2017年12月04日

2017年12月3日 主日礼拝説教「だれがわたしを救うのか」須賀 工 牧師

〇ローマの信徒への手紙7章15節〜25節

 今朝の礼拝は、「アドベント」−「待降節」−第一主日礼拝です。「アドベント」・「待降節」とは何でしょうか。簡単に申し上げるならば、「待つこと」であります。何を待つのでしょうか。「キリストの誕生」を待つのです。あるいは、「キリストの再臨」を待つことでもあります。主イエス・キリストの誕生の意味、そして、再臨の意味を改めて、心に留めながら、悔い改めと感謝をもって、この時を共に過ごせればと願うものであります。
 さて、先日、清和幼稚園の例年行事の一つでもある「母の会クリスマス」を行いました。最初は、保護者の方々と共に、厳粛な礼拝を捧げますが、礼拝後は、がらっとムードが変わり楽しい祝会を行いました。
 この祝会では、「母の会のサークル発表」の時間を設けています。サークルの一つ「手話サークル」は、石田さんを講師として迎え、手話で「涙そうそう」を披露してくださいました。とても感情が込められた素晴らしい発表だったと思います。
 手話サークル発表の最後は、クリスマスの讃美歌「もろびとこぞりて」を、参加者一同が、手話を用いて讃美をすることになっています。手話に触れることの少ない人にとっては、とても勉強になる一時ではないかと思います。
 さて、「もろびとこぞりて」の歌詞には、「主はきませり」という歌詞がありますが、その歌詞に合わせた手話が、とても印象的でありました。「主はきませり」は、左手をお皿のようにして、親指を立てた右手を、左の手のひらに置きます−この右手が主イエスをあらわしているのでしょうか−。そして、天から降るように、両手を降ろします。しかし、ただ、上から下へ降ろすというような単純なものではありません。天から自分の胸−心−に向かって降ろしていくのです。この手話は、大切なことを教えていると思います。
 「クリスマス」とは何でしょうか。それは、イエス・キリストが誕生したことを覚える日です。神様の下から御子イエス・キリストが、この世界に来てくださった。それが「クリスマス」です。 
 しかし、ただ単に、天から地上に降りてこられたのではありません。自分の心に向かって、主が降りてくださる。自分の存在の中心に向かって、キリストが迫ってきてくださる。これもまた、「クリスマス」の大きな意味であります。今までは、自分の中心には、自分がいたのです。自分が中心に立っていたのであります。自分が人生の中心であったのです。自分の意志が中心だったのです。
 しかし、主イエス・キリストが、人間の存在の中心に来てくださる。主イエスが自分の中心に迫ってきてくださる。
 その時、何が起こるのでしょうか。自分の中心が自分ではなくなってしまうということです。自分が中心に立って「正しい」とは言えなくなってしまうのです。更に言うならば、自分の「正しさ」が分からなくなってしまうのです。キリストと出会い、キリストに捕らえられ、キリストのものとされていく。キリストが、自分の存在の中心に据えられていく。それは、同時に、自分の正しさが中心であると言えなくなる瞬間でもある。自分の意志や正しさに疑問符が投げかけられることでもあるのです。(大切なことは、この現実を受け入れるか。受け入れられない先にヘロデのような身勝手な人間がいるが)
 さて、今朝の御言葉は、正に、そのような人間の揺らぎについて、力強く語られた箇所ではないかと思うのであります。今朝の御言葉の15節から17節をお読みします。「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
 ここで大切なことは、人間は、元々は「善」を知っているということです。そして、人間は誰もが、善を望んで生きているということであります。善の基準は、どこにあるのでしょうか。ユダヤ人であれば、それはやはり律法であります。律法は、善を教えます。善い行いを教えます。つまり、人間は、既に何が正しいか、何が正しくないかを、律法から教えられることになります。あるいは、神様の御言葉から、それを教えられていることになります。人間は、その意味で、正しさが何かをを既に知っているのです。
 しかし、律法の前に立つとき、その正しさに生きられない自分が見えてくるのです。正しさを知っている。正しく生きることを望んでいるのです。しかし、律法の前に生きる時、正しく生きられない自分が見えてくるのです。
 なぜでしょうか。罪があるからです。自分の内に罪があるから。罪に気づいたからであります。正しさを知りながら、正しく生きることを求めていながら、しかし、正しさに生きられない。なぜか。律法の言葉の前に立つとき、あるいは、神様の言葉の前に立つとき、自分の罪が見えてくる。人間の不完全さが見えてくる。それが、ここに示されているのではないでしょうか。
 この問題は、決してユダヤ人だけの問題ではないと思います。今朝の御言葉の18節から20節をお読みします。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
 私達は、善をなしたいという意志を持っているのです。律法を知っているかどうかは関係はありません。人間は、皆、普遍的に善を求める意志があるのだと言うのです。人間は、そもそも、神様の似姿として造られました。神様に似た存在として造られた。これが創世記に記されている人間観です。つまり、人間が欲することと神様がして欲しいこととは、本来は、似ているのです。いや、本来は同じなのであります。神様が求めていることと人間が望んでいることはいつでも同じなはずなのです。それが人間の本来の姿なのです。
 しかし、意志はあっても、その通りに生きられない。そういう自分がいる。正しいと言えない自分がいる。なぜでしょうか。
 21節から23節をお読みします。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』として、神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」
 善の意志はあるのです。善を知っているのです。正しいことが何であるかを知っている。正しい生き方を知っている。しかし、正しいことに生きられない。なぜか。わたしの体が、罪のとりこだからであります。罪に支配されているからであります。罪のものとされているから。だから、正しさを知りながら、正しく生きられない自分しか見えてこない。心は善に向いていても、罪に支配されている。そこに人間の不完全さがある。人間の無力さがある。
 そのような人間の現実を知ったとき、私達は、同時にあることを知るのです。24節から25節をお読みします。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
 人間の不完全さを知るとき、私達は、私達の惨めさを知るのです。救いに対する深い不安を知るのです。自分は惨めな存在でしかない。死んで滅ぶだけの存在でしかない。その絶望を知るのであります。
 しかし、その闇の中でこそ、わき上がってくるものがあるのではないでしょうか。それが、キリストに対する感謝です。キリストに向かって行く心なのであります。自分は惨めでしかない。死に価するものでしかない。しかし、キリストは、こんな私をも救ってくださった。こんな私のために命をかけてくださった。その幸いがわき上がってくる。これが信仰者の歩みなのではないかと思うのであります。罪に支配された体を、神に支配された新しい存在へと造りかえてくださる。そのために、御子は命をかけてくださった。そのために、御子は、私達の元に来てくださった。罪の深みの中でこそ、キリストの存在のありがたみがわき上がってくるのであります。
 さて、最後に、パウロは、どのようにして、自分の惨めさに気づいたのでしょうか。私は、やはり、パウロは、キリストと出会った、キリストの光に照らされたからではないかと思うのです。かつて、パウロは、律法に生きた人だったのです。律法に忠実な人であり、律法を通して、自分の正しさを主張出来る人だったのだろうと思います。正しさを知っていた人であり、正しい知識、善の知識を知っていた人だったと思います。
 しかし、キリストと出会い、キリストの十字架の死の意味を知り、キリストの救いを味わった時、自分の正しさや意志が揺らいだのではないかと思うのです。自分の中心にキリストを迎えた時、自分が正しいとは到底いえなくなったのではないかと思うのです。
 私達も同じです。神様を信じていても、いなくても、私達は、私達のルールや正しさを大事にして生きるものです。誰もが、正しく生きることを望み、善を持って行きたいと願うものであります。
 しかし、キリストと出会い、キリストが、私の心の中心に立つ時、私達は、もう自分の正しさを主張できなくなる。自分の罪しか見えなくなる。しかし、その闇の中でこそ、それよりも大きな愛をもって、私達を救い挙げ、私達を主の御心に適ったものとしてくださる。その神様の深い憐れみを知るものとされるのであります。その幸いを知るものとされているのではないかと思うのです。
 今までは、自分が自分の中心であった。しかし、キリストは、その中心に来てくださり、私達の中心に立ってくださる。その時、私達も私達自身の正しさにたてなくなる。自分の愚かさしか見えなくなる。自分の罪に絶望したくなる。しかし、諦めなくてよい。そのような私達のために御子は、御自身の命をかけられた。もう自分の正しさに立つのではなく、神様の救いの中で、神様の子どもとして自由に生きることができる。その幸いをこそ、このアドベントの時、改めて心に留めて行くものでありたいと思います。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 09:12| 日記