ルカによる福音書9章57節〜62節、申命記20章5節〜8節
「信仰と覚悟」
イエスさまは、51節で「天に上げられる時期」が近づいたので「エルサレムに向かう決意を固められ」ました。それは、御自分が、エルサレムで十字架に架かり、死んで、罪深い人間の罪を贖うために、神の言葉に従順になられたということです。私たちは、このイエスさまの十字架と、神が開かれたイエスさまの復活を、ただ信じるだけで救われます。この信仰によって与えられる救いの道は、この世における人間の成長とは真逆を行きます。人間は普通、小さい者(子ども)から大きい者(大人)へ成長します。しかし、信仰によって与えられる救いの道は、大きい者から小さい者、これは、単なる子どもではなく、神の子どもへ成長します。つまり、大きい者(傲慢)から小さい者(謙遜)、高い者(高慢)から低い者(謙虚)への成長です。世の人々は、自分を大きく高くし、自分を、より優位に立たせることで自分を救います。でも、それによって掴んだ喜びや幸せには、何の値打ちもありません。真の救いの喜びや幸せは、ただ、神に従順であられたイエスさまに、従順に従う道で与えられます。
こうして、イエスさまと弟子たちは、近道のサマリア人の村を通ってエルサレムを目指しました。けれども、村人たちから拒絶されたので迂回し、56節「一行は別の村に行った」のです。その迂回路で、イエスさまは、立て続けに3人の人と出会われます。これまで、人々がイエスさまに会う目的は、おもに心身の癒やしでしたが、ここでは、イエスさまに従うことが目的です。また、イエスさまが人に会う目的は、おもに弟子として従わせることですが、ここでも同じです。実際そうして従って来たのが12人の弟子たちですが、彼らの心は、自我や人間的な思いが渦巻き、それは、いつしか言葉の端々に表れ始めました。その自我や人間的な思いは、自分を含め、他の誰のためにもならないものでした。何よりイエスさまが教えられた神の国の価値観に、異を唱えるものでした。それは、このあと、イエスさまと3人の人たちとのやり取りの中でも明らかになります。今日のお話は、その3人のやり取りが中心なので、3つに分けてお話していきます。1つ目は、犠牲(献身)が伴わない信仰について。2つ目は、先延ばしの信仰について。3つ目は、中途半端な信仰についてです。
まず、1つ目の「犠牲(献身)が伴わない信仰」についてですが、57節に「一行が道を進んで行くと」イエスさまに向かって「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人がいました。この言葉から分かる、この人の人物像は、意気込みが半端ではなく、威勢がいい人ということです。しかし、イエスさまは、その意気込みに、まるで水をかけるように言われたのです。58節「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と。狐の「穴」、鳥の「巣」、そして「枕」と続けば、イエスさまには、寝床が無かったということなのでしょうか。でも、イエスさまは、嵐のガリラヤ湖の舟の上で、枕をして眠っておられたほどなので、寝る場所が無いわけでも、眠れなかったというのでもありません。ただ、御自分の家を持たなかったので、故郷のナザレの村を出て以降、ガリラヤ地方では、カファルナウムのペトロの姑の家が宣教の拠点でした。また、ユダヤ地方では、ベタニアのマルタとマリアの家が憩いの場でした。つまり、イエスさまは、神に従う道において、御自分の家を犠牲にされたのです。この犠牲に近い他の言葉に献身があります。個人的には、召命を受けて牧師になる決断をした頃、献身を意識しました。身を献げると書くので自分に死ぬ、或いは、この世に対して死ぬという意味に、当時は、足が、すくみそうでした。また、礼拝で捧げる献金の祈りには「信仰と献身のしるしとして献金を献げる」という言い方があります。いずれにしろ、イエスさまに従う信仰の道には、必ず献身や事物の犠牲が伴うのです。それは覚悟です。覚悟とは「危険なことや不利なことなどを予想し、それを受け止める心構え」のことだからです。迫害や試練も予想できます。だから、威勢のよさだけでイエスさまに従うことはできません。この人は、マタイ福音書では律法学者です。この人は、非の打ちどころが無い生き方に徹していたので、イエスさまに従えば、高い地位や名誉をもらえると思ったのでしょう。だから、恣意的な人(自分勝手な人)は、十字架の道(真理の道)で躓きます。ひとまず、この人に必要なのは、自分を捨てる覚悟(決心)です。
続いて、2つ目の「先延ばしの信仰」についてですが、イエスさまは、59節「別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った」のです。この人は、イエスさまに招かれたので、いわゆる12人の弟子たちと同じケースです。この人は、その招きを断ってはいませんが、「まず」と言って、招きに従う前に、優先すべきことがありました。それが「父を葬りに」行くことでした。おそらく、この時この人のもとに、父親が召天した報せが届いたのでしょう。そこで、この人が下した決断は、葬りと埋葬の一連の儀式が終わるまで、招きに応えるのを先延ばしにするということでした。この人は、葬りと埋葬の儀式のあと7日間、喪に服し、その後、社会生活を再開しつつ、更に30日間、喪に服します。親の場合は1年間、喪に服すため、この人がイエスさまに従うのは1年後です。或いは「父を葬りに」というのが、将来的に父親の面倒を見て、父親の最期を見届けてから従うとなると、それは、もう何年も先になります。いずれにしろ、この人は、イエスさまに従う気持ちがあっても、その時を後回しにしたのです。そこでイエスさまは、この人に言われました。60節「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。イエスさまは、死者への義務を果たす必要など無いと言ったのではありません。死者への義務は、残された他の人たちでもできるので、彼らに任せるようにと言われたのです。イエスさまは、残された人たちのことを「死んでいる者たち」と表現されました。これは、彼らには、信仰が無く、ただ死を待つだけの人だったからです。つまり、彼らは、十字架の道(真理の道)に従わなかったので、神の国を宣べ伝えることの緊急性や重要性が分からなかったのです。しかし、イエスさまが招き、それを受け入れた、この人には「神の国を言い広める」貴い務め(義務)があります。だから、私たちも、覚悟の上、何を最優先にすべきかを考える必要があります。なぜなら、覚悟は、それ以外のことを諦めるということでもあるからです。何よりもまず、神が最優先です。主の日が最優先です。祈りが最優先です。これらを先延ばしにして良いことなどありません。聖霊を悲しませる弊害は、非常に大きいのです。私たちが為すべきことは、まず、イエスさまに従い、十字架の道(真理の道)で「神の国を言い広める」ことなのです。
最後に、3つ目は「中途半端な信仰」についてですが、61節「また、別の人も言った」のです。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と。この人は、最初の律法学者のように、威勢が良いわけでも、何かをもらえるという魂胆があるわけでもなく、自ら喜んで、犠牲や献身も覚悟の上で、イエスさまに従うことを望みました。言ってみれば、この人は、3人の中で一番こころざしが高かったと言えます。ただ、この人には、2番目の人と同じで「まず」と言って、イエスさまに従う前に、優先すべきことがありました。それは「家族にいとまごいに行かせて」もらうということでした。これは、家族に別れの挨拶をするということなので、人間的な思いでは、そんなことぐらい、何も問題がないように感じるのです。しかし、イエスさまは、その人に言われました。62節「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と。「鋤」は、土を掘り起こし、植物の茎や根を切断して取り除く作業などに使われる農具です。その「鋤に手をかけ」たというのは、もう、その時点で、自分が果たさなければならない責任のある仕事(プロジェクト)が動き始めたということなのです。それは、例えば、港を出た船と同じです。事は、もう動き出したのです。だから、そこには、覚悟が必要なのです。覚悟とは、迷いを断ち切るということだからです。それなのに、やっぱり下ろしてくれというのは、普通に有り得ないことです。とは言え、この人は、ただ、家族に別れの挨拶をしたかっただけで、それぐらいの猶予が与えられても良い、と、人は言うかもしれません。しかし、1度あることは2度、2度あることは3度あるのが常です。1度でも猶予が与えられれば、それは「鋤」繋がりで心に「隙」が生まれます。そして、それは、自分だけの問題では収まらず、そのプロジェクトの成否(成功と失敗)にまで影響を及ぼします。だから、イエスさまは、果たすべき務めに忠実でない者について「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのです。このように、何事にも覚悟が必要なのです。ただ、その言葉通りで有り得ない自分に幻滅する自分もいて、そこには、悲壮感が漂うのです。それもそのはず、覚悟というのは、キリスト教用語ではないからです。イエスさまは、冒頭で話した通り「エルサレムに向かう決意を固められ」ました。それは、覚悟というより、神の御言葉に従順になられたのです。覚悟然り、私たちが主体となる所には、真の救いも、喜びも平安もありません。しかし、イエスさまが、神の御言葉に従順であられたように、私たちもイエスさまに従順に従って行く時、その十字架の道は、真理の道となり、私たちに救いをもたらす復活の道となるのです。従順というのは「大人しく言うことをよく聞くこと」です。また「運命や状況などに逆らわず素直なこと」です。私たちは、自分の意志よりも、もっと大きな意志(神の御心)によって導かれています。自分の意志には覚悟が求められても、その、もっと大きな意志である神の御心には、従順だけが求められます。今起こっているすべての出来事を素直に認め、自分が為すべき業に、素直に従っていきましょう。そうして、日々、神さまに自分を明け渡していくところに、開かれた道があります。復活の道は、神さまが開いてくださる道だからです。
2024年09月29日
2024年9月29日 主日信徒立証礼拝説教「信仰と覚悟」大坪信章牧師
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:16| 日記
2024年10月6日 礼拝予告
〇教会学校 9時15分〜
聖 書:マタイによる福音書15章21節〜28節
説 教:「カナンの女の信仰」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書10章1節〜12節、創世記19章23節〜28節
説 教:「神の国は近づいた」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
聖 書:マタイによる福音書15章21節〜28節
説 教:「カナンの女の信仰」
〇主日聖餐礼拝 10時30分〜
聖 書:ルカによる福音書10章1節〜12節、創世記19章23節〜28節
説 教:「神の国は近づいた」大坪信章牧師
感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 02:50| 日記
2024年09月22日
2024年9月22日 主日スクリーン伝道礼拝説教「主が望まれること」大坪信章牧師
ルカによる福音書9章49節〜56節、出エジプト記34章5節〜7節
「主が望まれること」
先週の礼拝では、弟子たちが、46節「自分たちのうちだれがいちばん偉いかと」「議論」(口論)し合った物語を読みました。弟子たちは、この世的、人間的な気持ちで「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」を議論し、偉くなることが、イエスさまを信じ、神を畏れる者の在るべき姿だと思っていたのです。しかし、イエスさまは、一人の子どもを自分の傍に立たせて、48節「子供を受け入れる者」、「最も小さい者」という2つの言い回しによって、弟子たちに謙遜を説きました。そして、その人こそ「最も偉い者」であり、イエスさまを信じ、神を畏れる者だと言われたのです。ただ、どうしても、この社会は、弟子たちが、そうであったように、この世的、人間的な見方が浸透し、外見や学歴、功績や業績、地位や名誉が、偉さを計る基準になっています。けれども、それは、イエスさまを信じ、神を畏れることと何の関係もありません。ただ謙遜であるかどうかだけが、クリスチャンの試金石です。それ以外のものは、すべて誘惑であり、人としてマイナスの成長をもたらすものでしかありません。それなのに人は、決まって謙遜という名の試金石を砕き、自分の中にある自我や人間的な思いを打ち砕こうとはしません。ただ、それは、若いうちにしておくべきことです。なぜなら人は、歳を重ねれば重ねる程、融通が利かなくなり、意固地になっていくからです。昔、人づてに「人は、60歳までに変わらなければ、もう変わらない」と聞いたことがあります。つまり、60歳までに打ち砕かれなければ、それ以降、打ち砕かれる可能性は、限りなくゼロに近くなります。しかし「神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章37節)と、聖書が語ってくれていることは、救いです。
また、中には、霊的高揚を体験したとか、霊的賜物を身に着けたとか、そういったことでマウントを取りたがるクリスチャンもいます。しかし、それも「だれがいちばん偉いか」の議論と大差ない、霊的に大変危険な兆候です。あの使徒パウロは、コリントの信徒への手紙12章において、幻の中で「第三の天にまで引き上げられた」体験について語りました。パウロは、その体験を誇ることはできるが「弱さ以外には誇るつもりはありません」と言っています。なぜなら、教会共同体が固い絆で結ばれ、発展していく上で、そういったことは、何の良い効果も生まないからです。つまり、謙遜こそ、教会共同体の形成と発展のために欠かせない徳です。もっと言えば、謙遜こそ、人間が、たった一度の人生において収得すべき最大の宝です。このように、イエスさまが、謙遜の重要性について真剣に語られたにも拘らず、ある弟子が、次のように発言したのです。49節「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました』」と。このヨハネの言動は、今、イエスさまが為さった謙遜の話しとは、何の脈絡もありません。むしろ「だれがいちばん偉いか」という議論の続きであり、それを更に展開させようとしている内容に聞こえます。というのは「そこで、ヨハネが言った」という言葉は、ヨハネが「答えた」という意味なのですが、その言葉は「裁く」とか「非難する」という意味もあるからです。しかも、ヨハネとその兄弟ヤコブは、もともと気性が荒く、イエスさまから「ボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』」(マルコ福音書3章17節)という仇名を付けられていたということも、今日の物語に深く関係しています。このように、自分が一番偉いという思考や考え方には、どうしても、それ以外の者を見下し、裁き、排除する思考が伴うのです。ヨハネは、28節以下の物語、それは、イエスさまが高い山(ヘルモン山)に登られた時、一緒に伴われた3人の弟子たちの中の1人でした。他の2人は、ペトロとヨハネの兄弟ヤコブです。この3人は、他の9人の弟子たちと一緒に「だれがいちばん偉いか」を議論した時、とても有利でした。なぜなら、3人は、イエスさまの変貌を含め、常に重要な局面でイエスさまと行動を共にしていたからです。それに対して他の9人は、イエスさまの変貌の時、山の麓で待機させられていました。しかも、そこに突如、悪霊に取りつかれた一人息子の父親が来て「悪霊を追い出してほしい」と頼みましたが、弟子たちは、それが出来ませんでした。それは、その場にいた9人の弟子たちが、3人の弟子たちを妬み、心を乱していたという可能性を、先週お話ししました。だから今、弟子たちが、イエスさまの救いの御名を使い「悪霊を追い出している」よそ者を見た時、9人の見方と3人の見方の両方があったはずなのです。9人は、よそ者が、自分たちには出来なかった「悪霊を追い出して」いたため、劣等感に苛まれ、妬みの気持ちを抱いたはずです。3人のほうは、山の上にいて、悪霊を追い出せなかった出来事に関係していなかったので、妬む気持ちはなかったはずです。しかし、3人には、先程も言った通り、高圧的に、裁きや非難する気持があったので、その内の一人であるヨハネは、よそ者の働きについてイエスさまに言ったのです。「わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようと」した、と。つまり、自分たちと一緒にイエスさまに従わず、自分たちと同じようにイエスさまの弟子にならなかったので、彼らの働きを邪魔しようとしたのです。このヨハネのように、自分たちと同じようにしないとか、自分と同じ考えではないという思考から、差別や非難、そして、裁く気持ちが生じるのです。でも、それは、単なる押し付けであり、その延長線上には、支配や侵略といった、他者のテリトリーを脅かす行動が、伴うようになります。
その時 イエスさまは言われました。50節「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と。「逆らわない者」とは「反対や敵対しない者」という意味があります。要するに、イエスさまは、反対者や敵対者以外は、皆「味方」だと言われるのです。しかし、そのイエスさまを主とするキリスト教世界であれ、この出来事と同じように、味方を攻撃しているという事実があります。結局は、キリスト教世界にも、人間的な思いや考えが蔓延しているのです。本来は、すべてのキリスト教会、すべてのクリスチャンが、イエスさまの救いの御名を誉め讃え、それを宣べ伝えることが一番大事なことなのです。なぜなら、イエスさまは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かり、死んでくださった救い主だからです。そして、神さまは、私たちが新しい命を生きるために、御子イエスさまを復活させ、その新し命の初穂とされました。だから、私たちは、どんな時も、イエスさまの救いの御名を信じて祈り続けます。12人の弟子たちが見た、イエスさまの「お名前を使って悪霊を追い出している者」も、御名の力に頼っていたのに、弟子たちは、その働きを「やめさせようと」したのです。その言葉は「邪魔をしようと」したという意味もあります。3人の弟子たちの中のペトロは、イエスさまが、第1回目の受難予告を話された時、それを否定し、イエスさまから次のように叱られました。マタイ福音書16章23節「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と。ペトロもヨハネも、イエスさまの働きの邪魔をしていたのです。結局は、3人の中の、もう一人のヤコブも含めて、みんなそうでした。中でも、ヤコブとヨハネの2人の兄弟は、イエスさまの第3回目の受難予告のあと、イエスさまに次のように進言します。マルコ福音書10章37節「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。もはや、自分が「いちばん偉い」と思っているということにおいては確信犯です。しかし、そのような、自分が「いちばん偉い」という思考は、結局、イエスさまの働きの邪魔でしかないのです。それは、現代も同じで、教派という名のもとに、また、自分と同じではない、自分と違うという個々人の考え方や活動や関わりの中で、味方を攻撃していることがあります。そのような人たちは、もはやイエスさまを信じる者ではなく、自分たちの主義主張を信じる者です。イエスさまを宣べ伝える者ではなく、自分の思いや考えを宣べ伝える者です。
ところで、先程 イエスさまは、50節「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われましたが、このあと、弟子たちに「逆らう者」とのやり取りが展開されていきます。それが、51節以下の物語です。イエスさまは「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められ」ました。「決意」とは「顔を固くする」という意味の言葉です。イエスさまは、十字架の苦難と死、復活と昇天の出来事に向かって、都エルサレムを直視されたのです。それは、イエスさまが、謙遜を超えたところにある謙卑に向かって進み行かれるということです。そこで、イエスさまが、52節「先に使いの者を出され」ると「彼らは行って」イエスさまと弟子たちのために、宿泊などを「準備しようと、サマリア人の村に入った」のです。ところが、というか案の定ですが、53節「村人は」イエスさまが来られるのを「歓迎しなかった」のです。それは、イエスさまが「エルサレムを目指して進んでおられたから」です。サマリア人は、ユダヤ人と敵対関係にありました。もともとは、同じイスラエルの民でしたが、捕囚の歴史の中で、サマリア人は混血の民となり、純粋なユダヤ人との間に軋轢が生じたのです。すると、54節「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った」のです。しかし、イエスさまは、55節56節「振り向いて二人を戒め」「一行は別の村に」行きました。サマリア人の対応は、最初から分かっていたことで、弟子たちの反応も、思った通りでした。しかし、これらの出来事を通して、弟子たちが考えていたことが、どれ程イエスさまが望んでおられることと乖離していたのかが、よく分かりました。イエスさまは、この2つの物語を通して、弟子たちに、寛容について説かれたのです。これからイエスさまが向かって行かれる道は、この寛容に押し出されて向かう、謙遜を超えた十字架の謙卑の道です。それは、決して卑屈な道ではありません。そこに、私たちの救いも約束されています。だから、主が望まれる謙遜と寛容を身に着けて、私たちも、イエスさまのあとに、続きたいと思います。
「主が望まれること」
先週の礼拝では、弟子たちが、46節「自分たちのうちだれがいちばん偉いかと」「議論」(口論)し合った物語を読みました。弟子たちは、この世的、人間的な気持ちで「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」を議論し、偉くなることが、イエスさまを信じ、神を畏れる者の在るべき姿だと思っていたのです。しかし、イエスさまは、一人の子どもを自分の傍に立たせて、48節「子供を受け入れる者」、「最も小さい者」という2つの言い回しによって、弟子たちに謙遜を説きました。そして、その人こそ「最も偉い者」であり、イエスさまを信じ、神を畏れる者だと言われたのです。ただ、どうしても、この社会は、弟子たちが、そうであったように、この世的、人間的な見方が浸透し、外見や学歴、功績や業績、地位や名誉が、偉さを計る基準になっています。けれども、それは、イエスさまを信じ、神を畏れることと何の関係もありません。ただ謙遜であるかどうかだけが、クリスチャンの試金石です。それ以外のものは、すべて誘惑であり、人としてマイナスの成長をもたらすものでしかありません。それなのに人は、決まって謙遜という名の試金石を砕き、自分の中にある自我や人間的な思いを打ち砕こうとはしません。ただ、それは、若いうちにしておくべきことです。なぜなら人は、歳を重ねれば重ねる程、融通が利かなくなり、意固地になっていくからです。昔、人づてに「人は、60歳までに変わらなければ、もう変わらない」と聞いたことがあります。つまり、60歳までに打ち砕かれなければ、それ以降、打ち砕かれる可能性は、限りなくゼロに近くなります。しかし「神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章37節)と、聖書が語ってくれていることは、救いです。
また、中には、霊的高揚を体験したとか、霊的賜物を身に着けたとか、そういったことでマウントを取りたがるクリスチャンもいます。しかし、それも「だれがいちばん偉いか」の議論と大差ない、霊的に大変危険な兆候です。あの使徒パウロは、コリントの信徒への手紙12章において、幻の中で「第三の天にまで引き上げられた」体験について語りました。パウロは、その体験を誇ることはできるが「弱さ以外には誇るつもりはありません」と言っています。なぜなら、教会共同体が固い絆で結ばれ、発展していく上で、そういったことは、何の良い効果も生まないからです。つまり、謙遜こそ、教会共同体の形成と発展のために欠かせない徳です。もっと言えば、謙遜こそ、人間が、たった一度の人生において収得すべき最大の宝です。このように、イエスさまが、謙遜の重要性について真剣に語られたにも拘らず、ある弟子が、次のように発言したのです。49節「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました』」と。このヨハネの言動は、今、イエスさまが為さった謙遜の話しとは、何の脈絡もありません。むしろ「だれがいちばん偉いか」という議論の続きであり、それを更に展開させようとしている内容に聞こえます。というのは「そこで、ヨハネが言った」という言葉は、ヨハネが「答えた」という意味なのですが、その言葉は「裁く」とか「非難する」という意味もあるからです。しかも、ヨハネとその兄弟ヤコブは、もともと気性が荒く、イエスさまから「ボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』」(マルコ福音書3章17節)という仇名を付けられていたということも、今日の物語に深く関係しています。このように、自分が一番偉いという思考や考え方には、どうしても、それ以外の者を見下し、裁き、排除する思考が伴うのです。ヨハネは、28節以下の物語、それは、イエスさまが高い山(ヘルモン山)に登られた時、一緒に伴われた3人の弟子たちの中の1人でした。他の2人は、ペトロとヨハネの兄弟ヤコブです。この3人は、他の9人の弟子たちと一緒に「だれがいちばん偉いか」を議論した時、とても有利でした。なぜなら、3人は、イエスさまの変貌を含め、常に重要な局面でイエスさまと行動を共にしていたからです。それに対して他の9人は、イエスさまの変貌の時、山の麓で待機させられていました。しかも、そこに突如、悪霊に取りつかれた一人息子の父親が来て「悪霊を追い出してほしい」と頼みましたが、弟子たちは、それが出来ませんでした。それは、その場にいた9人の弟子たちが、3人の弟子たちを妬み、心を乱していたという可能性を、先週お話ししました。だから今、弟子たちが、イエスさまの救いの御名を使い「悪霊を追い出している」よそ者を見た時、9人の見方と3人の見方の両方があったはずなのです。9人は、よそ者が、自分たちには出来なかった「悪霊を追い出して」いたため、劣等感に苛まれ、妬みの気持ちを抱いたはずです。3人のほうは、山の上にいて、悪霊を追い出せなかった出来事に関係していなかったので、妬む気持ちはなかったはずです。しかし、3人には、先程も言った通り、高圧的に、裁きや非難する気持があったので、その内の一人であるヨハネは、よそ者の働きについてイエスさまに言ったのです。「わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようと」した、と。つまり、自分たちと一緒にイエスさまに従わず、自分たちと同じようにイエスさまの弟子にならなかったので、彼らの働きを邪魔しようとしたのです。このヨハネのように、自分たちと同じようにしないとか、自分と同じ考えではないという思考から、差別や非難、そして、裁く気持ちが生じるのです。でも、それは、単なる押し付けであり、その延長線上には、支配や侵略といった、他者のテリトリーを脅かす行動が、伴うようになります。
その時 イエスさまは言われました。50節「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と。「逆らわない者」とは「反対や敵対しない者」という意味があります。要するに、イエスさまは、反対者や敵対者以外は、皆「味方」だと言われるのです。しかし、そのイエスさまを主とするキリスト教世界であれ、この出来事と同じように、味方を攻撃しているという事実があります。結局は、キリスト教世界にも、人間的な思いや考えが蔓延しているのです。本来は、すべてのキリスト教会、すべてのクリスチャンが、イエスさまの救いの御名を誉め讃え、それを宣べ伝えることが一番大事なことなのです。なぜなら、イエスさまは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架に架かり、死んでくださった救い主だからです。そして、神さまは、私たちが新しい命を生きるために、御子イエスさまを復活させ、その新し命の初穂とされました。だから、私たちは、どんな時も、イエスさまの救いの御名を信じて祈り続けます。12人の弟子たちが見た、イエスさまの「お名前を使って悪霊を追い出している者」も、御名の力に頼っていたのに、弟子たちは、その働きを「やめさせようと」したのです。その言葉は「邪魔をしようと」したという意味もあります。3人の弟子たちの中のペトロは、イエスさまが、第1回目の受難予告を話された時、それを否定し、イエスさまから次のように叱られました。マタイ福音書16章23節「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と。ペトロもヨハネも、イエスさまの働きの邪魔をしていたのです。結局は、3人の中の、もう一人のヤコブも含めて、みんなそうでした。中でも、ヤコブとヨハネの2人の兄弟は、イエスさまの第3回目の受難予告のあと、イエスさまに次のように進言します。マルコ福音書10章37節「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。もはや、自分が「いちばん偉い」と思っているということにおいては確信犯です。しかし、そのような、自分が「いちばん偉い」という思考は、結局、イエスさまの働きの邪魔でしかないのです。それは、現代も同じで、教派という名のもとに、また、自分と同じではない、自分と違うという個々人の考え方や活動や関わりの中で、味方を攻撃していることがあります。そのような人たちは、もはやイエスさまを信じる者ではなく、自分たちの主義主張を信じる者です。イエスさまを宣べ伝える者ではなく、自分の思いや考えを宣べ伝える者です。
ところで、先程 イエスさまは、50節「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われましたが、このあと、弟子たちに「逆らう者」とのやり取りが展開されていきます。それが、51節以下の物語です。イエスさまは「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められ」ました。「決意」とは「顔を固くする」という意味の言葉です。イエスさまは、十字架の苦難と死、復活と昇天の出来事に向かって、都エルサレムを直視されたのです。それは、イエスさまが、謙遜を超えたところにある謙卑に向かって進み行かれるということです。そこで、イエスさまが、52節「先に使いの者を出され」ると「彼らは行って」イエスさまと弟子たちのために、宿泊などを「準備しようと、サマリア人の村に入った」のです。ところが、というか案の定ですが、53節「村人は」イエスさまが来られるのを「歓迎しなかった」のです。それは、イエスさまが「エルサレムを目指して進んでおられたから」です。サマリア人は、ユダヤ人と敵対関係にありました。もともとは、同じイスラエルの民でしたが、捕囚の歴史の中で、サマリア人は混血の民となり、純粋なユダヤ人との間に軋轢が生じたのです。すると、54節「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った」のです。しかし、イエスさまは、55節56節「振り向いて二人を戒め」「一行は別の村に」行きました。サマリア人の対応は、最初から分かっていたことで、弟子たちの反応も、思った通りでした。しかし、これらの出来事を通して、弟子たちが考えていたことが、どれ程イエスさまが望んでおられることと乖離していたのかが、よく分かりました。イエスさまは、この2つの物語を通して、弟子たちに、寛容について説かれたのです。これからイエスさまが向かって行かれる道は、この寛容に押し出されて向かう、謙遜を超えた十字架の謙卑の道です。それは、決して卑屈な道ではありません。そこに、私たちの救いも約束されています。だから、主が望まれる謙遜と寛容を身に着けて、私たちも、イエスさまのあとに、続きたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:17| 日記