2025年01月26日

2025年1月26日 主日スクリーン伝道礼拝説教「汚れた霊を住まわすな」大坪信章牧師

ルカによる福音書11章24節〜26節、申命記32章15節〜18節
「汚れた霊を住まわすな」
 
 今日の説教は『汚れた霊を住まわすな』です。先週は『神がサタンを追い出す』という説教だったので「サタン」とか「悪霊」に引き続き、今日は「汚れた霊」の登場となります。正直、あまり聞きたくない言葉(霊的存在)が勢揃いしてしまいました。ただ、先週の礼拝でも話したように、悪霊は、人に取りついて悪さをしますが、イエスさまが命じれば出て行くという従順さがあります。だから、現実は、イエスさまが仰ること、それは、神の御言葉に聞き従わない人間のほうが、悪霊より数倍も恐ろしいということになります。だから、悪いことや悪い結果などを、体裁が整うからという理由で、何でもかんでも悪霊のせいにするのはどうかということなのです。むしろ、何事も、すべては、私たち一人ひとりの心に求められています。しかし、それを自分の都合の良いようにシャットアウトしたり、跳ね返したり、悪魔のせいにしたり、そうして、ほったらかしにしているというのが、私たちの現状ではないでしょうか。私たち一人ひとりの心に求められていること、それは、一人ひとりが神の御前に額づいて、自分の胸に手を当て、自分の心の浅慮(考えの浅いこと)を常に省みるということです。これが毎週の礼拝の場に訪れて、神の御前に立った私たちの姿である必要があります。そうでなければ、その後、私たちが御言葉の剣によって自分の心にメスを入れていただくこともなく、治療され、治癒し「本当に重要なことを見分け」神の子どもとして、聖霊に満たされて生きる道を見出し、それを思い描くこともありません。

 だから、自分の胸に手を当て、自分の心の浅慮を省み神の前に立つというのは、私たちの死活問題です。それは、肉体的な生死のことを言っているのではありません。肉体的な生死であれば、何とかうまく世間を渡り歩き、この世の幸せを手に入れて満足すれば、それで成功となるのでしょう。しかし、私たちが問題にすべきなのは、霊的な生死の問題です。それは、魂が救われるか滅びるかの問題です。その魂の救いは、たとえ、この世で幾らうまく世間を渡り歩き、この世の幸せを手に入れたとしても、それに比例しない救いです。9章25節26節で、イエスさまは、弟子たちに向かって言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」と。だから、私たちは「自分の身を滅ぼしたり、失ったり」しないように、自分の魂に気を付ける必要があります。それは、自分の魂を守ることになるからです。

 今日の聖書の物語は、現実に目に見えるような物語ではなく、実際には目に見えないけれども、事実として起こっている物語です。まず、24節「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき」とあります。「汚れた霊」が「人から出て行く」つまり、追い出されるというのは、この直前の物語で、イエスさまが悪霊を追い出しておられた出来事に続く内容になっています。その時は、口を利けなくする悪霊が人から出て行きましたが、出て行った悪霊が、その後どうなったのかは触れられていません。しかし、今日の物語の内容が、まさに、その出て行った悪霊の、その後なのです。その追いやられた悪霊は「砂漠をうろつく」とあります。「砂漠」は、人が住まない場所なので、それだけでサタンや悪霊や汚れた霊が住む場所とされました。確かに、ゲラサの地で悪霊のレギオンに取りつかれた男は、墓場を住まいとしていました。また、イエスさまも「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言って公生涯(宣教)を始められる直前、聖霊によって、まず導かれたのが荒れ野でした。理由は、悪魔の誘惑を受けるためでした。だから、悪魔=砂漠(荒れ野)というのは、イメージとしては、物事の最初の段階で、既に出来上がっていたと言えます。

 ただ、創世記まで遡ると、悪魔は、蛇という在り方でエデンの園に存在し、エバとアダムを誘惑しました。悪魔は存在しましたが、そこは荒れ野ではありませんでした。しかし、その後アダムとエバは、神によってエデンの園から追放されました。行き着いた先は、エデンの東、旧約時代の地名でノドの地でした。ノドは、放浪者や逃亡者を意味し、不安と孤独が隣り合わせで、神の恵みの外側とか、暗闇や地下の世界をイメージするには十分な場所でした。また、ノドを「震える国」と考えた古代教父もいました。それらのイメージは、すべてエデンの園とは正反対です。それでノドの地は、獣や得体のしれない怪物が住む砂漠と表現されました。なので、既に物事の最初の段階で、悪魔=砂漠(荒れ野)というイメージが成り立ちますが「汚れた霊」などの霊的存在との関わりの結末としての悪霊=砂漠(荒れ野)というイメージも成立します。とりわけ、荒れ野は、乾燥地帯で水気がないので、砂漠は満ちていない場所と言えます。何なら枯渇し過ぎて乾燥肌のようにカサカサして、唇は、ひび割れが生じて裂ける、そんな痛々しいイメージもあります。それは、神を捨てて生きる人間の状態を表していると言えます。こうして「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所」それは、別の住処や寛げる場所を探すのですが「見つからない」のです。

 それで、次に「汚れた霊」は「出て来たわが家に戻ろうと言う」のです。それは予想通りです。なぜなら、一度、人間に取りついた悪霊は、その時点で安住の地を得たのであり、味を占めたと言えるからです。そうして、25節「戻ってみると、家は掃除をして、整えられて」いました。「汚れた霊」が出て行った人は、自分の家の中を隅々まで綺麗に掃除しました。何なら飾り付けまでしたという訳まであるので、そういう意味で、その人のあとの状態は、前よりも良くなりました。普通は、このように綺麗にしておけば悪霊も近づかないだろう、悪霊は、汚い所や不潔な所に住むのだから、と考えますが、そうではありませんでした。「汚れた霊」は、掃除をして整った家の中を見ると「再び出かけて行って」26節「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで」住み着いたからです。悪霊は、つるむのが好きなようです。単独ではなく集団で脅かします。あのゲラサの男に取りついた悪霊レギオンも、ローマ帝国の軍隊6000の部隊を意味する言葉でした。「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」とありますが、当然です。これは、絵空事でもフィクションでもありません。目には見えませんが「汚れた霊」との関わりを持てば、私たちの状態、特に霊的状態は、悪くなる一方なのです。

 それでは、そういう状態を回避するために、私たちが心掛けるべきことは何なのでしょうか。綺麗に掃除をして整えるという対策をしがちな私たちですが、それでは意味がありません。結局、前よりも更に悪い状態になるからです。それは、綺麗に掃除をして整えても、そこを空き家にしていたからです。この物語は、マタイ福音書にもありますが、そこでは、はっきりと「空き家になっており」と説明されています。そうなのです。家は、人が住まないと傷んでいきます。だから、最低限、人が住むというのは最優先課題です。今の季節は乾燥するので湿気が必要ですが、家に人が住まないと湿気によって劣化が進み、室内の空気が滞留します。そして、カビや害虫が発生し、その原因の一つでもある、水道の給水管や下水管がカラカラの状態にもなります。この状態が、そっくりそのまま心の状態にも比例するとイエスさまは言われるのです。家は、人が住まないと傷みますが、心は、イエスさまが住んでくださらないと傷み続けるのです。要するに『汚れた霊を住まわすな』ということは大事なのですが、それは「汚れた霊」を追い出すだけでは何にもならないのです。「汚れた霊」を追い出し、綺麗に掃除をして整えて、いわゆる良い人間になるというだけでは、どうにもならないのです。私たちの心は、神が生きて働いてくださる状態に整える必要があります。それは、生ける神を信じ、生ける神の御前に立ち、礼拝を献げ、自分の胸に手を当て、自分の心の浅慮(考えの浅いこと)を常に省みなければなりません。そうしなければ、罪の自覚が生じることはありません。罪の自覚が無ければ、悔い改めもありません。悔い改めがなければ、イエス・キリストの十字架の意味、それは、自分がイエスさまを十字架に架けて殺した人間であるということも分からず、それが分からなければ、罪の赦しも得られず、最後的には、復活の新しい命である永遠の命を戴き損ねます。

 そうすれば、今日の聖書の御言葉の通りです。「その人の後の状態は前よりも悪くなる」のです。何度も言いますが、悪霊は、神によって追い出される者なので恐れるには値しません。むしろ、神の御言葉に耳を傾けず、信じて神に従おうとしない人間のほうが、そら恐ろしいのです。悪霊は、誘惑したり、神を疑わせたり、神に背かせたり、惑わす働きしかできません。つまり、人間に対して決定的なダメージは与えられないのです。そう考えれば、やはり悪霊がどうのこうのではなく、結局は自分の問題なのです。自分が、自分の心に神を迎え入れられるか、という問題なのです。そうすれば、たとえ、悪霊に脅かされ、最悪7つの悪霊まで連れて来られて、どうにもならなくなっても、イエスさまは、あのマグダラのマリアをも救われました。彼女は、もともと7つの悪霊に支配されていた婦人でした。私たちは、空っぽであるということが、如何に危険な状態なのかということを知らなければなりません。また、同時に、その対策も行なう必要があります。その空しさは、この世の何ものによっても埋まりません。綺麗に掃除が為され、整理整頓され、物質的に豊かな状態でも埋まりません。清いという名の良い人間、正しい人間になることでもありません。なぜなら、その良さや正しさに救いを求めても、そういう人間は1人もいないと聖書は言っているからです。だから、私たちは、ただイエスさまを信じ、イエスさまを自分の心に迎え入れることが求められています。その時、私たちの空しさは、全く満たされたのです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:20| 日記

2025年2月2日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:マタイによる福音書22章15節〜22節
説 教:「神のものは神に」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:ルカによる福音書11章27節〜28節、詩編1篇1節〜6節
説 教:「霊的な関係こそが幸い」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:12| 日記

2025年01月19日

2025年1月19日 主日聖歌隊礼拝説教「神がサタンを追い出す」大坪信章牧師

ルカによる福音書11章14節〜23節 サムエル記上16章14節〜23節
「神がサタンを追い出す」

 今日の聖書の物語は、通称『ベルゼブル論争』と呼ばれています。内容は、イエスさまが悪霊を追い出す物語です。ただ、悪霊という言葉を前面に出すと、それを聞く人は、やはり引いてしまうと思います。聖書に精通する牧師やクリスチャンなら、その言葉は聞き慣れていますが、クリスチャンでも日常会話の中で「最近、悪霊がね」なんて多用していたら、ちょっと怖いです。それで説教題は、悪霊や悪魔という言葉の響きを幾分和らげる「神がサタンを追い出す」としました。これは、まだ先の話しですが、悪霊の親玉のサタンが追い出される日は、彼の日、来るべき時に実現すると約束されています。だから、その日その時が早く来るように、主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」「悪より救い出したまえ」と祈る。これがクリスチャンの共通の願いです。と言うことで、今日の聖書の物語の文脈によれば、説教題は『神が悪霊を追い出す』です。この悪霊は、霊なので目に見える存在ではありません。だから、ある人を、それに見立てて、そう呼んでも、それは事実ではありません。事実は、人に取りつく仕方で、悪霊が人を支配しコントロールするということです。ところで、この『ベルゼブル論争』は、マタイ、マルコ、そして、このルカ福音書に記されています。ただ、それぞれ、この論争の物語が置かれた位置(前後の文脈)や内容は、微妙に違います。この論争の下地は、特にマタイとマルコの福音書から知り得ます。それは、神の霊が注がれた神の子イエスさま(これは、悪霊も認めた事実ですが)そのイエスさまの癒しと、そのイエスさまへのファリサイ派や律法学者たちの殺意です。この物語は、神が悪霊を追い出すので、何か神と悪霊の対決のように見えます。しかし実際は、神と神の子イエスさまを殺そうとするファリサイ派や律法学者との対決です。つまり、自分たちの行いによる救いを信じ、神の行ないによる救いの御業(十字架の福音)を信じない人たちとの対決です。イエスさまは平和の王であるにも拘らず、この論争が成立したのは、放っておけば大事に至る由々しき死活問題だったからです。

 14節に「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した」とあります。イエスさまが悪霊を追放されるのは、この時に限ったことではありません。人が悪霊にとりつかれると、おもに暴力的・攻撃的になり、ある場合は、脳細胞の過剰な興奮により、痙攣や意識消失などの症状が表れます。これらは精神的な症状と言えますが、症状は、人によって差があります。マタイ福音書では「目が見えず口の利けない人」、マルコ福音書では、悪霊に取りつかれていると思しき人は登場せず、このルカ福音書は「口の利けない人」とあるので、身体的症状も見られます。中でも、このルカ福音書は「口の利けない人」に限定されているので、何かしら言葉の問題に焦点が置かれていることが分かります。言葉が話せないのは辛いことです。勿論、人を傷つけるような言葉を発するくらいなら、その口は、いっそ閉ざされたほうが、その人のためです。しかし、この「口の利けない人」は、普通に言葉の回復をイエスさまに求めたのです。今まで言葉を話せなかった分、言われて嬉しかった言葉、言われて悲しかった言葉の判断は明瞭でした。だから、言われて嬉しかった言葉を自分も話したかったのです。言葉は、正しく使えば本当に美しく綺麗で、面白くも優しくもあります。だから、この「口の利けない人」は、人を励まし慰め労わるような言葉を話したかった。つまり、この人は「聖霊」を求めていました。ルカ福音書の『ベルゼブル論争』の下地は、マタイやマルコの癒しと違って祈りです。13節でイエスさまは言われました。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。要するに、この「口の利けない人」がイエスさまに悪霊を追い出していただき、ものを言い始めたのは、聖霊を受けたからです。この出来事に「群衆は驚嘆」しましたが、ある意味、群衆のほうが驚くべき神の御業を前に、かえって言葉を失ったと言えます。

 しかし、15節「中には、『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言う者』」がいました。この発言者は、群衆の中に居るように描かれていますが、マタイやマルコ福音書によれば、明らかにファリサイ派や律法学者の発言です。この言葉は、イエスさまに対しては失礼千万で“相手を傷つける言葉”です。悪霊は、人に色々な悪さをしますが、この物語では、人から言葉を奪っています。しかし、もう一つの側面として、イエスさまに命じられれば、呆気なく退散します。これを従順と言って良いかは分かりませんが、神に抵抗しても敵わないという、ある意味、悪足掻きせずに観念する思い切りの良さが感じられます。つまり、悪霊は、人を支配しコントロールするような悪さをしますが、同時にイエスさまの支配、神の支配には、服従せざるを得ない霊的存在です。そうすると、由々しき大問題は、悪霊よりも、むしろ、人を傷つける言葉を平気で言える、話せるファリサイ派や律法学者のほうです。だから、思いがけない苦難や、良くないことに遭遇した時に、都合よく何でもかんでも悪霊のせいにするのは違います。そうすれば、体裁は整いますが、それは、自分勝手な使い分けで、悪霊が可哀想とまでは言いませんが、それはまた、別の話しのような気がします。いずれにしろ、由々しき大問題は、悪霊よりも、むしろ、神に従わず、神の言葉に耳を傾けず、神の支配に服さない人間。とりわけ、ファリサイ派や律法学者のような人間のほうです。彼らに共通するのは、人を傷つける言葉、デリカシーの無い言葉を平気で口にできる、話せるということです。また、自分の罪は決して認めず、自分にとって良くないことは、すべて悪霊やサタンのせいにするということです。それは、あまりにも虫が良すぎる話しです。こうして、意地悪く人を中傷するファリサイ派や律法学者たちが、直接は、イエスさまを十字架に架けて殺しました。勿論、彼らだけの問題ではなく、そういう状態や性質を分かつ私たち人間の罪の問題です。要するに、イエスさまを十字架に架けて殺したのは、自分たちの行いによる救いを信じ、自分で自分を救おうとし、神の救いの御業を否定し、聖霊である神の言葉を求めない人々です。彼らは、この時イエスさまが「悪霊の頭ベルゼブルの力」すなわちサタンの力で「悪霊を追い出している」と言いました。サタンの手下なら、親玉のサタンの言うことを素直に聞くのは当然だからです。「ベルゼブル」とは、旧約の時代、神の民イスラエルがヨルダン川西岸のカナンの地に入植した時、その地の住民カナン人(異教徒)が信奉していた偶像バアルのことなので「ベルゼブル」とは、主人(バアル)=(ベル)の住居(ゼブル)という意味です。つまり、悪霊たちの支配者という意味で、直接は、サタンのことを指しています。或いは、語呂が似ているバアルゼブブ(ハエの王、又は、糞の王)と呼ばれていた可能性もあります。つまり、イエスさまは、当時の病人や死人や罪人、いわゆる価値のない糞のように見られていた人々に寄り添われましたが、それが、そこに集るハエや糞の王のように見られ、揶揄されたのです。

 また、イエスさまを試して、本当に神の子・救い主なら、と、その証拠に、 16節「天からのしるしを求める者」つまり、奇跡を起こせと言う者までいました。これは、旧約の時代に奇跡慣れしていたユダヤの人々の子孫の常套句(決まり文句)でした。彼らは、目の前に見ている、目の前で聞いているイエスさまが、最大の奇跡だとは認めず、部分的な目に見える、目を刺激する、そういう業(しるし)しか求めません。その背景には、目には見えなくても、心を刺激し、時には悔い改めを迫り、私たちを新たに造り変える神の言葉(聖霊)を求めることはしないのです。しかし、イエスさまは、17節、そのような「彼らの心を見抜いて言われ」ました。その「心」とは、イエスさまを陥れようとする策略です。そしてイエスさまは、5つの的を射た指摘で、彼らの矛盾を突きました。まず1つ目は、17節〜18節「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」と言われました。内輪で揉め事や喧嘩や言い争いが日常化している国家、家庭、共同体があれば、そこは、いずれ内部分裂、内部崩壊、自滅の道を辿るのが目に見えています。だから、イエスさまが、もし「ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」なら、この世にサタンの国を作り上げようとする企ては台無しになるわけで、彼らが、そのようなヘマをやらかすだろうかと言われるのです。2つ目は、19節「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」と言われます。これもまた、尤もな話しです。「あなたたちの仲間」それは、ファリサイ派のことで、彼らの中には、悪霊追い出しをする人もいたようです。そうすると、彼らもベルゼブルの力を使っていることになり、彼ら自身が、そんな失礼なことを言う人たちを裁くと言われます。3つ目は、20節「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われます。これも確かにその通りです。「神の指」は神の御業のことで「神の国」は神の支配のことです。そうすると、悪霊の支配の終わりは、もう始まっており、神の支配の始まり、それは、神の国の基礎工事は既に終わっていて、今、着々と神の国の建設工事が進んでいるということです。4つ目は、21節22節「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配すると言われます。「強い人」はサタンのことで「もっと強い者」がイエスさまのことです。イエスさまは、もう一度来てくださいますが、その時、イエスさまは、サタンに勝利し、サタンの力や、その効力を根こそぎ奪い取り、サタンに苦しめられた囚われ人を解放してくださるのです。こうして、冒頭で取り扱った、希望的観測というより、聖書に書かれている御言葉の実現としての説教題『神がサタンを追い出す』日が現実のものとなり、神の国が完成します。そして、最後の5つ目は、23節「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と言われます。「わたしと一緒に集めない者」というのは、ユダヤでは、農業と牧畜業が盛んに行なわれています。農業では農夫が収穫物を集め、牧畜業では羊飼いが羊を集めます。それに協力しない者は、収穫物を散らし、羊を散らす者ということになり、それは、邪魔者になってしまいます。最初の行(くだり)でも言いましたが、この物語は、神が悪霊を追い出すので、何か神と悪霊の対決のように見えるのですが、実際は、神と神の子イエスさまを殺そうとするファリサイ派や律法学者との対決なのです。要するに、自分たちの行いによる救いを信じ、神の行ないによる救いの御業(十字架と復活の福音)を信じない人たちとの対決なのです。だから、この『ベルゼブル論争』という物語は、別に怖がるような物語でも奇妙な物語でもありません。むしろ、自分たちの行いによって救われようとする人々、つまり、神に敵対し、神の御業を否定し、聖霊である神の言葉を求めない人々は、悪霊よりも恐ろしいということになります。しかし、私たちは、洗礼を受け、聖霊という名の神の御言葉によって満たされる者です。だから、何も恐れることはありません。私たちは、神に味方する者であり、神と一緒に集める者です。そして、1人でも多くの方々と共に、神の言葉によって語り合い、神の恵みを分かち合っていきたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:21| 日記