2025年02月28日

2025年3月9日 礼拝予告

〇教会学校 10時30分〜の礼拝に合流します。
      通常の9時15分〜の礼拝はありません。

〇主日神の家族礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書26章6節〜13節、ルツ記1章15節〜19節
説 教:「香油を注がれる主イエス」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:50| 日記

2025年02月23日

2025年2月23日 主日スクリーン伝道礼拝説教「闇ではなく光を見る目」大坪信章牧師

ルカによる福音書11章33節〜36節、イザヤ書50章10節〜11節
「闇ではなく光を見る目」

 今日の聖書の物語は、イエスさまの譬え話です。この譬えの中で繰り返されている言葉を取り上げるなら、この譬えは「ともし火」の譬えと言えます。それは、2つあります。1つは、33節「ともし火」を「燭台の上に置く」譬えです。もう1つは、34節〜36節「体のともし火は目」という譬えです。これらの譬えは、イエスさまが、ここで唐突に話し始められたかのように見えますが、そうではありません。この譬えが、ここで話されている意味や、ここに置かれている目的は、2つ目の譬え「体のともし火は目」の中で言われているイエスさまの言葉を見れば一目瞭然です。それは、35節「調べなさい」です。これは、注意を呼びかけ、用心を促す言葉です。つまり、この譬えの意味や目的は、弟子たちや群衆に対する信仰上の注意喚起です。ただ、それは、後ろ向きで悲観的な注意喚起(否定やダメ出し)ではありません。36節には「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」とあるように、非常に前向きで希望的な注意喚起(将来的で未来志向)だということが分かります。これが、ルカ福音書の「ともし火」の譬えの特徴です。ただ、これと同じ「ともし火」の譬えが、実は、マタイ福音書の山上の説教の中にも、それぞれ5章と6章に記されているのです。1つ目の「ともし火」を「燭台の上に置く」譬えは 、マタイ福音書5章15節にあります。そこには「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」と書かれています。そして、2つ目の「体のともし火は目」の譬えは、マタイ福音書6章22節23節にあります。そこには「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」と書かれています。これは、非常に後ろ向きで悲観的な注意喚起(否定やダメ出し)です。これが、マタイ福音書の「ともし火」の譬えの特徴です。

 このように、マタイ福音書とルカ福音書では「ともし火」の譬えの特徴が、後ろ向きで悲観的な注意喚起と、前向きで希望的な注意喚起に分かれるのです。それは、ルカ福音書が異邦人向けの福音書で、マタイ福音書がユダヤ人向けの福音書だからです。ユダヤ人の多くは、イエスさまを救い主だとは認めません。つまり、ユダヤ人の多くは、既に後ろ向きで悲観的な信仰を抱いています。だから、そのような彼らに、どれだけ前向きで希望的な信仰の話し、それは、「ともし火」の譬えを話しても、一向に聞く耳を持たないのです。ただ、それは当然と言えば当然です。なぜなら、ユダヤ人たちは、後ろ向きで悲観的な信仰こそが一番だと思っているからです。だから、そのようなユダヤ人たちには、まず、自分たちの信仰が如何に非・常識的で非人間的なのか、それは、譬えで言うところの「暗い」のかということを認知し、察知するなどの自覚が求められるのです。それが、マタイ福音書6章でイエスさまが言われた「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉に表れています。その自覚が生じない限り、前向きで希望的な信仰、それは「ともし火」の譬えを話しても、話しが一向に進まないのです。要するに、自分が闇の中に居ることが分かっていない人に、どれだけ光の良さを説明し、光を提供したとしても、その人のためにはならないのと同じです。だから、マタイ福音書の「ともし火」の譬えは、ユダヤ人たちに、まず、後ろ向きで悲観的な信仰の自覚を促すということが、目的なのです。

 しかし、先程も言いましたが、ルカ福音書は、ユダヤ人向けではなく異邦人向けに書かれた福音書です。異邦人は、ユダヤ的な後ろ向きで悲観的な信仰は抱きませんが、もし、そのような信仰が入り込んできたら目移りし兼ねません。特に異邦人は、何だか分からないけれども、良さそうだと思えるものは見境なく、何でもかんでも取り込む性質があります。私たち日本人の古くからの信仰も八百万の神々が影響し「鰯の頭も信心から」と言うほどです。でも、言わしてもらえるなら、鰯の頭は、どう考えても鰯の頭であって、信仰の対象ではありません。だから、異邦人が、ユダヤ的な後ろ向きで悲観的な信仰に目移りし、そこで自己満足(自虐的満足)を得ようとしてはならないのです。だから、それが具体的にどのような信仰なのかは知っておく必要があります。それが、このルカ福音書では「ともし火」の譬えの前後の文脈の中で取り扱われています。一見すると「ともし火」の譬えは、前の文脈と脈絡が無いように見えますが、脈絡はあります。その証拠に、後ろの文脈との脈絡が、はっきりしています。37節「イエスはこのように話しておられたとき」とあるように、イエスさまが「ともし火」の譬えを話している中で、後ろの文脈である次の物語が始まるからです。前の文脈は「しるしを欲しがる」信仰、すなわち、見えるものに目を注ぐ信仰です。また、後ろの文脈は、律法学者やファリサイ派の、行ないによる救いを信じる、形式的で偽善的な信仰です。それでは、異邦人は、実際どのような信仰を抱いているのでしょうか。私たちも異邦人ですから分かりますが、異邦人は、あらゆる様々な偶像礼拝によって、自分で勝手に作り出した根拠のない「大丈夫」或いは「安心」という信仰や、因果応報の信仰を抱いています。これは、ユダヤ的な後ろ向きで悲観的な信仰とは、微妙に違います。どちらかと言えば、前向きで希望的な信仰に近いですが、実際は全く違います。何せ、その異邦人的な大丈夫という信仰は、根拠に乏しいからです。そのような前向きで希望観測的な信仰は、何かの拍子に、それは例えば、災害や苦難を被った時に一瞬で根底から崩れます。だから、異邦人向けに書かれたルカ福音書では、根拠のある前向きで希望的な信仰の話しをイエスさまは為さるのです。

 それでは「ともし火」の譬えを見ていきます。まず1つ目の「ともし火」を「燭台の上に置く」譬えからです。33節「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。これは、当たり前のことを言っているようですが、一体、何を私たちに教えようとしているのでしょうか。私たちは、信仰に目覚めた人のことや信仰が覚醒した人のことを「あの人は、信仰に火が付いた」というような言い方をします。また、テサロニケの信徒への手紙1、5章19節20節にも「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」とあります。それでは、この「信仰に火が付いた」という言い方や「“霊”の火」は、何を指しているのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じることを指しています。それを踏まえて、もう一度33節を読むと次のようになります。「ともし火をともして」つまり、イエス・キリストという光を信じて「それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない」それは、イエス・キリストという光を隠したり覆ったりしはしないのです。むしろ「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」つまり、部屋に入ってくる人が、イエス・キリストの光に照らされるように、イエス・キリストの光は、部屋に入ってくる人に見える場所に置きます。言い換えれば、イエス・キリストの十字架による罪の贖いと、復活による永遠の命という救いを、福音として宣べ伝えるということです。しかし、多くの人々は、イエス・キリストという光を信じないで、それを「穴蔵の中や、升の下に」置いて、隠したり覆ったりしたのです。そして、返って、しるしを求める信仰を抱き、形式的で偽善的で、因果応報的な信仰を抱き、それを、人々から見える「燭台の上に」置いたのです。でも、それは、そもそも「光」ではありません。「光」ではないので、それを幾ら人々から見える場所に置いても、一向に自分のことも、その部屋に入ってくる人々のことも照らさないのです。だから、自分も、その部屋に入って来る人々、つまり、救いを求めて来る人々も、暗闇の中で、手探り状態で、さ迷うしかないのです。しかし、ひとたびイエス・キリストという光を信じて、それを自分にも人々にも、よく見える「燭台の上に置く」なら、言い換えれば、そうしてイエス・キリストを宣べ伝えるなら、そのイエス・キリストの光は、自分や、その部屋に入って来る人々、つまり、救いを求めて来る人々を照らし、みんな誰も、さ迷わず、物事は光の中で、はっきり認識できるので理解するのです。だから、その人は、イエス・キリストを信じることによって、その光の中で、完全に自由な喜びが与えられるのです。

 それと同じように、34節の「体のともし火は目」の譬えも見ていきます。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。私たちは「目は心の窓」という言い方をすることがあります。つまり、私たちの心の有りようは、目に表れやすいからです。そうして、この言葉は、目を通して私たちの感情や思考が伝わることを示しているので、私たちの内面を、上手く表現していると言えます。だから、逆に、その「目が澄んでいれば」イエスさまの言われる通り、その人の心の中も含め「全身が明るい」のです。この「目が澄む」という言葉は「目が単純」という意味があります。要するに、目が、イエス・キリストに対して単純なら、それは、ただイエス・キリストを信じるなら「あなたの全身が明るい」となるのです。しかし、目が「濁っていれば」それは、イエス・キリストに対して複雑なので、イエス・キリストがよく分からないために、その人の「体も暗い」ということになります。

 そこで、イエスさまは言われました。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と。つまり「あなたの中にある光」とは、イエス・キリストであり、そのイエス・キリストが「あなたの中」で「消えていないか調べなさい」と言われるのです。イエス・キリストを見失っていないか、見誤っていないか注意しなさい、気を付けなさい、ということなのです。こうして、私たちがイエス・キリストを単純に信じて、36節「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」のです。しかし、少しでも「暗いところ」があれば、あなたの全身は、輝きを失った状態であるということになります。この暗さこそ、ユダヤ的な後ろ向きで悲観的な信仰であり、所詮は根拠のない、前向きで希望観測的な信仰です。具体的に言えば、それは、しるしを求める信仰や、形式的で偽善的な信仰であり、因果応報的な信仰です。私たちは、これらの闇に対して、単純であるべきではありません。これらの闇を単純に信じるべきではありません。これらの闇に対しては複雑であるべきです。私たちは、イエス・キリストに対して、その十字架と復活の福音の光に対してのみ、単純であるべきです。なぜなら「澄んでいる」状態というのは、濁りや淀みを無くして綺麗にするという物理的な意味だけではなく、道理を明らかにして、物事の筋道がはっきりするという意味があるからです。また、心配や邪念がなく、悩みや葛藤などが解消されて、心が心地よく、すっきりしている状態という意味もあるからです。更には、上品で落ち着いていながらも地味な感じがするという、謙虚で遜った意味もあります。だから、このように私たちが、目には見えないイエス・キリストの光に目を注ぎ、その目が澄んでいるならば、私たちには、真の救いの喜びが与えられているのです。この、見えないものに目を注ぐ信仰というのは、すなわち、神の言葉である、イエス・キリストの言葉に耳を傾ける信仰だということを理解した人々は、本当に幸いです。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:18| 日記

2025年02月21日

2025年3月2日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:マタイによる福音書25章14節〜30節
説 教:「タラントンのたとえ」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書27章11節〜14節、詩編62篇1節〜13節
説 教:「不思議な沈黙」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 13:26| 日記