2024年11月24日

2024年11月24日 主日スクリーン伝道礼拝説教「良い方(ほう)を選ぶ」大坪信章牧師

ルカによる福音書10章38節〜42節、箴言8章35節
「良い方(ほう)を選ぶ」

 38節を見ると「一行が歩いて行くうち」とあります。この時イエスさまと弟子たちは、エルサレムの都に向かっていました。というのは、9章51節でイエスさまは「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」からです。このルカ福音書では、このあと一旦エルサレムから離れ、サマリアやガリラヤ地方に行きますが、イエスさまは、町や村を巡りながら教え、確実にエルサレムへと向かわれます。同様に、私たちも、たとえ、どんなに回り道や遠回りをしても、神の国に向かって進んでいます。私たちは、イエスさまが「エルサレムに向かう決意を固められた」ように、洗礼を受け、神の国に向かう決意を固めたからです。こうして、イエスさまは、エルサレムへ行く途中、38節「ある村にお入りに」なりました。そこは、エルサレムから3キロ圏内にあるオリーブ山の麓の村ベタニアです。「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れ」たのです。この物語は、これまでの経緯が大いに関係しています。この物語の前の9章10章の初めで、イエスさまは12人の弟子や72人の弟子を宣教に遣わしました。イエスさまは、弟子たちに、どこかの町や村に入り、どこかの家に迎え入れられたら平和の挨拶をし、そこに留まって神の国の福音を宣べ伝えるように言われました。弟子たちは、このベタニアの村にも入り、実際マルタの家に迎え入れられ、平和の挨拶を交わし、神の国の福音を宣べ伝えたのです。だから今、マルタは、神の国の福音であるイエスさまを「家に迎え入れ」たのです。

 39節を見ると「彼女にはマリアという姉妹がいた」と説明されています。一般的には、マルタが姉でマリアが妹です。なぜなら、この物語におけるマルタの言動は、妹としてというより姉としての可能性が高いと言えるからです。また、この姉妹には、弟のラザロもいました。そして、この3人の姉弟は、これ以降2つの物語を世に残すのです。いずれもヨハネ福音書の物語です。その1つが11章のラザロの復活物語です。ラザロは、死んで墓に葬られますが、その4日目に、イエスさまに呼び出されて墓から出て来ます。これは、蘇生の蘇りで新しい命としての甦りではありませんが、イエスさまの復活の予兆とされています。もう1つは12章のナルドの香油物語です。イエスさまは、十字架の死の6日前にベタニアの村を訪れます。その時マリアは「純粋で非常に高価なナルドの香油」を、イエスさまの足に注ぎ、その足を自分の髪の毛で拭いました。それを見て、のちにイエスさまを裏切る弟子のイスカリオテのユダが言ったのです。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。その時イエスさまは言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」と。マリアがイエスさまの十字架の死を理解したのは、他でもない、今日の物語を通してでした。

 始めに「一行が」とありましたが、文脈では、イエスさまだけがベタニアの村に入り、マルタは、イエスさまだけを家に迎え入れました。その際イエスさまは、当時の習慣として、盥の水でサンダル履きの汚れた足を洗って家に入り、その後一息吐く間もなく話し始められたのです。だから、39節「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入って」いました。しかし、マルタのほうは、40節「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」いました。すると、突然マルタは、イエスさまの傍に近寄って、自分が率先してやっていた「もてなし」について主張を始めたのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています」と。マルタは、自分が率先してイエスさまのために始めた「もてなし」を、まるでマリアに押し付けられたかのように言っています。その上イエスさまには「何ともお思いになりませんか」と文句を言い、自分を「手伝ってくれるように」マリアに言ってくれと指図する始末。

 正直、このマルタの言葉を聞いた感想は「どうしてマルタは、そんなにイライラしているのか?」です。仮にマルタと一緒にマリアが「もてなし」をしたなら、誰がイエスさまの話しを聞くのでしょうか? 実は、先日の火曜日、この状況と同じ状況が、私の前に設定されました。というのは、その日、突然、牧師館のピンポンが鳴ったのです。インターホンのモニター越しに玄関を見ると、そこには2人の教会員がいました。「どうしたのかな?」と思って玄関で応対すると「ちょっとお話が」と言われるので、面談室に入ってもらいました。すると、一息吐く間もなく喋り出したのです。でも、私は、部屋が寒いと思い暖房を入れようとすると「着込んでいるので大丈夫」と言われ、喋り続けられました。その後、私は、また思ったのです。頭の左側で「コーヒーを入れたいけど、どのタイミングで、それを言おうか」と。しかし、頭の右側では「いやいや、二人は今、夢中で話してくれているのだから、話しは最後まで聞くべきだ」と。そして、今日の説教『良い方(ほう)を選ぶ』この物語も思い浮かんでいました。つまり、その時、私の中には、マルタとマリアが鬩ぎ合っていたのです。結果、私は、最後まで話しを聞いたあとで「コーヒーを入れましょう」と言うと「いや、さっき飲食して、お腹いっぱいで」ということで、2人は帰って行かれました。

 イエスさまは、マルタに言われました。41節「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。イエスさまは、被害妄想状態のマルタに2度「マルタ、マルタ」と呼びかけました。その呼びかけには、イエスさまの心配の気持ちが籠もっています。イエスさまは、マルタが「もてなし」をしていただけなら何も心配はしません。しかし、マルタは、マリアを裁き、イエスさまには文句を言って命令しています。それは罪です。イエスさまは、マルタを2度呼ぶことで、マルタが自分では気づかない罪に気づかせようとされたのです。このマルタの主張は、自分のためにも他の誰のためにもなっていません。マルタは結局、もてなしも出来ていないし、イエスさまの話しも聞いていません。もし本当に、もてなしをしているなら、もし本当に、イエスさまの話しを聞いているなら、その心は、喜びで一杯のはずです。しかし、マルタの心は、ただただ不平と不満で一杯です。

 そこで、イエスさまは、マルタにこう答えられました。42節「しかし、必要なことはただ一つだけである」と。その通りなのです。必要なことが2つもあったら、どっちつかずになります。いわゆる『二兎追う者は一兎も得ず』ということになります。だから、マルタは、マリアのようにイエスさまの話しを聞きたければ聞けば良かったのです。給仕をしようと思ったのなら、給仕をすれば良かったのです。マルタが良くなかったのは、この場面で給仕を選んだ自分を正しいとし、イエスさまの話しへの傾聴を選んだマリアを間違いと決めつけたことです。イエスさまは、マリアがしていることもマルタがしていることも否定していません。どちらも、イエスさまを迎える対応としては有り得たからです。ただ、この場面、この状況ということを考えれば、為すべきことが幾つか見いだせても「必要なことはただ一つだけ」なのです。その中で、マリアは「良い方(ほう)を選んだ」のです。だから「それを取り上げてはならない」のです。この「取り上げる」というのは「切り離す、切り落とす」という意味もあります。つまり、マリアが御言葉を聞く、その耳は、切り離し、切り落としてはならないのです。御言葉を聞くことが、どんな時でも、私たちに「必要な」「ただ一つ」のことであり、選ぶべきことの、「良い方(ほう)」だからです。

 最後に、もう一度39節をご覧ください。「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」とあります。この「聞き入っていた」という言葉を辞書で調べれば「我を忘れて聞く。熱心に耳を傾けて聞く」とあります。それは、身を入れて聞くということ、全身で聞くということです。全身を耳として聞くということです。なぜなら、イエスさまは、大事なこと、それは、御自分の十字架の死について真剣に話されたからです。それが、この場面であり、この状況です。普通に考えて、そのような時に、誰が手を動かすでしょうか。手を止めて、耳を澄ますのではないでしょうか。にも拘らず、マルタが手を動かし給仕することを選んだ、それは、マルタが、イエスさまの十字架の死を信じたく無かったからではないでしょうか。だからイライラしていたのではないでしょうか。現実を受け止めたくは無かった。だから、イエスさまの十字架の死の6日前、マリアがナルドの香油をイエスさまの足に注いだ時も、マルタは給仕していました。しかし、イエスさまの十字架を否定し、信じないということには、何の益もないのです。

 マリアは、真剣に聞き入りました。我を忘れるほど熱心に御言葉に聞き入りました。究極的に私たちは、我を忘れる必要があります。自分の思いを捨てる必要があります。なぜなら、我には不安や恐れや絶望しかなく、何の希望も無いからです。マリアが聞いたのは十字架の福音です。この十字架の福音にこそ、私たちの罪の赦し、新しい命、そして、希望があります。だから、十字架の時が近づいた6日前、マリアは、イエスさまの葬りの日のために「純粋で非常に高価なナルドの香油」を、イエスさまの足に塗ったのです。イエスさまは、山上の説教の中で言われました。 マタイ福音書6章21節「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と。マルタは「心を乱して」いましたが、マリアは心を定めました。何事も心を失ってしまえば元も子もありません。マリアのように我を忘れてイエスさまを覚える。私の罪の身代わりとなって十字架に架かり、命を捨てるほどに私を愛してくださったイエスさまを知る。その時、私たちは「良い方(ほう)を」選んだのです。私たちは、これからもずっと、主の御言葉に聴き十字架の愛を信じ、我を忘れて主を礼拝する者でありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記

2024年11月19日

2024年12月1日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:ルカによる福音書1章26節〜38節
説 教:「マリアへのみ告げ」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書11章1節〜4節、エゼキエル書48章30節〜35節
説 教:「御国が来ますように」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:26| 日記

2024年11月17日

2024年11月17日 主日聖歌隊礼拝説教「隣人になった主イエス」大坪信章牧師

ルカによる福音書10章25節〜37節、レビ記19章13節〜18節
「隣人になった主イエス」

 25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った」とあります。「律法の専門家」は、イエスさまを試し、その教えの言葉尻を捉え、律法の違反者に仕立て上げ、罪に定めようと常に監視していました。この時も、なぜか、そこに律法学者がいました。それは、イエスさまが、宣教に遣わした72人の弟子たちに向けて、神を信じ、神に従う人の本当の喜びについて語っていた時だったので、彼が、そこにいるはずも無かったのです。とりわけ「立ち上がり」とあるので、余程のことがあったのでしょう。おそらく、直前の22節で、イエスさまが「すべてのことは、父からわたしに任せられて」いて「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」と言った言葉に反応したのでしょう。なぜなら、その発言は、イエスさまが神と等しい神の子という内容で、イエスさまを神への冒涜罪として罪に定めるには、格好の材料だったからです。それが気に食わず立ち上がったのでしょう。

 そして、彼はイエスさまに質問しました。25節「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。これは、純粋な質問のように聞こえますが、イエスさまを試すための問いです。イエスさまは、恐れ多くも神に等しい神の子・救い主です。その神を試すとは、どういう立ち位置で神を信じる人なのでしょうか。イエスさまは、そういう毒気のある人間には、次のように対応されます。26節「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と。イエスさまは、彼の質問には答えず、逆に質問されました。ただ、これは、毒気のあるなしに関わらず、私たちが純粋に神に求める時も同じではないでしょうか。聖書には「何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」ちなみに「どう読んでいるか」は「どう解釈しているか」ということです。すると、彼は胸を張って答えました。27節「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と。確かに、彼が答えた前半の言葉は、旧約の律法の書である申命記6章5節に書いてあります。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。また、後半の言葉は、レビ記19章18節に書いてあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と。だから、28節で、イエスさまも「正しい答えだ」と言われました。

 しかし、彼は、イエスさまの質問の2番目「どう読んでいるか」については答えていません。だから、イエスさまは「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのです。つまり、ただ、知識を積み上げるだけでは、そこに命は生まれないのです。それを、どのように生き方に反映させるかが問題です。本来は、これで永遠の命についての問答は終わりです。「しかし」29節「彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った 」のです。終わった話しを蒸し返すのは、彼らの常套手段です。彼は、イエスさまに「正しい答え」を「実行しなさい」と言われて、実行しているのに、まるで実行していないかのように言われて頭に来たのでしょう。彼は「では、わたしの隣人とは誰ですか」とイエスさまに質問しました。その質問には「わたしの隣人とは」「同胞のユダヤ人ですよね」と言っているのが丸分かりです。彼らは「隣人」の解釈を、自分の民族のみに限定していたからです。だから、自分は「隣人を愛する」律法を実行していると言いたかったのです。しかし、イエスさまは、彼が、その律法を実行していないことに気づかせるために、譬え話を用いて彼の質問に答えました。ただ、答えたと言っても、この譬えの最後は、問いかけで終わっているので、やはり、イエスさまは、質問には、逆に質問で返されたのです。質問に対する質問というのは、何を言っても受け入れず、質問し続けてくる相手に効果的です。それは、相手に自分で考えさせて答えを出させる方法だからです。ただ、相手を困らせ、相手を見くびるのが目的なら、何のヒントも与えませんが、イエスさまは、憐れみ深い方なので、最初の質問には「律法には、何と書いてあるのか」だけでなく「それをどう読んでいるのか」までを尋ねました。しかし、残念ながら、彼は2つ目の問いには無回答でした。そして、2回目の彼の質問「わたしの隣人とは誰ですか」に対しても、イエスさまは「自分で考えろ」とは言わず、考える材料として譬え話を聞かせるのです。イエスさまの、何と憐れみ深いことでしょうか。

 それが、30節から始まる、通称「善きサマリア人」の譬えです。端折りますが「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われ」ました。この2つの町は、標高1000mの落差があるため、当然、曲がりくねった道であり、それだけ追いはぎの待ち伏せが多い道でした。結局その人は、追いはぎに「半殺し」にされました。 そこへ、31節32節「ある祭司」と「レビ人」が通りがかりましたが、いずれも「その人を見ると、道の向こう側を通って」行きました。「祭司」も「レビ人」も神に仕える人々で、エルサレムは彼らの仕事場、エリコは彼らの居住地でした。「祭司」には、死体に触れるなという掟があったので、それを言い訳に、後で、そこを通る「レビ人」に、その状況を任せたのでしょう。しかし「レビ人」は、急いでいるとか、自分一人では何もできないと、色々理由付けしたのでしょう。彼らは「律法の専門家」のように、自分を「正当化」して、倒れている人が自分の同胞なのに助けませんでした。ところが、33節〜35節「あるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し」更に「翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った」のです。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」と。この「サマリア人」という民族は、イスラエルが異教徒に侵略された歴史の中で、異教徒の血が混ざった混血の民となったので、純粋な血を保ち続けるユダ人からは嫌われ敵視されました。しかし「サマリア人」は、倒れている人が自分の敵であるにも拘らず助けたのです。イエスさまは、譬えを語り終えた最後に「律法の専門家」に言いました。36節「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。 すると、彼は言いました。37節「その人を助けた人です」と。そこで、イエスさまは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。

 この譬え話の登場人物は、誰を指しているのでしょうか。「祭司」や「レビ人」は、同胞である仲間を見捨てる酷い人たちですが、実は、それが私たちなのではないでしょうか。しかし「サマリア人」は、どこまでも憐れみ深く、敵を愛するイエスさまなのではないでしょうか。サマリア人が、倒れていた人に塗った薬代わりの油は、聖霊の油である御言葉です。ぶどう酒は、イエスさまの十字架の贖いの血です。そして、翌日に支払った銀貨は、倒れていた人の代わりに支払ったイエスさまの命の代価です。倒れていた人の隣人は誰かと言うなら、祭司もレビ人もサマリア人も皆そうなのです。しかし、イエスさまは「誰が追いはぎに襲われた人の隣人だったか」ではなく「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったか」と言われました。その時、彼は「その人を助けた人です」と言いました。これは「その人を憐れんだ人」という意味です。その通り、その人の隣人になったのは「サマリア人」だけ。それは、憐れみ深いイエスさまだけなのです。この憐れみは、神が倒れていた人だけでなく、祭司にもレビ人にも示された愛です。だから、私たちも「行って」「同じように」するのです。イエスさまが為さったように、聖霊の油である御言葉を宣べ伝え、ぶどう酒が暗示するイエスさまの十字架の贖いの血を宣べ伝え、支払った銀貨が暗示するイエスさまの命の代価を宣べ伝える。すなわち、イエスさまを宣べ伝えるのです。そして勿論、私たちもイエスさまを宣べ伝え従う者として、憐れみ深い者となり、自分にできることを精一杯させていただくのです。昨日、私の悩みを聞いてくれた同僚の牧師は言いました。「話しを聞くだけで、何のアドバイスもできない非力さを思います」と。私も、それ以上のことが、その人に出来ないことは重々承知の上です。でも、私の隣人になってくれただけで嬉しかったのです。最後には「とにかく、神さまが、その道を備えて下さるようにと祈っています」と言ってくれただけで嬉しかったのです。だから、私も、非力ながらも、同じように生きる者でありたいと思うのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記