2017年12月10日

2017年12月10日 主日礼拝説教「罪を取り除く救い主」須賀 工 牧師

聖書:ローマの信徒への手紙8章1節〜4節
 今朝、私達に与えられた御言葉は、ローマの信徒への手紙8章1節から4節の御言葉であります。1節の御言葉をお読みします。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」
 私達は、長い時間をかけて、ローマの信徒への手紙を読んできましたが、結局の所、パウロは、何を言いたいのでしょうか。あるいは、ローマの信徒への手紙以外の手紙や福音書は、結局の所、何が言いたいのでしょうか。その答えが、この1節に集約されているのではないかと思います。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」。
 今朝の御言葉は、その意味で、私達がよく知っているはずの言葉であります。ただ、このアドベントの時、改めて、キリスト教の救いに思いを馳せられるのは、とても幸せなことだと思います。キリストがなぜ生まれ、何をしたのか。何が私達にとって救いなのか。改めて、このアドベントの時、思い巡らしたいと思います。
 さて、話を戻しますが、キリスト教の「救い」とは何でしょうか。それは「罪から救われること」です。イエス・キリストは、罪人が裁かれるためではなく、救うために来られたのです。だから、キリスト教の救いは、あくまでも、罪人が救われることであります。自分に罪がないという人は、キリストの存在を必要としていませんし、神様の救いを必要としていませんから、キリストを受け入れない、神様の恵みを受け入れないという罪を犯していることになります。その意味で、救いを必要としない人はいないということになります。全ての人にある罪から、全ての人を解放すること。それが、キリスト教の救いであります。
 では、どのようにして救いを得ることが出来るのでしょうか。人間の働きによるのでしょうか。人間の力によるのでしょうか。違います。キリストに結ばれることによって、罪から解放されるのです。イエス・キリストに結ばれ、イエス・キリストと一つにされ、イエス・キリストの中にあって、私達は、初めて罪から解放されるのであります。これこそ、キリスト教の救いの答えであります。
 では、具体的に、どのようにしてキリストと結ばれ、救われるのでしょうか。それが「洗礼」です。「洗礼を受ける」ことが「キリストと結ばれること」であり、「私達の救い」であります。ローマの信徒への手紙6章3節には次のように記されています。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち・・・云々。」
 このように洗礼を通して、キリストと一つに結ばれることによって、私達は罪から解き放たれていく。そして、キリストの御手の中で、自由に生きるものとされているのであります。これが、キリスト者の姿なのであります。
 しかし、ただ「洗礼」を受ければ、それで良いという単純な話ではありません。「洗礼」もまた、見方によっては、人の手を介した儀式の一つであると考える人もいるだろうと思います。大事なことは、目に見える形式ではありません。目に見えない意味や働きであります。それでは、「洗礼」を通して「キリストと結ばれる」ところでは、実際に何が起きているのか。それを、もう一度、ここで思い出したいと思います。
 2節の御言葉をお読みします。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」
 「洗礼」を通して、主イエス・キリストと結ばれる。正に、そのところで何が起きているのでしょうか。「罪の法則」から解放され、「霊の法則」に生かされているのであります。この「法則」という言葉は、「支配」という言葉に訳しても良いと言われています。
 つまり、かつて「罪と死」に支配された、この私が、今や、洗礼を通して、キリストと結ばれることによって、神様の霊に支配されているのだと言うのです。洗礼を通して、キリストと結ばれることによって、神様の霊に支配され、神に属するものとされているのだと言われているのです。
 洗礼を通して、聖なる神のものとされている。神の霊に支配されている。だから、もう私達は、罪と死に縛られない。罪と死から解放されているのです。ただ、儀式としての洗礼を受けているわけではないのです。そこで、この私が、キリストと結ばれ、神様の霊に支配され、聖なるものとされ、そして神様のものとされているのです。私達も聖なる存在として受け入れられているのであります。ここにキリスト教の救いの更なる大きな意味があるのです。ただ、罪から救われて良かったねではないのです。罪と死から解放され、キリストと結ばれ、神様に結ばれ、今や、神様の目に清い存在として受け入れられていく。清められて、受け入れられていくのであります。ここにキリスト教の救いの本質があるのです。
 さて、私達に与えられた救いは、「洗礼」を通して「キリストに結ばれて」、「罪から解放」されることです。それでは、この救いのために、神様は、どのように働かれたのでしょうか。神様の救いの働きについて、改めて思いを馳せていきたいと思います。
 3節の御言葉です。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく、霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」
 神様は何をしてくださったのでしょうか。肉の弱さ−即ち、人間の罪−によって、律法が出来なかったことを、神様がしてくださったのです。「律法」がしたかったこととは何でしょうか。神様の御心に適う人になることです。これが律法の目的です。しかし、人間は出来なかった。なぜでしょうか。罪に支配されているからです。罪に支配されているために、神様の御心に適う人になれなかった。
 しかし、神様は、そのような無力な人間を見捨てることはしないのです。神様の御心に適った人へと、神様がしてくださる。どうするのでしょうか。罪が妨げになるのであれば、罪を処断することによってしてくださるのです。
 では、どのような仕方で罪を処断したのでしょうか。御子を、この世に与え、御子に、わたしたちの罪を背負わせ、そして、御子の犠牲をもって、罪を処断するのです。御子が罪を背負い、罪の犠牲となってくださる。ここに神様のなしたもう救いがある。そして、この御子に結ばれるからこそ、私達は罪なき者として認められるのです。罪を背負いし御子に結ばれていくからこそ、私達もまた、神の目に相応しいものとされるのです。御子がこの世に与えられ、私達の罪の犠牲となられたからこそ、御子の命に結ばれた私達が、神様のものとされる。神の目に相応しいものとして、歩むことができる。
 このアドベントの時、改めて、御子の誕生の意味を振り返るものでありたいと思います。何のために御子が生まれたのか。御子をもって何が実現したのか。この期間であるからこそ、特に、見直していきたいと思うのであります。
 私達が生きていく中で、様々な困難と直面することがあるだろうと思います。不安に支配されることもあれば、怒りに支配されることもあるだろうと思います。しかし、本当に、私達を支配しているものは何でしょうか。聖霊であります。神の霊であります。キリストの霊です。そして、いつでも、神の霊を感じ、神の救いの恵みを味わいながら、私達はこの人生を歩み続けることができるのです。御子の救いを身に帯びながら、その恵みを味わいながら、生きることができるのです。そして、その恵みを味わいつつ、希望をもって終末を迎えることができる。洗礼の恵みは、ただ一つの恵み。決して、取り去られることのない永遠の恵みです。どのような困難の中でも、洗礼を通して与えられた恵みは、変わることのなく、私達を生かし続けています。その幸いこそ、この御言葉から強く指し示されていることなのであります。
posted by 日本基督教団 石山教会 at 23:25| 日記