たちも、その後に続けばよいのです。しかし、イエスさまが、神さまに対して、まっすぐな道を行かれるなら、私たちもまた、その後に続くのです。これが信仰です。この信仰には、人間の知恵も知識も経験も必要ありません。それは、むしろ、イエスさまを信じ、イエスさまに従っていく中で妨げになります。今、時代も、人々も「よこしま」です。神が遣わされた神の子、救い主キリストを信じ、従う人のいない時代です。私たちは、その波に呑まれることなく、むしろ、その波を切り裂くような「まっすぐな信仰」によって、イエスさまを見つめ、イエスさまに従っていきたいと思います。
「よこしまな時代」
イエスさまは、3人の弟子たちを連れて、高い山(ヘルモン山)の頂きで、変貌(トランスフィグレーション)されました。それは、まさにイエスさまが、キリスト、神の子・救い主であることが、明らかにされた出来事でした。その「翌日、一同が山を下りると」山の麓では、37節「大勢の群衆がイエスを出迎え」ました。このような状況(構図)は、ごく普通に見慣れた光景で、少なからず、これまで、ずっとそうでした。少し前の出来事、8章40節では、イエスさまが、弟子たちと共にガリラヤ湖の向こう岸(ゲラサ人の地方)に舟に乗って行き、また、そこから舟に乗って「帰って来られる」ということがありました。その時も「群衆は喜んで迎えた」と書いてあります。群衆たちは、イエスさまが戻って来られるのを、今か今かと待ち構えていたのです。今日の物語でも、人々は皆、イエスさまを求めて、ヘルモン山の麓に集まっていました。勿論、群衆たちが、イエスさまを出迎えるというのには、どんな時も、それ相応の目的がありました。それは、自分や自分の家族、或いは、友人たちが、病気や悪霊から解放されるという目的でした。
そうして、イエスさまが山の麓に降り立つと、38節39節「一人の男が群衆の中から大声で言った」のです。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません」と。案の定「一人の男」の「一人息子」には「悪霊」が取りついていたようです。悪霊は、子どもに「突然叫びだ」させ「けいれんを」起こさせ「泡を吹かせ」ました。そうして、悪霊は、子どもを「さんざん苦しめて」「なかなか離れ」なかったので、子どもは、相当の気力や体力が奪われ、日を追うごとに衰弱していきました。「一人の男」は、このように、自分の大事な愛する「一人息子」に悪さをする「悪霊」を、何とか息子から追い出して、息子を解放し、自由の身にしてほしかったのです。ただ、この物語は、少し複雑でした。大勢の群衆と共に、イエスさまを「出迎えた」「一人の男」は、イエスさまを待つ前に、既に、山の麓にいた弟子たちと接触していました。というのは、山には、イエスさまと一緒にペトロとヨハネとヤコブの3人の弟子たちだけが登っており、それ以外の9人の弟子たちは、山の麓で待機していたからです。「一人の男」は、イエスさまに言いました。40節「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と。「一人の男」は、まず、我が子から悪霊を追い出してくれるよう、イエスさまの弟子たちに頼み込んだのです。実際12人の弟子たちは、9章1節以下で、イエスさまによって宣教に遣わされています。その時、弟子たちは、それぞれイエスさまから「力と権能」を授かり、派遣先で、イエスさまが為さったように、人々の病気を癒し、悪霊を追い出しました。しかし、なぜか、この時は、悪霊を追い出せなかったのです。
その時、イエスさまは、その男や傍にいた弟子たち、並びに群衆たちの前で答えられました。41節「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい」と。そうして「一人の男」が、イエスさまのもとに「一人息子」を連れて行くと、悪霊の仕業は一段と激しく、42節「その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせ」ました。しかし、その子がイエスさまのもとに連れて来られた時、イエスさまは「汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しに」なりました。勿論、その場に居た人々は、43節「皆、神の偉大さに心を打たれた」のは言うまでもありません。いわゆる、昨日は、山の上で、イエスさまが、変貌(トランスフィグレーション)され、イエスさまが、神の子、救い主キリストであることが、明らかにされました。そして、それは、山から下りた山の麓でも同じだったのです。
ところで、これで話しが終わって、よい訳はありません。私たちは、イエスさまが、山の上でも山の麓でも神の子・救い主キリストであるということを知りました。それは、イエスさまが、天においても地上においても、神の子・救い主キリストであるということを知ったのです。だから、イエスさまには、悪霊を追い出すことができるのです。それでは、なぜ、そのイエスさまから「権能と力」を与えられた弟子たちは、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。9章1節以下で、弟子たちが宣教に遣わされた時には、それが、できたのです。それなのに、なぜ、今は、悪霊を追い出せなかったのでしょうか。それについて、共観福音書のマタイやマルコでは、弟子たち自身が、イエスさまに直接、その理由を尋ねています。すると、マタイのほうでは、イエスさまが弟子たちに、次のように答えられました。17章20節「信仰が薄いからだ」と。また、マルコのほうでは、イエスさまが、弟子たちに、次のように答えられました。9章29節「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と。おまけに、マルコのほうでは、自分の息子から悪霊を追い出してほしいと願った父親自体が、イエスさまに「おできになるなら」と言って、イエスさまから「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と窘められています。このように、弟子たちや父親には、この時、信仰もなければ、祈りもなかったのです。それでは、そこに何があったのかと言えば、それは、イエスさまが、この彼らの状態を見て言われた言葉が物語っています。イエスさまは、41節「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われました。他の訳では「曲がった時代」「歪んだ世代」「堕落した世代」など、そういう時代のことを指しています。或いは「ひねくれた世代の人々」「邪悪な世代の人々」また、その「子孫」というような、そういう種族、民、また、そういう民の血を受け継いだ子どもたちのことを指しています。確かに、時代は、人であると言えますし、人は、時代であるとも言えます。また、時代は、人によって変わるし、人は、時代によって変わるとも言えます。しかし、その時の状況は、時代も人も、決して喜ぶことができない、それは、まさに「よこしま」でした。「曲がって」いました。いずれにしろ、その時に、山の麓にいた人々は、神さまに対して「まっすぐ」ではなかったのです。神さまに対して「曲がっていた」のです。それは、彼らが業を行なう時に、イエスさまの御名を信じ、その御名に頼り、その御名によって祈らなかったのです。つまり、自分の力、自分の能力、自分のやり方によったのです。9章1節以下で、宣教に遣わされた時の弟子たちは、イエスさまの存在や、その影響力を身近に感じていたので、イエスさまの御名を信じ、御名によって祈りました。
しかし、山の麓では、少し状況が違いました。イエスさまは、山に登っておられたからです。それは、弟子たちが宣教に派遣された時とは、明らかに様子が違っていました。イエスさまは、弟子たちから離れた状態、雲の上にいるような状況だったのです。それは、まるで、あの出エジプト記の物語と酷似しています。モーセは、シナイ山とも呼ばれた神の山ホレブの頂きで、神さまから十戒を授っていました。そして、山の麓では、出エジプト記32章1節以下を見ると「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民が(モーセの兄)アロンのもとに集まって来て」言ったのです。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と。そして、アロンは、イスラエルの民から、エジプトで手に入れた金の装飾品を集めて、それを鋳造し、彼らのために金の子牛を作ったのです。そして、民と共に、その偶像を礼拝した時、主は、モーセに言われました。7節8節「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」と。このように、イスラエルの民は、神さまに対して「まっすぐ」ではありませんでした。「曲がって」いました。彼らは、自分たちの力で、自分たちの能力で、自分たちの方法で金の子牛を作り、それを拝んで救われようとしました。これが「よこしまな時代」なのです。「よこしまな道」と書いて、邪道と読みますが、まさに、イスラエルの民がしたことは邪道であり、その子孫である、弟子たちを含む人々もまた、今、この物語の中でそうであるように邪道でした。イスラエルの民の歴史は、そもそも、そういう邪道の歴史でした。そう言えば、あの民数記20章では、モーセでさえ、そうでした。イスラエルの民が、荒れ野で水をくれと呟くので、モーセが神の前にひれ伏すと、神さまから「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われたのです。しかし、モーセは「杖で岩を二度打つ」という自分のやり方を実行してしまったのです。それは、神に喜ばれず、モーセは、それが原因で、約束の地カナンに足を踏み入れる前に生涯を閉じました。
イエスさまは、この後、第2回目の受難予告を為さいます。イエスさまが、右にも左にも逸れることなく、まっすぐに歩いて向かわれるのは、十字架と復活の救いの道です。イエスさまが、神さまに対して邪道を行かれるなら、私たちも、その後に続けばよいのです。しかし、イエスさまが、神さまに対して、まっすぐな道を行かれるなら、私たちもまた、その後に続くのです。これが信仰です。この信仰には、人間の知恵も知識も経験も必要ありません。それは、むしろ、イエスさまを信じ、イエスさまに従っていく中で妨げになります。今、時代も、人々も「よこしま」です。神が遣わされた神の子、救い主キリストを信じ、従う人のいない時代です。私たちは、その波に呑まれることなく、むしろ、その波を切り裂くような「まっすぐな信仰」によって、イエスさまを見つめ、イエスさまに従っていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記
2024年9月1日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖書:マタイによる福音書12章46節〜50節
説教:「主イエスの家族」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書9章43節b〜45節、イザヤ書6章9節〜13節
説 教:「言葉の理解と救い」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖書:マタイによる福音書12章46節〜50節
説教:「主イエスの家族」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書9章43節b〜45節、イザヤ書6章9節〜13節
説 教:「言葉の理解と救い」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 05:35| 日記