2024年10月30日

2024年11月10日 礼拝予告

〇教会学校 10時30分〜の礼拝に合流します。
      通常の9時15分〜の礼拝はありません。

〇主日神の家族礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書17章24節〜27節、創世記26章19節〜22節
説 教:「平和を作り出す人」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 02:54| 日記

2024年10月27日

2024年10月27日 主日スクリーン伝道礼拝説教「天に書き記された名前」大坪信章牧師

ルカによる福音書10章17節〜20節、創世記25章7節〜10節
「天に書き記された名前」

 今日は、召天者記念礼拝ということで、石山教会の召天者の御遺族、約40名をお迎えして礼拝を守っています。昨年2023年3月から今年2024年7月にかけてだけで、石山教会は、4名の教会員と2名の教職(牧師)計6名の方々を天にお送りしました。昨年のうちに、6名中2名の方々の納骨式を執り行ないました。礼拝後の墓前礼拝では3名の方々の納骨式を執り行ない、もうひとかたの納骨式は、来週、東京で執り行なう予定です。この死という出来事(別れ)は、残された御遺族にとって、また、教会にとって、悲しく、また、寂しい現実です。しかし、実は、感謝すべきことでもあるのです。というのは、教会に所属する兄弟姉妹は、それぞれに走るべき道のりを走り終えたわけですが、決して、闇雲に走って来られたのではないからです。教会に属する兄弟姉妹は、ある時点で、為すべきことを為した上で走り抜かれました。それゆえの感謝です。為すべきことと言うのは、一度、立ち止まると言ったら良いでしょうか。それは、神の御前に立ち、自らの罪を認め悔い改め、そして、イエス・キリストを神の子・救い主と信じて洗礼を受けるということです。それにより、人は誰であれ、私たちの罪の身代わりとなって十字架に架かり、死んで復活されたイエス・キリストに肖り、罪の赦しと永遠の命の約束を戴くのです。召天者の方々が、生前この為すべきことを為したのであれば、それは、教会だけではなく、同時に、天の国(神の国)への入会の手続きとなっています。また、受洗後の、霊性や人間性が回復した生き様そのものが、救われているという事実を、証ししていたことになります。

 霊性や人間性の回復という表現は、先週の礼拝のお話の中でも取り上げましたが、具体的には、次のように言い換えることができます。「霊性とは、聖書が語る福音の真理に基づいて生きること」また「人間性とは、他者への気遣いができ、思いやりの心があること」です。つまり、聖書が語る福音の真理の御言葉に耳を傾けず、自己中心的な考えによって生きるというのは、その生き方そのものが、自らの滅びを招くということになります。だから、神の御前に罪を悔い改め、イエス・キリストを主と仰ぐ遜った信仰の生涯を全うすれば、召天者の方々自身も、また、その御遺族の皆様も、天の国(神の国)への入会を、疑う必要がありません。しかし、もし、イエス・キリストを主とする、罪の赦しと復活を信じる信仰が無ければ、人は、ただ、闇雲に人生を走り終えただけなのです。その後どこへ行ったのかは、誰も断言できません。大抵は「良い人だったから天国に行った」と言いますが、その言葉は、救いの根拠としては乏しく、そう思いたいだけの、ただの願望に過ぎません。闇雲に人生を走るというのは「深く考えることもせずに、物事を行なうこと」と、辞書に書いてあります。だから、私たちは皆、それぞれが問われています。「自分は、物事を深く考えて人生を生きて来たのか」と。このことを理解するために、今日の聖書の物語は、有益です。

 17節に「七十二人は喜んで帰って」来たとあります。この72人は、イエスさまが弟子として任命し、宣教のために町や村に派遣した人たちでした。その72人が宣教から「喜んで帰って来て、こう言った」のです。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と。「悪霊」とは、サタン(悪魔)の手下で、人間に悪影響を及ぼす目に見えない霊的な力です。その悪霊の仕業により、多くの人々が苦しめられ、悲しみを抱き、癒しと解放と救いを求めています。しかし、72人が、イエスさまの「お名前」である救いの御名によって御言葉を語り、祈ると、「悪霊さえも」彼らに「屈服」したのです。そうして、喜んで宣教から帰って来た72人の報告を聞いたイエスさまは言われました。18節「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と。72人は、「悪霊」が自分たちに「屈服」することを喜びましたが、事は、それ以上に大きかったのです。イエスさまは、諸悪の根源である親玉のサタンが、昇り詰めようとしていた天から、やがては引きずり下ろされ、敗北する姿を、預言的に、ご覧になるほどだったからです。もし、72人が自分の名前を使っても「サタン」はおろか「悪霊さえ」「屈服」させられませんでした。逆に、サタンや悪霊から誘惑を受け、陥れられるのがオチです。しかし、イエスさまは、言われました。19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」と。このように、72人が宣教から「喜んで帰って」来たのは、イエスさまが72人に、御自分の権威である御言葉の力と、それに伴う業(奇跡)の力を授けたからです。この力は、問題を表面的な解決に導くものではなく、問題の根幹にまで深く踏み込む力です。だから、私たちは、御言葉の力を信じ、もっとイエスさまの御名によって祈る必要があります。なぜなら、この世は、諸悪の根源であるサタンや悪霊の支配下にあり、その配下にある人間は、彼らと同じ運命を辿り、共に滅ぼされてしまうからです。

 しかし、イエスさまは最後に、こう言われるのです。 20節「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。なぜ、イエスさまは、72人の喜びに水を差すようなことを言われたのでしょうか。それは「悪霊が服従する」という喜びは、言い換えれば「何事も自分の思い通りになる」という喜びだからです。確かに「悪霊」は、72人に「服従」しましたが、それは、イエスさまの「お名前」が持つ権威によるものでした。それなのに、人間は、権威や権力を持つと、それを、まるで自分の力かのように勘違いし、それを自分の保身のために使うなどの思い違いをするのです。このように、悪霊は、とてもしつこくて、観念したかのように見えてもなお、人間を滅びへと道連れにするために、人を誘惑し、霊性や人間性を破壊するのです。今、もし、私たちが「何事も自分の思い通りになる」と思っているなら、それは、大いなる勘違いです。人生、立ち止まることもなく、闇雲に走って来たというのであれば尚更です。この世の人生の意義、これは、価値とも言い換えることができますが、それは、物質的な豊かさを求めることでも、成功することでもありません。権力を得たとか、地位を得たとか、富を得たとか、そういうことでもありません。そうではなく、どれだけ人生を深く考えたか、ということなのです。

 ところで、教会や幼稚園では、年に数回の研修会が行なわれます。研修会に行くと、会場に入る前に、まず受付で、出席名簿に記された自分の名前を確認してから会場に入ります。これは、研修会に申し込みの手続きをしていれば当然のことです。けれども、自分が、まだ、その会場に行く前から、主催者側で、名簿に自分の名前を書き入れ、会場に遣って来る、その時を待ってくれているというのは嬉しいものです。「どういったご関係の方ですか」「名前がありません」「お帰りください」と言われてしまえば、面食らってしまいます。イエスさまは、72人に向かって、最後に、こう言われました。「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と。「悪霊」が「服従」する喜びと、この、自分の名前が「天に書き記されていること」の喜びには、どういった違いがあるのでしょうか。要するに、後者の喜びには「悪霊」が服従する時の喜びに見られる、野望や驕り高ぶりのようなものは一切ありません。自分の名前が「天に書き記されていること」の喜びは、物凄く純粋で、自然で、「本当に良かったね」と、誰もが共に分かち合える喜びです。この天の国(神の国)への入会の申し込みの手続きを、召天者の方々は、既に経たのです。つまり、それぞれが、人生のある時点に於いて、神の御前で自分と自分の人生を深く省みたのです。こうして「何事も自分の思い通りになる」と思っていた人生を深く省みる時、私たちは、自分の内にある罪に気づかされるのです。それは、倫理道徳に反する言動とも言えますが、その基にある、神を畏れず、神を神とも思わずに生きて来た神への罪です。この罪は、どれだけ善い行いをしても消えません。罪は、償わなければならないからです。しかし、人は誰も、その罪を償い切れないのです。そこで、神は、御自分の愛する御子イエス・キリストを世に遣わされたのです。そして、イエスさまは、私たちの代わりに、その罪を背負い、十字架に架かって死んで復活されました。ここに、私たちの罪の赦しと、新しい命が約束されています。だから、イエスさまを信じ、洗礼を受ける人は、その「名が天に書き記されている」のです。この喜びを、御遺族の皆様とも、共に分かち合いたいと切に願っています。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:19| 日記

2024年10月26日

2024年11月3日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:マタイによる福音書17章14節〜20節
説 教:「からし種一粒ほどの信仰」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書10章21節〜24節、箴言20章12節
説 教:「何を見るか何を聞くか」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 18:59| 日記