2025年04月27日

2025年4月27日 主日スクリーン伝道礼拝説教「事実無根の話し」大坪信章牧師

マタイによる福音書28章11節〜15節 箴言19章1節〜9節
「事実無根の話し」

 イースターの喜びの日、イエスさまの復活の日を背にして、はや一週間が過ぎました。振り返れば、そこには、輝かしい命の喜びがありました。今、私たちは、教会の暦で復活節の期間を歩み始めています。けれども、今日の説教題が『事実無根の話し』ということに、何か矛盾を感じるという人もいるかと思います。まさか、復活が事実無根の話しだと思う人はいないと思いますが。しかし、教会を一歩外に踏み出して、この広い世に出て行けば、復活が事実無根の話しだと思っている人や、そう信じている人はいます。ただ、頑なにそう信じたとして、そのどこに希望があるのかと思います。そのような人生の何が希望なのかと思います。ですから、先週のイースターの日に起こったイエスさまの復活の出来事は『事実無根の話し』として、歴史の片隅に放置されることはありません。歴史の闇に葬られることもありません。未だに、この春の命の勢いの如く、世界中の人々に求められ、世界中の人々の間で信じられている出来事となっています。この力強い、日の出の勢いのような復活節の期間は40日を数えます。今日で既に7日が過ぎました。この期間は、受難節レントの期間とは違い、日曜日も数に入れて数えるので、受難節レントの時のような長さや重苦しさは感じません。季節的にも足取り軽く進んでいきます。そして、40日目、今年は、5月29日がイエスさまの昇天記念日です。そして、その日から10日目、イースターから数えて50日目の6月8日(日)がペンテコステです。その日、私たちは、弟子たちに聖霊が降り、この世界に初めて教会が誕生した喜びを分かち合います。しかし、何ゆえか、この世の中は、何としてでも復活の事実を無かったことにしようとするのです。

 というのは、イエスさまが復活された朝、11節「婦人たちが行き着かないうちに」と聖書は言っているからです。「婦人たちが行き着かないうちに」というのは、婦人たちが弟子たちの所に「行き着かないうちに」です。婦人たちが、弟子たちの所へ向かったのは、イエスさまの墓に現れた天使から、弟子たちへの伝言を預かったからです。7節を見ると、天使は婦人たちに、次のような伝言を託しました。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」と。そこで、婦人たちが、8節「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」のです。すると、今度は 、復活されたイエスさま御自身が、9節「行く手に立っていて」言われました。10節「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。こうして、イエスさま御自身からも、直接、弟子たちへの伝言を預かった婦人たちは、喜び勇んで弟子たちの所へ向かいました。しかし、婦人たちが、弟子たちの所に行き着く前に、11節「数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」のです。その報告の内容は、2節3節に記されています。「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」と。この、イエスさまが復活された出来事の報告です。数人の番兵たちは、このイエスさまの復活の事実、それは、自分たちが直接、目にし、耳にし、体験した事実を報告したのです。

 すると、その報告を聞いた祭司長たちは、12節「長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与え」ることにしたのです。いわゆる、賄賂、まいないです。祭司長たちは、番兵たちに、この場合、金銭を渡すことで、番兵たちが直接、目にし、耳にし、体験したイエスさまの復活という事実を、無かったことにしてもらおうと画策したのです。しかも、祭司長たちは、番兵たちに、事実の隠蔽を求めただけではなく、次のストーリーを言い触れ回るように提示しました。13節「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」と。祭司長たちは、自分たちに都合が良くなるように、こんなにも明らかな不正により、復活の事実の隠蔽を目論んだのです。いわゆる、嘘八百です。これこそが、今日の説教題が意味するところの『事実無根の話し』なのです。この中で、弟子たちは「夜中にやって来て」とあります。弟子たちと言えば、金曜日は愚か、その翌日、土曜日の安息日を迎えた夜、夜中も、逃げ隠れた先の家の部屋に、互いに身を寄せ合い閉じこもっていました。だから、弟子たちに、イエスさまのご遺体を持ち去るような、そのような勇気は無かったのです。また、イエスさまを自分の新しい墓に埋葬したアリマタヤのヨセフも、その務めを終えた直後、その場を立ち去っています。だから、もし、そのようなことができると言うのであれば、それは、婦人たちです。確かに、婦人たちは、アリマタヤのヨセフが、イエスさまを自分の墓に埋葬した時、その様子を、じっと見ていたと聖書に書いてあります。だから、婦人たちが、その近辺に、その後も、ずっといたのであれば、夜、夜中にかけて、再び墓に来て、番兵たちが眠っている間にイエスさまのご遺体を盗んで行くことは可能でした。ただ、今でさえ、夜、夜中に女性が出歩くことは、憚られます。何より、墓穴を塞ぐ石の移動は、成人男性が数人がかりでも重労働なのに、それを婦人たちで転がすことなどできないのです。しかも、その墓を塞ぐ石には、ユダヤ当局者たちが封印をしたと聖書に書いてあります。盗んだのであれば、その封印も解いたということになります。だから、番兵たちが寝ていようがいまいが、それが弟子たちであっても、たとえ婦人たちであっても、墓の中からイエスさまのご遺体を盗み出すことは、できないのです。

 また、14節「もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と 、祭司長たちは言っています。だから、イエスさまが、ユダヤ当局者たちによって封印された墓の中から復活されたという事実は、番兵たちが目にし、耳にし、体験した通り事実として有ります。もし、無ければ、この復活の事実が「総督の耳」に入る可能性もありません。しかし、祭司長たちは、たとえ「総督の耳に入っても」と言っており、それは、番兵たちが真実を話したことの証拠です。しかし、番兵たちは「弟子たちがイエスさまのご遺体を盗んで行ったから復活などない」と、そのように言い触れ回ることを祭司長たちから求められています。つまり、事実に反した彼らの嘘が、総督にバレてしまえば、番兵たちの命の保証はありません。それで、祭司長たちは、その場合は「うまく総督を説得して」番兵たちに「心配をかけないようにしよう」と言ったのです。この時、番兵たちが、祭司長たちの提案、つまり、賄賂を受け取らなかったら、彼らに罪は無かったかもしれませんが、番兵たちは、15節「金を受け取って、教えられたとおりに」しました。ただ、番兵たちが賄賂を受け取らず、偽証人となることを拒んだとしても、彼らに命の保証があったかと言えば、それは無かったのです。そのことを考えれば、祭司長たちが画策した、この『事実無根の話し』は、本当に質(たち)の悪い極悪な人間たちの、嘘で塗り固められた作り話でした。こうして、聖書は、この出来事を次のように締め括ります。「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と。つまり、イエスさまのご遺体を、弟子たちが墓の中から盗んで行ったという、その嘘で塗り固められた事実、いわゆる『事実無根の話し』が、ユダヤ人の間に広まったのです。この『事実無根の話し』は、復活を信じる教会の宣教の業である福音とは対峙しています。全く真逆のベクトルで、ユダヤ人の間に広まりました。それだけではなく、今、この世の中の考え方や思想を見れば分かることですが、この『事実無根の話し』は、悲しいことに、ユダヤ人を通して、全世界に広まってしまったというのが実情です。なぜなら、人は、誰も、イエスさまの復活を信じないからです。

 しかし、今、復活の物語を読んだ通り、復活の出来事は、証拠も根拠もある確かな事実なのです。それを、復活を信じない者たちが、姑息な手段で、嘘の情報を作り出し、それが事実であると言い触れ回らせたのです。そして、ユダヤ人はおろか、今や、いかに多くの人々が、この嘘の事実を信じさせられてしまっていることでしょうか。「復活など、イエスを信じる者たちが、その遺体を墓から盗み出した上で宣べ伝えた単なる作り話だ」と。そうやって言い包められ、そう思うことしかできなくなってしまった人々の何と不幸なことでしょう。世界は、未だに、事実無根の話しを信じる世界として回ってしまっているのです。何て悲しいことでしょう。まるで、中世ヨーロッパで言えば、真実は地動説なのに、大半が天動説だと言い張っているような世の中です。そもそも復活が無ければ希望もありません。復活を信じない人生、希望がない人生だから、人の世は、ご覧の通り狂ってしまっています。その生き方、その考え方までもが腐っていきます。それは、単(ひとえ)に復活を信じないからです。祭司長たちによって、復活に対抗した事実無根の話しが作り出されて以来、人は、嘘で塗り固められた世界で、嘘で塗り固められた人生を生きています。だから、自分の人生も嘘で塗り固めて、自分に嘘をつきながら生きています。必至でこの世に縋っているという、それが何よりの証拠です。この世で成功しなければならない。この世で損をせず得をしなければならない。この世で良い思いをしなければならない。この世で間違いを認めれば負け。だから間違いは認めない。認めるのが怖いから逆上する。認めるのを恐れているから人のせいにする。また、たとえ認めても認めさせられても、悔い改めは抱かない。反って憎しみを抱き仕返しをする。復活を信じないから戦争を仕掛ける。攻撃を仕掛ける。要するに、みんな死を恐れています。この世がすべてだから、この世に縋り、この世にしがみ付き、潔くない惨めな人生しか生きることができません。しかし、復活を信じる私たちは違います。この世がすべてではありません。信仰がすべてです。復活の信仰によって、希望を抱く人生を共に歩みましょう。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 11:48| 日記

2025年04月26日

2025年5月4日 礼拝予告

〇教会学校 9時15分〜
聖 書:創世記1章1節〜5節
説 教:「創り出す神さま」

〇主日聖餐礼拝 10時30分〜 
聖 書:マタイによる福音書28章16節〜20節、出エジプト記12章21節〜28節
説 教:「御言葉と聖礼典を守る」大坪信章牧師

感染予防対策をした上で、礼拝を献げています。みなさまのお越しを心よりお待ち申し上げます。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 08:46| 日記

2025年04月20日

2025年4月20日 主日聖歌隊礼拝説教「行く手に立つ主イエス」大坪信章牧師

マタイによる福音書28章1節〜10節 エレミヤ書38章10節〜13節
「行く手に立つ主イエス」

 長い受難節レント四旬節40日の期間が明けました。この期間が始まったのは、3月5日の灰の水曜日でした。その日から今日まで、教会では、毎週日曜日の礼拝毎に、イエスさまの十字架の道行きを共にし、常にイエスさまの十字架の苦難と苦しみのことが心に掛かった状態で歩んできました。それは、わたしの罪のために、イエスさまが身代わりとなって死んでくださったという、深い罪の意識を持ちながらで歩んできました。何事においても言えることですが、何かが心に掛かった(引っかかった)状態で生きていく日々は、長いか短いかで言えば、長いです。何かが胸に閊えていると、中々先には進まない、進めないからです。でも、それは、言葉を変えて言えば、この人生を、よく考え、よく学び、しっかり生きているということでもあります。ただ、現実は、罪や自分にとって都合の悪いことは、向き合わないことのほうが多いのではないでしょうか。その日が楽しければ良い、今が楽しければ良いと思って生きているのではないでしょうか。そのような人生は、あっと言う間に過ぎ去ります。
 
 一方、何かが胸に閊え、中々先に進まない人生は、真っ暗な夜道を果てしなく歩いているようでもあります。闇の中では、対象物との距離が掴めず不安で、手探り状態で足元も覚束ない状態です。しかし今日、長い受難節レント四旬節の40日の期間は、明けました。新年に「明けましておめでとう」と言った私たちの本当の「明けまして」は、今日なのです。その今日のことについて、聖書は次のように物語っています。1節「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」と。ユダヤの1日は、朝ではなく夕方から始まります。ですから、ここに出て来るユダヤの「安息日」土曜日は、金曜日の夕方から始まりました。先週の出来事で言えば、イエスさまは、金曜日の午前9時に十字架に付けられ、午後3時に十字架上で息を引き取られ、その夕方、つまり、金曜日の内に墓に葬られました。もし、夕方を過ぎて日付が変わり、土曜日の安息日になると、埋葬は、律法の安息日規定に違反したからです。

 だから、その金曜日の夕方から始まり、土曜日の夕方で終わるユダヤの安息日は、皆、息を潜めるように休みました。そして、ユダヤの日曜日は、その土曜日の夕方から始まりました。イエスさまは、十字架の死後3日目に復活すると常々予告しておられましたが、それは、金土日の3日後のことです。ただ、最短では、日曜日が始まった土曜日の夕方から夜中にかけて復活することも有り得たのです。しかし、復活は、その言葉の意味や、その出来事の衝撃に全く等しく「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」起こりました。それは、輝かしい朝、Rising Sun、朝日が勢いよく昇る朝です。それまで、この世界を支配していた夜(暗黒)が力を失い逃げ去る朝です。明けない夜はなく、止まない雨もありません。旧約時代に一度、世界は滅ぼされ、ノアの方舟に乗ったノアと、その家族、また、すべての生き物の雄と雌だけが救われた時も同じでした。世界は、40日40夜の豪雨で水没しました。あの恐ろしい豪雨も40日は超えませんでした。同じように、今日、イエスさまの十字架の苦難を思い、深い罪の意識を持ちながら歩んできた受難節レントの40日の期間も明けました。

 この復活の朝「マグダラのマリアともう一人のマリアが」イエスさまの「墓を見に行った」時、2節「大きな地震が」起こったと聖書は言っています。この地震は、地殻変動によるものではなく、はっきりと「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」ことによると書かれています。また、その天使の「姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。 地殻変動の地震でさえ恐ろしいのに、この復活の朝の出来事は、恐ろしさを超えた、非現実的な出来事のようでした。だから、4節を見ると「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」と書かれています。ただ、番兵たちが気絶した事実は、同時に、この出来事が非現実的ではなく現実だったということを物語っています。また、それは、5節〜7節に記された「天使」から「婦人たち」への伝言によっても証明できます。

 天使は、婦人たちに言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と。大事なのは、主の天使が婦人たちに、空っぽの墓の中を見せただけではなく、弟子たちへの伝言(言葉)を託し、それを伝えに行かせたということです。もし、婦人たちが、空っぽの墓の中を見ただけなら、復活は、非現実的な感が否めません。しかし、婦人たちは、天使から弟子たちへの言葉を託されたのです。もし、それが自分への語りかけだったら、それも、非現実的な感が否めませんが、復活の出来事には、伝言が意図する伝達という動き(行動)が伴いました。その伝言は、イエスさまが復活され「あなたがより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」という未来の言葉でした。これは、イエスさまが過去、弟子たちに語っておられた言葉で、、この未来は、その言葉通り、このあとガリラヤで実現します。ということは、この言葉は、過去と未来を繋ぐ言葉なのです。イエスさまの復活の出来事は、非現実な出来事ではなく、過去と未来を繋ぐ、現在の出来事として起こったのです。

 そこで、8節「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って」行きました。けれども「恐れながらも大いに喜び」という言葉が物語っているように、復活の現場に出くわした婦人たちは、まだ半分夢見心地です。非現実的な世界にいるようで、反面、天使から弟子たちへの伝言を託されたという確かな現実もあります。婦人たちにしてみれば「天使が、イエスさまの復活を知らせてくれた。けれども、復活されたイエスさまを見てはいない」という思いが、少なからずあったと読み取れます。人間とは、要らぬ心配をしがちです。なぜなら、過去や現在を知ることはできても、未来までは知ることができないからです。だから必然的に未来という行く手には、不安や恐れが待ち受けていると感じるのです。

 「すると」9節、そういった婦人たちの思いを知ってか知らずか、いえ、知っていたからこそ、イエスさまは「行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」のです。そこで「婦人たちは近寄り」イエスさまの「足を抱き、その前にひれ伏し」ました。実際この9節の文頭には「見よ」という単語があります。聖書を読んでいる私たちが、改めて肉眼の目ではなく霊的な目で注視する必要がある言葉だからです。イエスさまが「行く手に立つ」これは「出迎える」ということです。「よく来たね」と。「あなたは、恐れと不安を抱いていたけれども、よく、ここまで来たね」と。だから、婦人たちは、イエスさまの傍近くに行き「足を抱き、その前にひれ伏した」のです。それは「足を掴み接吻した」或いは「礼拝した」と訳せます。その時イエスさまは、婦人たちに言われました。10節「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と。この時も、もし、イエスさまが、そこに立っておられるだけだったら、それは、亡霊を見たと思ったかもしれませんが、イエスさまは、御自分が前もって弟子たちに語っておられた言葉、それは、天使も空の墓の前で婦人たちに伝えた言葉を繰り返し話されたのです。

 ところで、イエスさまは、私たちの「行く手」のどこに立っておられるのでしょうか。それに関するキーワードが、復活の朝の出来事の中に出てきます。まず、イエスさまが「行く手」に立って「おはよう」と言って迎える(出迎える)。次に、婦人たちが近寄りひれ伏す(礼拝する)。そして、イエスさまが繰り返し言葉を語る(教えを述べる)です。こうして、イエスさまが出迎え、私たちが礼拝し、イエスさまが教え(御言葉)を述べる。つまり「行く手」に立つイエスさまとは、教会なのです。イエスさまは、そこで私たちを迎えてくださるのです。出迎えるというのは歓迎するということです。中でも「おはよう」という挨拶が特徴的です。これは、もともと「喜びなさい」という意味の言葉です。だから、この言葉には「わたしはあなたを赦し受け入れている」という、相手への深い受容と愛情が現れています。例えば、私たちが誰かと喧嘩をして「悪いことをしたな」と思って暗い気持ちで眠った夜、明日を迎えるのが苦痛だなと思った夜。しかし、翌朝、その相手から「おはよう」の言葉を掛けてもらったら「ああ、赦されているんだな」と思うのと同じです。

 この日曜日の朝、イエスさまは復活され、婦人たちに現れました。同じように、今、私たちにも現れてくださっています。私たちが、イエスさまの十字架を思い、自らの深い罪の意識の中で過ごした日々は、夜明けと共に過ぎ去ったのです。それは、イエスさまの「おはよう」の一言で吹き消されました。拭われました。「あなたの罪は赦された」「喜びなさい」そう言って、私たちを出迎えてくださるイエスさまの御顔が、満面の笑みであることを、誰も疑うことはありません。これが復活の朝です。私たちを救うために身代わりとなり、十字架を背負って犠牲になられたイエスさまが立っておられます。罪深い私たちを赦し、諸手を挙げて受け入れるために、私たちの行く手に立って待っていてくださいました。それが、日曜日の朝です。このイエスさまの永遠の愛に、私たちの身を委ねて、今日から始まる復活節の季節を共に喜びましょう。礼拝後は、総会です。2025年度の教会標語は「内なる喜びに溢れる教会」です。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 10:15| 日記